祇王寺は、右京区嵯峨野にある真言宗大覚寺派の尼寺で、祇王・祇女とその母、および仏御前が隠棲した往生院の跡地にあります。
現在の祇王寺は、昔の往生院の境内であり、往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創められたと伝えられ、山上山下に亘って広い地域を占め
ておりましたが、いつの間にか荒廃して、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれる様になりました。
祇王寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、 旧地頭大覚寺によって保管されておりましたが、大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜し
み、再建を計画していた時に、明治二十八年、 元の京都府知事北垣国道氏が、祗王の話を聞き、嵯峨にある別荘の一棟を寄付され、此が現在
の祇王寺の建物となりました。 これ等の関係で、祇王寺は真言宗大覚寺派の塔頭となっております。
竹林に囲まれ一棟の草庵が建つだけの小さな寺院ですが、季節を問わず特に女性に人気のある寺院です。
落ち葉の下には、青々とした苔が隠れており、新緑の季節も魅力的な庭園です。
仏間の隣、控の間の吉野窓 影が虹の色に表れるのを以って一名虹の窓とも称されております。
仏壇中央が本尊大日如来像、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木
像が安置されており、祇王、祇女の像は、鎌倉末期の作で作者は不明で
すが眼が水晶で鎌倉時代の特徴が表れているそうです。
平家物語の巻頭に、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春
の夜の夢の如し。・・・・・と美しく書き出してありますが、更に読み進みますと祗王祗女の事が出てまいります。これは平家全盛の頃、平清盛と二人
の女性の哀れな物語が語られております。
この頃、近江の国野洲江辺庄の生れの都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹がおり、父が罪に問われ北
陸に流されたため、母と共に京都に出て、白拍子となり、のち姉の祗王が清盛の寵愛を得て、妹祗女も有名となり、毎
月百石百貫の手当もあり、安隠に暮らしておりましたが、ここに加賀の国の者で、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が
現われて清盛の西八条の館に行き、舞をお目にかけたいと申し出ましたが、清盛公に門前払いをうけました。祗王が、
やさしく取りなしたので、呼び入れてもらい、今様を歌わせると、その歌に清盛は、たちまち心動かして仏御前に心を移
し昨日までの寵愛は何処へやら、祗王は館を追い出されることになり、せめてもの忘形見にと、 「萌えいづるも 枯るる
も同じ野辺の草 いずれか秋にあわではつべき 」と障子に書き残して去って行きました。
あくる春になって清盛は仏が退屈しているから、舞を舞って仏をなぐさめよと使者をよこすと、祗王はもとより行く気はありませんでしたが、清盛の
権勢と母の哀願に抗しかね、館に行って、「仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ 」と
歌い舞いました。並居る諸臣も、涙を絞ったと言われ、 祗王「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祗王二十
一、祗女十九、母刀自四十五の三人は、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入ることになりました。母子三人
念仏している所へ竹の編戸を、ほとほとたたく者があり、出て見ると思いもかけぬ仏御前が立っており、祇王の不幸を思うにつれ、いずれか秋にあ
わで果つべき、と書き残された歌を誦するにつれて、無常を感じ、今朝、館をまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれと被っていた衣を打ちのけるの
を見れば、剃髪した尼の姿であった。わずかに十七にこそなる人の、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ、と四人一緒に籠って朝夕の仏前に香
華を供えて、みな往生の本懐を遂げたと説明されております。
境内を一周し左手の出口に向かう反対側に石碑が建ちます。石碑には 「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、 往生院現住、法
専建之」 とあって、此の碑の右側に「性如禅尼承安二年(一一七二年)壬辰八年十五日寂」 と刻んであるのは、祗王の事らしいです。 安永の祇王
寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、旧地頭大覚寺によって保管されました。 大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しみ、再建を計
画していた時に、明治二十八年、 元の京都府知事北垣国道氏が、祗王の話を聞き、嵯峨にある別荘の一棟を寄付され、此が現在の祇王寺の建
物となり、 これ等の関係で、祇王寺は真言宗大覚寺派の塔頭となっております。。
祇王寺に続く坂道の左手に見える門跡寺院を表す五本線の土壁に囲まれた檀林寺は、平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなの
かちこ 786~850)が創建した寺院に由来すると説明されており、パンフレットには、皇后は、容姿美しく婦徳に秀で、学芸を愛され、橘氏の学校
として学館院を設けたと云われており、また、皇后は、深く仏教を信仰し、嵯峨の地に檀林寺と呼ばれる壮大な寺院を営み、盛時には、十二坊を
数えたと云われております。 さらに、皇后は、当時、来朝した中国の僧、義空を師として、この寺で禅書を学び、これが、我が国で禅が唱えられた
始めと書かれております。 当寺は、この由緒によって、昭和39年から再建された寺院であるが、霊宝館には、皇后ゆかりの品をはじめ、日本、
中国の仏教美術の数々が納められております。
残念ながら、正面の本堂は、真新しく歴史を感じさせてくれるものではありませんでした。
本尊の 「准胝観音菩薩」などが祀られた須弥壇ですが、?左手奥の霊宝館も?な感じです。
紅葉が綺麗そうだったので入ってみましたが、正直有料なので・・・・・・。 紅葉だけを楽しむのであれば・・・・・・。
祇王寺 青もみじ 2011
http://blog.goo.ne.jp/kappou-fujiwara/e/4c079c1e9cacdecfe2dfe3b10ad75fbb