京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

建仁寺塔頭 正伝永源院 特別公開 2/26/2011

2011年02月27日 | 洛東 東山 四条八坂近辺

  

  正伝永源院は、元は正伝院と永源庵の二ケ寺でしたが、いづれも建仁寺の塔頭のひとつでした。現在のこの地は、永源庵の建っていたところですが、

  正伝院は、大覚禅師・蘭渓道隆とともに中国より来日した義翁紹仁・普覚禅師を開山に鎌倉年間に創建されました。 

 

 

 

  

  

  創建後、しばらくは荒廃しておりました正伝院は、大阪冬の陣のあと隠居しておりました織田信長の弟、織田有楽斎長益が1618年に当院を再興し名

  席「如庵」を建て悠々自適の茶道三昧の生活を送っておりました。

  今回の特別公開は、3月21日までの京の冬の旅の企画で実現いたしております。

 

 

 

  

  

  正伝院には、林泉と茶亭があったとの記録がありますが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の政策により、建造物を売却されたといわれており

  ます。 明治初年には、永源庵が廃寺となり、この地に正伝院が移転され、後、正伝永源院と号するようになりました。

 

 

 

 

 

  

  永源庵は、建仁三十九世・無涯仁浩を開山に南北朝時代に創建されました。師は25年間中国にあって禅を極め帰国後、細川頼有(熊本細川家の始

  祖)の帰依を受け、その後代々師檀の関係が厚く同家より永源庵に出家するものや住職になるものも数名を数え細川家の菩提寺として続いております。

 

 

 

  

 

  

  ところが、明治初年の廃仏毀釈の政策により建仁寺は五十余ケ寺の塔頭が現在の十四ケ寺にと大幅に削減されました。当時永源庵は無住であった

  ため、たちどころに廃寺処分となりましたが、当庵が本山の真北に位置していたため堂宇を残し、少し離れたところにあった正伝院が、ここに移ってまい

  りました。その結果正伝院の土地は上地、建造物は売却の上、その金の寄付を強要されました。その一つが現在犬山に有る国宝の茶室「如庵」です。

 

 

 

 

  

  そうしてしばらくの間は、正伝院と呼んでおりましたが、時の侯爵である細川家の菩提寺であるため後に永源の名を興し正伝永源院と名乗るようになり

  ました。

   山門を入り左手に進みますと小さな門があり、入った所に有楽斎の墓石が建っております。 門の手前右側には、鐘楼が見えます。

 

 

 

 

  

   鐘楼

 

 

 

 

   

  

  信長の死後剃髪した有楽斎は、千利休に従事して茶道の宗匠となり、茶道三昧の生活を送り晩年正伝院を再興したのち、1621年75歳で没しました。

  有楽斎の墓は旧地に残されておりましたが、昭和37年、有楽斎夫人、息女、孫長好の三基とともに当地に移されました。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

  

 

  

   方丈入口の唐門

 

 

 

  

 

                    

 

 

 

  

 

  

   方丈庭園  

 

                       

 

    

   右手がモミジで左手が枝垂れ桜です。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

  

   方丈には、正伝院、永源庵両方の額が掛っております。  御本尊には、釈迦如来像が祀られております。

 

 

  

 

  

  狩野山楽筆の「蓮鷺図(れんろず)」

 

 

 

  

             

    有楽斎木像                                        有楽斎肖像 

 

 

 

 

 

             

     狩野山楽筆「架鷹図(かしょうず)」               狩野山楽筆「蓮鷺図」    

 

 

 

 

   

    方丈庭園西側に複製された茶室「正伝如庵」 

 

 

 

 

 

  

   方丈西側の庭園

 

 

 

 

 

  

   

 

 

 

 

 

  

   方丈から右手の階段で庭伝いに茶室の内部を見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

  

  庭園は、中央の池を琵琶湖に見立てて石橋は、瀬田の唐橋を表していると係りの方が説明してくださいました。 

 

 

 

 

 

  

  石橋は、天然石で加工されていないものが使用されているとも仰っておられました。

 

 

 

 

 

  

   正伝如庵は、数寄屋建築の第一人者、中村昌生氏の監修で千家十職で永源院の責任役員である永楽善五郎氏他多くの方の援助により平成8年10

  月に本歌と瓜二つの名席が完成し、如庵の額は細川護貞氏の揮毫によるものが掲げられております。

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

  

   方丈西側、如庵北側庭園

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

  

   方丈東側の部屋では、数々の寺宝が展示されております。

 

 

 

 

 

  

   方丈東側の庭園

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

   また、永源院は、賤ケ岳七本槍で名を馳せた安芸五十万石の大名福島正則寓居の地でもあり多数の慰霊碑が建っております。

 

 

 

 

 

  

  その隣には、細川家歴代の慰霊塔もあります。

 

 

 

 

 

  

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南禅寺塔頭 光雲寺 初公開 2/17/2011

2011年02月18日 | 洛東 南禅寺方面

  
  霊芝山 光雲寺は、東福門院和子の菩提寺として有名な寺院で、臨済宗南禅寺派の境外塔頭で、もとは摂津国天王寺にありました寺院です。
  開山は南禅寺開山大明国師で、1280年の開創と云われます。 その後、戦乱によって一時は荒廃いたしておりましたが、1664年に南禅寺第二百八
  十世英中玄賢禅師によって南禅寺北ノ坊の地に移築し再興されました。








                     
                     玄関には、菊の御紋と葵の御紋が染め抜かれた幕が掛っております。








  
  当初は五千三百坪の広大な寺領に七堂伽藍を完備し、五十人の雲衲が、切磋琢磨したと伝えられております。







  
  現存する仏殿と明正天皇寄進の鐘楼とが当時をしのばせております。








  
  今回の特別公開は、京都冬の旅の企画の一つで、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の放映を記念して戦国の世を彩る女性たちゆかりの寺院
  を公開されております。







  
  開基 東福門院和子(とうふくいん まさこ)は、二代将軍徳川秀忠と江姫の娘で、14歳で入内してのち後水尾天皇の中宮となりました。奈良時代以
  来の女性天皇である明正天皇の生母でもあります。御所での一絲文守禅師の説法を機縁としてことに禅宗に帰依された東福門院は、光雲寺を英中
  禅師の推挙によりご自分の菩提寺として再興するに際して、秀忠公の遣金をもってなされたと云われております。






  
  仏殿には、本尊の釈迦如来像や脇に仏弟子像などの他に、東福門院像や念持仏の聖観音像や徳川家代々の十五の位牌も祀られております。







                    









  
  特別公開期間中は、観光バスの団体の方が、何組も来られておりました。








  









  
  玄関を入り左手に進みますと仏殿になります。写真は、左手に仏殿その東側の方丈への廊下です。正面の廊下を右手に進みますと有料のお茶席が
  あります。








  
  方丈には、東福門院自筆の過去帳やゆかりの品や古文書などが展示されており、係りの方が詳しい説明をしてくださいます。 








  
  方丈庭園と右手お茶席が設けられている庫裡の建物です。








  
  光雲寺庭園は、東山の霊芝山などを借景に取り入れ、池には琵琶湖疏水が引き込まれた池泉回遊式の庭園で、江戸時代より名園と云われておりま
  したが、昭和二年に第七代小川治兵衛(植冶)によって大幅に手が加えられております。







  
  随所に植冶の作風と円熟した技が残されている庭園は、その価値が認められ平成9年に京都市の第23番目の名勝に指定されております。しかし、
  近年、池の石組や築山の苔の痛みが目立つようになったため、平成21年11月より22年9月まで、京都造形芸術大学の学術指導を受け修理工事が
  行われました。








                     









  









                     
                     方丈の東側の軒下にある手水鉢は、加藤清正が朝鮮より招来した瑪瑙(めのう)手
                     水鉢で、徳川家の手に入ったのち東福門院が寺に寄進したものです。






  









  
  梅の木ですが、枝が割れたようになりながらも、つぼみを付けておりました。








  









                     
                     池に落ちそうなくらいせり出しているのは百日紅木です。
                    







                     
                     お茶席のある庫裡の前の燈籠と手水鉢です。








  









  
  庭の向こうに見える葉を付けていない木々は、哲学の道の桜だと思います。








                     
                     こちらは、モミジのようです。








  









  
  特別公開中は、仏殿と方丈で係りの方が、詳しい説明をしてくださるので、寺の歴史や関わった方々の事がよく解り仏像一つを眺めても値打ちがあり
  ました。 右手が仏殿です。 通常は、禅道場として使用されております仏殿も期間中は、畳が敷かれておりました。







      
  仏殿に祀られている、御本尊の釈迦如来像と仏弟子像                東福門院画







                     
                     東福門院の没後、一周忌に創られたという木像 作者は不明とのことです。







                       
                       東福門院の念持仏の聖観音像 厨子の天井に描かれている雲龍図も色彩がはっきりと残っ
                       ておりました。 説明によりますと、厨子の柱や台座には、菊の御紋と葵の御紋が彫られて
                       おり、両家に関係のある立場を表しており大変珍しいものとのお話でした。








  









                     
                     こちらの、光雲寺は駐車場がありませんので、ご注意ください。付近にも永観堂の
                     北側に4台程停められる駐車場があるだけです。










コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祇園節分祭 おばけ in ラポー  2/03/2011

2011年02月13日 | 祇園街

       

      今年も節分恒例のおばけがやってまいりました。 23時頃ラポーにお邪魔してまいりました。 芸妓さん達の登場は、0時を回ったあたりからになり
      ます。 それまでの間、ラポースタッフによるショーを見させていただきました。








      
      トップバッターは、ロスから来日中のチャックのステージで始まりました。








      









      
      途中からコメディタッチの流れになっていきました。








      
      バーテンダーの森川さんもノリノリの様子です。写真では音楽がお届けできないのが残念ですが、サバンナの草原を思わせるリズムが流れております。








      









      
      ガラッと雰囲気が変わり、ラポーシンガーシスターズによる昨年ブレイクしたKARAのナンバーです。







      









      









      
      ちなみに、リーダーの紫のお姉さんは、受付のK崎さんです。 いつもは、電話の応対や会計などをしていただいております。








      









                        
                        数組のお客さんが、芸・舞妓を連れて来られており華やかな雰囲気です。








      









      
      マスク姿は、ベースの豊田さんです。








      
      コントの場面は、お笑いを見ない為に誰のモノマネかわかりませんでした。








      









      
      つづいて、よしもとの登場です。右側が船場太郎だったような?








      
      ラポーのオーナーの上田さんは、今年は淡谷のり子さんで登場です。








      









      
      スタッフによるショーは、この後ラストにもう一度ありました。  






      









      
      一緒に行ったお客さん二人と、白塗りのお客さんは、最初誰か分からずにおりましたら、美の八重の真ひろちゃんが私の良く知ってるお客さんだと教え
      てくれました。 化粧から着付けまで美の八重さんでやってもらったそうです。後ろの席には、奥様と従業員の方も勢揃いされて居られました。





      
      TAKEちゃんは、言わずと知れたあの方に。








      
      シンガーのジョニーと真ひろちゃん








      
      Y山社長は、芸妓姿が大層お気に入りの様子でした。 心臓気を付けてくださいね。









      









      
      0時も回り、いよいよ一組目の登場です。  一組目は、宮川町の芸妓さんでふく光(ふくてる)さんと美恵花(みえか)さんの「必殺仕事人」です。








      









      









      









      









      









      
      二組目も宮川町から小桃(こもも)さん小扇(こせん)さん弥千穂(やちほ)さんの「ういろう売り」です。








      
      外郎売(ういろう うり)は歌舞伎十八番の一つで、いわゆる「曾我物」のひとつ『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)の一幕を一部を独立させたも
      のだそうで、享保3年 (1718) 正月、江戸 森田座で初演され、「外郎売実ハ曾我五郎」は二代目市川團十郎が勤めたとあります。










      









      









           









              









      
      三組目も宮川町の富美毬さん菊乃さん菊丸さんの「お祭り」です。








      
      お客さんの中にも仮装で来られている方が居られ、お祭りムードを盛り上げてくれておりましたが、ここ最近、不景気の影響からか祇園の中でもおばけ
      をする店が少なくなりました。早く元気を取り戻してほしいものです。








      









      









      









                               
                               この日のための、千社札を頂きました。
 






      
      四組目に祇園のお座敷を回り終えた祇園甲部の真生さん照こまさんの登場で「おくにさんざ」です。 出雲阿国を演じるのが、真生ちゃんです。








      
      歌舞伎の演目の一つで「関八州繋馬」 (かんはっ しゅうつなぎうま) 「お国山三 春霞歌舞伎草紙」 (おくにさんざ はるがすみかぶき ぞうし)の一場面
      だと思います。 








      
      名古屋山三、安土桃山時代、出雲の阿国とともに歌舞伎の始祖になぞらえられる美男の伊達男で、山三郎ともいいます。伝説的な人物で、かぶき者
      として、古浄瑠璃・戯曲・小説などに仕組まれることが多いとあります。








      









      








      









      
      軽快なリズムに切り替わり、みんな入り乱れてのフィナーレです。









      









      









      








      
      五組目の登場は、祇園甲部の鈴子さん豆美さんの「喜撰(きせん)」です。








      
      喜撰[きせん]とは、日本舞踊の演目の一つで『喜撰』[きせん]は、平安時代の名僧喜撰法師をかり、江戸に置き換えて踊る演目です。 
      『六歌仙容彩』[ろっかせんすがたのいろどり]にあるように、もと小野小町をめぐって思いを打ち明けるが、その恋は成就しない、という変化舞踊のひと
      つだけに、喜撰法師は、粋な坊主という役柄に仕立てられています。









      









      









      
      出演なされてる皆さんは、普段と違った雰囲気の中、自分たちがお祭りを楽しんでいるといったとても明るい雰囲気で、お客さんを愉しませてくれており
      ました。 その中でもプロ意識だけは随所で発揮されておりました。  この後後編に続きます。









      
      前篇からの続きです。 六組目の登場は、祇園甲部の有佳子さん槇子さんの「人形振り・八重垣姫」です。姫を演じる槇子さん。







      
      『人形振り』とは、役者が人形浄瑠璃の人形を模倣して、その動きに似せて演じる特殊な歌舞伎演出法です。その役が異常に高揚した心理状態であ
      ることを顕著に示しています。







      
      それでは義太夫狂言のどの部分を「人形振り」で見せるのかというと、一般的には若い娘やお姫様などの若い娘が、激しい恋ゆえにその女心を高揚
      させる場面、激情に走る場面にこの演出を用いることが多いようです。あるいは、長時間物で観客に目先の変化を与える必要がある場面で、道化役が
      この「人形振り」を見せるケースなどがみられます。





      









      









      









      









      









      
      つづいて、七組目の登場は、祇園甲部の豆福さん紗代子さんの「さんもんごさのきり」です。 歌舞伎の名題「楼門五三桐」の場面で、桜咲く南禅寺三
      門です。







      
      石川五右衛門といいますと、「絶景かな、絶景かな」というセリフは、歌舞伎見たことがなくてもなんとなく聞き覚えがあるかたが多いのではないかと思
      いますが、そのイメージの原型になっているのがこのお芝居です。






      









      









      









       









      
      五右衛門、悠然と桜と見ながら有名なそのセリフを言います。絶景かな 絶景かな春の眺めは(春宵一刻)値千金とは 小せえ 小せえ この五右衛
      門の目から見るときは 一目万両万々両(陽も西山に傾きて 春の夕暮れ来てみれば 入相(いりあい)の鐘に花ぞ散る)はて うららかな眺めじゃな

      あ・・・。





      









      
      八組目の登場は、真なみさん小菊さん満友葉さんの「平成松竹梅」です。 演目のあらすじが分かってないので、場面の状況が分かりませんでしたが、
      最初の登場は、満友葉さんです。








      
      今年の干支に扮する小菊さん。








      









      









      
      しんがりに登場の真なみさん。








      









      









      









      








      
      九組目に登場の小喜美さん小莉(こまり)さんによる「虎から兎へ」








      
      虎に扮するは、知る人ぞ知る祇園の虎キチ小喜美さんです。








      
      小喜美さんの持ってるタイガーマークのお着物は、どれも気合が感じられる物ばかりです。








        







        
      小喜美ちゃんの気合の入れようは、千社札にも表れておりますが、残念なことに2005年以降、優勝千社札が頂けないのがさみしいですね。







      









      









      









      









      









      
      本日、10組目の登場は、宮川町からの弥寿葉さん美恵雛さんの「棒しばり」です。








      
      狂言の演目、棒しばりのあらすじは、用があって外出する主人は、太郎冠者・次郎冠者の召し使い二人に留守を言い付けます。しかし、二人は留守を
      するといつも酒を盗んで飲む悪い癖があるので、主人は一計を案じ、太郎冠者は後ろに手を縛り上げ、次郎冠者は長い棒に両手を括り付けてしまい
      ます。





      
      不自由な身の上になってもやはり酒を飲みたいもの、酒蔵の戸を開けた二人は目の前の酒壺を見て大喜びし、苦心惨憺しながら、縛られた手でお互
      いに酒を飲ませ合い、上機嫌になった二人は、飲めや謡えやの酒盛りを始めます。






            
            人間は本来、どのような逆境にあってもそれに甘んずることなく、知恵を働かせ、骨折り苦心して、それを乗り越えていこうとするタフな
            生き物です。人間の愚かしさを余すところなく描く狂言は美談を好みませんのでここでは両手が不自由になった二人のする苦労は「酒
            を飲むため」ですし、働かせるのは「悪知恵」ですが、自分の求めるものに向かって突き進んでいく姿は、力強く陽気で爽快な雰囲気に
            させてくれる内容になっております。






                









      









      
      本日11番目のトリを務めますのは、祇園甲部のまめ弥さん小亜希さん福葉さんによる「あやつりさんばそう」です。







      
      『操三番叟』 あやつり さんばそう、これはあやつり人形のような動きで三番叟』の振りをするもので、三番叟(さんばそう)を糸操りの人形に、翁(おきな)
      と千歳(せんざい)をぜんまい人形に模して踊るものだそうです。






      
      この演目は、能の伝統を受け継いでいることもあり、この歌舞伎の『三番叟』も、とても儀式的な性格をもち、歌舞伎でこれをやるのは、いろいろおめで
      たい節目のときで、顔見世興行とか、だれかの襲名披露とかに演じられることが多い演目です。






      









      
      左から小亜希さんと真ん中、まめ弥ちゃんと福葉さんです。








      









      









      









      









      









      
      お化けをしてない、Vサインの真乃香ちゃんは昨年末で芸妓を引いて現在お茶屋の「山加代」のお母さん修行に専念中で、まめ弥ちゃんとは同期の仲
      良しさんです。







      
      美の八重さんの真軍団、真乃香ちゃんの妹分の真生(左)ちゃん真なみちゃん








      









      
      今年も気が付けば、3時を回っておりました。 祇園甲部の方々は、2.3日で今夜が最終ですが、宮川町は、あと1日、4日までなさっております。 
      みなさん遅くまでご苦労様でした。





コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山科 毘沙門堂門跡 節分祭 2/3/2011

2011年02月06日 | 洛外 大原方面

  

  毎年節分祭に訪れております山科の毘沙門堂(びしゃもんどう)は、天台宗の寺院で山号は護法山と称します。本尊は毘沙門天を祀り天台宗京都五
  門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれております。








  
  寺伝によりますと、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)に行基が開いたといわれ、その後、平安時代末期には出
  雲寺は荒廃していおりましたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興され、中世末期には再び荒廃しておりました
  が、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えておりました。







  
  仁王門 1665年この地に再興された当時の建立です。急峻な石段の上にある本堂への表門にあたります。         











  
  仁王門の左右を固める阿吽二天像








  









  
  節分祭の豆まきの舞台が設置された本堂前です。 本堂 御本尊の毘沙門天(伝教大師一刀三礼の作)が安置されている本堂は、1665年当山中
  興第二世の公海大僧正が、師・天海大僧正の意志を受け継いで復興されました。本堂では一時から毘沙門天の般若転読の法要が行われます。







  
  毎年、参拝者に甘酒を振舞っていただいておりますが、その準備も整っておりました。








  
  13時から始まる、毘沙門天の般若転読法要の前に境内とお庭を回ってまいります。 こちらは、玄関前の山門です。







  
  玄関 御堂と庭園の拝観入口は、本堂になりますのでそちらに回ります。
  







  
  







  
  宸殿前の枝垂れ桜と右手に勅使門の軒です。 この枝垂れ桜は一目千両と言われ樹齢百数十年の巨木で、その枝張りは30mにも及びます。 
  満開時期は、4月10日~15日あたりになるそうです。









  
  枝垂れ桜の右手の梅が開花の準備が出来上がっておりました。









  
  宸殿と霊殿を結ぶ廊下です。








  
  左側が霊殿で右側が本堂です。








  
  霊殿の東側に建つ弁財天堂








  
  本堂








  
  本堂前の紅梅も花を咲かせ始めておりました。








  
  本堂の東側、弁財天の手前に有るお堂です。 一切経蔵  一切経・ 転輪経蔵の創始者の傅大士像(ふだいし)を祀ります。 手前の紅枝垂れ桜は、
  4月には鮮やかな紅色の花を咲かせてくれます。







  
  本堂右手の弁財天








  
  高台弁財天  大阪城で豊臣秀吉の正妻、大政所高台院湖月尼(お寧)が信仰していた弁財天で高台弁天と称します。住職・一品公弁法親王が所
  望されて、本堂裏右手(東側)に安置して、高台弁財天、不老弁天として多くの人々に信仰されております。






  









  
  弁天堂から見た左本堂と霊殿








  









  









  









                       
                       本堂の唐門をくぐり参拝受付を済ませ本堂左手に進みます。







  
  本堂左手より、霊殿、宸殿へと進みます。








  









                       









  









                      
                      霊殿には、阿弥陀如来像を中心にして歴代の影像や位牌を安置しており、1693年
                      に第三世公瓣法親王の建立とあります。                       








  
  渡廊下の右手の庭に閼伽井の井戸がありますが、後で紹介いたします。








  









  
  宸殿前の枝垂れ桜越しに見えます勅使門は、後西天皇より拝領した総門で、かつては天皇陛下の行幸の時かその代参、現在では門跡門主の晋山
  式以外は開門されない開かずの門となっております。






            
            宸殿襖絵 宸殿内部の障壁が百六十面は、すべて狩野探幽の養子で駿河台派の狩野益信の作で、どの角度から見て
            も、鑑賞者が中心になるという逆遠近方の手法を使っております。







                           
                           天井龍 霊殿の守護龍は狩野永叔主信が画いたもので、眼の向きや顔が、
                           見る角度によって変化いたします。










  
  玄関を入った所の部屋に置かれている円山応挙筆とされる衝立で、裏表に描かれた鯉の姿です。







                     









  









  









  
  観音堂と七重石塔








  
  庭園には、スリッパを履いて下りることが出来ますが、回遊は出来ません。








                     









  









                     









  









  
  鞍馬自然石手水鉢








  
  右手前に千鳥石、石塔の前が座禅石、石橋の手前が亀石だと思います。








  









  
  中庭に佇む閼伽井の井戸は、仏前に供える水を汲むための井戸です。








  
  宸殿西側の手水鉢








                       









  









                      









  
  先ほどまで閑散としていた境内ですが、三,四百名は居られたと思います。






  
  2時からの豆まきには、毘沙門堂貫主の挨拶のあと一万包みの福豆が蒔かれました。本日は、宝塚からお二人の方がお見えになっておられました。 
  毘沙門堂では「福は内、鬼も内」と言って豆が蒔かれます。






  









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田神社節分祭  2/03/2011

2011年02月04日 | 洛中 

  

  吉田神社の節分祭に向かうのに周辺に、交通規制が入っており駐車場が確保しにくいので、東側の真如堂の駐車場に停めて宗忠神社を抜けてお参

  りしてまいりました。









  
  通り抜けするだけでは、申し訳がないのできちんとお参りもさせていただきました。
  宗忠神社とは、吉田山の南に位置し、真如堂の西側正面にあります。黒住宗忠は1850年に歿し、1856年に朝廷から「宗忠大明神」の神号が与えら
  れ、1862年、宗忠の門人の赤木忠春らが、吉田神社より社地の一部を譲り受けて宗忠を祀る神社を創建いたしました。1865年には朝廷の勅願所とさ
  れ、皇室や公家から篤い崇敬を受けたと伝わります。 なお、岡山にある宗忠神社と区別をするため、鎮座地名から「神楽岡宗忠神社」とも呼ばれるよ
  うになりました。






                          
                          黒住 宗忠 (くろずみ むねただ、1780年12月21日ー1850年4月7日 は、神道系の新
                          宗教のさきがけとなる黒住教を開いた幕末の神道家です。








  
  1812年8月、宗忠の実母・黒住つたが腹痛のため寝込んでしまい、次いで実父・黒住宗繁も同じような腹痛となり、宗忠は懸命に看病を行なうが、次
  々と両親を失う結果となり、極度の絶望状態に陥り、やせ衰えて行く中で翌年の11月頃には自身も肺結核と思われる病となって寝込んでしまいます。
  しかし、1814年11月11日、最早最期と覚悟した宗忠は冬至の朝の太陽を浴びる中で天照太神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体
  験により天命を悟るとともに、病気も消えうせ、宗教的活動を開始したと言われており、以後、様々な託宣や病者の救済を行いながら、37年にわたって
  各地で布教活動を続けたと伝わっております。






  
  流造の本殿は明治45年(1912年)に改築されたものであり、本殿の北には、二条家より遷された天照大神を祀る神明宮があります。他に、白山比
  大神を祀る白山社、赤木忠春(赤木忠春神)を祀る忠春社があります。






 









  
  宗忠神社を北に抜けたところの稲荷神社を左手に坂を下りますと吉田神社の南側の参道に入ります。







  
  吉田神社の境内および参道には、節分祭の間800軒もの屋台が立ち並びます。








  
  御祭神に天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみ やおよろづのかみ)を祀ります大元宮は、吉田神社の南側に位置し、毎年節分には特殊神事が
  行われ厄除祈願の参拝者群集し一般の崇敬極めて篤い社と云われております。








  









  
  山陰神社は、藤原山蔭卿(ふじわらやまかげきょう)と恵比須神を祀り、料理の神として崇められております。 山蔭卿は清和天皇貞観元年(西暦845
  年)奈良春日の大神を勧請し平安京鎮護の神として吉田神社を創建され、又吾が国に於いてあらゆる食物を始めて調理調味づけた始祖であり古来包
  丁の神、料理・飲食の祖神として崇敬厚き神であるそうです。





  
  菓祖神社は、お菓子の神とされておりますが、先に本殿にお参りし帰りに寄ることにいたします。








  









  
  参道を抜け、境内に入ります。








  
  吉田神社では、節分祭の期間いろんな行事が執り行われますが、その一つ3日の夜11時から行われる火炉祭の準備です。当日午後11時より行う本
  社の三ノ鳥居前に直径5m高さ5mもの巨大な八角柱型の火炉を舗設し、節分祭中参拝者が持参した旧い神札が積み上げられており、浄火を点じて
  焼上げる行事です。 参拝者には、その炎が無病息災をもたらし新春の幸運を授けると言われております。






  









  









  
  こちらの賞品は、抽選券付きの福豆を購入いたしますと、4日に抽選がありこちらの賞品が当たります。 賞品は企業や個人の方が奉賛なされたもの
  です。 当選番号は後日、8日に京都新聞朝刊で発表されるそうです。福豆一袋200円です。






  








  









  









                     









  









  
  左手が、平安京鎮護の神の本宮の拝殿になります。








  
  清和天皇貞観元年4月(859年)中納言藤原山蔭卿(ふじはらやまかげきょう)が春日の四神を勧請(かんじょう)し平安京の鎮守神として吉田山に創
  建されました。987年一条天皇の行幸を始め991年大社の一に列せられ、1107年四度官幣に預る等、皇室の崇敬極めて厚く、殊に神職吉田兼倶
  が吉田神道を創設し、1484年斎場所(さいじょうしょ)大元宮(だいげんぐう)を造営してより益々隆盛加はり神道界の絶大なる権威を保持いたしました。
  旧社領は、590石あったと云われております。







  









  









  









  









  

  







                      
                      境内東側の斜面に建つ若宮社








  









  
  若宮社の階段の右手に鎮座する、さざれ石。








  
  








  
  お参りも済ませ、福豆も買いましたので、帰路につきます。








  









  









  









  









  
  京都菓子業界の総意により菓祖神社創建奉賛会を結成し、昭和32年11月11日兵庫県中島神社、和歌山県橘本神社、奈良県林神社の祭神を鎮
  祭いたしました。節分祭の期間は、お茶とお菓子が振舞われておりました。








  
  大元宮まで戻ってまいり、もう一度宗忠神社を通り車に戻ります。








                     









  









  









  









                     









                     
                     鳥居の向こうに真如堂が見えます。








  
  こちらの真如堂でも節分の行事をなされておりましたが、1時からの毘沙門堂の法要があるので、そちらに向かいました。








コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都雪景色 大徳寺塔頭 高桐院 1/17/2011

2011年02月01日 | 洛北 中部 大徳寺方面

  

  高桐院は、江戸時代初期の武将で、茶人としても利休七哲の一人として有名な細川忠興(三斎)が叔父(父の弟)の玉甫紹(ぎょくほじょうそう)を開
  祖として慶長6年(1601)に父藤孝(幽斎)の菩提所として建立した寺院です。








  
  高桐院山門








  
  新緑や紅葉の時期に何度か訪れておりますが、雪景色も趣があり何より人が少ないことが良かったです。







  









                        
                        参道正面の勅使門








  
  勅使門を右に折れますと中門があります。









  









  
  拝観受付の玄関








  
  玄関を入りますと中庭があり左手に本殿と右手が書院とお茶室になっております。








  
  書院「意北軒」は千利休の邸宅(利休の聚楽屋敷の広間)を移築したものといわれる建物で、さらに奥には、書院に隣接した茶室「松向軒」があります。







  









  









  
  書院「意北軒」の一部屋








                     









                     
                     茶室「松向軒」








             









  
  細川忠興自身が手掛けた茶室で、寛永5年(1628)に造られたといわれております。忠興は、茶人としても有名で、千利休の七哲の一人とされ、高桐院
  には千利休ゆかりの品も多くあり、「松向軒」は秀吉が(1587年)北野神社で開いた大茶会で使われた茶室と伝えられます。 「茶室に珍しい黒壁は、
  瞑想の場の感があって、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席である」と高く評価されています。








  
  「松向軒」南側の庭園








    
  本堂南庭園








  
    







  
  本堂(客殿)南の庭は竹林を背景にした楓と石灯籠、緑苔で構成された簡素な庭園で、雪化粧の中赤い毛氈が引き立っておりました。








  
  通常は、本堂西側に広がる庭園に下りることが出来るのですが、この雪では無理なようでした。  







  
  庭園奥には、細川忠興(三斎)とその夫人ガラシャの墓とされる石灯籠があり、この石灯籠は千利休が愛用した灯籠でありましたが、秀吉が欲しがっ
  たため、灯籠の一角を壊して召し上げられるのを逃れたとつたえられております。なお、利休が切腹の前に遺品として三斎に贈ったものであるとも伝え
  られております。またその横には、細川幽斎をはじめ歴代の墓もあり境内墓地には、他に歌舞伎踊りの名古屋山三郎や出雲の阿国の墓などもあります。







            
            墓所の入口に有る三斎井戸








            
             

                           









            
            忠興公の墓の北側にある細川家代々のお墓です。








  









    









  









                     
                     本堂東側








  









  









            
            本堂南庭は江戸時代の初期に造園されたものです。










  









  









             










  










  









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする