京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

西山 浄住寺 秋紅葉 11/30/2011

2011年12月31日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      葉室山浄住寺は、京都西山苔寺や鈴虫寺、地蔵院の南側に位置し、地蔵院まで徒歩数分の距離にあります。810年に開創された嵯峨天皇の勅願寺

      で、当時は常住寺と称しました。「太平記」によりますと捷疾鬼(しょうしつき)という鬼神に奪われた釈尊の一本の歯が中国から日本に渡り、嵯峨天皇

      により「常住寺」の石窟に安置されたと伝えられており、開山は慈覚大師円仁(比叡山延暦寺)とされております。 1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が

      中興し、浄住寺と改められました。中興開山は奈良西大寺の興正菩薩叡尊(律宗)で、叡尊自叙伝の古写本である「感身覚正記」に当寺が律宗寺院で

      あったことが記されております。

 

 

 

 

 

      

      1567年に炎上いたしますが、1687年葉室頼孝により再建され、黄檗宗(禅宗)となって現在に至っております。再興開山は大慈普応禅師鉄牛道機(黄

      檗宗)で、釈迦牟尼仏坐像を本尊とし、諸堂宇が整って黄檗宗の有力寺院となりました。

      葉室頼孝(1644-1709)とは、公家・葉室家(はむろけ)の23代当主で、山城国葉室邑を継ぎこの地で荘園を営んでいた家系です。葉室の名は、境内北

      に山田葉室町と地名にいまも残され、中世以来呼ばれてきました。近隣には、鎮守の神として、葉室家の霊を祀る葉室御霊神社が建立されております。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

  

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      屋根のない独特の山門を入っていきます。  ちなみに、こちらの寺院では拝観料は取っておられません。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      両サイドには、住宅が立ち並んでおりますが、この一角は別世界をかもし出しております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      紅葉のトンネルの向こうに本堂が見えてまいります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂の手前右側に佇む石碑は、開山鐵牛禅師遺掲の三百九回忌として昨年建立されたものだそうです。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              本堂は、1697年の造営とあり黄檗宗の特色を兼ね備えたものとなっており、本堂の後方中軸上に、位牌堂、開

              山堂、寿塔が一列に並んでおり、京都市内における黄檗宗寺院を代表するものであり、なかでも開山堂と寿塔は

              黄檗寺院の特色をよく残しております。

 

 

 

 

 

 

      

       内部両側に板敷の床を張って修行の場としており、法堂と僧堂の機能を兼ね備える建物です。 御本尊は如意輪観音を祀ります。如意輪観音とは、

      仏教における信仰対象である菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊に数えられます。

      余談になりますが、六観音 聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに

      不空羂索観音を加えて六観音とし、六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、

      六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道-聖観音、餓鬼道-千手観音、畜生道-馬頭観音、修羅道-十一面観

      音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせになっております。

 

 

 

 

 

 

      

      本堂前右手に建つこの御堂には、聖観世音が祀られており、洛西三十三ヶ所観音霊場の第30番札所となっています。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      本堂左手に建つ祠です。 

 

 

 

 

 

              

              本堂前から、庫裡・方丈へと続く石畳 

 

 

 

 

 

      

      本堂と庫裡を結ぶ回廊です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

  

 

 

 

 

 

 

      

       庫裡の玄関には、浄住寺の山号の葉室山(はむろざん)の額がかかっています。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      この版木は起床(午前4時)と消灯(午後9時)を知らせるものであると書かれています。巡照板にはこのような文言が書かれています。

       謹白大衆(きんぺだーちょん)   ・謹んで大衆(修行者)に申し上ぐ

       生死事大(せうすすーだ)      ・生死は事大にして

       無常迅速(うーちゃんしんそ)    ・無常は迅速なり

       各宜醒覚(こーぎしんきょ)     ・各々、覚醒して

       慎勿放逸(しんうふぁんい)    ・無為に、時を過ごさぬように    黄檗宗万福寺にも同じものが掛ってます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      方丈庭園

 

 

 

 

      

      方丈は伊達綱村の幼少期の遺館であり、現存するのは、他に寿塔、開山堂、祠堂、本堂軒禅堂があります。 伊達綱村とは、伊達家4代目で1659

      年3月8日、伊達綱宗の嫡男として生まれ、幼名は亀千代丸といい、伊達政宗の曾孫に当たる人物ですが、お寺との関係は説明されておらずわかり

      ませんでした。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              山門に向かい参道を進み最初の階段を下りた右手の竹林の中に、孟宗竹の突然変異で出来た、亀甲竹が群生

              いたしております。水戸黄門が、テレビの中で使っている杖が、この亀甲竹だそうです。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      近所のお爺さんが、道路から離れて見ると背景の西山の稜線の中に収まり奥行きが増すよと親切に教えてくれましたが、車と電線が邪魔をして台無し

      の景色になってしまいました。写真の右手の方に二台分の駐車場があります。

 

 

 

 

 

 

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西山 地蔵院 秋紅葉 11/30/2011

2011年12月29日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      地蔵院は、苔寺や鈴虫寺の南側に位置する竹林の美しさで知られる臨済宗の寺院です。幼少のころ近くに生家があった一休禅師(1394~1481)が修

      養の場としていた寺としても知られます。 地蔵院の地はもともとは、衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良(いえよし)(1192~1264)が山荘を営んで

      いた場所ですが、貞治6年(1367年)もしくは応安元年(1368年)に室町幕府の管領であった南北朝時代の武将・細川頼之(よりゆき)(1329~1392)が

      尼僧妙性(みょうしょう)から土地を買取り、寄進したことに始まります。 

 

 

 

 

 

      

      開山は碧潭周皎(へきたんしゅうこう)すなわち宗鏡(そうきょう)禅師ですが、その師匠であり、西芳寺(苔寺)や天龍寺の作庭などで有名な夢窓疎石

      (むそうそせき)を勧請して第1世とし、碧潭周皎自身は第2世となっています。 夢窓疎石(夢窓国師)氏とは、鎌倉時代から室町時代にかけての著名

      な禅僧で、各地を巡遊、寺を開基し、自らも作庭を行いました。京都市内では西芳寺(苔寺)、天龍寺の庭園などを手がけております。 

 

 

 

 

 

 

      

      碧潭周皎が亡くなり、「宗鏡」の諡(おくりな)を得てこの地蔵院に葬られた後、細川頼之もまた遺志により死後地蔵院に葬られ、2人の墓石と伝えられ

      る石が境内に並んで安置されています。細川氏に由来する寺院であるためか、当時の朝廷の信仰も厚く、室町時代には京都五山に匹敵する特権を

      与えられるとともに、多くの寺領が寄進され、隆盛を極めました。 

 

 

 

 

 

      

      

      しかし、応仁・文明の乱(1467~1477年)によりすべての堂舎は焼失し、さらに復興後に天正の大地震(天正13年・1585年)で大きな打撃を受けます

      が、細川家の援助もあり江戸時代中頃には復興いたしました。庭園は宗鏡禅師作と伝えられますが、貞享3年(1686年)に建てられた方丈の南側にあ

      るため、方丈と同時期に整えられたものと考えられています。 

 

 

 

 

 

      

      山門で拝観受付を済ませ竹林に囲まれた参道を進みますと、正面に本堂が見えてまいります。 

 

 

 

 

 

      

      臨済宗は、中国でおこった禅宗の一派で、日本では臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗があり共に達磨大師を初祖と仰いでおります。その精神は、教外

      別伝・直指人心を旗印とし、ひたすらに座禅を修して、人間本来に備わっている仏性を徹見し、またそれと一体不二となって、淡々とした境地に安住す

      ることが釈尊の説いた仏法正しく受け継ぐことであると説くところにあります。 臨済宗の教義は、「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」で表され、

      不立文字とは、仏の道は言葉や文字ではないと云われ、教外別伝は、心から心に伝えられるものであり、直指人心とは、衆生の心と仏心とはもとは一

      つであるから、仏を外に求めるのではなく、自分自身の中に求めなければならないとあり、見性成仏は、悟りとは、ただ自己のありさまを徹底して見、識

      ることのほかにないと説明されております。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂手前の右側に細川頼之公の御事績が詳しく書かれた石碑が建っております。細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期

      にかけての武将で、政治家で、室町幕府管領を務めた人物です。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方におけ

      る南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属し、管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行

      いました。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚いたしますが、その後は赦免されて幕政に復帰いたします。 

 

 

 

 

 

 

      

      文化的活動としては和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰しており、また、軍事作法について記した書状も

      存在している文武にたけた人物として名をのこしております。  幼少時に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都に景徳寺、

      地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行いました。細川家の子孫には、龍安寺開基の勝元氏や幽斎、忠興親子や元首相の護煕氏まで脈々と続いてお

      ります。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂に祀られている御本尊は、伝教大師の作という地蔵菩薩(通称谷の地蔵)で、菩薩の左右には、夢想国師・宗鏡禅師・細川頼之の木像が安置され

      ております。

 

 

 

 

 

 

      

      本堂の左手奥(南側)には、自然石で造られた二つの墓が佇みます。 

 

 

 

 

 

      

      二つの墓石の内、左手が宗鏡(そうきょう)禅師のもので、右側が細川頼之(よりゆき)の墓になります。細川頼之は三河国(愛知県)の生まれで、将軍

      足利義満を補佐していた管領職をしておりました。 天然の石だけを墓石の代わりにしているものは、この時代では大変珍しい事だそうです。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

      一休禅師と地蔵院 当院は一休禅師が幼少の頃修養された寺であり、禅師は、後小松天皇の皇子として、1394年当院の近くの民家でお生まれにな

      ったといわれており、後、当院で成長され、6歳の時安国寺に移って本格的な修行にはいられました。 禅師は京都、堺などで大衆を教化し、大徳寺に

      も住されましたが、晩年は山城薪(現在の京田辺市)の一休寺で親しまれている妙勝寺を復興して酬恩庵とし、そこで文明13年(1481)八十八歳でお

      亡くなりになるまで過ごされました。 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂正面から山門方面

 

 

 

 

 

       

      本堂北側

 

 

 

 

      

      本堂の北側には、開福稲荷大明神を祀る祠が建っております。 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       開福稲荷大明神前のお地蔵さんの列

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      中門 

 

 

 

 

 

      

       本堂前から北に伸びる参道の向こうには、方丈と庫裡の入口の中門が建ちます。

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      中門正面の庫裡の玄関 

 

 

 

 

 

      

       方丈は、江戸時代の貞享3年(1686)に再建されたもので、方丈前庭園は「十六羅漢の庭」と呼ばれる平庭式枯山水庭園となっております。 

 

 

 

 

 

 

      

      方丈庭園の中には30個ほどの石が各所に据えられており、とくに築山や池などを築かない、平庭形式の枯山水庭園となります。据えられている石の

      形は様々ですが、比較的均等に配置され、羅漢(悟りを開いた修行者)の修行をする姿を表現するという石の配置がなされているため、「十六羅漢(ら

      かん)の庭」と呼ばれています。地面にはコケが一面に生え、落ち着いた感じをかもしだしています。 中央に見える樹は、胡蝶侘助椿とあります。 

 

 

 

 

 

 

      

      中門の内側に建つ祠は、開運弁財天と左側に巳歳守護と書かれております。

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      日当たりが悪いのか、山門のモミジは紅葉の途中です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      こちらの地蔵院への道は大変狭く大型バスなどが入って来れないので、人混みも無くこの時期でも大変静かにゆっくりと回れる寺院です。 なお、駐車

      場は山門前の道を北に50m程行ったところに3台程度停められるスペースがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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嵐山 鹿王院 秋紅葉 11/30/2011

2011年12月28日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      鹿王院(ろくおういん)は京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗系の単立寺院です。開基(創立者)は足利三代将軍義満で、寿命を延ばす事を祈っ

      て建てた禅寺と伝えられ、覚雄山 宝幢禅寺 鹿王院と名づけられた名刹です。 開山は義満公の師、普明国師で、開山(初代住持)は春屋妙葩(し

      ゅんおくみょうは)です。   山門上の山号「覚雄山」の扁額は、 足利義満公筆と云われております。

 

 

 

 

 

 

      

      鹿王院は、足利義満が建立した宝幢寺という寺の塔頭(たっちゅう)であり(塔頭とは、禅寺等で歴代住持の墓塔を守るために建立される寺院のこと)

      で、宝幢寺は応仁の乱で廃絶しますが、その後は開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺籍を継いでおります。 

 

 

 

 

 

      

      室町時代の記録である『花営三代記』や、開山伝の『宝幢開山知覚普明国師行業実録』によりますと、宝幢寺の建立経緯は、足利義満は康暦元年

      (1379年)のある夜、「そなたは今年中に大患をわずらうが、宝幢菩薩を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるであろう」との夢告を受け、そのため、義

      満は自らの帰依する禅僧春屋妙葩(普明国師)を開山として一寺を建立することとし、康暦2年(1380年)完成しました。

       

 

 

 

 

 

               

               宝幢寺の塔頭であった鹿王院は、嘉慶元年 (1387年)、開山の春屋妙葩の寿塔(生前に造る墓)を守る役目

               の塔頭として創建されたものです。 なお、鹿王院の名は建立の際に野鹿の群れが現れたことによると伝えられ

               ます。

 

 

 

 

 

      

      宝幢寺は禅寺十刹の第5位に列せられる大寺でありましたが、応仁の乱で廃絶し、塔頭の鹿王院のみが残り1661年 - 1673年、酒井忠知(徳川四天

      王の一人である酒井忠次の子)によって再興され、忠知の子である虎岑玄竹(こしんげんちく)が中興開山の祖となりました。 

      「禅寺十刹(じっさつ)」とは、中世における禅宗寺院の官による寺格統制制度のことで、「五山」の次の寺格を有し、「諸 山」の上の寺格をもっておりまし

      た。「五山」が主として中央(京都・鎌倉)の禅寺に対してのみ設定されたのに対して、 「十刹」は京都・鎌倉に限らず、日本全国にわたってひろく設定さ

      れたということがその最大の特徴となっています。 五山十刹制度は、中国において禅宗の中心となっていった臨済宗が宮廷や士大夫との結びつきを

      深める中で、一 般社会の官僚制度が禅林内に導入されたもので、中国南宋の寧宗(在位1194~1224)の時に成立したものです。

 

 

 

 

 

 

      

      日本におきましては、この頃までは鎌倉の方が多かった十刹寺院も、その後足利義 満(1358~1408)が恣意的に十刹の位次を決定し、とくに十刹を

      京都中心の座位とし、また夢窓派の寺院が増加したことによって、康暦2年(1380)には十刹寺院の数が定数である「十」を超えた16ヶ寺にまで激増い

      たしました。「京都十刹」と称される京十刹は、至徳元年(1384)に設定され、また鎌倉の寺院は「関東十刹」として再編成され、現在「京都十刹」として

      知られる寺院は、この時に設定されたものです。以下が京都十刹のリストになります。

 

 

 

 

 

      

      第1位 等持寺 夢窓疎石  廃寺   

      第2位 臨川寺 夢窓疎石  開山塔三会院のみ臨川寺として現存

      第3位 真如寺 無学祖元

      第4位  安国寺 大同妙テツ 廃寺    

      第5位 宝幢寺  春屋妙葩  開山塔鹿王院のみ残存

      第6位 普門寺  円爾    廃寺

      第7位  広覚寺 桑田道海   廃寺

      第8位 妙光寺  無本覚心

      第9位 大徳寺  宗峰妙超

      第10位 龍翔寺 南浦紹明  寺地移転し、大徳寺山内寺院としてて現存

 

 

 

 

 

               

               山門を潜り、長い石畳の参道の正面に中門が見えてまいります。 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       中門から正面、拝観受付がある庫裡

 

 

 

 

 

      

      右手が、庫裡の拝観入口と左が玄関になります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       庫裡の玄関から見た中門 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      こちらでは、スリッパが用意されておりますので、必ず使用してください。 舎利殿へ渡る時に石畳の上を歩きますので。  

 

 

 

 

 

      

      庫裡から客殿に面した庭園に出ます。 鹿王院では、本庭と呼ばれております。  

 

 

 

 

 

      

      本庭の中心に舎利殿が建ち、鎌倉将軍源実朝が、宋の国から招来した仏牙舎利が、内部の多宝塔に祀られております。 庭園は、嵐山を借景にして、

      室町時代の石組や樹齢400年の木斛(もっこく)の銘木で格調高い本庭が出来上がっております。 

 

 

 

 

 

      

       舎利殿、東面

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      客殿から本堂に向かう回廊、右手の奥には茶室が建ちます。

 

 

 

 

 

      

      茶室「芥室」は、後で回ります。 

 

 

 

 

 

      

      回廊の突き当たりにある本堂中央には、釈迦如来像を中心に十大弟子像が祀られております。

 

 

 

 

 

      

      釈迦如来像は、南北朝期の作で、、十大弟子像は、鎌倉期の慶派仏師の作とされておりますが、寺伝では運慶作と伝わっております。当時、京都五

      山をはじめ禅寺は応仁の乱(1467~)でことごとく焼失いたしておりますが、創建当時の本尊が残っているのは極めてまれであり応仁・文明の乱時に

      は、衣笠の等持院に避難しておりましたが、この時に弟子の一体が行方不明になっており、数年後に栂ノ尾の閻魔堂から発見されたとの記録が残り

      ます。

      釈迦如来像は、創建時に制作され、鎌倉前期の作と云われます十大弟子像の方は、他から移して来たものでないかと推測されております。十大弟子

      とは、釈迦生存中の最も優れた実在の弟子で、十大弟子中の迦葉(かしょう) に拈華微笑(ねんげびしょう) の因縁から伝えられ、さらに迦葉から阿難

      (あなん)をへて、のちに達磨に伝えられ今日に至っております。

 

 

 

 

 

      

      本堂から舎利殿へ渡る回廊から 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿を一周して内部を拝観いたします。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿の南側には鹿王院の唐門で薬医門があります。  

 

 

 

 

 

      

      本庭の東南角に建つ宝蔵 

 

 

 

 

 

      

      客殿方面 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿の内部は、仏牙舎利が祀られている多宝塔が中央にあります。この仏牙は天下泰平の霊仏で、後光厳天皇が、普明国師に賜ったもので、後奈

      良天皇・正親町天皇・後水尾天皇も、礼拝供養しておられました。この仏牙舎利が日本の博多に無事着船したのが10月15日であったことから、昔から

      毎年その日を「舎利会」と定め、御開帳して勝縁を結ばしておられます。舎利殿は別名「駄都殿」とも呼ばれております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

       舎利殿内に掲げられている、「十六羅漢図」は、狩野鶴嶺筆とあります。 

 

 

 

 

 

      

      多宝塔の上には、天蓋が吊るされ内側には雲龍図が描からており、法の雨をふらせるという意味があるそうです。

 

 

 

 

 

                  

                  

            多宝塔を護る四天王像      持国天 - 東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。

                                  増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多を眷属とする。

                                  広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。

                                  多聞天 - 北倶廬洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。夜叉、羅刹を眷属とする。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

        客殿の裏手には後庭があり、その北側に茶席「芥室」へと廊下でつながります。

 

 

 

 

 

      

      ここで、庭に降りて茶室に向かうのでしょうが、公開はなされてませんでした。 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

      

      茶室前のつくばい 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

  

      

      庫裡前の前庭と本庭を隔てる土壁 

 

 

 

 

 

      

      客殿正面に掲げられている、足利義満筆の「鹿王院」の額。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庫裡玄関内側から 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       中門の外側に掘られたお堀

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      参道脇には鹿王院の鎮守の三社大明神が建ちます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      鹿王院は、門前に4台の駐車スペースがあるだけで、大型バスも入って来れないので、この時期でもあまり混み合うことの少ないスポットです。 

 

 

 

 

 

      

      鹿王院から渡月橋までは、徒歩ですと15分程度の距離になります。 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

      

      一歩渡月橋近辺に近づきますと、この時期は車と人の停滞に巻き込まれてしまいます。 

 

 

 

 

 

 

 

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嵐山 車折神社 秋紅葉 11/30/2011

2011年12月26日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      車折神社(くるまざきじんじゃ)は、京都市右京区嵯峨にある神社で、その昔は、社名を「車裂」「車前」とも書かれておりました。三条通りを太秦広隆寺

      から車で5分位の位置に建ちます。 写真は、第三鳥居から中門まで長い参道が続いており、駐車場は写真右手奥に30台程停めることが可能です。

      第三鳥居から境内社・芸能神社までの参道の左右には崇敬者が奉納された朱色の石玉垣が連なります。

 

 

 

 

 

      

      第三鳥居の手前右手にある祠は、火の神様である「愛宕大神様」をお祀りする神社です。

 

 

 

 

 

 

      

      車折神社のご祭神には清原頼業公が祀られ、頼業公は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫にあたり、一族の中に

      は三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘、清少納言らの名も見られます。頼業公は大外記の職を24年間も任められ、和漢の学識と実務の手腕

      は当代無比といわれ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた程だそうです。

      大外記とは、律令制で、太政官(だいじょうかん)に属し、少納言の下にあって、内記(ないき)の草した詔勅の訂正、上奏文の起草、先例の勘考、儀式

      の執行などをつかさどった官職とあります。

       

 

 

 

 

 

      

      頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、廟が設けられました。やがて頼業公の法名

      「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれました。この寺は室町時代に至り、足利尊氏によって嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となりま

      した。 

       

 

 

 

 

 

             

             また、頼業公は生前、殊に桜を愛でられたのでその廟には多くの桜が植えられ、建立当初より「桜の宮」と呼ば

             れていましたが、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れたの

             で、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られました。これ以後、当社を「車折神社」と称することになり

             ました。車折神社は頼業公のご学徳により学業成就・試験合格はもとより、特に、「約束を違えないこと」をお守り

             下さる霊験あらたかな神様として全国的に強い信仰があります。 

 

 

 

 

 

      

      参道の右手に建つ芸能神社は車折神社の境内社の一社で、昭和32年に他の末社より御祭神・天宇受売命を分祀申し上げ創健した神社です。 天宇

      受売命が芸能・芸術の祖神として古来より崇敬される所以は、<神代の昔、天照大御神が弟である素戔鳴尊の行いを逃れ、天の岩戸にお入りになり

      固く扉を閉ざされたためにこの世が暗闇になった。 その時、天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申さ

      れたところ、大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した。>という故実にもとづくものだそうです。

 

 

 

 

      

      あらゆる芸能・芸術の分野で活躍する人たちに強い信仰があり、芸名・ペンネーム・劇団等の団名を記した朱塗りの玉垣が境内に2000枚以上奉納さ

      れております。

 

 

 

 

 

      

      石鳥居の先に見える中門 中門から本殿まで参道が続きますが普段は通ることができませんので向って右側の参道を進み、本殿の東側からお入り下

      さい。 

 

 

 

 

 

      

      中門 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

           

     中門前を右手に進みますと、三船祭りで使われる船の舳先に飾る龍と鳳凰のレプリカが飾られております。三船祭は5月14日の車折神社(くるまざきじ

     んじゃ)例祭の延長神事(行事)として昭和御大典を記念して昭和3年より始められたお祭りで、毎年5月第3日曜日に嵐山の大堰川(おおいがわ)におい

     て、御座船・龍頭船・鷁首船など20数隻を浮かべて、御祭神である清原頼業公が活躍された平安時代の船遊びを再現する雅やかなお祭りです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      参道左手に祀られている石は、説明を見つけることが出来ませんでした。 

 

 

 

 

 

             

             社務所前の五葉松 

 

 

 

 

 

      

      社務所前の手水舎(てみずしゃ)は本殿で参拝する前に手を水で清める場所です。 決して水を飲んだり、うがいをする所ではありませんとの説明です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       手水舎の北側の本殿への入口

 

 

 

 

 

 

      

      本殿はご祭神である清原頼業公をお祀りし、当社において最も重要な建物であり、その前に建てられている「拝殿」(はいでん)はご祈祷(特別祈願)や

      神事を執り行う建物です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      現在の拝殿は昭和63年に新築されたもので、銅板葺・総檜造の建築です。 奥の本殿は宝暦2年(1752年)に造営され、入母屋造・銅板葺総檜造の

      建築です。拝殿(賽銭箱上)の天井画は当社の隠れた見所で、作者は文化勲章を受章した画家・山口華楊(やまぐち・かよう)の実兄である画家・山口

      玲熙(やまぐち・れいき)氏の作品だそうです。

 

 

 

 

 

      

      祈念神石(きねんしんせき)でお願い事が成就した方はこちらにお礼の言葉を書かれた石(ご自身で拾われた石)をお納められ、願い事が書いてある

      石は基本的に間違いですのでご参考になされないで下さい。 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      中門の内側から表参道方面 

 

 

 

 

 

      

      拝殿・本殿の西側を通り奥の八百萬神社を回ります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      八百萬神社(やおよろず)は、当神社以外の日本の全ての神様をお祀りしている神社です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本殿を出て、北側に伸びる裏参道を北に進みます。       

 

 

 

 

 

      

      裏参道の石の鳥居のすぐ左手にある清めの社は、車折神社の末社で金銭・良縁・容姿・人気に関する悪運・悪因縁を浄化する神社です。清めの社の

      ご神力(パワー)により、車折神社の境内全体(敷地)は「悪運・悪因縁の浄化」「厄災消除」のご神力が充満しており、全国各地より大勢の方が、厄除

      け・八方除けのご祈祷を受けに来社されます。 また、清めの社の円錐形の立砂は石をモチーフにしており、車折神社が石(パワーストーン:祈念神石

      (パワーストーン:祈念神石)との関わりが深いことを物語っています。 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      裏参道を北に向かい右手に有る弁天社  弁天様(市杵島姫命)をお祀りする神社です。

 

 

 

 

      

      弁天社のさらに北側の地主神社は、 嵯峨天皇様をお祀りする神社です。

 

 

 

 

 

      

      裏参道の突き当たりは、京福電鉄の車折神社駅になります。 

 

 

 

 

 

      

      裏参道を引き返し本殿横を通り表参道に出ます。 

 

 

 

 

 

      

      表参道の芸能神社の向側に建つ葵忠社(きちゅうしゃ)  幕末に勤皇の志士として活躍した、 贈従五位福田理兵衛を祀る神社です。福田理兵衛と

      は、現在の京都市右京区嵯峨の豊かな材木問屋の長男として生まれ、京都洛西下嵯峨の庄屋、総年寄、村吏として勤め、村人の信頼を一身に集め

      た人物で、明治維新の時、家産を傾けてまで長州藩の勤皇倒幕運動を支援して、維新の実現に貢献した勤皇家で、1911年(明治44年)6月1日、贈

      従五位の位を頂戴しております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      表参道を戻り、三の鳥居の東側の駐車場内には、小唄小堀派祖霊舎や当社の元宮司で近代日本画の巨匠として知られる富岡鉄斎の筆塚などがあ

      ります。 

 

 

 

 

 

      

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大原 三千院門跡 秋紅葉 11/29/2011

2011年12月18日 | 洛外 大原方面

      

      三千院は、比叡山延暦寺を開かれた伝教大師が、東塔南谷に草庵を開いたのに始まりで、その後寺地は時代の流れの中で、京都市中を幾たびか移

      転しました。その都度呼び名も円融房、梨本房、円徳院、梨本門跡、梶井宮と変え、特に応仁の乱後、梶井宮の政所であった現在の地を一時仮御殿と

      されたのでしたが、明治維新までは御所の東、河原町御車小路梶井町(現・府立病院)に御殿を構えておりました。

      御殿門 高い石垣に囲まれた大きな御殿門は、門跡寺院にふさわしい風格をそなえ、又、政所としての城廓、城門を思わせる構えで、2003年秋、修

      復完成しました。 

 

 

 

      

      元永元年(1118年)堀川天皇第二皇子・最雲法親王が梶井宮に入室され梨本の正統を継がれて以来、皇族出身者が住持する宮門跡となりました。

      妙法院、青蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室門跡のひとつとして歴代の天台座主を輩出してきました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

             玄関を入り、まずは客殿に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

      客殿南側の聚碧園庭園 客殿を介して初めに広がる庭園で、 声明の音がしみ渡ったであろう自然の美に、江戸時代の茶人金森宗和 (かねもりそう

      わ・1656没)が感動し、自らの手を加え、今日の清楚にして 優美な庭が生まれました。 

 

 

 

 

      

      庭内の、永遠に満るがごとく清らかなる水を湛えた 池の源は、音無しの滝よりいでし清流の律川から引かれております。 往生極楽院の、杉木立ちの

      間に見透かすように在るさまが、尚いっそう庭の 立体感を深めて伝わる自然の絵巻物の様と説明されております。  

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      写経場の円融房から見た客殿 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      客殿と写経場を結ぶ渡廊下 

 

 

 

 

 

             

             客殿東側庭園、左手には、往生極楽院のを囲む木々がそびえております。 

 

 

 

 

 

      

      客殿と宸殿を結ぶ廊下より、右手宸殿 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      宸殿前 

 

 

 

 

 

      

      宸殿は三千院の最も重要な法要である御懴法講の道場として、大正15年に建てられたもので、宸殿では毎年5月30日、門主が導師を勤め、山門

      (延暦寺)と魚山(大原寺)の僧侶が式衆として出仕し、歴代天皇の御回向である御懴法講が厳かに行われます。雅楽と声明がとけあった御懴法講は、

      後白河法皇の御代からはじめられた宮中伝統の法要で、江戸末期までは宮中で行われていましたので、「宮中御懴法講」と呼ばれていました。

       宸殿の東の端にある玉座の間から望む往生極楽院

 

 

 

 

      

       天下泰平、萬民豊楽の祈願も併せて行われますので一般の参詣者も自由に献香していただけるようになっております。 白木造りの美しい本殿の正

      面には、伝教大師作の薬師瑠璃光如来が安置されており、秘仏として非公開となっています。 向かって右には歴代天皇の尊牌を、左には歴代法親王

      の尊牌が厳かにお祀りしてあります。

 

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

                
               宸殿の東の端にある玉座 玉座に掛かる「鵞」の大字は、中国天台山國清寺内に今尚、現

               存する碑の拓本で、王義之筆によるものです。

               王羲之とは1600年もの昔に中国書道の革命家とも言われ、その後の書道家たちにも大き

               な影響を及ぼしていると言われています。

               「鵞」の意味を探しておりましたところ、王羲之はガチョウを可愛がっていて、多くのガチョウ

               を飼っていたそうです。國清寺以外の紹興の蘭亭と言う所にも、「鵞池碑亭」と言う碑があり、

               鵞鳥(ガチョウ)がいる池という意味で「鵞池」という字の碑があるそうです。
               

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      宸殿で玄関受付で脱いだ靴を履き境内を回ります。 

 

 

 

 

 

      

      宸殿前に広がる有清園  青苔にスギ、ヒノキ、ヒバなどの立木が並び、見るものをして心の安らぎを与えてくれる庭です。そして、御堂の東側にはまん

      まんと水をたたえた池泉があります。山畔を利用して三段式となった滝組を配して、上部から水が池泉へと流れ落ちています。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      有清園に佇む地蔵菩薩像

 

 

 

 

 

      

      宸殿より往生極楽院に通ずるこの広い庭園は、その名の通り清らかな自然に抱かれています。園内の所々には、地蔵様が訪れる人々をあたたかく見

      守られ、(地蔵菩薩は迷いの世界で人々を救うと伝えられ、とくにその慈悲深さより子供たちの守護尊として広く信仰を集めております。)また、春には

      石楠花の淡い色が園内一面を染めます。 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

        

      有清園の中央に建つ往生極楽院は、三千院の歴史の源とも言える簡素な御堂で、平安時代に恵心僧都(源信)が父母のために、姉安養尼とともに建

      立したものと伝えられており、堂内には、阿弥陀三尊が今も変わることなく永遠の大慈大悲の御心を私たちに与えて下さっています。 千年の昔より、弥

      陀の浄土に往生安楽を願い、ひたすら念仏を称え三昧にひたる常行三昧(阿弥陀様の周囲を念仏を唱えながら修行する)が行われてきた御堂内部に

      は、有名な船底天井及び壁画は、金胎曼荼羅・二十五菩薩・飛天雲中供養菩薩(楽器を奏でる菩薩像)・宝相華(極楽の花園の図)などの極彩色の絵で

      包まれ、あたかも極楽浄土をそのまま表しています。

 

 

 

 

      

      境内の南に位置する朱雀門      

 

 

 

 

 

      

      往生極楽院の南側に佇むわらべ地蔵        

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      有清園を抜け、さらに東側に広がる境内を回ります。 

 

 

 

 

 

             

             まず最初に左手に佇む妙音福寿大弁財天が見えてまいります。  

 

 

 

 

 

             

             京の七福神 妙音福寿大弁財天 とても優しいお顔をなされております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

             金色不動堂の前の階段を登りますと観音堂があります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

      こちらには、一万体を優に超える観音様が信者の皆様から奉納されており、今なお増え続けております。 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      観音堂の左手に広がる、二十五菩薩石庭は、中根庭園研究所が手掛けられました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      金色不動堂の横を抜け後方の庭園に進みます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      三千院の最北に建つ売炭翁石仏 

 

 

 

 

 

      

      石仏は、律川の北側に建ちます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      順路に沿い進みますと、六月に満開を迎える紫陽花園を通ります。 

 

 

 

 

 

             

             紫陽花園を抜けますと弁天像の横に出てまいります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

      境内をゆっくり回りますと約1時間所要いたします。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      門前では、これから最盛期を迎える千枚漬けの実演販売を行っておられました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      三千院の南側を流れる呂川 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

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大原 実光院 秋紅葉 11/29/2011

2011年12月16日 | 洛外 大原方面

      

      宝泉院の南側に位置する、実光院は魚山大原寺下院(ぎょざんたいげんじ)の本堂・勝林院の僧院とあります。勝林院は、長和二年(1013)に慈覚大

      師円仁(天台宗の入唐求法僧・中国から仏教儀式音楽である声明を伝えた)の九代目の弟子寂源が、 天台声明を伝承するために建立した寺院であり、

      後に聖応大師良忍が来迎院を建立し、この地が天台声明の中心地となり、以後この二院を本堂として魚山大原寺と総称するようになりました。勝林院

      には実光院のほかに、宝泉院、普賢院、理覚院などの子院が建てられ、歴代の住職は日々天台声明の研鑽に励んでまいりました。

 

 

 

 

 

      

      実光院ははじめ隣の大原陵(後鳥羽天皇・順徳天皇陵)の地にありましたが、大正八年に普賢院と理覚院を併合し、普賢院跡地である現在地に移転

      いたしました。 

 

 

 

 

 

      

      庫裡の玄関を入りますと、客殿の西側に広がる庭園が、目に飛び込んでまいります。 

 

 

 

 

 

      

      玄関の左手が、客殿になっており客殿南側には、池泉観賞式庭園が望めます。 

 

 

 

 

 

      

      現在の客殿は、大正十年に建てられたものであり、(庫裡は江戸末のものを移築)欄間の三十六詩仙画像は、江戸時代中期の狩野派の画家の筆であ

      ります。床の間を始め、各所に楽器が陳列してあるが、これらはいずれも声明研究の一助にと歴代住職が収集したものであるとの説明があります。     

 

 

 

 

 

 

      

      庭園は、旧普賢院庭園(契心園けいしんえん)客殿の南に広がる池泉観賞式の庭園となっており、江戸時代後期の作庭とされております。心字の池に

      律川から導いた滝の水が流れ落ち、滝口の近くには蓬莱石の石組があります。 築山の松は鶴を、池の島は亀を表象しており、また、築山には石造の

      五重塔を配置し、池のこちら側を俗世間、向こう側を仏の浄土に見立てております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      客殿でお抹茶を頂きながら南庭園を鑑賞した後は、庫裡からスリッパを履き西庭園に出ることが出来ます。 

 

 

 

 

 

      

      西庭園は、 旧理覚院庭園を再興したもので、客殿の西側一帯にある池泉回遊式庭園となっております。理覚院が廃寺となり実光院に併合された後、

      荒廃していた土地を近年前住職が作庭したものだそうです。中央にはひょうたん池があり、配置してある石の多くは寺領の山や谷から運びこんだもの

      で、西の金毘羅山や小塩山を借景に取り入れるために庭木を低く仕立てており、極めて解放的な明るい印象を与えております。

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      庭園の中央にある不断桜は、例年初秋より翌年の春まで花を咲かせる珍しい品種で、秋の紅葉の季節には観桜と紅葉狩りが一度に楽しめます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庭園の西北隅にある茶室「理覚庵(りかくあん)」は、前住職の設計によって昭和50年に建てられたもので、桧の変木床柱を始め、材木のほとんどは実

      光院領の山林から調達したものだそうです。 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

             

             茶室前の蹲踞 

 

 

 

 

 

      

      茶室前のこちらにも不断桜が花を咲かせております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

              理覚庵

 

 

 

 

 

      

      石垣の向こうに三千院の庫裡が見えます。 

 

 

 

 

 

      

      三千院北側を流れる律川 

 

 

 

 

 

      

      石垣の先に三千院の御殿門が見えてまいります。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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大原 宝泉院 秋紅葉 11/29/2011

2011年12月14日 | 洛外 大原方面

      

      大原三千院門跡界隈は、この時期大変に賑わっておりますが、平日の午前中と云う事もあり、思ったほどの人出もなくスムーズに回ることが出来ました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      参道を進みますと、右手に三千院の御殿門を見つつさらに突き当りまで進みます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

             

             三千院門跡の北側を流れる律川 

 

 

 

 

 

      

      律川に架かる橋を渡り、正面に勝林院を見ながら、参道右手に有る天皇陵です。 後鳥羽天皇と順徳天皇が祀られております。

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      天皇陵の正面の山々と手前、実光院の屋根。 正面の山の左裾野に寂光院があります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      京都を囲む三山には、どこに行っても歴代の天皇陵に出会う事が出来ます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

      

 

      

      実光院の白壁。

 

 

 

 

 

      

      天皇陵の北側に位置する法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年(1240)

      に建立されました。享保二十一年(1736)類焼いたし現在の堂宇は、安永年度(1764~)に再興されております。 御本尊には、普賢菩薩を祀ります。  

 

 

 

 

      

      勝林院・本堂  平安時代の847年に唐から帰朝した慈覚大師円仁は、中国仏教の伝統的な儀式音楽である声明音律業(声明 しょうみょう)を日

      本に伝え、その後弟子たちにより比叡山に伝承されてきました。そして、平安中期の1013年に慈覚大師の九代目の弟子・大原入道こと寂源上人が、

      この大原に声明道場として大原寺(現在の勝林院)を建立しました。 1186年(文治2年)には顕真と法然との宗論(いわゆる大原問答 念仏により極

      楽往生ができるかどうかの問答のとき、大光明を放たれて念仏衆生摂取不拾の証拠を現わされたという)で、ともに如来が証拠に立たれたところから、

      証拠阿弥陀如来と称し、この堂を証拠堂と呼んでいます。江戸時代には4坊(理覚坊・実光坊・法泉坊・普暁坊)がありましたが、現在は宝泉院・実光

      院の二院が残るのみとなりました。

 

     

 

 

 

      

      本堂の中心に祀られている本尊・阿弥陀如来像は、平安中期の仏師康尚の作といわれております。現在は、本堂のみが残っており境内の規模も入り

      口から見渡せるため、中に入る方も少なく、勝林院左手の宝泉院に向かわれます。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      勝林院左手(西側)の宝泉院への参道 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      宝泉院の入り口から見た勝林院の本堂。

 

 

 

 

 

 

      

      宝泉院(ほうせんいん)は、1012年寂源が大原寺(勝林院)を創建し、その住職の坊として平安末期頃よりの歴史をもち現在に至っております。

 

 

 

 

 

 

      

      正面に見ますのが、樹齢600年以上と言われる宝泉院を代表する五葉松(近江富士)です。

 

 

 

 

 

 

             

             宝楽園庭園は平成17年3月に宝泉院境内南側の低地に 新しく誕生した庭で、(仏神岩組雲海流水回遊花庭)を

             趣向し、地球太古の創世に遡り、その原初の海を創造した庭園です。作庭は長野県に本拠を置く、造園の園冶(え

             んや)庭園研究企画創作所─空間総合プロデューサーとなっております。

              

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      庭園北側の築山や橋の石組に使用されている銀石は、金属の輝きを思わせる三波峡の石を使用しております。  三波石峡(さんばせききょう)は、

      神流川上流に位置し、群馬県から埼玉県に跨る景勝地です。また、緑色の結晶片岩は石英が緑色の紋様を示し非常に高価な庭石としても重宝されて

      おり(三波石 さんばせき)と呼ばれております。  天橋立玄海のぞき橋  

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

             海の濁流を表現した白川砂は、夜半にその砂に月光が照り映えて、銀砂幽玄の世界がそこに現れるそうです。

              

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      庭園中央にある三尊石は、東北の念珠関から運ばれてきた念珠石で、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩の来迎の姿を表した岩組みになっております。

 

 

 

 

 

 

             

             環状列石蹲い(つくばい) 古代先人仏舎利を表現した、蹲踞 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

             四季折々の花木が配置されており百花繚乱と言われる庭園です。

 

 

 

 

 

 

             

      

 

 

 

 

 

 

             

             宝楽園を回り、石畳正面が、書院への玄関口になります。 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      玄関を入りすぐ右手にあるお部屋です。宝泉院は四方を庭に囲まれており、どの部屋からでもそれぞれの庭園を鑑賞することができます。 

 

 

 

 

 

      

      こちらの庭園は、玄関の左手にある鶴亀庭園です。江戸中期の作で、部屋の中から格子ごしに観賞する庭園で池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木

      を蓬莱山とみる名園と云われております。 この庭園も園冶の修復、管理と説明されております。

 

 

 

 

 

 

      

      本堂の右手のお茶室からみるお庭の景色です。 

 

 

 

 

 

      

      額縁庭園 客殿の西方にあり右手に御本尊が祀られる本堂の柱と柱の空間を額に見立て観賞する庭園です。 庭の名前を盤桓園(ばんかん)と言い

      立ち去りがたい庭園という意味だそうです。 拝観料にお抹茶代が含まれておりますので、毛氈に座り待っておりますと、御茶菓子と共に運んできてく

      ださいます。

 

 

 

 

 

 

      

      庭園南側に鎮座する樹齢6百年を誇る五葉松

 

 

 

 

 

 

      

      西側庭園の右手の軒先のつくばいにある水琴窟  竹筒に耳を傾けますと心地よい水の音色が響きます。

 

 

 

 

 

 

      

      この時期は、本来ですと右手のモミジが燃えるような紅色に染まっているはずなのですが、今年は色づきが遅く葉先が枯れ始めておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

             血天井  慶長五年(1600)関が原合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中

             で自刃し、その武将たちの霊をなぐさめ、供養のために、自刃した場所のものを天井にして祀ったものです。 

             鷹峰の源光庵の本堂にも同じものがあります。
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

      

      本堂東側のこちらが、本来の玄関になります。 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      玄関横の花器には、いつも可愛らしい花が活けて有ります。 

 

 

 

 

 

             

             山門前 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      宝泉院を後にして、石垣の右手の実光院に寄って行きます。 

 

 

 

 

 

 

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大原 古知谷阿弥陀寺 秋紅葉 11/29/2011 

2011年12月11日 | 洛外 大原方面

      

      阿弥陀寺(あみだじ)は、京都市左京区大原の北側に位置する古知谷(こちだに)にある浄土宗知恩院派の寺院で、山号は光明山、院号は法国院と

      云いますが、一般には古知谷阿弥陀寺として知られております。 

 

 

 

 

 

      

      1609年(慶長14年)3月、弾誓(たんぜい)上人が開山した念仏道場です。弾誓上人は尾張国の出身で、9歳の折りに自ら出家され美濃国塚尾の観音

      堂に参籠し、さらに同国武芸の山奥において念仏三昧、二十余年の修業を積まれ、その後、諸国を行脚して苦行修行を重ねた末、ようやく時節が到来

      し、最後の修業の地の古知谷に赴きました。 

 

 

 

 

      

      古知谷に入った上人は、岩穴に住して念仏三昧の日々を送っておりましたが、近江国の人達との御縁でこの地に一寺を建立し、御本尊として人間とし

      ての理想像を草刈り鎌にて刻み、自身の頭髪を植え、これを本尊として本堂に安置し寺の名を「光明山 法国院 阿弥陀寺」と付けました。しかし、阿

      弥陀寺に在住して4年後の1613年(慶長18年)5月23日に、当寺の本堂脇の巌窟内で即身仏となられました。その後、弾誓上人のミイラ化した遺体は

      石棺に納められ、巌窟内の石廟に安置されて現在にいたっております。

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門は、下層を白漆喰塗り込めとした中国風の楼門が建ち、門前の石柱には「弾誓仏一流本山」の石碑が建ちます。当寺は阿弥陀とともに弾誓像を

      本尊として安置することから「弾誓仏一流本山」と称しております。 

 

 

 

 

      

      この弾誓上人におくれること百年、近江国平子山にあって念仏三昧を続けていた澄禅上人(ちょうぜん)は、弾誓上人の行跡を慕って当山に入り、本坊

      から四町ほど上の岩穴にて常座不臥称名念仏すること5年の後の1721年2月4日に70歳で入定されておられます。 

 

        

 

 

 

      

      山門から歩くこと500m程登った所に本坊が見えてまいります。車の方は上まで登って行けます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      石組の山肌に建つ瑞雲閣 

 

 

 

 

 

 

               

               樹齢800年以上と云われる古知谷カエデ 

 

 

 

 

 

      

      こちらのタカオカエデは、寺の伝えによりますと弾誓上人が阿弥陀寺を開かれた時にはすでに古木となっており、阿弥陀寺周辺の古知谷は紅葉の名

      所としても知られておりますが、その中でも最大のものといわれており、昭和56年6月1日に京都市の指定天然記念物にしていされております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      受付で拝観料を払い境内に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

      山腹にある寺院なので、紅葉がもっと進んでいると思っておりましたが、太陽の当たり具合が悪いのかもしれませんね。       

 

 

 

 

 

      

      本堂左手の書院玄関より上がらせていただきます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      石廟 この巌窟は、上人が入定される一年前に修行中の僧らに頼んで掘らせた物で、上人は石棺の真下に掘ってある二重の石龕(せきがん)に生き

      ながら入られ「ミイラ佛」となられました。明治15年にこの石棺が収められるとき、「ミイラ佛」も下よりお出しして現在この石棺に収められております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      宝物殿には、上人の所持品や、有栖川・閑院など各宮家から賜った品々が収納されております。 

 

 

 

 

 

               

               宝物館前の坪庭 

 

 

 

 

 

      

      本堂より 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂には開山弾誓の像(弾誓が自らの毛髪を埋め込んだ自作の植髪像と伝える)を本尊として安置しており、浄土宗寺院では一般に阿弥陀如来を本

      尊といたしますが、本尊の右側に木造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)が安置されております。

 

 

 

 

 

      

      日当たりが悪いのか、この時期にしてまだ紅葉していない樹も見られます。       

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      本堂前の船石 

 

 

 

 

 

      

      五智如来像  五智如来(ごちにょらい)とは、五大如来ともいい、密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の

      如来にあてはめたものだそうで、金剛界五仏のことだそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂右手の梵鐘 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      瑞雲閣  瑞雲閣前に置かれた石塔は、燈籠の笠と台座の部分だそうですが、なぜ真ん中が抜けているのかは分からないそうです。

 

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      大原の山並みも綺麗に紅葉いたしておりました。これから三千院に向かいます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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高台寺 秋紅葉ライトアップ 11/27/2011

2011年12月08日 | 洛東 東山 清水寺方面

      

      鷲峰山(じゅぶざん)高台寺(臨済宗建仁寺派) 東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にあり、正しくは高台寿聖禅寺といいます。豊臣

      秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺です。寛永元年(1624)

      7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号しました。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なった

      ので寺観は壮麗をきわめたといわれております。

 

 

 

   

      

      現在旧持仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定されており、 秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、

      北政所像の下はその墓所となっております。開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられております。尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正

      16年(1588)に従一位に序せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日、76才で亡くなられました。  

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

                「湖月庵」茶室

 

 

 

 

 

      

      「遺芳庵」茶室 灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席であり、鬼瓦席と共に高台寺を代表する茶席として知られております。 右に軒先が見えるのが

      鬼瓦席です。

 

 

 

 

 

 

      

      遺芳庵の南側にある書院と北庭園

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      書院から開山堂に続く回廊 

 

 

 

 

 

 

      

      方丈庭園 右手に勅使門、昼間ですと正面に霊山観音が望めます。 今年の方丈庭園のテーマは、双龍です。震災や台風被害、今年起こった様々な

      不幸な出来事から立ち上がる願いを双龍に込められて描かれていると思います。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      開山堂 高台寺第一世の住持、三江紹益禅師(1527-1650)を祀る塔所であり、左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安

      置されております。礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船の天井が用いられております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               開山堂の東の高台に建つ霊屋 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

                開山堂の東側に広がる臥龍池
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      開山堂の西側、偃月池(えんげつち)に架かる観月台  偃月とは、半円形の月。半月。弓張り月のことをさします。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       臥龍池に架かる臥龍廊は、開山堂と霊屋を繋ぎます。

 

 

 

 

 

      

      霊屋(おたまや)北政所の墓所、秀吉と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置しております。須弥壇や厨子には、

      華麗な蒔絵が施され世に高台寺蒔絵と称され桃山時代の漆工芸美術の粋を集めているものです。

 

 

 

 

 

      

      笠亭(左)と時雨亭 利休の意匠による茶席であり伏見城から移建したものです。傘亭は竹と丸木が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えるこ

      とからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれております。時雨亭とは土間廊下でつながっております。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      笠亭と時雨亭は、高台寺の中で一番の高台にあり、これから竹林を通り開山堂の前まで戻ります。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       開山堂の中門前にあるお茶席の雲居庵です。

 

 

 

 

 

      

      勅使門の前に出る出口です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門を下りますと、ねねの道に出、塔頭の圓徳院の玄関があります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      梵鐘が幻想的に浮かび上がっておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      八坂の五重塔と云われる塔は、霊応山法観寺と号し、聖徳太子が創建したと伝えられる臨済宗建仁寺派に属する寺院です。法観寺五重塔(高さ36.

      4m)は、室町時代の永享十二年(1440)に足利義則が再建したものです。

 

 

 

 

 

      

      高台寺の南側の清水寺の三重塔 

 

 

 

 

 

 



 

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青蓮院門跡 秋紅葉ライトアップ 11/27/2011  

2011年12月08日 | 洛東 東山 清水寺方面

      

      青蓮院門跡では、毎年春と秋に、夜の特別拝観、ライトアップを開催しております。

      長屋門 拝観入口の手前右手に建つ門で、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したものです。門前には名木「楠」が五本あり、親鸞聖人御手植

      と伝えられております。京都市の登録天然記念物指定他として多数の指定を受けております。

 

 

 

      

      既に恒例となっておりますが、一体何故青蓮院で夜の特別拝観を実施するのでしょうか。(青蓮院ホームページより)

      ご本尊の熾盛光如来は、光そのものであり、その化身の不動明王(国宝青不動明王を祀る)も炎の光を背負っておられ、当院は光との関係が大変深

      くなっております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

 

      

      夜間拝観は、お昼の拝観順路と異なり、まず大玄関から宸殿に向かいます。

 

 

 

 

 

      

      青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都五箇室門跡の一つ

      に数えられています。青蓮院門跡は、古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院(門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきたお寺

      のこと。) 天台宗の三門跡寺院…青蓮院、三千院、妙法院  五箇室…青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡となって

      おります。なお、「一隅を照らす」の文字は、比叡山に建つ石碑に刻まれている文字です。

 

 

 

 

      

       闇に浮かんでは消える木々や花々の幽玄な世界、光の中で雄大な力を感じる天然記念物の大クスノキ5本、青く光る静清な竹林、一面の苔庭の海

      に浮かぶ光の星。皆様お1人お1人の光がご本尊の功力によって、夜空に光のたばとなって駆け上がり世の中を明るく照らしていただきたいとの願い

      を込めております。

 

 

 

 


      

      宸殿前の庭園では、数十秒ごとにLEDが点滅を繰り返し幻想的な景色を醸し出しております。

 

 

 

 

 

 

      

      青蓮院は、応仁の乱の際、兵火を免れず、徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられましたが、相阿弥の作と伝えられる龍心池を中

      心とする室町時代以来の庭園から粟田山将軍塚にわたる境内は今日まで保有され、徳川幕府も殿舎の造営には力を致して東福門院の旧殿を移して

      宸殿を造りました。
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      宸殿には、元三慈恵大師像と慈鎮和尚像が祀られております。

 

 

 

 

 

      

      宸殿から小御所の廊下より

 

 

 

 

 

      


      宸殿から小御所に架かる廊下にある一文字手水鉢は、太閤秀吉の寄進したものと書かれております。

 

 

 

 

      

      小御所

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      小御所から華頂殿に移動しますと、おなじみの蓮の襖絵が鮮やかに目に飛び込んでまいります。 夜間拝観中は、華頂殿は有料のお茶席になって

      おります。

 

 

 

 

 

               

                

 

 

 

 

 

               

               華頂殿には売店があり、青蓮院の国宝「青不動明王」の軸なども販売なされております。

 

 

 

 

 

      

      華頂殿玄関で靴を履き庭園へと向かいます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      小御所への廊下の下を潜りぬけますと、相阿弥の作と伝えられる龍心池の前に出ます。 こちらの庭園のライトアップも10秒程度で点滅を繰り返し、暗

      闇から浮かび上るる紅葉や竹林が幻想的に演出されております。

  

 

 

 

 

     

      

      龍心池 花崗岩の切石二枚で作られた、半円形の反りの美しい石橋を跨龍橋と呼び、滝を洗心滝と云います。龍心池の中央には二千貫に近い大石

      があり、あたかも沐浴する龍の背のようにみえるそうです。

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      華頂殿の東側庭園も小堀遠州作で霧島の庭と名付けられております。 好文亭裏側山裾斜面から一面に霧島つつじが植えてあり、五月の連休の頃、

      一面を真っ赤に染めることから、霧島の庭とも云います。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      こちらは、昨年の同じ時期に伺った時の写真ですが、色付き具合が全然違い今年の温かさを象徴しております。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      霧島の庭に佇む好文亭 後桜町上皇が当院を仮御所として御使用の際、お使いになったご学問所であり、明治以降茶室として活用しておりましたが

      放火により平成五年に焼失しいたしました。現在の建物は平成七年秋に復旧落慶したものです。本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に木

      材等の材質も全く同じ、工法も同じで、完全復元された本格的数寄屋造となっており、障壁画十三画は上村淳之画伯の御奉納による花鳥図です。
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      好文亭前から見る小御所 平安時代末は門主の居間でありましたが、後櫻町上皇が当院を仮御所としてお使いの際上皇もご使用になった建物です。

      但し明治に焼失した為、江戸中期の建物を移築しております。

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      好文亭玄関 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      好文亭前を進みますと幻想的な竹林の前に出ます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      竹林を左に登った所にある日吉社       

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      宸殿前の庭園に面し、小御所の南側に位置する本堂の東側には、国宝の青不動画像(複製写真)が安置され、堂内の厨子にはご本尊「熾盛光如来(し

      じょうこう)」の曼荼羅が安置(秘仏)され、本堂の東裏にはその他、不動明王木像、薬師如来及び日光月光菩薩・十二神将像、歓喜天像、毘沙門天像

      も安置されております。

 

 

 

 

 

      

      宸殿前庭園 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庭園南西角にある梵鐘 

 

 

 

 

 

      

      左手勅使門と右手宸殿 

 

 

 

 

 

               

               正面が本堂です。 

 

 

 

 

               

               勅使門横に建つ親鸞聖人の幼少期の像、浄土真宗の祖親鸞聖人は、慈圓門主のもとで得度したため、青蓮院は

               同宗の聖地の一つとなっており、得度の時の馬を繋いだと云われる場所に像は建っております。なお、親鸞聖人の

               得度の折、剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が、境内北側にあります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 



 

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洛西小塩山 十輪寺 秋紅葉 11/28/2011

2011年12月04日 | 洛西 大原野方面

      

      小塩山・十輪寺は、善峰寺の2キロほど手前に位置し天台宗の古刹です。寺は、嘉祥3年(850)文徳天皇のお后、染殿(そめどの)皇后(藤原明子:

      ふじはらあきらけいこ)の世継ぎ誕生を祈願のため、伝教大師作の延命地蔵菩薩を安置したのが始まりです。

      

 

 

 

 

             

      

      平安時代の歌人で、「伊勢物語」の主人公の在原業平氏が晩年閑居され、塩焼きの風情を楽しんだと言う、塩がまの旧跡と宝篋印塔があります。

      毎年5月28日は業平忌三弦法要が営まれ、三味線に合わせてお経を唱え、京舞や生け花などが奉納されます。又、花山法皇が西国観音霊場を再

      興された時に背負った草分観音が安置されております。6月第3日曜日午後1時より「声明と三弦を聞く会」8月23日本尊地蔵尊秘仏ご開帳午前10

      時から、11月23日午後1時より「塩がま清めの祀り」が行われます。 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂は、創建当時の伽藍は応仁の乱で焼失してしまい、現存のものは寛延3年(1750)に再建されたものです。屋根は鳳輦形(ほうれんがた)という

      御輿をカタチどった非常に珍しい形になっており、内部天井の彫刻も手前が神社風で、奥側が寺風という意匠が施されております。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      ご本尊は、伝教大師が作られた延命地蔵菩薩が祀られ等身大木像の坐像で、お腹に巻かれた腹帯で染殿皇后が安産されたことから腹帯地蔵尊とも

      呼ばれていて、子授けや安産を願う人達の厚い信仰をあつめています。本尊は秘仏となっており年一回8月23日がご開帳日となります。

 

 

 

 

 

                   

                   なお、寺宝には花山天皇が観音霊場巡拝の際に、背負ったという観音もまつられております。

 

 

 

 

    

      

      本堂前に建つ鐘は「不迷梵鐘 まよわずのかね」と云われ、1666年の作とあります。

 

 

 

 

 

      

      本堂の左手から裏山に上る道があり業平の墓と、業平が設けた塩竃跡があります。

 

 

 

 

 

       

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

      

      十輪寺の駐車場にある銀杏が彩をそえております。

 

 

 

 

       

      

      独特のカーブを描く本堂屋根

 

 

 

 

    

      

 

 

 

 

 

 

      

      左下に業平氏の墓石が佇みます。

 

 

 

 

 

      

      在原業平(ありはらなりひら)は、当時、勢いを増してきた藤原氏に抑えられ、政治的には不遇の日々をおくっていたようです。50歳過ぎからこの十輪寺

      に住み始めたと云われており、当時貴族の間で流行っていた風流な野遊びの一種に塩焼きで業平も優雅な生活を惜しむ気持ちがあったのかも知れませ。 

 

 

 

 

 

               

               塩竃は、直径5メートルほどの窪地の中で、周囲は円形にしめ縄が張り巡らしてあり、毎年11月23日に業平を偲

               んで塩焼きが再現され、この日は大原野の里に、かっての日のように紫の煙がたなびきます。

 

 

 

 

 

      

      「小塩」という地名は、この塩焼きにちなんで付けられたと云われ、遠く難波津(大阪)から運んできた海水を溜めたと伝えられる汐汲池が飛び地境内に

      あります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      在原業平は、父が平城天皇の皇子である阿保親王で、母は桓武天皇の皇女である伊都内親王と天皇家に縁のある家柄に825年に誕生誕生し880

      年5月28日、56歳で死去いたしております。十輪寺では毎年、命日にあたる5月28日、業平をしのぶ「業平忌三弦法要」が行われます。現在、この墓は

      恋愛・結婚成就にご利益があるとされ、多くの女性が訪れているそうです。

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂前の大樟樹

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

                    

                    御本尊の前には、スリランカ釈迦仏が安置されております。

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      「三方普感の庭 さんぽうふかん」は、1750年右大臣藤原常雅公が本堂を再興した時に造られたもので、高廊下、茶室、業平御殿三カ所から場所を

      変え、見る人に様々な思いを感じさせるいわば「心の庭」と説明されております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      茶室 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

      玄関 

 

 

 

 

 

      

      ここ十輪寺は、スリランカの寺院と縁があり僧侶が修行に来ていたりとか、スリランカの写真やお面なども飾られています。

 

 

 

 

 

            

            襖絵は、明治の廃仏毀釈によって失われておりましたが、大阪在住の黒田正夕画伯によって復元されました。三十

            二面にわたる豪華絢爛たる極彩色の王朝絵巻になっております。

 

 

 

                

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               都名所図絵に残る旧十輪寺風景

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      駐車場は、10台以上停められます。善峰寺の行きか帰りに立ち寄ってみてください。 

 

 

 

 

 

 

 

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西山宮門跡 善峰寺 秋紅葉 11/28/2011

2011年12月03日 | 洛南 

      

      善峯寺(よしみねでら)は、京都市西京区にある寺院で、山号は西山と云い西国三十三箇所観音霊場札所の第20番になっており、善峰観音宗という

      天台宗系の単立寺院になります。 秋の紅葉の時期には、西山三山の大原野「善峯寺」、長岡京市粟生の「光明寺」、長岡京市浄土谷の「柳谷観音

      楊谷寺」と観光客で賑わっております。バスやタクシーでお越しの方は、こちらの参道を上って行かれますが、お車の方は、山門近くの駐車場まで上る

      ことが出来ます。

 

 

 

 

     

      

      寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によりますと、長元2年(1029年)、源信の弟子にあたる源算が創建したといわれ、その後、長元7年(10

      34年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜ったとあります。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜った

      ことによって寺号が善峯寺と改められました。青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」とも呼ばれておりました。室町時代には、後花園天

      皇が伽藍を改築され、僧坊52の多さにおよびましたが、応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから徳川五代将軍綱吉の

      生母・桂昌院の寄進によって再興されました。 寺宝館の文殊堂の下が駐車場になっております。

 

 

 

 

     

      

      山門や本堂は元禄5年(1692年)、山内最古の建物である多宝塔は元和7年(1621年)の建立で、他の諸堂宇も大部分は江戸時代の建立とされてお

      り、桂昌院の援助で整備されたものと説明されております。

 

 

 

 

       

      

      1692年に桂昌院により再建されたもので、楼上の本尊・文殊菩薩と両脇の金剛力士像は運慶作で源頼朝公が寄進されたものと伝わります。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門を潜り正面の階段を登りますと本堂が建っております。

 

 

 

 

 

      

      本堂は、観音堂とも呼ばれ、山門と同じ1692年の再建で、本尊の十一面千手観音菩薩像は仁弘法師の作と云われます。脇立ちにも十一面千手観

      音菩薩像がありこちらは、源算上人の作とあり、洛西三十三ケ所第一番の本尊と説明されております。 

 

 

 

 

 

 

      

 

      

      本堂前の休憩所には、西国三十三ケ寺の観音像が並び、横には賓頭盧さんが鎮座しております。

 

 

 

 

       

      

      本堂右手には、弘法大師の修業像が建ちます。

 

 

 

 

      

               

               拝観順路に従い本堂右手の階段を進みます。

 

 

 

 

                    

                   こちらの庭園は、7代目小川冶兵衛作の回遊式庭園になっており、一周いたしますのに

                   約40分かかります。 

 

 

               

      

       階段の中ほどを右に進みますと鐘楼があります。

 

 

 

 

 

      

       つりがね堂を呼ばれ、1695年の建立で「厄除けの鐘」と云われており、桂昌院が五代将軍綱吉公の厄除けの為に寄進されたものです。

 

 

 

 

 

      

       つりがね堂から見る多宝塔と不動明王五大尊を祀る護摩堂の屋根

 

 

 

 

 

               

               つりがね堂横の階段を上がりますと、多宝塔と経堂が建ち、手前から左手に伸びる「遊龍の松」があります。

 

 

 

 

 

      

      この松は、天然記念物に指定されており、樹齢600年の五葉松で、1857年花山前右大臣家厚公がその名を「遊龍」と名付けられ、標石には明治2

      6年、鳥尾中将の書が刻まれ元は全長54mありましたが、平成6年松くい虫の被害に会い15メートル余りに切られ現在に至っておりますが、「日本一

      の松」とされております。

 

 

 

 

       

      

      多宝塔後方の宝筐印塔 

 

 

 

 

 

      

      遊龍の松の幹です。右手と左手に伸びております。 

 

 

 

 

 

     

      

      遊龍の松を左手に進みますと遠方に比叡山が望める開山堂に出ます。正面の一番高い頂が比叡山山頂です。

 

 

 

 

 

      

      開山堂も1692年の建立で源算上人117歳のお姿を祀っており、上人より長寿の御利益が受けられるかもしれません?

 

 

 

 

       

      

      開山堂の裏手には、梅雨時に満開を迎える紫陽花園が広がります。 左手には、幸せ地蔵が安置されております。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

                

      

       開山堂前から五葉松、護摩堂方面です。

 

 

 

 

 

      

       こちらのお地蔵様は、約300年前より桂昌院が自分以外の幸せを願い拝まれたものと云われております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

                地蔵前の坂道を登りますと、右手の十三仏堂と左手に宝筐印塔と桂昌院廟があります。

 

 

 

 

 

      

      宝筐印塔と御廟の門 

 

 

 

 

 

      

       御廟から眼下の開山堂

 

 

 

 

 

      

      桂昌院廟

 

 

 

 

 

      

       多宝塔

 

 

 

 

 

      

       多宝塔と並ぶ経堂

 

 

 

 

 

      

       右手、宝筐印塔

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       経堂

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      釈迦堂

 

 

 

 

 

      

      釈迦堂の建立時期は、大変新しく明治18年だそうです。本尊は、石仏釈迦如来像で開山の源算上人の作で、明治初年まで釈迦岳に安置されており

      ましたが、信者の崇拝篤く、明治13年に下山を乞うたそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      釈迦堂からさらに坂道を登り善峰寺の最高部の薬師堂に向かいます。

 

 

 

 

       

      

      阿弥陀堂を眼下にし進みます。 花梨の実の様でしたが分かりませんでした。

 

 

 

 

  

        

      

 

 

 

 

 

      

      稲荷前のもみじです。

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      薬師堂への階段です。相当高いところまで登っていました。

 

 

 

 

 

     

     薬師堂の階段を進む前に、階段左手にあるけいしょう殿にお参りします。

 

 

 

 

 

               

               見晴らしの良い景勝の地で桂昌院を祀ってあり、ひらがなで表示してある意味が分かりました。

 

 

 

 

                

      

      薬師堂は、1701年に建立され、桂昌院の両親が祈願なされた開運出世のお薬師さまが祀られております。 なお、桂昌院の俗名のお玉の方に因ん

      で「玉の輿」に乗るのを願う参拝者が多いとあります。

 

 

 

 

   

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      薬師堂の裏手の庭園は、「蓮華寿院庭」と云われ青蓮院門跡よりお移りになった宮様の住坊旧跡の庭です。

 

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庭園のさらに奥に進みますと、聖観音菩薩像が建ち、さらに奥手には青蓮院の宮御廟がひっそりと佇んでおります。 

 

 

 

 

 

      

      青蓮院の宮御廟

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               御廟前からやっと下りに入ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

       

      

      石仏不動明王を祀っている青蓮の滝、滝の竿石は青蓮院門跡より拝受したものだそうです。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      先ほど通った稲荷前を下り正面の阿弥陀堂に進みます。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      阿弥陀堂は、1673年に建立され、本尊は宝冠阿弥陀如来を祀っており、常行三昧道場にて常行堂とも呼ばれます。堂内には、徳川家代々と善峰寺

      檀信徒の位牌が安置されております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

      阿弥陀堂から坂道を下った所に本坊があり、紅葉の期間中本坊の襖絵を献上した片岡鶴太郎展が開かれております。普段は拝観出来ないので入っ

      てみることにいたしました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      こちらのモミジは野村モミジと云い、新芽の時から紅色をしているモミジで、この時期は一層鮮やかな色に染まります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庭園の片隅に布袋さんが鎮座なされておられます。

 

 

 

 

 

      

      片岡鶴太郎作の襖絵が、この期間限定で本坊内を彩っております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

                  

 

            

            襖絵を奉納するにあたり書かれた「般若心経」 

            

 

           

 

            

 

 

 

 

 

      

      本坊の裏庭から 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本坊を出ますと正面に経蔵が建ちます。

 

 

 

 

 

      

      経蔵は1705年に建立され、祈願成就の絵馬堂になっており、桂昌院が鉄眼の一切経が納められております。 鉄眼一切経とは、仏教思想は三蔵に

      収まります。即ち釈尊が説かれた「経」と戒められた「律」及び釈尊とその弟子が「経・律」を解説した「諭」の3つで、つまり一切経6,956巻をいい、精神

      面はもとより、天文・人文・医術・薬学・人道など社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科事典とも言うべきものだそうです。

 

 

 

 

 

      

      経蔵横の桂昌院御手植えの枝垂れ桜の樹齢は、300年と云われております。 

 

 

 

 

 

      

      桜の木の下には、桂昌院がこよなく善峰寺を想い詠まれた歌碑があります。

 

 

 

 

      

      遊龍の松の先端部は、経蔵の前まで達しております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      一周40分とありましたが、1時間以上かけて回ってまいりました。大変見ごたえのある境内でした。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

              

              本堂の観音堂左手のお庭

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      寺宝館前から眺める山門

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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