づくりがなされてきた京都の鴨川の下流に祀られいるお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)
」と親しまれております。
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ご祭神には、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)西殿 玉依媛命(たまよりひめのみこと)東殿 賀茂建角身命
は、古代の京都をひらかれた神さまで山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。平安京が造営される
にあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/13/c7880e6ec9da0bb9f1ee9b909a5d73c4.jpg)
糺の森の参道、新緑のもみじが色鮮やかでした。
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みかげ通りから参道を進みますと、すぐ左手に鴨長明ゆかりの河合社があります。
鴨 長明(かもの ちょうめい、1155年~1216年7月26日)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人であり
随筆家でもありました。俗名はかものながあきらと言い京都の生まれです。
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賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれた長明は、俊恵の門下に学び、歌人としても活躍いたしまし
たが、望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされた
ため、後に出家して蓮胤(れんいん)と名乗りましたが、一般には俗名を音読みした鴨長明(ちょうめい)として知られており
ます。
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手鏡形の絵馬で、女性のための美麗祈願の思いが込められております。
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楼門
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楼門を入り右手にあります橋殿
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正面が舞殿です。
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神服殿
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本殿に入る最後の門です。
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菊の御紋が輝いております。
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本殿の手前両サイドには、えとの社が建っており銘々自分の干支の前でお参りされております。
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本殿にはさすがに、カメラを向けることが出来ませんでしたが、拝殿の北側に東本殿と西本殿の国宝が鎮座しております。
写真の橋は、橋殿北側のみたらし川に架かる橋です。
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本殿の東側にあり霊水が湧き出る、みたらし社は、みたらし団子の発祥の地と説明されて
おります。
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お天気も良く、新緑の樹木にエネルギーをもらえた気がいたしました。
今年は、四月に入りましても天候不順が続き晴れた日が少なかったのですが、間隙を縫ってこの日は晴れてくれました
ので、仕事の合間に出かけてきました。
四条川端から北上し桜並木を眺めながら、葵橋西詰めから加茂街道を上がって行きましたが、鴨川畔はずっと桜が続い
ており春を満喫した気分になりました。
上二枚の写真は、北大路から北山通りの間の植物園沿いの紅しだれです。鴨川畔はほとんどが染井吉野ですが、この
区間だけは紅枝垂れが植えられており、桜祭りが行われておりました。
世界文化遺産に指定されております上賀茂神社は、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)は、京都市北区にある
神社で「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」の通称で呼ばれ親しまれており、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀
茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称されており、5月15日の賀茂神社両社の祭事である葵祭で有
名でもあります。
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀る。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた
雷(神鳴り)の神という意味だそうです。
斎王桜の東側(写真右手)では、皆さん思い思いにシートを敷きお花見を楽しんでおられました。
斎王桜
風流桜 葵祭りのときに「風流傘・花傘」が、この桜を目印に並べられるそうです。 二の鳥居の右手にあります。
神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が
造営され、本殿御鎮座以後も広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまなく、国家
の重大時には必ず奉幣、御祈願がありました。 嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎
王(さいおう)と定め、その制度は以来三十五代、約四百年続きました。
正面、細殿と右手橋殿
立砂 - 細殿前の円錐状の二つの砂の山は御神体である神山を模したものであり立砂(た
てずな)といいます。鬼門にまく清めの砂の起源とされているものです。
楼門
本殿
葵祭りの起源 賀茂祭は祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾る
ことから、広く一般には「葵祭」として知られる祭です。 その起源は太古別雷神(わけいかづちのかみ)が現社殿北北西
にある神山(こうやま)に御降臨された際、御神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(い
ろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが当神社の祭祀の始めであります。
時を経て6世紀欽明天皇の御代、日本国中が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉
若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、4月吉日を選び馬に鈴
を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせた事が賀茂祭の起こりであると『賀茂縁起』に
記されています。
上賀茂神社をあとにし、徒歩で5分の距離にある太田神社をのぞいて来ました。こちらの神社は、杜若が有名で5月には、
2万本ともいわれる杜若が咲き乱れます。
帰り道も加茂街道をはしりました。 植物園横
比叡山山頂です。
大文字山を借景に染井吉野が、満開状態です。
北大路と葵橋の間に架かる出雲路橋から、上流(北大路方面)です。
三代目桜守りとして円山公園の枝垂れ桜や数々の桜を育てておられます。
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六時ごろ篝火に火が入り、夕暮れを待つ方々が少しづつ集まって来られます。
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暗くなる前に造園の敷地を見て回りました。枝垂れ桜の右手奥には、何十種類もの桜の苗木が植えられておりましたが、
時期がまだ早かったのか開花している樹は一部しかありませんでした。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/d3/aef55b57fbf98e447b96832b5d809ad1.jpg)
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左手の方には、茅葺の民家や、庭園で使われる灯篭や石像などが、所狭しと置かれております。
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中には、子宝に恵まれ子孫繁栄を祈願するための、芸術作品も並んでおりました。
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六時半頃、段々と陽が沈みかけてまいりました。
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この時間になり、照明に灯が入りました。
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夕闇が迫り、篝火の明かりが際立ってまいります。
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植藤造園から西に行きますと、すぐに広沢の池があります。池の東湖畔に平安郷の入り口があり、この時期だけ桜のラ
イトアップをなされております。入場は無料で沢山の方が訪れておられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/a6/bf57f3544b7c2490977726b7ab90a2b9.jpg)
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極力明かりを少なくした、湖畔の竹藪を進んでいきます。
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広沢の池
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暗闇の中、幻想的な桜の姿に皆さん息を呑んでおられました。この写真では、大きさが表現出来てないのが残念です。
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こちらの平安郷の桜も佐野さんの監修です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/0f/9cdfdc4bade9145d632aa4354f3609ca.jpg)
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こちらの桜は、平安郷を運営されてる、世界救世教本部前の桜です。平安郷の入り口の
道路を挟んだ南側になります。
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車を停めておりましたので、もう一度植藤造園まで戻ってきました。
佐野藤右衛門(さのとうえもん)プロフィール
1928年、京都市生まれ。京都府立農林学校卒業。天保3年より、植木職人として京都・仁和寺御室御所に仕えてきた“佐野
藤右衛門”の16代目。明治より造園業を営み、14代目より日本各地の名桜の保存につとめる「桜守」を継承。故イサム・ノグ
チ氏デザインの、パリにあるユネスコ日本庭園を手がけた功績で1997年、ユネスコのピカソ・メダルを贈られる。勲五等双光
旭日章受賞。『櫻よ』(集英社文庫)、『京の桜』(紫紅社)など著書多数。
ダイナーズクラブの佐野さんへのインタビュー記事です。中々面白く、お会いしたことはありませんが、職人気質の人柄がうか
がえます。
http://www.diners.co.jp/cyber_station_2006/winter3/tabibiyori/index.html
真如堂は、正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。
真正極楽寺とは、「極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味で、一般には「真如
堂」と呼ばれていますが、それはもともとは本堂の呼び名だそうです。
今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来
(慈覚大師作)を東三條女院(藤原詮子。円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置し
たのが、真如堂の始まりといわれております。 表参道の表門
理正院前の紅枝垂れ
多宝塔(三重塔)は、寺内でも一番新しく1817の竣工となっております。
本堂は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立され、総欅・単層入母屋・本瓦葺で、木材にはことごとく「○○
家先祖代々菩提の為」と記されております。 正面「真如堂」の大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付によるもので、
本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉公と桂昌院の寄進)の中には、ご本尊阿弥陀如来・不動明王(安倍晴明の念持仏)
・千手観音が祀られております。
本堂から書院・庫裡につながる渡り廊下です。
本堂裏手の庭園と万霊堂 このお堂の裏手を下っていきますと、白川通りに出ます。
本堂裏手(東側)
本堂南側の石に囲まれた桜は、「たてかわ桜」と言い徳川家光の乳母・春日の局が、父・
斉藤内蔵介利三の菩提を弔うために植えた桜といわれております。 斉藤内蔵介利三は、
明智光秀の重臣でしたが、秀吉軍に敗れた後、粟田口の刑場で斬首された首を友人が、
奪い返し真如堂に葬られたことから、この桜につながります。現在の樹は、伊勢湾台風で
倒れた樹から接ぎ木をして根付かせたものだそうです。
本堂南側
如堂を表門から出ますと、東側に大文字山が望めます。
真如堂を南に下がりますと、黒谷・金戒光明寺があります。法然上人ゆかりの浄土宗の寺院で、幕末には京都守護職を
勤めた会津藩が駐屯しており、新撰組の名前を賜った場所としても有名です。
山門を入り右手に進みますと、お寺の墓所に突き当たります。 石橋は、「極楽橋」と言い蓮池に掛かっており、別名「兜
之池」と言います。
真如堂も、金戒光明寺も拝観料は掛かりませんので、(金戒光明寺の秋の方丈庭園は有
料)桜や紅葉の時期は散歩がてらに訪れるのも良いかもしれません。
られており、西国三十三箇所第十八番札所となっております。本堂が平面六角形であることから、「六角堂」の通称で知
られており、華道の家元・池坊の発祥の地としても有名です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/d9/d49a68cf047d4fae6a879dd52db02fe3.jpg)
寺伝によりますと、延暦13年(794年)の平安遷都以前の創建で、開基は聖徳太子であるといわれております。『六角堂
頂法寺縁起』は次のように伝えております。
聖徳太子は、蘇我氏と物部氏との戦いに崇仏派の蘇我氏が勝利した後、報恩のため四天王寺を建立いたしますが、そ
のための用材を求めてこの地を訪れた際に、太子は池で水浴をするため、傍らの木に衣服とともに持仏の如意輪観音像
を収めた箱を掛けておいたところ、如意輪観音像は重くなり動かなくなってしまったため、夢告によりその観音がこの地に
とどまり衆生を済度することを希望したので、その観音像を現在地に安置し、近くにあった杉の巨木を伐採して六角形の
堂を建立したのがこの寺の始まりといわれます。観音像は、太子の幼少時、淡路の海で水浴している時に隋から流れつ
いたもので、像高一寸八分、太子の前世の守り本尊であったものと伝承されております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/f9/e32ebd1a0212d275e8e2f1b53dab5916.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/c3/20e1baa1ceb08da6971bd38a9074328b.jpg)
本堂の六角堂を右手に進みますと、親鸞聖人を祀る親鸞堂があり、夢告を授かる姿の「夢想之像」と六角堂参篭の姿を
自刻したとされる「草鞋の御影」の2体の親鸞像が安置されております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/c6/27567dd9fda5e0ca7535d925aa74b845.jpg)
紅枝垂れの右手の階段を上ると親鸞堂があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/88/32294e7a67ae6a17bc3ec8d382212db6.jpg)
六角堂御幸桜
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4f/db633511aa8f8c15c2a0c85e6c760241.jpg)
六角の本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/47/84a9e3862d48f6d59ded1f88e0bd256b.jpg)
本堂北側の太子堂 南無仏太子像(聖徳太子2歳像)が安置されております。太子堂の左手北側には、池坊の本部
ビルがそびえています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/44/0801988eb152652b28dbf51a7094c538.jpg)
太子堂は、聖徳太子沐浴の伝説にちなむ人口池が作られ三羽の白鳥と丸々太った鯉が優雅に泳いでおります。
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本堂の西側
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この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭(たっちゅう)で、頂法寺の本坊にあたる池坊(いけのぼう)が執行として代々経
営・管理に当たっており、池坊の名は、聖徳太子が水浴したという池(又は井戸)にちなんでなづけられたものです。
池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることとなっており、花の生け方に別格の妙技を見せる
ことで評判となっていたことが15世紀の記録に残されております。文明年間(1469年-1486年)に池坊12世専慶が立花
(たてばな)の名手として知られ、ここから池坊としての立花が生じ、天文年間(1532年-1555年)には、池坊13世専応が
度々宮中に招かれて花を立て、また「池坊専応口伝」を表して立花の理論と技術を初めて総合的に体系化いたしました。
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本堂西側のお地蔵さん
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御本尊の如意輪観音が祀られております。
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本堂東側の手水場
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枝垂れの下に佇む十六羅漢像
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一言願い地蔵 このお地蔵さまは、少し首をかしげておられますが、これはお参りに来られた方のお願いを聞いてあげよ
うか悩んでおられる姿です。願いを聞き届けてもらえるかどうかは、その方の信心次第です。欲張らずに一つだけお願いし
てみてください。
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鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(はんねん、のちの親鸞)が、六角堂に六百日間
参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされ
ております。
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都会のビルの谷間のオアシスの様な寺院でした。
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鎌倉時代初期の安貞元年(1227年)義空によって創建され、義空は藤原秀衡の孫で叡山で修行の後ここを建立しました。
本堂は摂津の材木商の寄進をうけ完成し、本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられておりま
す(後述)。 倶舎(くしゃ)・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許され、この本堂は応仁文明の乱にも焼けることはなく創建
当時のもので洛中最古の建造物で国宝となっております。
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山門を入ったところの稲荷社
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本堂 本尊は、木造釈迦如来坐像が安置され、鎌倉時代の仏師快慶の弟子である行快の作といわれております。
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おかめの物語 本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた時に、
それを見た妻のおかめが枡組を用いたらどうかとひと言アドバイスし結果無事に竣工させることができました。おかめは
女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまい、高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おか
め塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされており、その後、大工の信仰を得るようになり
今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。 度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福の
おかめ信仰につながっております。
御幣(ごへい)とは、神道の祭祀で用いられる幣帛の一種で、2本の紙垂を竹または木の 幣串に挟んだもので、おかめ像
の左右にある紙で折った物の事をいいます。
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おかめ像の北側に建つ布袋像
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本堂の裏手には、宝物館があり多数の文化財の仏像などが間近で見ることが出来ます。
木造十大弟子立像 10躯快慶の作、木造六観音像 6躯 定慶作。聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観
音、准胝観音(じゅんていかんのん)の6体。銅造誕生釈迦仏立像、木造千手観音立像、だ太鼓縁 一対、北野経王堂一
切経 5,048帖(うち補写経232帖)1412年、覚蔵坊増範という僧の発願で書写された一切経で、書写(版本でない)一切経
としては日本史上最後のものと言われております。
南禅寺の塔頭、金地院は南禅寺に入る山門の手前南側に位置しております。 金地院は、応永年間(1394~1427)足利
義持の帰依を得て北区・鷹ヶ峰に創建された禅寺で、慶長10年(1605)に第三世以心崇伝(いしんすうでん)長老が南禅寺
塔頭に移建し現在に至っております。
崇伝長老は、徳川家康に仕え幕議に参画、行政を左右するほどの立場にあり、自ら天下僧録司(そうろくし)となって、
宗教界の人事も左右した才覚で、「黒衣の宰相」とも呼ばれ、畏怖尊敬を集めた名僧です。家康の死後、境内に東照宮
を建立するなど、徳川家康への忠誠心の一端が現わされている寺院です。
また、崇伝長老は、南禅寺の伽藍造営に尽力するなど、後水尾天皇から「円照本光国師」の号を賜っている。寛永3年
(1626)小堀遠州作の協力を得、大規模に再建。庭園は特別名勝となっている鶴亀の庭園がある。
明智門 明智門は、天正10年明智光秀が母の菩提のため、黄金千枚を寄進して大徳寺に
建立させ、明治元年に金地院に移築された。
明智門を入ったところの弁天池 元は東照宮と開山堂の中間にありましたが、明治初年に
現在の「鶴亀の庭園」の東側に移されたそうです。
弁天池の周りを時計回りに進みますと東照宮に続く参道にあたります。
東照宮への参道
東照宮山門
東照宮 崇伝長老が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628)造営いたしました。創建当
初は日光東照宮と比すべきものであったといわれており、現存するのは拝殿・石の間・本殿などで、京都隋一の権現造り
となっております。
東照宮は、方丈庭園の南側に位置し、参拝を済ませますと開山堂を通り方丈庭園へと進みます。
方丈(重文) 慶長16年(1611)、崇伝長老が伏見桃山城の一部を徳川家光から賜り移築いたしました。襖絵は狩野探幽
・尚信の筆によるものです。
鶴亀の庭園(特別名勝)崇伝長老が徳川家光のために造った庭園で、桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山
水となっております。前面の白砂は海洋を表し、背景の右が鶴島で左が亀島。両島の中央に遥拝石が敷かれております
が、背後の東照宮を礼拝するためのものですが、現在は樹木が育ち直接は見えなくなっております。
作庭には小堀遠州が当たり、遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例がこの庭園です。桃山時代
の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られ特別名勝に指定されております。
写真右手の石組みは、鶴島を表しており左に伸る細長い石が嘴(くちばし)石と言われます。
庭園左手の石組みが、亀島でこちらに向いて頭があり大きい石が、甲羅を表しております。
庭園中央、灯篭の右手に三尊石があり、その右手が遥拝石と名付けられております。
亀島の上にある確か、白ひばの木と聞いたような。
明智門を抜け庫裏の前庭です。
法堂の南側の境内にある煉瓦作りの水路閣へ向かう参道です。明治時代、京都市内への水路の供給を図るため作られ
た琵琶湖疎水で山科を通り蹴上から南禅寺へと流れ込んでおります。当時、工部大学校の卒業論文で疎水建設を取り
上げた、若干23歳の田辺朔郎氏が設計し、工事を指揮し完成させております。この水を利用して当時世界でも珍しかった
水力発電にも成功し、日本最初の電車を京都市内で走らせた話は特に有名です。
この写真の風景は、京都で撮影される2時間ドラマの定番の撮影現場となっております。
この水路の上流には、疎水を利用した水運のなごりをとどめるインクラインも残っており、
完成後100年以上たっても琵琶湖疎水は京都市民になくてはならないものとして今も親しま
れており、特に桜の時期は大勢の観光客で賑っております。
水路沿いに東に進みますと、塔頭の南禅院があります。 亀山天皇は、正応2年(1289)離宮で出家して法皇となられ、
離宮を寄進して禅寺とし大明国師を開山とされました。ここはその離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地です。
南禅院方丈は、元禄16年(1703)徳川綱吉の母、桂昌院の寄進によって再建され、総桧の入母屋造こけら葺きで、内陣
中央には亀山法皇御木造(重文)が安置され、襖絵は狩野養朴とその子如川隋川の筆になる水墨画です。
庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別で
す。作庭は亀山法皇ともいわれ、早くから、京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。
この池の奥に滝口の石組みが組まれ、上池は曹源池と呼ばれ竜の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島
が設けられています。記録によれば築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、竜田の楓等が移植され、井手の蛙も放たれた
と記されていおります。
曹源池の水源の滝口
南禅院を後にし水路沿いを更に東に上って行きますと塔頭の高徳庵があります。
境内の中央にある木は、縁結びの松と言われ松と百日紅が同じ幹から伸びており途中で
二手に分かれております。
本坊 方丈への入り口になる庫裏です。一歩敷居をまたいで上を向くと、天井のない吹きぬけ造りに、縦横に組み上げら
れた梁組の力強さ、幾何学的美しさが禅宗建築の特色をあらわしています。
庫裏に入り右手にお茶席があり、庭園を眺めながらお抹茶をいただく事ができます。
本坊から方丈への廊下です。
廊下の右手にあります。
方丈庭園 南禅寺方丈庭園は小堀遠州作と伝えられ、江戸時代初期の代表的枯山水庭園です。南部から西部にかけて
5本の定規線を配した薄青色の筋塀(築地塀)をめぐらし、東西に細長い地形に作庭されております。石組はこの筋塀に添
って配置されており、大きな石組を方丈側から見て左奥に配し、前方と右手には、白砂の広い空間を残しています。また
巨大な石を横に寝かして配置する手法は、須弥山・蓬莱山などの仏教的世界観などを表現した庭園から脱した構成であ
り、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれています。昭和26年に国指定の名勝となりました。
法堂の再建後、慶長16年には方丈が皇居の建物の下賜を受けて再建されたもので、寺伝では、この大方丈は天正年
間(1573-1592年)の内裏清涼殿を移建したものとされていますが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したも
のとの説もあります。
方丈西側の小方丈庭園は別名「如心庭」と呼ばれており、昭和41年に当時の管長柴山全
慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導されて作庭されました。その名のごとく、
「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭で、解脱した心の如く、落ち着いた雰囲気の禅庭園
となっています。
小方丈庭園の北側の蓬莱神仙庭 蓬莱とは中国の東海中にあって仙人が住み不老不死の地と考えられている霊山の
ことで、神仙とは神通力を得た千人のことを言います。 ここ南禅寺の境域も古くから神仙佳境、即ち仙人が住むところと
称えられきており、仙人たちの住むこの庭を眺め、あなたの心の中に迷いや悩みのない佳境を見出して下さいと、説明に
は書いてあります。
方丈北側の六道庭 「如心庭」が解脱した心の庭であるのに対し、この「六道庭」は六道輪廻の戒めの庭です。六道輪廻
とは、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観のことで、一
面の杉苔の中に配石された景石を眺めていると、煩悩に迷い、涅槃の境地に達することなく六道を輪廻する我々凡夫の
はかなさを想わずにはいられません、とのことです。
小方丈東側の鳴滝庭
龍渕閣に続く廊下 六道庭
方丈から北に龍渕閣に続く渡り廊下の東側の庭園 華厳の庭「響き合う宇宙のこころ」
華厳という言葉は、華の飾りを意味しており華厳経(仏の飾りという名の壮大な経典)にお
ける中心思想だそうです。華厳思想が説くところは、この世界の本当の姿は花の飾りのよ
うであり一つ一つの具体的な事物事象の波動が互いに関係し生かし合っており無限に重
なって美しく宇宙全体に響き合っているという教えだそうです。
龍渕閣の東側の極龍池と龍吟庭 庭園の向こうには、不識庵と窮心亭があります。
方丈に戻る廊下です。
六道庭
小方丈の東側庭園
方丈庭園
本坊の左手には唐破風の立派な大方玄関があります。この大玄関は特別な行事の時にのみ使用されます。大方玄関
左手には書院が配され、方丈へと続いています。。
三門
南禅寺 (なんぜんじ)は、臨済宗南禅寺派大本山の寺院です。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初
代住職)は無関普門(大明国師)であり、日本最初の勅願禅寺で、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの
寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもちます。
南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじでん)が
ありました。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来し、
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称しました。現存
する南禅寺の塔頭(たっちゅう)・南禅院はその後身だそうです。
三門は寺院を代表する正門であり禅宗七堂伽藍(勅使門、山門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼、経堂、浴室)の一つです。
また山門とも書き、仏道修行のさとりの内容を示す空門、無相門、無作門をも意味しています。 南禅寺の三門は別名
「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つに数えられます。
天授庵山門 三門の南側、塔頭の天授庵は、開山の無関普門の塔所として1339年に開かれた塔頭で、明徳四年(139
3)、文安四年(1447)に焼失し、さらに応仁の乱で荒廃しましたが、慶長7年(1602年)に細川幽斎によって再建されてお
ります。
1602年に再建された方丈には、長谷川等伯の障壁画があり、枯山水庭園の他に書院前には池泉回遊式庭園(鎌倉~
南北朝末の特徴があるとか)があります。
山門を入り正面に庫裏と方丈・書院(客殿)への入り口がありますが、一時期の特別拝観を除き入ることは出来ません。
この客殿は、近世初頭における禅寺塔頭の典型的な客殿建築として価値の高い建築とされております。
正面の書院からは、池泉回遊式の庭園が望めます。
山門を入ったところ、左手に方丈庭園と池泉回遊式庭園への入り口があります。
方丈の東側に広がる方丈庭園は、秋には紅葉が彩を添えます。
書院側の庭園への入り口
書院
方丈庭園の中、勅使門への石畳です。
三門
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕返しで石川五右衛門が「絶景かな
絶景かな」という名台詞を吐く「南禅寺山門」がこの三門ですが、ただしそれは創作上の話
で、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築とされており
ます。
三門から法堂を望みます。楼上にも上がることが出来ますので、上って見ました。
楼上から見た法堂
法堂 法堂は禅宗の生命とも云うべき問禅、開堂等法式行事の行なわれる場所であり、公式の法要もみなこの法堂で
勤められます。応仁、文明の乱により焼失した伽藍の復興は、文明11年頃には法堂が完成しました。その後、慶長11年
に秀頼の寄進により改築された法堂は間口13間半、奥行き10間半と言われていますが、明治26年の火災によって焼失
しました。現在の法堂は明治42年に再建されたもので、内部には中央に釈迦如来像、獅子に騎った文殊菩薩、象王上
の普賢菩薩の三体がまつられ、一面の敷瓦に巨大な欅の大円柱が林立し、荘厳そのものです。
世界遺産醍醐寺は真言宗の寺院で、貞観16年(874年)空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音(じゅんてい
かんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けました。
山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後(この場所を「上醍醐」と呼称します)、醍醐天皇
は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍
「下醍醐」が発展することになりました。
その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。しかし豊臣秀吉による「醍醐
の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっている。
相当広大なので、上醍醐までは回れませんでした。
山門を入り三宝院を左に見ながら、右手の霊宝館に向かいました。
霊宝館に入った所の桜は、染井吉野だと思いますが、まだ三分咲きでした。
山門を入り左手に進みますと休憩所があり、その前の枝垂れです。
この日は、曇り空で太陽が隠れておりましたので、桜が空の色と同化してしまい鮮やかさ
に欠けてしましました。背景が青空だと写りが全然変わってくるのですが残念でした。
霊宝館の本館の裏手の平成館の前の醍醐寺随一の枝垂れです。
この桜は、平成館の中からもガラス越しに見ることが出来ます。
本館横の桜
北の空は、徐々に青空が広がってまいりましたが、太陽はまだ雲の中です。
霊宝館を出て、仁王門に向かいます。写真の枝垂れは霊宝館を外から見たところです。
醍醐寺の入り口の仁王門
阿吽の金剛力士像
金堂(国宝) 平安時代後期の建立で豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開
始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶しております。『紀伊名所図会』等によると、当初は紀州湯浅(和歌山県湯
浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)本堂であったと云われております。
清瀧宮本殿と拝殿
五重塔(国宝) 天暦5年(951年)建立で、承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三
皇子の代明親王(よしあきらしんのう)が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画されましたが、代明親王の死去(937
年)などがあって工事は停滞し、完成したのは発願の20年後になってしまいました。総高38メートル。うち相輪部が12.8
メートルで、全体の3割以上を占めております。
京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であるとともに、初重内部の両界曼荼羅と
真言八祖を表した壁画も平安絵画の遺品として重要であり、塔本体とは別に「絵画」として
国宝に指定されております。
金堂
醍醐寺の帰り道、やっと陽が射してきてくれましたが、少し時間が遅すぎました。
三宝院は、中に入らずに山門から覗くだけにしておきました。
理源大師聖宝が、最初にお堂を建立されたと云われる、上醍醐の山並みです。
醍醐寺には、17もの国宝があり、重要文化財は63657点もが所蔵されております。
国宝 薬師三尊像 薬師堂の本尊です。 重文 千手観音立像 創建まもなく上醍醐にあんちされたと云わ
れております。