八瀬天満宮社(やせてんまんぐうしゃ)は、祭神に菅原道真を祀り、社伝では、菅原道真の仏教の師だった比叡山の法性坊尊意阿闍梨が、道真の
死後にこの地に天神を勧請したと伝えられております。また、江戸時代までは天神社と呼ばれていたそうです。
八瀬天満宮の境内は、比叡山への登り口「八瀬坂」の起点でもあり、境内には、道真が幼少期に勉学のため比叡山へ登る際、ここで休憩したと伝
わる「菅公腰掛石」があり神社は地域の里人(八瀬童子)から産土神として信仰されております。
紅葉には、一週間早かったですがお参りさせていただきます。
社務所の傍には、岩上神社・貴船神社・白髭社が合祀されております。
雄牛様の後方には、区民の誇りの木に選ばれている大杉の傍にも幾つかの石碑が建っております。
こちらの神社には、神主がおられず八瀬童子と呼ばれる方々の中から高殿(こうどの)と呼ばれる神主の役割や地域の行事を1年交代で務めてお
られます。
本殿
地域で持ち回るため、今年の高殿の担当地域が書かれているものと思われます。
本殿北側の末社群。右から若宮大明神、六所大権現、白井大明神
八瀬童子(やせどうじ)とは八瀬に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指し、室町時代以降は天皇の
臨時の駕輿丁も務める何百年も続いてきたこの地域の男性の子孫の事をいいます。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とも伝わります。
寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれたと言われ
ます。
昭和3年(1928年)、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって社団法人八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められ、平成22年(2010
年)には同会所有の資料741点(文書・記録類 650点、装束類 91点)が重要文化財に指定されました。 また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天
皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせております。
本殿南側に建つ秋元神社 神社の前にある末社群は、右に幸ノ神、左に八幡大神。比叡山との境界争いで老中秋元喬知の裁許により八瀬村の利権が
認められ、報恩のために村人が喬知を秋元大明神として祀ったと説明されております。
八瀬童子の仕事として比叡山諸寺の雑役に従事したほか天台座主の輿を担ぐ役割もあり、また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあっ
たとも説明されております。
また、延元元年(1336年)、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護したとあり、この
功績により地租火薬課役の永代免除の論旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として調停に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な
仕事といたしました。
境内南側の山王神社・八王子
八瀬童子は比叡山の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められ、永禄12年(1569年)、織田信長は八瀬郷の特権を保護
する安堵状を与え、慶長8年(1603年)、江戸幕府の成立に際しても後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下しております。
境内の右端には、「後醍醐天皇御旧跡」と記した石標がありますが、これは建武三年(1336)正月、足利尊氏軍が京都へ侵入した際、その防戦
に失敗した後醍醐天皇が、比叡山に逃れようと登った道=八瀬坂跡を示すものです。
延暦寺と八瀬郷は寺領と村地の境界をめぐってしばしば争いましたが、宝永4年(1707年)になってようやく老中秋元喬知が裁定を下し、延暦寺
の寺領を他に移し旧寺領・村地を禁裏領に付替えることによって、朝廷の裁量によって八瀬郷の入会権を保護するという方法で解決し、八瀬郷は
この恩に報いるため秋元を祭神とする秋元神社を建立し徳をたたえる祭礼を行いこの祭礼は「赦免地踊」と呼ばれる踊りの奉納を中心とするもので、
現在でも続いております。(毎年10月の第2月曜日の前日にあたる日曜日)。
菅原道真を祀ることから北野天満宮と同じくお牛様が 鎮座されております。
窯風呂の宿
地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.49.22.688N35.4.53.792&ZM=8
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