![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/bf/a7658b0d3e212ddf67d520f47c86bbfb.jpg)
堀川寺の内は、茶道千家御三家の本拠地にあたり、本法寺の仁王門の東側が裏千家今日庵、その南側が表千家不審庵があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d6/c9b797d673434c413520f5a10170ad0c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/65/3c1140394cb73625b7e8e72d7d4c589a.jpg)
本法寺は、日蓮宗京都十六本山の一つに数えられ、開基は信仰規範の不受不施(ふじゅふせ)を唱えた日親(にっしん)上人で、1436年東洞院綾小路
(四条烏丸の東南辺り)に建立されたのに始まります。不受不施(ふじゅふせ)とは、日蓮宗の信仰規範で「僧は法華信徒でないものからの布施を受け
ず(不受)、信徒は法華寺院以外の僧に施さない(不施)」の意味。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/8a/9d1a15c28cb3a5bdbb0f9f5bb1ccf3d7.jpg)
法華の行者としての強い自負と信念をもつ日親は、1439年、三代将軍足利義教(よしのり)の屋敷を訪ね、諌暁(かんぎょう)を図ります。諌暁とは、
「諫め諭す(いさめさとす)」という意味で、将軍義満に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と法華経受持を説いたとあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/ae/7767dd5a83a9015ef87942af5fdd5388.jpg)
驚いた幕府は諌暁を禁止させ、それでも諦めることのない日親は、翌年、諌暁書「立正治国論」を著したため幕府の怒りに触れ、寺を焼かれてしまい
投獄されることとなりました。投獄されていた牢では、日親は危険人物とみなされ、火あぶり・鞭打ち・焼き鍋を頭に被せるのどの拷問を受け続け改宗
を迫られましたが、信念を変えることは無かったことから、後に“鍋かぶり日親”と称されるようになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/4b/ccfd0c7f7edbbda4f83f6fee5269b450.jpg)
1441年、赤松満祐(あかまつみつすけ)の謀反で義教が殺されたことで日親は赦免され、出獄後、獄中で知り合った本阿弥清信の絶大な帰依を受け、
本法寺を再興することができ、後に本法寺は本阿弥家の菩提寺となりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/f2/fb4a86d3f2a9a662a93944452f46ff7e.jpg)
山門を入り右手に建つ摩利支天を祀るお堂です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/9a/dea17f75e34f0485fb99b78d5a19866f.jpg)
摩利支天の遣いは猪が務めているため、狛犬の代わりに猪が鎮座しております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/e7/0f64064016584dffda61d51aca61e359.jpg)
1536年、本法寺は、「天文法華の乱」で他の法華宗寺院と同じく、一時期和泉(大阪)の堺へ避難いたしますが、法華(日蓮)宗本山の帰洛が許され
一条堀川に再建され更に1587年、豊臣秀吉の聚楽第造営にあたり、強制的に替地として与えられた現在地へ移転しております。このとき、移転工
事を監督したのが本阿弥光悦で、その後の天明8年の大火により堂宇の殆どを焼失いたしましたが、暫時再建され現在の堂宇となっております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/90/137cf57c5d7012a11e5fc81f9b61f869.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/31/a74f0212a42f197be4a33a5b51822e9e.jpg)
本法寺の墓地には、本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓があり、展示館では長谷川等伯筆による総丈約10mの「佛涅槃図」(重文)の複製品のほか
寺宝を見ることが出来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/ce/45490abaa9147d79ef089247858702f2.jpg)
本堂前に建つ多宝塔
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/73/59a28c91bb0bed7ae018f98f47f64650.jpg)
本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/e0/5237eebc2c233a68791af44280f7d2aa.jpg)
本堂南側の鐘楼と経蔵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/1c/00cb60bf3f9b0ea0199bf76b72121c46.jpg)
鐘楼前より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a4/10e1d4056e92df25895368564f1d4b11.jpg)
山門方面
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/10/f1e29ed6b45f1dd0ab5373a0216b6f15.jpg)
本法寺には、本阿弥光悦作とされる枯山水庭園「三つ巴の庭」あり、光悦ゆかりの品も多数所蔵されておりますが、時間の関係で拝観することが出来
ませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/1d/139f4cf64718643b0f128c6ab777bd5e.jpg)
本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/5a/9c267aca7fd074e110da526b4b2287fe.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/04/644e8769763a3562ea4d281218c31529.jpg)
本堂前の開山堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/08/fdbc1ca28a1d6dd48fa050bf4380622a.jpg)
開山堂横の石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/5a/1545cf7a4b51a7adb7f3f4ee69fadcab.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/51/d9c1daf968e4890c9991a2442b7998da.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/a2/a8031e170152b2229385a531bf55bd22.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/81/bf87ce3ffb939ac6ead13a802ed7c75a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/cf/548e9d75c1fcc4799ec3c3d289a179e1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/1a/4b17c6b1d9ba86987306f9ca7e54526a.jpg)
本堂前の長谷川等伯像と光悦が植えたといわれる松の木
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ef/09f1b0507ff97db2b4012357949c7182.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/43/6b1a602b3f6cb0d5d340215a1caa6a00.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/09/9e173534c56d1efb8f731f3d23dee8db.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/62/1a6a624ce98bd04d4f3b8fc98fdb8c71.jpg)
仁王門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/dd/678f326ac4879236f88f019a1cc26629.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/bc/957171bc8c1b55f2a94e9ded6bbb5ae7.jpg)
仁王門前の裏千家茶道会館を隔てる寺壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/53/530934af5412044867b4db31f4d26435.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/05/68f19aa3f42856887cd60b9a5a5bf9cc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/b4/64b03f1e5224d48cf5cfc2eca48bb5eb.jpg)
小川通りを挟んで左手が裏千家今日庵と表千家不審庵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/0a/4b7fb5738141890516e7c67249e8855f.jpg)
本法寺の一筋北の通りに位置する妙覚寺は、北朝の1378年、妙顕寺の跡継ぎをめぐる意見の対立から妙顕寺を離れた日実(にちじつ)上人が、信徒
で富商の小野妙覚(おのみょうかく)の援助を受けて四条大宮の妙覚の邸宅に日像上人を開山に仰ぎ創建された寺院です。日蓮宗京都十六本山の一
つで、妙顕寺(上京区寺之内通堀川東入る)、立本寺(上京区七本松通仁和寺街道上る)と並ぶ具足山の一つです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/fa/53dc0ec578bf257586030e70adf8198d.jpg)
この妙覚寺の建つ寺之内界隈には、多くの寺院が並んでおり、寺之内通は、秀吉による都市改造政策により寺町と同様多くの寺院が移転させられた
寺院街になります。特にこの堀川通寺之内界隈は妙覚寺をはじめ妙顕寺、本法寺、妙蓮寺などの日蓮宗の寺院が密集しております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/30/9ec676c510c9bb791c0e38ec6b95952a.jpg)
表門の正面に現在修復中の祖師堂があり、堂内には日蓮・日朗・日像の坐像が安置されております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/2d/66f4b0af271964eb1d1e50a2cc9f9a19.jpg)
妙覚寺は四条大宮に創建された後、室町中期の1483年、十二世日寮上人のとき、九代将軍足利義尚(よしひ
さ)の命で、二条通衣棚に移転しました。その後、日蓮宗の信仰が公武の高官や武士・富商・町衆へ浸透して隆
盛を誇るようになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/6b/9e336224b2cbeaa6a774487df71c67ce.jpg)
1536年、日蓮宗の巨大化を恐れた天台宗(比叡山)の僧兵ら約6万により、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山は襲われ、勢力を誇っていた日蓮宗寺
院はことごとく焼き払われ、妙覚寺も他の寺院ともども堺へ逃れました。途中の鳥羽街道で貫主は流れ矢により亡くなりましたが、6年後の1542年、日
蓮宗本山の帰洛が許され、妙覚寺は1548、十九世日饒(にちじょう)上人が旧地二条通衣棚に復興いたしました。この頃から、妙覚寺は本能寺と共に
織田信長の上洛時の宿所とされるようになりました。これは日饒上人が斉藤道三の子であったことと、信長の妻・濃姫が道三の娘であったためと考えら
れております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/bd/6d7788a10acc587f5a6971fa95b9b30d.jpg)
その後、信長は妙覚寺で千利休を茶頭とした大茶会を何度か催したといわれており、1582年6月の上洛時、信長の嫡子信忠は妙覚寺を宿に、信長は
本能寺を宿にし、この時も妙覚寺では茶会が催されたといわれます。その夜の明け方未明、明智光秀軍は、本能寺の信長を襲い自害させたあと、直ぐ
に信忠がいる妙覚寺へ向かい、信忠は妙覚寺から二条殿へ向かい誠仁親王を無事退去させたあと、追撃してきた光秀軍と戦いましたが、数に勝る光
秀軍に信忠も自害に追い込まれました。この歴史に残る「本能寺の変」により妙覚寺は焼失いたしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/7f/28fb3c922e2c596885d37eace8794672.jpg)
1590年、権力を握った豊臣秀吉の都市改革令により洛中寺院の大半は強制的に市街地の北側の寺之内と東側の寺町へ移転させられ、このとき妙
覚寺は北の寺之内へ移建され現在に至りますが、1788年天明の大火で華芳塔堂と表門を残し堂宇を焼失いたし、現在の建物は、その後のものです。
妙覚寺の北側にある墓地には、狩野元信・永徳ら一門の墓と、日蓮・日朗・日像・日奥らの墓があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/e9/b6fecae327e4989a09f6a9872f11fce3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/f0/7835e4b92ee01f65c5abe70f64147555.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/7b/0fbdf9060e2857e46c92e09d5e487d27.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/08/7c4e116ab4a0818520fa8b69a7a5aff1.jpg)
左側の庫裡と玄関、さらに右手に唐門が建ちます。 唐門の奥に本堂が建ちますが、時間の都合で拝観いたしませんでしたが、本堂前の庭園・法
姿園はモミジに杉苔の絨毯が敷き詰められ、モミジの隠れ名所の一つと云われているそうです。本堂の奥には、日蓮聖人が比叡山で法華経一巻を
写経し、石造の塔に収めたという石塔と、その石塔を収める木造多宝塔を収めた華芳宝塔があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/ca/b46dd8f29ab52de26fe2dbdfeb74ab3a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/01/7a7d9c1a1c204751a0264c478bc7e727.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/c3/576811702b1fe5e8c5454c9391769739.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/74/21ec7fb741ccd95231d76ad9aa028d01.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/9c/837c370b31e3158cb1306c9e9d1111eb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/f8/213c0b629477b092b7d8978aac42d781.jpg)
妙覚寺の北側にある塔頭の善明院の紅枝垂れです。中には入れませんので外からの様子だけ撮ってきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/a3/bebd07b7781246cac7b6120c7f5f953b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/86/bd9a8a7e7075bb30c853737b59a31c1d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/37/6843375f63d2b4e76b0b8dff67b7aca7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/0f/0f444a928b97267850fda83b59e49c7d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/20/21ac96855b514a67c21021916fd5d9a0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b8/fc25e8c4187fa0b66c99d4ed8d8d1dbd.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/89/951ba54c52ba7faa2b7b131e9cf83f80.jpg)