京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

鷹峯 光悦寺 秋紅葉 12/01/2010

2010年12月30日 | 洛北 西部 鷹峯方面

  

  金閣寺や大徳寺の北側に位置し、鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む光悦寺は、日蓮宗の寺院に所属しております。









                     









  
  江戸時代の芸術家である本阿弥光悦に元和元年(1615年)に徳川家康がこの地を与えたと伝えられ、『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追
  い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったといわれておりました。この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落を形成し、光悦の
  死後に屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑が建っております。





                     









  









  









  









  









  
  境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在し、庫裏に接して妙秀庵があります。これらはいずれも
  大正時代以降に建てられた建物です。










                     









  
  大虚庵前の竹の垣根は光悦垣またはその姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ徐々に高さの変る独特の形状をいたしております。







  
  さすがに12月ともなりますと、ここの紅葉はほとんど散ってしまっていました。








  
  大虚庵 竹垣の西側茶室で、光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称でありますが、現在ある大虚庵は大正4年(1915年)に新たに建てられたもので、道具
  商・土橋嘉兵衛の寄付と云われており、速水宗汲の設計だそうです。ただし、建設後に光悦会によって改造されており、正面入口の貴人口(障子3枚
  立て)がにじり口に変更されたほか、間取りも当初の三畳台目から四畳+二台目に変わっております。





  
  大虚庵の東側に続く道です。








  









  
  本阿弥庵








  









                     









  
  本阿弥光悦の墓石(中央)右が光瑳、左が一族と表示されております。








  









  









  
  本堂前









                     
                     







  
  駐車場の生垣もモミジになっております。








  
  駐車場は、10台強しか停められませんので、シーズン中はご注意ください。








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御室 仁和寺 秋紅葉 12/01/2010

2010年12月29日 | 洛中 

  

  仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。 しかし翌年、光孝天
  皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成され、寺号も元号から仁和寺となりました。


  二王門  仁和寺の正面に建つ巨大な門。高さは18.7mで門正面の左右に阿吽の二王像、後面には唐獅子像を安置します。同時期に建立された知
  恩院三門、南禅寺三門が禅宗様の三門であったのに対し、平安時代の伝統を引く和様で統一されています。







  
  宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位され、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となってから、皇室出身者が仁和寺の代々門跡(住職)を務め、
  平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。 しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で
  焼失するという悲運に見舞われました。そんな中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに
  伝えられていきました。






  
  御殿入口  仁王門をくぐりすぐ左手に御殿の受け付けがあります。御殿には、白書院、宸殿、黒書院などが点在します。







  
  玄関正面








  









                   
                   白書院前の南庭








  
  白砂の向こう側が宸殿です。








  
  白書院  宸殿南庭の西側に建立されており、襖絵などは、昭和12年(1937年)に福永晴帆(1883〜1861)画伯による松の絵が部屋全体に描かれて
  います。






  
  南庭  宸殿の南側にあることから南庭と呼ばれており、庭内には左近の桜、右近の橘が植えられ、その前方に白砂と松や杉を配した、簡素の中に
  も趣のある庭といえます。







  
  勅使門  大正2年(1913年)に竣工され、設計は京都府技師であった亀岡末吉氏によるもので、檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋
  根を入母屋造としています。また、鳳凰の尾羽根や牡丹唐草、宝相華唐草文様や幾何学紋様など、細部にまで見られる彫刻装飾は、伝統的和様に
  亀岡独自の意匠を取り入れたもので、斬新かつ見応えがあります。








  








  
  白書院から右に宸殿、左に黒書院です。








  
  南庭と北庭を隔てる木塀です。








  
  北庭  宸殿の北側にあることから北庭と呼ばれ、南庭とは対照的な池泉式の雅な庭園です。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、そ
  の奥には中門や五重塔を望む事が出来ます。庭の制作年は不明ですが、元禄3年(1690年)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛
  によって整備され現在に至ります。









                   
                   飛濤亭 五重塔の手前に見える建物で、第119代光格天皇(1771〜1840)遺愛の席と伝
                   えられている茶室です。仁和寺第28世 深仁法親王(1759〜1807)は光格天皇の異母兄
                   にあたり、飛濤亭は宸殿北庭の築山にあり、内部は四畳半に台目がついた茶室と水屋の
                   間、勝手の間で構成され、入口は躙口のかわりに貴人口が設けられています。








  









  
  霊明殿  宸殿の北東にみえる霊明殿は、仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊 薬師如来坐像を安置する為に明治44年(1911年)に建立され
  ました。設計は亀岡末吉で、内部は正面に須弥壇を置き、小組の格天井をはじめ、蛙股の組物などの細部に至るまで見事な出来になっております。








  
  宸殿  儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、寛永年間に御所から下賜された常御殿がその役割を果たしていましたが、明治20年(1887年)
  に焼失。現在は大正3年(1914年)竣工されたものです。御所の紫宸殿と同様に内部は三室からなり、襖絵や壁などの絵は全て原在泉(1849〜1916)
  の手によるもので、四季の風物をはじめ、牡丹・雁などが見事に描かれています。






  









  
  宸殿から霊明殿に渡る廊下です。









  
  霊明殿から宸殿の眺めです。








  









  











                     









  
  仁王門








  









  









  
  勅使門








  









  
  中門









  
  毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室
  桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があります。古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。

  





  









                     









  
  五重塔 寛永21年(1644年)建立の塔は、塔身32.7m、総高36.18mあり、東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見
  られない姿が特徴的です。初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられます。塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安
  置され、中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが細部にまで描かれていま
  す。





  









  
  金堂(国宝) 仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂で、慶長年間造営の御所 内裏紫宸殿を寛永年間(1624〜43)に移築したものです。
  現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝えるの建築物として、国宝に指定されています。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には
  浄土図や観音図などが極彩色で描かれます。






  









  









  
  経蔵 金堂の右手にある建物で寛永〜正保年間の建立ました。内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六
  羅漢が描かれます。内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切
  経』が収められています。





                   










  
  鐘楼 「鐘楼」の「楼」とは元来二階建ての建物を指します。階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式と呼ばれる袴のような板張りの覆いが
  特徴的です。また、通常吊られた鐘は外から見ることが出来ますが、この鐘は周囲を板で覆われており見ることが出来ません





                     









  
  御影堂前の花梨の木  花梨の木は、弘法大師空海が唐から持ち帰って広まったものと伝えられております。







  









                   
                   御影堂前の御堂で行われていた護摩焚き
                   







  
  御影堂 鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置します。御影堂は、慶長年間造営の内裏 清涼殿の一部を賜
  り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用しています。






  
  御手水場








  










  
  観音堂 本尊は千手観音菩薩で、脇侍として不動明王・降三世明王、その周りには二十八部衆が安置され、須弥壇の背後や壁面、柱などには、白
  衣観音をはじめ仏・高僧などが極彩色で描かれています。内部は通常非公開とされ、現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用されています。





  
  帰り道、中門から眺めた仁王門です。








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大原野 金蔵寺  秋紅葉  11/30/2010

2010年12月23日 | 洛西 大原野方面

  

  天台宗 西岩倉山 金蔵寺(こんぞうじ) 小塩山の東南斜面の中腹にあり、大原野神社の南側、車で約15分車一台がやっと通れる様な細い山道を
  登った所に佇んでおります。徒歩で登りますと、最寄りのバス停から3キロ50分の行程になります。







  
  斜面に沿って堂宇が建ち並んでおり、奈良時代初期の養老2年(718)、天正天皇の勅命により隆豊(りゅうほう)禅師により創建され、その後、神亀5年
  (728)には聖武天皇から「金蔵寺」の勅額を賜り、さらに翌年には天皇が各地の霊山に「華厳・普門品」など経典を書写して埋めたときの一つの山に選
  ばれております。





                       









                     









                     









                     









  









  









  









  
  護摩堂








                     









  
  護摩堂奥の湧水








  









  
  護摩堂から向かい側に庫裡があります。








  
  左手の階段を登りますと本堂になります。






  
  本堂の御本尊は十一面千手観音菩薩像で、向日明神(幼名楠松丸で文武天皇の孫にあたる)と開祖隆豊禅師とが楠の木に天狗の爪で彫ったと伝え
  られております。







                     
                     登ってきた階段を見下ろしたところです。








  
  本堂の向かって右手の開祖隆豊禅師と歴代の僧師を祀る開山堂。








  









                     









  









  









                     









  









                     









  









  









                     
                     開山堂からさらに右手(東側)に進みますと祠に突き当たります。







  
  下の川弁財天を祀った祠の背後に聖武天皇経塚碑があります。








  









  









  









  
  下の川弁財天でUターンをし本堂の前に戻りさらに先に進みます。








  
  本堂に左手(西側)にある愛宕大権現堂。防火勝軍地蔵愛宕大権現といい、以前は火防の守護仏として愛宕神社の本尊でありましたが、明治3年5
  月の神仏分離令によって、金蔵寺に遷座いたしました。










  









  









  









  









  
  愛宕大権現堂からさらに進みますと桂昌院廟所がみえてまいります。桂昌院は、鎌足の末孫にあたり、寛永の初め6歳の時に父に連れられ金蔵寺な
  ど洛西の寺によく参詣してたといわれ、13歳の時、春日局に仕えて江戸城内で奉仕しているうち、家光の寵愛を得て綱吉を出産いたしました。幼少の
  頃の恩に報いるために金蔵寺の再建に尽力したと云われます。







  









  









                     









  
  庫裡と客殿








  









  
  左、本堂。








  









  









  









  
  人里から離れた山寺なので、観光客も少なく穴場的な紅葉の名所になっております。








  









  












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大原野神社 & 正法寺 秋紅葉 11/30/2010

2010年12月23日 | 洛西 大原野方面

  

  京都洛西に位置する大原野神社鎮座のあたりは古くから開けたところで、1万年以前の有柄尖頭器が神社の山の手から発見されている地域です。
  延歴3年(784)桓武天皇が都を奈良から長岡京(現向日市)に遷されたとき、天皇はしばしば大原野に遊んで鷹を放たれ、藤原氏の人や多くの供奉
  の人達はこの美しい風景を賞でて氏神春日大社の分霊を遷し祀ることにした事が当神社の起りと云われております。






  
  その後、約60年を経た嘉祥3年(850)に左大臣藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇は冬嗣長年の願望を想い出して、壮麗な社殿を造営されました。    
  






  
  大原野神社では、寿元年(851)に始めて勅祭がな行われ、春秋二季を例典とされるようになりました。はじめ藤原氏の一族では女が生まれると、中
  宮や皇后になれるように、この社に祈り、幸にして女が祈願通りの地位につくと美くしく行列を整えて参拝することが例となりました。なかでも寛弘2年
  (1005)3月8日に中宮彰子が本社に行啓、御父左大臣藤原道長、紫式部以下がお供をしたといわれ、その行列の絢爛さは、人々の眼をみはらせたと
  伝わっております。



                     









  
  鯉沢の池のほとりにある茶店








  
  奈良の、猿沢池にまねて造られた、鯉沢の池には5月下旬頃から杜若や水蓮の花が美しく咲き乱れます。







  









  









  









  









  









  









  









  









  









  
  拝殿








  
  拝殿前鹿の狛犬が左右を固めております。 拝殿に向かって右側が雄鹿で左側が角の無い雌鹿です。










  









  
  神殿は、春日大社と同じ様に建てられており、4柱の祭神がそれぞれ第一殿~第四殿に祀られております。   御本殿の第一殿には建御賀豆智命
  (たけみかづちのみこと)、第二殿には伊波比主命(いわいぬしのみこと)、第三殿には天之子八根命(あめのこやねのみこと)、第四殿には比賣(ひめ)
  大神が祀られ、鯉沢の池の東手にある摂社若宮社には天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀っております。





  
  古くから政治・方除・知恵の神として、また良縁を授けて下さる女の守護神としての信仰が篤い神社です。







  









  









  
  大原野神社を後にし、南側の正法寺に向かいます。













  
  大原野神社の南側(向い側)に位置する正法寺(しょうぼうじ)は、真言宗・東寺派の寺院で、奈良唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟、智威大徳 が
  隠世したのが始まりで、天平勝宝年間 の754年に創建されました。その後延暦年間(782年~806年)最澄がこの地に寺を建立したと伝えられ、弘仁
  年間(810年~824年)空海が入寺したといわれております。






  
  後に弘仁年間の時、弘法大師巡錫され四十二歳の厄除けのため、 聖観音を彫刻されました。  朱塗りの極楽橋を渡り坂を上ると右手に春日不動
  尊が迎えてくれます。






                     
                     大日如来のお使い役として、悪魔降服の任を担ってこの世に来られたのが不動明王です。
                     五大明王の中でも最も親しまれている仏様で、除災招福、家内安全、当病平癒、交通安全、
                     学業成就等に御利益があると云われております。








                     
                     不動尊を守る二対の阿吽像









  
  長岡京の氏神「大野野神社」の向いにある当寺 は、応仁の戦火て焼失しましたが、 元和元年(大阪城落城の年)、恵雲・微円の 両律師により再興
  され、西山のお大師さまとして古くから親しまれてきました。 拝観入り口






                     









  
  本堂前の石庭








  









                     
                     本堂前の大手水鉢は、江戸中期のもので旧大阪商人鴻池家伝来のものと書かれており
                     ます。






           
           三面千手観音が祀られている本堂








                     









  
  書院の庭園は、鳥獣の庭園といわれる宝生苑です。配置された石が動物に見えることから、こう呼ばれております。







  









                     
                     書院には大黒天が祀られております。こちらの大黒天は、右足を一歩踏み出した走り大国
                     さんです。一刻も早く衆生に福を授けんと走っておられる姿で、京都六大黒天の一つにあげ
                     られております。





  
  書院の南側に位置する千原池です。五月に伺った時にはエメラルド色の綺麗な池でしたが、季節と光のせいでしょうか?

           
           今年、五月に撮影したものです。








                     
                     愛染明王 室町時代の作で、敬愛和合の誓願として、夫婦和合、縁結びにご利益あらたか
                     と云われております。






  









  
  本堂正面の勅使門








                     
                     春日不動明王堂








                     
                     本堂前から春日不動明王堂に向かう途中にある清めの不動尊、ナウマク、サンマンダ、
                     バサラ、ダンカン、御真言を三回唱え水を掛けてお参りくださいとあります。






                     
                     不動明王堂にある水琴窟です。









  
  なんとも逞しい後姿です。









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大原野 勝持寺 秋紅葉 11/30/2010

2010年12月19日 | 洛西 大原野方面

  

  大原野神社からさらに山を登った所にある勝持寺(しょうじじ)は、天台宗の寺院で白鳳八(679)年に創建なされたと云われております。しかし、応仁
  の乱の兵火により全てが焼失し、現在の建物は乱後に再建されたものです。








  
  正式名称は、小塩山大原院勝持寺と称する古刹で、境内に数百本の桜の木があり花の寺とも呼ばれております。

  仁王門 応仁の兵火を免れた仁寿(851~853)の旧構を残す当寺最古の建造物です。大原野神社境内からの抜け道(近道)から当寺へ向かいますと、
  この仁王門 に出会えませんので表参道からおまいりください。
  




                      
                      大原野神社の駐車場に車を止め坂道を7、8分登ります。







                      
                      今回初めて伺ったので距離感がつかめず、愛宕さんを思い出してしまいましたが、それほ
                      ど苦になる距離ではありませんでした。車で行く別ルートもある事を後で知りましたので、
                      次回は楽な方を選ぶと思います。






  
  城壁のような白壁が見えてくれば到着です。








                      









  









                      









  
   勝持寺南門  勝持寺は、白鳳8年(680)、天武天皇の勅によって、神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、延暦10年(791)に伝教大師が桓
  武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建、薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれて本尊にしたと伝えられております。






  
  承和5年(838)仁明天皇の勅願によって、塔頭四十九院を建立されましたが、応仁の乱の兵火に遭い、仁王門を除き全てを焼失しており現在の建物は
  乱後に再建されたものです。境内は西行桜をはじめ、数種類約百本の桜が植えられ、その大半がソメイヨシノで、例年4月上旬に満開となります。また、
  同数ほどの楓が自生し例年11月中旬に紅葉を迎えます。

  現在、庫裡を新築なされております。






  
  右手前の瑠璃光殿と左手の阿弥陀堂(本堂)です。








  
  本堂前に安置されている、鬢頭盧尊者(びんずるそんじゃ)です。一般的には「なで仏」とも言われていて、仏教を守ると誓ったインドの十六羅漢の一人
  であり日本では常に本堂の外に安置され、病気のあるところを撫でると その箇所が治るという信仰があります。






  
  本堂前から








  
  明治時代に使われた、消火ポンプのようです。








  
  不動堂 本堂の右前方にあり、弘法大師が平安のはじめ、眼病に悩む人達のため不動明王に病魔退散を祈願されたところ、霊験あらたかであったこ
  とで石不動明王を刻んで岩窟内に安置されたと伝えられております。以来、諸病平癒の不動様として信仰されております。






  
  不動堂前の狛犬








  









                      









  









  
  鐘楼の南側を下がったところにある沼です。








  









                     
                     沼には下りずに桜ヶ丘に進みますと右手に魚籃観音が、池の中に佇んでおられます。


           









  
  桜ヶ丘を見下ろす位置に建つ建物です。








                     









  









  









  









  









  
  紅葉の間の葉が落ちている木がすべて桜のようです。








  









  









  









                   









                   









  









  









  









  









  









  









                   









                   
                   来年は、ぜひ桜の時期に伺ってみます。









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青蓮院門跡 秋紅葉ライトアップ 11/29/2010

2010年12月17日 | 洛東 東山 四条八坂近辺

  青蓮院門跡では、毎年春と秋に、夜の特別拝観、ライトアップを開催しております。既に恒例となっておりますが、一体何故青蓮院で夜の特別拝観を
  実施するのでしょうか。(青蓮院ホームページより)








  
  ご本尊の熾盛光如来は、光そのものであり、その化身の不動明王(国宝青不動明王を祀る)も炎の光を背負っておられ、当院は光との関係が大変深
  くなっております。

  長屋門 拝観入口の手前右手に建つ門で、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したものです。門前には名木「楠」が五本あり、親鸞聖人御手植と
  伝えられております。京都市の登録天然記念物指定他として多数の指定を受けております。







  
  大小三百の照明器具による芸術的なレベルの高い景観照明で演出なされております。青蓮院は、江戸時代に仮御所となった事から、粟田御所とも
  呼ばれており、その貴品と格調高い池泉廻遊式庭園や、境内全域をあますところなくライトアップいたしております。諸堂の内部を拝観され、その後、
  ライトアップされた庭園を直接散策出来るようになっております。





  
  闇に浮かんでは消える木々や花々の幽玄な世界、光の中で雄大な力を感じる天然記念物の大クスノキ5本、青く光る静清な竹林、一面の苔庭の海
  に浮かぶ光の星。皆様お1人お1人の光がご本尊の功力によって、夜空に光のたばとなって駆け上がり世の中を明るく照らしていただきたいとの願い
  を込めております。





  
  本院での開催に加えて、当院飛び地境内である東山山頂の将軍塚大日堂の庭園も、夜間一般公開いたしております。
  夜間拝観は、お昼の拝観順路と異なり、まず大玄関から宸殿に向かいます。







  
  宸殿前の庭園では、数十秒ごとにLEDが点滅を繰り返し幻想的な景色を醸し出しております。







  









  
  宸殿から小御所に架かる廊下にある一文字手水鉢は、太閤秀吉の寄進したものと書かれております。








  
  小御所から華頂殿に移動しますと、おなじみの蓮の襖絵が鮮やかに目に飛び込んでまいります。 夜間拝観中は、華頂殿は有料のお茶席になってお
  ります。  








  
  応仁の乱の際、兵火を免れず、徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられましたが、相阿弥の作と伝えられる龍心池を中心とする
  室町時代以来の庭園から粟田山将軍塚にわたる境内は今日まで保有され、徳川幕府も殿舎の造営には力を致して東福門院の旧殿を移して宸殿を
  造りました。






  









  
  華頂殿から靴を履き相阿弥の作と伝えられる龍心池の前に出ます。 こちらの庭園のライトアップも10秒程度で点滅を繰り返します。 暗闇から浮かび
  上がる紅葉や竹林が幻想的に演出されております。








            








                      
                      龍心池 花崗岩の切石二枚で作られた、半円形の反りの美しい石橋を跨龍橋と呼び、滝
                      を洗心滝と云います。龍心池の中央には二千貫に近い大石があり、あたかも沐浴する龍の
                      背のようにみえます。











  









  









  
  華頂殿の東側庭園も小堀遠州作で霧島の庭と名付けられております。 好文亭裏側山裾斜面から一面に霧島つつじが植えてあり、五月の連休の頃、
  一面を真っ赤に染めることから、霧島の庭とも云います。








            









  









  
  






                     









  









  
  霧島の庭に佇む好文亭 後桜町上皇が当院を仮御所として御使用の際、お使いになったご学問所であり、明治以降茶室として活用しておりましたが
  放火により平成五年に焼失しいたしました。現在の建物は平成七年秋に復旧落慶したものです。本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に木
  材等の材質も全く同じ、工法も同じで、完全復元された本格的数寄屋造となっており、障壁画十三画は上村淳之画伯の御奉納による花鳥図です。









  









  









  
  竹林前から見る小御所 平安時代末は門主の居間でありましたが、後櫻町上皇が当院を仮御所としてお使いの際上皇もご使用になった建物です。
  但し明治に焼失した為、江戸中期の建物を移築しております。










  
  本堂 境内奥(南側)宸殿庭園の東側に建つ御堂で、堂内の厨子にはご本尊「熾盛光如来」の曼荼羅を安置(秘仏)。本堂の東裏には国宝の青不動
  画像(複製写真)を安置されております。その他、不動明王木像、薬師如来及び日光月光菩薩・十二神将像、歓喜天像、毘沙門天像、愛染明王像な
  どがお祀りされております。








  
  庭園を一周してまいり、宸殿前の庭園に出ます。








  









  
  写真は、一昨年のもので庭園に梵字が浮かび上がっておりましたが、今年はありませんでした。










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南禅寺塔頭 天授庵 秋紅葉ライトアップ 11/29/2010

2010年12月14日 | 洛東 南禅寺方面

  

  南禅寺塔頭の天授庵は暦応2年 (1339年)に創建された臨済宗南禅寺派・南禅寺の寺院です。南禅寺第15代住職となった虎関師錬(こかんしれん)
  が、南禅寺の開山である大明国師「無関普門」禅師の塔所(墓所)として建立した、南禅寺第一の塔頭であり開山塔となるものです。

  





  
  戦国時代以降、大火、戦火により衰退、廃墟と化していましたが、江戸時代の慶長7年 (1602年) に武将で歌人としても知られる細川幽斎により再興
  されました。       参拝入口の山門の東側の勅使門






  









  
  山門を入り受付を済ませ正面の庫裡に進みます。 お昼の拝観は、左手にある方丈の方から庭園を回るようになっております。







  
  庫裡に入り書院正面の景色です。天授庵の庭園は方丈前庭(東庭)と書院南庭・澄心庭に分かれて二つの庭園を持っています。







  
  書院南庭・澄心庭 書院南庭は、池泉回遊式庭園となっており、突き出した出島によって区切られた東西2つの池が「心」の字を模しており周囲に杉の
  木やカエデなどの紅葉の木々や南側に竹林を配した造りとなっていおります。明治時代に一部改修されたといわれておりますが、鎌倉末期から南北
  朝時代の面影を残しております。


  


  









              









  









  









  









  









  









  









  









  
  天授庵のライトアップは、一度に沢山の方を入れずに書院からの眺めを終えた方が方丈に移動されるので、そのタイミングを見て次の入場をコントロー
  ルされており、見る側にとってとてもスムーズでゆっくり見ることが出来るように工夫なされております。
  清水寺の成就院さんも同じ方法をなされており、両方とも人気のあるスポットだけに見る側にたったありがたい配慮だと思います。




  









  









  









  









  









  









                   
                   太陽の陽が当たらない葉は緑のままになっております。








                   
                   方丈庭園から書院庭園への入口です。








  
  書院側の拝観を終え方丈に移動しました。 方丈前庭は枯山水庭園となっており白砂の庭を緑の苔にて縁取られた菱形の畳石が横切った独特の景
  観で、小堀遠州の発案とも言われております。






                   
                   左奥の門は、勅使門で三門の前につながっております。







  









  









  









                   









          









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真正極楽寺 真如堂 秋紅葉 11/29/2010

2010年12月12日 | 洛中 

  

  金戒光明寺の北側に位置する真如堂は、正式には鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)といい、比叡山延暦寺を本山とする天台
  宗のお寺です。真正極楽寺とは、「極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味です。一般には「真如堂」と呼ばれ
  ていますが、それはもともとは本堂の呼び名でした。

  赤門(総門)元禄年間に建立された真如堂の総門で、赤く塗られているところから「赤門」と呼ばれています。敷居がないのは、神楽岡の神々が毎夜当
  寺に参詣する際につまずかないようするためだとの伝説があります。






  
  今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人かいさんしょうにんが、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院(藤
  原詮子。円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。






  
   慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿のうか明神みょうじんで根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿
  弥陀さまの形が現れたといいます。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置。後に日吉大社念仏堂の本尊とされました。立
  像はそのままご自身で持っておられました。





  
  その後、大師が唐(中国)に留学された帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏いんぜいねんぶ
  つの一節を授けました。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3
  センチほど如来を納められました。





  
  もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫びゃくごうを入れようとすると、如来は首を振って
  拒否されました。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、
  「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。

  


  









                   









                   
                   三 重 塔(法華塔)  境内の中でも、とても印象的な建物が三重塔です。宝暦年間(1751
                   ~1763)に建立されましたが、文化14年(1817)に再建され、さらに昭和9年に修理が加え
                   られました。その時、奉安されていた四天王像が腐食していたために、新たに多宝塔を安
                   置し、現在に至っています。







                   









  
  三重塔の前から赤門方面を振り返った景色です。








                   









                   









  









  
  本堂は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立され、木材にはことごとく「○○家先祖代々菩提の為」と記されています。正面「真如堂」の
  大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付によるものです。本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉公と桂昌院の寄進)の中には、ご本尊阿弥陀如来
  ・不動明王(安倍晴明の念持仏)・千手観音がおまつりされております。




  
  本堂に向かって左側(北側)の弁天さんが祀られている池があります。








  
  本堂(右手)と書院を結ぶ渡廊下








  
  廊下の下をくぐり本堂の裏側に回ります。








  
  本堂裏








  
  書院
  







  
  薬師堂前の書院の白壁
  







  
  本堂







  









  
  本堂裏に佇む万霊堂  三井家によって建立され、地蔵菩薩を中心に有縁無縁の精霊を祀っています。









  
  万霊堂右手(南側)の経蔵









  









  









  
  本堂南側の石に囲まれた桜は、「たてかわ桜」と言い徳川家光の乳母・春日の局が、父・ 斉藤内蔵介利三の菩提を弔うために植えた桜といわれてお
  ります。 斉藤内蔵介利三は、明智光秀の重臣でしたが、秀吉軍に敗れた後、粟田口の刑場で斬首された首を友人が、奪い返し真如堂に葬られたこ
  とから、この桜につながります。現在の樹は、伊勢湾台風で 倒れた樹から接ぎ木をして根付かせたものだそうです。




  









  
  阿弥陀如来露仏 本堂の右横に、大きな金仏さんが鎮座されています。その台座の蓮弁の石には、「木食正禅(もくじきしょうぜん)造立」と刻まれて
  います。「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼ぶそうです。





  









  









  
  三重塔








                   









  









                   









   









                   









  









   









   











                

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くろ谷 金戒光明寺 & 栄摂院 秋紅葉 11/29/2010

2010年12月11日 | 洛中 

  

  紫雲山・くろ谷 金戒光明寺は、法然上人がはじめて草庵を営まれた地であり、十五歳で比叡山に登られた上人が承安 5年(1175年)四十三歳の時
  比叡山の黒谷を下り、お念仏の教えを広めるために、紫雲山の山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山に光明があたりを照らしたことからこの地
  に草庵をむすばれました。これが浄土宗最初の寺院となりました。






  
  新選組発祥の地 会津藩と黒谷と新選組  幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になつていたところ、文久二年(1862)に
  徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになりました。これが京都守護職であります。 京都守護職本陣金戒光明寺は徳
  川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められており、会津藩主松平容保公が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職
  に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替いたしました。








  
  会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせていたという歴史的なつなが
  りがあります。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって薩摩藩・長州藩 が京都市中
  の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止されました。 そういった繋がりから、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を
  ここくろ谷の地で弔っております。








                  









  
  山門を入ったところの紅葉です。








  









  
  方丈東側の紫雲の庭








  
  昨年までは、池の手前までしか行けませんでしたが、今年池の北側を回る散策路が整備されました。







                   









  
  この4枚の写真は、昨年26日に伺った時のものです。








            









                     









  
  池に映り込む紅葉が、圧巻でした。








                   
                   庭園内に二つある茶室の一つです。








  
  二つの茶室は並んで建っており、東側の茶室になります。








  
  御影堂(大殿) 内陣正面に、宗祖法然上人75歳の御影(坐像)が奉安されております。 大方丈と紫雲の庭には御影 堂から靴を持って上がって回
  るようになっております。
  手前の松は、熊谷直実(法力房蓮生法師)鎧掛けの松と呼ばれ、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、1193年ここ黒谷の法然上
  人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家したと伝えられているものです。






  
  御影堂の西側の道を北に進みますと、塔頭の栄摂院があります。昨年までは中門までしか入れませんでしたが、今年は庭園を解放なされております。








                   
                   昨年は、この中門の所までしか入れませんでした。








  









                   
                   時期が良かったのか、落ち葉が庭を彩っており大変きれいでした。







                   









  









  
  本堂東側の紅葉と竹林です。








                   









  









  









  









                   









  
  栄摂院を北に上がりますと、すぐに真如堂が見えてまいります。









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東福寺塔頭 光明院 秋紅葉 11/29/2010

2010年12月09日 | 洛南 東山 東福寺方面

  

  明徳2年(1391年)に金山明昶(きんざんみょうしょう)により創建された東福寺の塔頭で、重森三玲氏による「波心の庭」が有名です。別名「虹の苔寺」
  とも言われております。









  
  位置的には、東福寺の南門を真っ直ぐ南に下がったところにあります。南門から徒歩3分ほどの距離です。正面の玄関前に摩利支尊天をお祀りするお
  堂があります。







  









  









  










  
  東福寺の方丈や塔頭も含む庭園は重森三玲氏による作品が多く、この庭園もその一つの「波心の庭」と名付けられた庭園です。 右手が本堂になり
  ます。







                   
                  池泉式の枯山水庭園は、昭和14年東福寺方丈庭園と同時期に設計されたもので、重森
                  三玲氏の初期の名作と評されております。








                  
                  方丈庭園とはうってかわって、平安式の洲浜型の枯池に多数の石組を配しており、寺号に
                  ちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三カ所の三尊石組
                  から仏の光のごとく斜線状に立石が並んでおります。








  
  本堂を見下ろす位置にある茶室からの眺めです。








                  









  
  本堂北側の茶室の悟りの窓








  
  本堂前








  









  
  本堂からの眺めです。 







  









  









  
  波心庭の背後には皐月やツツジの大刈り込みでダイナミックに雲紋をデザインし、その雲の上には茶亭「蘿月庵(らげつあん)」が佇みます。
  なお、蘿月庵の左手の朱色の建物は、本堂廊下より庭を見た時、民家の見えることを防ぐための建物です。







  









  
  ちなみに、この3枚の写真は、昨年の27日のものです。 今年が29日ですので毎年時期が多少前後しているのが分かります。来年もベストを狙ってま
  いります。








  









  









  










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東山 高台寺 秋紅葉 11/26/2010

2010年12月08日 | 洛東 東山 清水寺方面

  

  鷲峰山(じゅぶざん)高台寺(臨済宗建仁寺派) 東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にあり、正しくは高台寿聖禅寺といいます。豊臣
  秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺です。寛永元年(1624)
  7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号しました。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なった
  ので寺観は壮麗をきわめたといわれております。






  
  現在旧持仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定されており、 秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、
  北政所像の下はその墓所となっております。開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられております。
  尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に従一位に序せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日、
  76才で亡くなられました。     方丈に面した唐門








  
  庫裡の玄関です。








  









  









  









                     









  
  真ん中の石畳を通り境内に向かいます。 「湖月庵」茶室








  









  
  湖月庵の庭園
                    







                     









  
  「遺芳庵」茶室 灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席であり、鬼瓦席と共に高台寺を代表する茶席として知られております。 右に軒先が見えるのが
  鬼瓦席です。






  
  遺芳庵の南側にある書院と北庭園








  
  書院から開山堂に続く回廊








                     
                     書院で靴を脱ぎ方丈へと進みます。








  
  方丈








  
  方丈庭園 右手に勅使門、正面に霊山観音が望めます。 霊山観音の裏手の山には、坂本竜馬や中岡慎太郎の墓所となる霊山護国神社があります。







  
  方丈から左手開山堂とその右手に霊屋の眺めです。








  
  開山堂 高台寺第一世の住持、三江紹益禅師(1527-1650)を祀る塔所であり、左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安
  置されております。礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船の天井が用いられております。





  









                     









  
  開山堂の門です。








  









                     






            
            開山堂の東側に広がる臥龍池








                     









  
  臥龍池に架かる臥龍廊








  









  
  開山堂の西側、偃月池(えんげつち)に架かる観月台  偃月とは、半円形の月。半月。弓張り月のことをさします。









  
  回廊の中央の檜皮葺の四本柱の建物は、観月をするための観月台です。









                     
                     開山堂と霊屋を結ぶ臥龍廊                      







  









                     







  
  臥龍池の紅葉は、西日に映えとても素晴らしい景色でした。








  









  









  









  









  









  









                     









  









  









                     
                     霊屋(おたまや)北政所の墓所、秀吉と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に
                     秀吉と北政所の木像を安置しております。須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施され世に
                     高台寺蒔絵と称され桃山時代の漆工芸美術の粋を集めているものです。






  
  笠亭(左)と時雨亭 利休の意匠による茶席であり伏見城から移建したものです。傘亭は竹と丸木が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えるこ
  とからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれております。時雨亭とは土間廊下でつながっております。






  









                     









                     









  









  









  
  笠亭と時雨亭は、高台寺の中で一番の高台にあり、これから竹林を通り開山堂の前まで戻ります。








                     









  








  









  









  









  
  開山堂の中門前にあるお茶席の雲居庵です。











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東本願寺 渉成園 秋紅葉 11/26/2010

2010年12月07日 | 洛中 

  

  東本願寺から東に5分のところにある渉成園は、東本願寺の飛地別邸であり、別名:枳殻邸/きこくていと呼ばれております。江戸時代の前期、承応

  2年(1653)本願寺十三代宣如(せんにょ)上人が徳川三代将軍家光から寄進され、この地に隠居所を造営したことに始まります。庭園は東山を借景と

  して造られ、東側に「印月池(いんげつち)」、西側に建物を配した池泉回遊式庭園で、洛北・修学院の地に詩仙堂を建立した石川丈山(いしかわじょう

  ざん)が作庭したと伝えられ、庭園内の見所を「渉成園十三景」として紹介しております。








  
  枳殻邸の名前の由来は、邸宅周辺が枳殻(からたち)の生垣であったことから枳殻邸(きこくてい)とも称されるようになりました。この地は、「源氏物語」
  の主人公とも言われている平安時代前期の左大臣・源融(みなもとのとおる)が営んだ六条河原院の跡地と伝えられ、園内にはゆかりの塩釜や供養
  塔などが見られます。

  桜の向こうに高石垣がみえます。石橋のような長い切石や礎石、石臼、山石や瓦など多様な素材が組み合わさって築かれております。






  
  源融は、嵯峨天皇の第八皇子として生を受け、当時、貴族の風流な野遊びの一種に塩焼きがあり、源融も園内に塩竃(しおかま)をもうけて、紫の煙を
  たなびかせ心を癒していたとおもわれます。源融の没後、宇多上皇へ献上され東六条院となりましたが、鴨川の氾濫などによる水難が度重なったこと
  から廃絶しておりました。





  









                   
                   「十三景の1 」滴翠軒(てきすいけん)(左)と臨池亭 (りんちてい)。二つの建物は廊下で
                   繋がっており、池の右奥に小滝がありまし。






  
  かつては滴翠軒も含めた二棟を併せて臨池亭と呼んでおり、北の滴翠軒に対して南(左側)にある建物を喫茶居と称しておりました。







                   
                   「十三景の2」園林堂の東側に建つ楼門造り二階建ての傍花閣(ぼっかかく)は、左右に
                   二階へ登る階段があります。






  









  
  「十三景の三」印月池(いんげつち)に掛る侵雪橋(しんせつきょう)








  
  「十三景の六」侵雪橋は、印月池の西側から縮遠亭(茶室)のある北大島へ渡る木造の反橋です。







  
  「十三景の十三」の丹楓渓(たんぷうけい)「丹」とは、朱色を表す語で紅葉の美しい渓谷を模した一帯です。









 
  印月池の北側から望む縮遠亭と手前の丹楓渓







  
  丹楓渓から縮遠亭のある北大島を結ぶ「十三景の十二」回棹廊(かいとうろう)





  
  回棹廊は、安政の大火(1858)における焼失以前は、朱塗りの欄干を持つ反橋だったと伝えられておりますが、現在は檜皮葺の屋根をもつ橋となって
  おります。







                   
                   中央の唐破風屋根の天井部には掛け釘が設けられ、かつては夜半の来客の折り、金燈籠
                   を吊って火を灯したそうです。
                  


                    
                    回棹廊か望む傍花閣








  
  塩釜 縮遠亭の建つ築山の北麓に石組の横穴が設けられ、底に井筒があります。その形が塩を精造する塩釜とそれを屋根で覆う塩屋のありさまに似
  ていることから塩釜と呼ばれております。 縮遠亭で茶会が催される際の水源であったと思われますが、今は水が枯れてしまっております。
 




  









  
  碧玉の石幢(へきぎょくのせきどう)縮遠亭への階段の手前にある石幢(せきどう)石幢とは、通常の石灯籠と違って、笠の部分に蕨手(わらびて)と呼
  ばれる装飾が付いておらず、竿に節が無いなどの特徴があります。石灯籠でいう火袋にあたるぶぶんは平面が六角形の仏像を安置するための龕(が
  ん)となっております。また碧玉とは青い色をした貴石のことをいいます。





  
  「十三景の七」縮遠亭(しゅくえんてい)茶室 西側入口の土間から奥へ入りますと茶室(抹茶席)があり、四畳間が続きその南端から斜めに続く板間
  を経て三畳敷の上段のまが連結されております。名前の由来は、上段の間から東山三十六峰の一つ阿弥陀ケ峰の遠景が縮図のごとく見晴らせたと
  ころからきております。





  









  
  印月池に浮かぶ源融(みなもとのとおる)ゆかりの石塔 左大臣源融は、嵯峨天皇の皇子でしたが源の姓を賜って臣籍に下りました。「源氏物語」の
  主人公・光源氏のモデルの一人とも言われており、この塔は源融の供養塔といわれている九重の石塔で、塔身には四方仏が刻まれております。





  
  「十三景の四」臥龍堂(南大島)印月池に浮かぶ南大島のことを臥龍島とも称しており、元来はこの島に建てられていた小さな鐘楼堂のことを指してお
  りました。安政の大火による焼失以降、再建はされておらず、現在は礎石を残すのみとなっております。






  









  









  
  塩釜の手水鉢 この手水鉢は全国の庭園にある「塩釜の手水鉢」の手本となるもので、渉成園の景物として最も重要なものです。 石造宝塔の塔身
  を手水鉢に転用したもので、鎌倉時代の制作とみられております。






  









  









  









                   









  









  









  









  
  「十三景の十一」漱枕居(そうちんきょ) 印月池の西南に位置し、水上に乗り出すように建てられている、園内で三席ある茶室の一つです。名前の由
  来は、旅路にあることを意味する「漱流枕石」の語から採られております。






  









  
  閬風亭(ろうふうてい)殿舎の南端の大広間です。 前庭を隔てて東山の阿弥陀ケ峰を借景とした園池の雄大な景色が満喫でします。 「閬風」とは、
  中国崑崙山脈の頂部にあるといわれる山の名前で、仙人が住むとされており、賓客をお迎えする大書院にふさわしい名前がつけられております。





  









  









  
  蘆庵(ろあん)入口の中門 屋根の形状がとても珍しいものにんっております。奥に二階建ての茶室があり二階の肘掛窓からは眺望を楽しむことがで
  きる煎茶席になっております。







  
  園林堂(おんりんどう) 傍花閣に対応する持仏堂です。「園林」とは元来、中国宮廷に設けられた大規模な庭園の意味ですが、仏典では浄土を表す
  表現として用いられ、桂離宮にも「園林堂」という持仏堂があります。







  








  
  「十三景の二」傍花閣(ぼうかかく) 園林堂の東側、山門にあたる位置に建てられており庭園内には珍しい楼門作りで、左右側面に山廊と呼ばれる
  階段の入口があり、階上には四畳半の部屋が設けられております。






  
  楼門の間からは、丹楓渓の紅葉が望めます。








  









  
  春には桜が彩を添えてくれます。








  









                   









  
  開園時間は、9時から3時半の受け付け終了となっております。 拝観料五百円を払いますと、A4サイズオールカラー26ページもの大変立派なパンフ
  レットが頂けとても詳しい解説がなされており助かりました。








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大原 寂光院 秋紅葉 11/25/2010

2010年12月04日 | 洛外 大原方面
  寂光院(じゃっこういん)は、左京区大原にある天台宗の寺院で山号を清香山と称します。開基(創立者)は聖徳太子と伝えられておりますが、諸
  説があるみたいです。平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所でもあり、『平家物語』ゆかりの寺として知られております。ご本尊は六万
  体地蔵菩薩尊が祀られております。






                   









  









  









  
  孤 雲 (茶室) 京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材が寂光院に下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年3月に
  千宗室宗匠をたのみて献茶式を催し茶室開きが行われました。








  
  「孤雲」の名のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに
  聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌
  を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなんでおります。




                   









  









  









  









  
  寂光院本堂 桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた寂光院本堂は、平成12年(2000)5月9日未明、不慮の火災により焼失しましたが、
  再建は小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17年6月
  2日に落慶いたしました。ヒノキ材で屋根は木柿葺(こけらぶき)で焼失前の寂光院がここによみがえりました。





  









                   
                   雪見灯籠 (ゆきみどうろう) 本堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠で、豊臣秀
                   頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝えられます。
















  









                   









  
  四方正面の池 本堂の東側にある池で、北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設けてあり、池の四方は回遊出来るように小
  径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されております。






                   









                   









  









  









                   









  









  









  
  汀の池 (みぎわのいけ)池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ (『平家物語』大原御幸)
  文治年(1186)4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で寂光院の建礼門院の閑居を訪ねたおりの一首です。都から遠く離れた寂光院は、全く通う人もな
  い奥山の里で、庭の若草が茂り合い、青柳のしだれた枝は風に乱れもつれ合い、お堂の汀池の浮き草が波に揺れ池の中島の松にかかっている藤が
  うら紫に咲いている色、青葉まじりの遅咲きの桜が咲き、岸辺には山吹が咲き乱れる様子を詠んだものだそうです。この時の汀の池と桜は今も本堂前
  に平家物語当時そのままをしのぶことができます。








                   









  
  千年姫小松 (御神木) 池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色 (『平家物語』大原御幸)
  本堂前の汀の池のそばには、古来より櫻と松が寄り添うように立っていて、その櫻を「みぎわの櫻」といい、松を「姫小松」といいました。姫子松は細長
  く柔らかい松の葉が5本が一組になってつく、いわゆる五葉松のことであり、寂光院の姫小松は樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものでありまし
  たが、平成12年(2000)5月9日の不慮の本堂火災とともに、池のみぎわの櫻と姫小松もともに被災し、とくに「姫小松」は倒木の危険があるため伐採の
  やむなきに至り、現在はご神木としてお祀りしておられます。






  
  諸行無常の鐘楼 本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっております。
  鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683-1753)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、
  浄土宗僧侶でありました。





  









  
  鳳智松殿(ほうちしょうでん)『宝物殿』前から山門を見上げたところです。 平成18年秋に寂光院の復興を記念して建てられました。寂光院に伝来する
  『平家物語』ゆかりの文化財等を紹介しています。






            









                   









  









                   









  









                   









                   









                   









  









  












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京北町 常照皇寺 おわり紅葉 11/26/2010

2010年12月01日 | 洛外 

  

  京都市内から40キロ、車で約1時間の距離にある常照皇寺は、南北朝時代の1362年に光厳(こうごん)法皇がこの地に草案を結ばれたのが始まりと
  され、2年後には没されましたがその後、菩提を弔うために開山を天皇とし禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされたのが当寺の開山とされます。







  
  戦国期(安土桃山時代)の天正7年(1579)、明智光秀が周山城を築くための木材を集めで周辺の社寺を取り壊したことで、当寺は衰退いたしておりま
  した。その後も、太閤検地で寺領の没収や戦火で諸堂伽藍を焼失し荒廃し江戸時代に入り、後水尾法皇の尽力、徳川秀忠の外護があり、末寺300寺
  を有するまでにに回復いたしましたが、昭和の敗戦後に多くの寺田や寺資産を失くしたまま今日に至っております。  山門右手の墓所に通じる参道






  









  
  勅額複製「仰之弥高」、開山光厳上皇筆といわれておりますが、意味を調べましたが、なかなか的確な説明がみつかりませんでした。正確ではありま
  せんが、この解釈ではないかと思います。 聖人の道を探求し徳を仰ぎ慕うこと。学問・研究に精進すること。論語(子罕)「仰レ之弥高、鑽レ之弥堅」 
  今度、老師に聞いておきます。




  
  猿帰石橋(えんぎしゃっきょう)と正面に勅使門








  
  紅葉のピークは過ぎてしまっておりました。あと一週間早く来るべきでした。 碧潭池









  









  









 









  









  
  庫裡で参拝手続きを済ませ、上がったところです。 昔の北山杉を運んだ様子の写真です。








  
  右手奥が、方丈です。








  
  書院








  
  方丈は、三方が庭園に面しておりとても開放的です。








  
  北側の庭園は、残念ながら楓の葉はすでに散っておりましたが、来年リベンジいたします。








  
  方丈南庭と勅使門
 







                    
                    方丈中央には、ほかの寺院ではあまり見かけない鴨居の位置に釈迦如来像が安置されて
                    おります。







                    
                    方丈の前庭側に掛かる大乗善根界 (だいじょうぜんこんかい)仏語辞典に因りますと、阿
                    弥陀仏の善根力で大乗の世界。安養浄土。と記されております。








  
  方丈北庭園から右手、開山堂の怡雲庵(いうんあん)への廊下です。








  
  写真の正面が、楓の木です。








                     









  
  上段に十六羅漢像








  
  中央阿弥陀如来像と右側に招き観音です。








                     









  









  









  









  









                     









  









  
  方丈前の「御車返しの桜」かつて後水尾天皇がその美しさから何度も車を返し別れを惜しんだという事からこの名前が付いたと言われます。 一重と
  八重が一枝に咲くそうです。






  









  









  









  
  こちらが、二代目の九重桜だと思います、その後ろの二本が三代目です。








  
  開山堂の右手の石塔群の裏から山手にかけて散策路があります。








                   









  









  









                   









                   









  









                   









                   









  









  









  









  









  









  









  









  
  書院玄関 








  









  









  









  









  










  









  









                   









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