源光庵は、鷹ケ峰寶樹林源光庵と号し、1346年臨済宗大本山大徳寺二代徹翁国師の開創によるものであるが、1694年加賀大乗寺27代卍山道白禅師が、当寺に住持せされ、これより曹洞宗に改まりました。
本堂の創建は、元禄7年(1694)です。
山門の手前、右手の紅葉です。
山門と北山杉とススキです。いかにも秋らしく訪れる人を迎えてくれます。
山門前の鐘楼
前庭と本堂
本堂裏の庭園は枯山水で、北山を借景としております。
『悟りの窓』
円形の悟りの窓は「禅と円通」の心を表わし、円は大宇宙を表現するそうです。
『迷いの窓』
四角い迷いの窓は「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表わしているそうです。
『血天井』
本堂と廊下の血天井は伏見桃山城の遺構です。
1600年、家康の忠臣・鳥居彦右衛門らが石田光成に敗れ、380余人が自刃した時の痕跡が残っています。
世界文化遺産 大雲山 龍安寺
徳大寺家の別荘だったものを、宝徳2年(1450)管領 細川勝元が譲り受けて寺地として、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものです。
応仁の乱に焼失して、1499年勝元の子、政元が再興しましたが、1797年の火災で方丈、仏殿・開山堂などを失いました。
現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものです。
方丈の前庭は、枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹です。
山門
山門をくぐり参道を歩いて行くと、左手に鏡容池が見えてきます。
玄々庵の竹垣
石の大仏像
寺務所・庫裡前のかえで、11月20日現在まだ色付きがありませんでした。
庫裡
石段の正面の建物が庫裡で、禅宗寺院建築の簡素にして重厚、特に木組みと白壁の調和がまた静寂の内に構成美をかもし出しております。
枯山水の石庭
石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、信条によって多岐に解されているそうですが、何を感じる事が出来るでしょうか、私にはちょっと難しかったです。
方丈の西側のお庭と仏殿に繋がる渡り廊下。
方丈裏庭
『吾唯足知』(ワレタダタルヲシル)
方丈の北東に据えてある銭形のつくばいです。
中心の口を共用すれば『吾唯足知』と成り、禅の格言を謎解きに図案化された
無言の悟道です。
水戸光圀公の寄進と言われております。
紅葉に気を取られていると見過ごしてしまいそうですのでご注意ください。
勅使門
納骨堂
湯豆腐
鏡容池
この池は、徳大寺家によって築かれたもので、かつてはおしどりが群れ遊んだところからおしどりの池とも呼ばれております。
駐車場への帰り道です。最後まで紅葉でした。
比叡山 東塔
比叡山三塔の中心で、延暦寺発祥の地です。
比叡山の総本堂である根本中堂をはじめ重要な堂塔が集まっています。
根本中堂
比叡山第一の仏堂で、宗祖伝教大師が延暦7年(788)に一乗止観院として創建したものです。
伝教大師が自ら刻んだと言われる秘仏薬師如来が祀られ、宝前には開創以来の『不滅の法灯』が1200年の時を超えて
輝き続けております。
文殊楼
慈覚大師円仁が中国五台山の文殊菩薩堂にならって創建されました。
重層和唐の混合様式の建築で、楼上には文殊菩薩が祀られております。
国連平和の鐘
文殊楼の南隣
世界の宗教家を招き、数年前に開かれた、宗教を超えた世界平和サミットの
時に建てられたと記憶しております。
大黒堂
大黒天、毘沙門天、弁財天の顔を持つ伝教大師自作の三面大黒天を祀っています。
別名、三面出世大黒天とも呼ばれております。
60日に一度、甲子(きのえね)の日に法要が行われております。
大黒堂の前に有る摩尼車(まにくるま) 延暦寺会館前の平和地蔵菩薩
静かに回すと願い事が叶うそうです。
大書院庭園
大書院と庭園
大講堂への参道
昭和39年に山麓坂本の讃仏堂を移築されました。
本尊の大日如来の左右には各宗派の祖師の木像が祀られ、外陣には釈迦を始め仏教・比叡山ゆかりの高僧の肖像画が
掛かっています。
五年に一度の法華大会をはじめ、経典の講義などが行われる学問修行の道場でもあります。
大講堂の前の鐘楼 大日如来像
戒壇院
天台宗の僧が受戒するお堂です。
戒壇院建立は伝教大師の入寂後に勅許がおり、第一世座主・義真のときに創建されました。
法華総持院への階段
法華総持院・阿弥陀堂
伝教大師により計画され、862年慈覚大師円仁によって創建された天台密教の根本道場です。
信長の焼討ち後400年、昭和62年に復元再建されております。
阿弥陀堂は昭和12年に建立された先祖・故人の供養をするお堂で、毎日回向法要がなされています。
比叡山ドライブウェイ 琵琶湖と大津市を望む。
宝厳院 受付 嵐山 臨済宗 天龍寺の塔頭 宝厳院(ほうごんいん)は、1461年聖仲永光禅師を開山に迎え、細川頼之によって創建され、創建
時は上京区にありましたが、応仁の乱の時に兵火にあい焼失しました。その後幾多の変遷を経て現在地に移転再興されました。
庭園拝観は、春3月下旬より5月下旬までと秋は10月1日より12月中旬までです。確認の上、伺ってください。075-861-0091
獅子吼(ししく)の庭 この庭は、室町時代に中国に二度渡った禅僧策彦周良禅師によって作庭された名園で嵐山を巧みに取り入れた借景回遊式庭
園です。『獅子吼』とは仏が説法するの意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって人生の真理、正道を肌で感じ心が大変癒される為
の庭園です。須弥山を表す築山、その前に人生を思わせる『苦海』(空池)が広がり対岸には『雲上三尊石』が有り海の中には此岸より彼岸に渡る舟石、
仏の元に渡る獣石が配置されています。
お茶席 昼間はお抹茶がいただけます。
永代供養堂
庭園の中央に位置する、豊丸垣
豊丸垣の横に鎮座する獅子岩
天龍寺管長の筆による渡月橋親柱
茶室 青峰軒
門前には『嵐山羅漢』が祀られております。『羅漢』とは釈尊の弟子で崇高な修行者(悟りを得た人)を意味する。『五百羅漢』を天下の景勝地・嵐山に建立する事により、人類の安心立命と嵐山の守護・景観保全を祈念するとともに、有縁無縁の菩薩を弔うものであります。 夢窓国師曰く『山水ニハ得失ナシ、得失ハ人ノ心ニアリ』
大覚寺 夜間ライトアップ
期間 11月14日~11月30日(日)
17時 ~ 20時30分
明智門
大覚寺の正式名称は、『旧嵯峨御所大覚寺門跡』といい、真言宗大覚寺派の本山で、心経写経の根本道場・
いけばな嵯峨御流の総司所でもあります。
門跡寺院とは、天皇又は皇族が住職に就かれた寺院のことで、遠く平安の昔、嵯峨天皇の離宮嵯峨院が建立され、
弘法大師(空海)も幾度も立ち寄られた地でもあります。
嵯峨天皇の孫にあたる恒寂入道親王が初代の住職に就かれました。
明智門をくぐってすぐの所に、嵯峨御流いけばなの作品が出迎えてくれます。
大玄関(式台玄関)を入ったところの大作です。
見る人を引き込むような魅力の有る松の生けこみです。
正寝殿(しょうしんでん)
12室も有る桃山時代の書院造りで、格室に狩野山楽、渡辺始興など日本を代表する画家たちの絵が飾られています。
上段の間は、後宇多法皇が院政を執られたところで、僧侶であった法皇が御冠を傍らに置かれたところから『御冠の間』
と呼ばれています。
狩野派障壁画
この障壁画は、狩野派の代表作で、安土桃山時代に織田信長・豊臣秀吉は自己の権勢と富を誇示するため障壁画の
御用絵師を狩野派に命じました。
その当時の手法は、金碧濃彩画と水墨淡彩画の二つに大別できます。
狩野派の絵師は、伝統的な大和絵と中国の宋元から伝わった唐絵との和漢二つを総合折衷して室内装飾画の形成を
一段と発展させました。
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嵯峨菊の由来
嵯峨菊は、旧嵯峨御所大覚寺の大沢池にある菊ヶ島に源を発し嵯峨帝がこの菊を親しくお挿しになった故事があります。
この嵯峨独特の野菊を永年に亘り育成し一つの型に仕立て上げ、風情があり洗練された格調高い菊が嵯峨菊であります。
この菊の仕立ては一鉢に三本とし、長さは二メートルにすることになっております。
これは、殿上から観賞されるに便利なように高く育てるためであり花は、先端が三輪、中ほどが五輪下が七輪と決められて
いるそうです。
葉の色も先端から黄色、薄緑、緑というふうに育てるそうです。
確かに二メートルありました。
嵯峨菊展 11月30日まで
宸殿 牡丹の間
江戸時代(延宝年間)に後水尾天皇(ごみずのお)より下賜された寝殿造りの建物。
前庭には古式正しく『左近の梅・右近の橘』が配され部屋の襖には狩野山楽筆の『牡丹図』『紅白梅図』をはじめ、桃山時代を代表する金碧画が飾られています。
勅使門(唐門)
御影堂 みえどう(心経前殿)
嵯峨天皇・後宇多法皇・恒寂入道親王・弘法大師の尊像が祀られています。
御影堂 裏手 菊の御紋が輝いてます。
霊明殿
御霊殿の格天井(ごうてんじょう)
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放生池より心経宝塔を望む
風も無く、湖面に映った様子が幻想的でした。
石仏群
天神島への架け橋
名古曽の滝跡への散道
心経宝塔
大沢池 望雲亭前の船着場
望雲亭
以上、大覚寺でした。
次回は、この日大覚寺の後で行った天龍寺・宝厳院ライトアップです。
西塔 浄土院
今回は、比叡山西塔の浄土院伝教大師御廟 常行堂 法華堂 恵亮堂 釈迦堂に行きました。
紅葉している木々もあり車で奥比叡ドライブウェイを走るととても綺麗でした。
是非、東塔だけでなく西塔から横川へ足を伸ばしてみてください。
東塔から歩いてくれば、最初に浄土院にあたります。
西塔駐車場からですと、西塔の入り口の坂を下り右手に5分歩けば浄土院です。
浄土院
伝教大師の御廟所で、比叡山で最も清浄な聖域です。
822年に入寂した大師は、この地に埋葬されました。
御廟を守る僧は侍真と称され、厳しく戒律を守り、12年間籠山の誓いをたてて行に励み、大師に仕えます。
白砂の前庭
落ち葉一枚落ちていない白砂の前庭、模様がとても綺麗でした。
毎日、侍真僧の方が掃き清めておられる様子が覗えました。
伝教大師御廟
浄土院、本堂の裏側に御廟があります。
1200年間ここで眠ってられると思うと厳粛な気分になります。
本堂裏庭
御廟の前庭と言ったほうが良いのでしょうか。左右違った模様の白砂庭が見事です。
龍ヶ池
弁財天が祀られています。
大蛇が弁財天を守っていると言われるお堂です。
横川中堂(よかわちゅうどう)
横川の中心となるお堂で、総丹塗の舞台造りで、船が浮かんでいるように見えます。
848年慈覚大師円仁によって開祖されましたが、昭和17年の落雷で全焼しましたが、昭和46年の伝教大師1150年
大遠忌を記念して復元されました。 新西国霊場第18番の札所でもあります。
お堂の中央部に、慈覚大師作と伝えられる本尊・聖観音菩薩が祀られています。
中堂から恵心堂に向かうと鐘楼が見えてきます。
途中には、西国三十三ヶ所の石佛も見られます。
恵心堂
『往生要集』を著わし、浄土教の素地を作った恵心僧都源信が、初めて
念仏三昧行を修した『念仏発祥の地』という石碑が建っております。
角大師(つのだいし)の御札。
世に厄病が流行していた永観年(994)疫病神が慈恵大師を襲いました。『逃げられない因縁ならば』と
大師は左の小指を差し出し、法力をもって厄病神を退散させました。
その後『厄病に苦しむ人々を一日も早く救わねば』と発心され、等身大の鏡の前で静かに観念三昧に
入られました。すると鏡に映った大師の姿は、恐ろしい鬼の姿に変わり、その姿を弟子に描き写させて、
お札にし『これを戸口に貼れば、厄病はもとより一切の厄災から逃れられる』と示されました。
それ以来『角大師』は、魔除けの護符として人々に頒けられています。
四季講堂(元三大師堂 がんざんたいしどう)
慈恵大師・良源の住居跡。康保4年(967)村上天皇の勅使によって四季に法華経が論議されたことから四季講堂と
呼ばれています。
このお堂で角大師の御札が求められます。
京都の料理屋や民家の玄関で見かけることがあります。
西塔入り口の灯籠
お地蔵さんが各面に彫ってありました。
11月12日時点で、紅葉は五分といった感じです。
それでも、京都の中では山の上だけに一番早く紅葉しております。
常行堂と杉苔
常行堂、法華堂と言う同じ形の二堂が、渡り廊下繋がっており、俗に『弁慶のにない堂』と呼ばれる。
法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われる。
法華堂前の道を入ったところの紅葉
比叡山は大木に覆われているため、木陰になっている木々は
紅葉が遅いようです。
やはり太陽の陽光を浴びないと色付きも出来ないという事な
のでしょう。
にない堂 弁慶ゆかりの地
西塔には力持ちの弁慶が常行堂と法華堂の渡り廊下をてんびん棒にして担いだという伝説から『弁慶のにない堂』と
呼ばれるようになりました。
弁慶は比叡山延暦寺に入り、自ら西塔の武蔵坊に住んだことから武蔵坊弁慶と名乗り、学問や仏修行より武芸が好き
であったと伝えられています。
にない堂
裏手の黄色くなっているのは苔で年中この色なのか、この時期に紅葉するのかが分からず、しばし見入ってしまいました。
にない堂から釈迦堂を望む
途中左手に恵亮堂があります。
恵亮堂(えりょうどう)
恵亮和尚800~859年を本尊として祀られたお堂です。
この和尚を大楽大師と称し当時、お山の中では修力霊験が最も優れた和尚であり、京都・妙法院を創建した人でもあります。
釈迦堂
西塔の中堂で、正式には転法輪堂と言い、現在の建物は、信長の比叡山焼討ち後、秀吉が三井寺(園城寺)の金堂を
1596年移築して手を加えたと伝えられています。
山内では最も古い建物で本尊は伝教大師御自作の釈迦如来立像で、堂の名前もこれに由来する。
相輪橖(そうりんとう)
釈迦堂の背後の林の中に立つ、高さ10メートル余りの相輪橖があります。
中には法華経、大日経など23部58巻が納められています。
仏足石
釈迦の足跡の形を刻んだ石。仏像の発祥以前に
古代インドで行われた釈迦の象徴表現の一。
中国の唐を経て日本にも伝わり、奈良の薬師寺
のものが有名。
釈迦堂 鐘楼
釈迦堂に向かって左側の仏足石の横の階段を上れば鐘楼があります。
自由に撞く事が出来、凛と張り詰めた空気の中、心地よい響きがこだまし
ます。
釈迦堂よりにない堂への帰り道
瑞峯院 表門
室町時代の九州豊前豊後の領主キリシタン大名として有名な大友宗麟公が、大徳寺開山大燈国師から法系代九十一世徹岫宗九禅師に帰依し、禅師を開祖として創建された寺です。
表門を入った所のお庭です。
独坐庭(方丈前)
寺号、瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園で、中国の禅僧百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱された禅語から銘じられ
独坐庭といいます。
独坐庭
この枯山水は、峨々たる蓬莱山の山岳から半島になり、大海に絶え間なく荒海に打ち寄せもまれながらも雄々と
独坐している、大自然の活動を表せております。
左手の奥に茶室が有るのですが、その茶室の前庭園へと方丈前庭園が続いております。
茶室前の方は入り海となり、静かな風景を表しております。
方丈内の御本尊が祀られた、部屋です。
資料不足で襖絵の作者や、象を模った置物の説明が出来ません。
閑眠庭(方丈裏庭園)
“閑眠高臥して青山に対す”の禅語から銘ぜられ、閑眠庭と呼ばれています。
開基、大友宗麟公が、晩年キリスト教を保護したり、宣教師フランシスコ・ザビエルについて、洗礼を受けたりして、
キリシタン大名として知られていることから、中庭にあるキリシタン灯籠を中心に、七個の石組からなり、縦に四個、
横に三個の石の流れが十字架に組まれ、万民の霊を弔っております。
いずれも、これらの庭園は作庭界の権威、重森三玲によって作られました。
方丈東庭
方丈東庭 蹲(つくばい)
大徳寺興臨院~戦国武将の縁を伝える前田家の菩提寺~
当院は、大徳寺勅使門に向かって左側に、東向きに表門備えています。
本堂・表門・唐門(いずれも重文)は室町期創建の禅宗建築の代表作。方丈庭園は桃山風の豪放な石組みで、理想の蓬莱世界を表現している。能登の畠山氏が創建し、後に前田利家公が修復。以来、前田家の菩提寺となっている。日本画家・村石米齋画伯の水墨画山水襖絵を特別公開。
期間 10月11日(土)~12月14日
10:00~16:00
本堂の東側にある茶室前の庭園と梵鐘
茶室名を涵虚亭(かんきょてい)と号し蘇東坡の詩から名付けられ、古田織部好みの四帖台目に隅板を加えたものです。
方丈前庭園
当庭園は、方丈の解体修理完成に際して、資料を基に復元されたもので、昔中国の寒山・捨得が生活していた天台山
の国清寺の石橋を模し、大石、松をあしらって理想的な蓬莱の世界を表現しています。
西方庭園
貝多羅樹が植えられた庭園
貝多羅樹は梵語で木の葉という意味で、その葉は古代印度で経文書写する時に用いられた物で貝多羅葉或いは
貝葉経として仏家では珍重されています.
方丈北庭園