修学院離宮は、京都市左京区修学院の比叡山山麓にある皇室関連の施設です。17世紀中頃(1653年1655年)に後水尾上皇の指示で造営され
た離宮で、谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなります。桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到
達点を示すものとなっており、宮内庁京都事務所が管理しております。
拝観には、宮内庁への事前申し込みが必要ですが、今年から一部当日受付もなされております。しかし、人数制限がありますので、事前にご確
認ください。 本日は、11時の部で予約を取っていただきました。
修学院離宮は上離宮、中離宮、下離宮と呼ばれる3か所の庭園からなり、各庭園の間には田畑が広がり、細い松並木道が各離宮を結んでおりま
す。面積は54万平方メートルに及びます。拝観には、1時間15分ほどかかり案内役の係りの方の説明を聞きながら、下、中、上離宮と回ります。
最初に訪れる下離宮の入り口の御幸門前です。
杮葺きの屋根と板戸には花菱紋透かし彫りが施してあります。
下離宮庭園は、池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった寿月観が建ちますが、門などの付属建物を除きますと下離宮に残る建物は
寿月観のみだそうです。(寿月観も当初の建物ではないと云われております)。
拝観客の最後尾には係りの方が付きますが、前との間隔が多少空いてもせかされる事も無くゆっくりと写真も撮れ気持ち良く回らせてもらえま
した。
寿月観は、後水尾院行幸時の御座所となった建物で当初の建物は岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものであったが、享保年間(18世紀
前半)に失われ、文政7年(1824年)に再建されたもので、文政の再建は、徳川家斉が光格上皇のために離宮の改修を行った際のものであると
説明されております。
下離宮を出ますと左手の奥に比叡山山頂が望めます。 正面の山の中腹に上離宮が隠れておりますが、右手に広がる中離宮を先に回ります。
三離宮の間にはのどかな田園風景が広がります。
次に向かう中離宮は、後水尾上皇の第八皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年に造営された朱宮(あけのみや)御所が前身です。
朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められ、1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境
内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となり写真の田畑などは景観の保持の備えになされており現在は、近隣の農家の方に貸し出
されお米や野菜などが普通に栽培されております。
中離宮に向かう道の両側には、低く抑えられた松並木が続き、田んぼや畑と区切られております。
中離宮総門
中門
こちらの庭園も池泉回遊式庭園になっております。
客殿の隣に建つ瓦葺、杮庇の建物の楽只軒(らくしけん)の名前の由来は、『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名であ
ると説明されております。
客殿の杉戸には祇園祭の鉾の絵が描かれており筆者は、狩野敦信と云われております。
書院造の客殿は、1677年造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠氏の娘)の女院御所の奥対面所を移築したもので、客殿一ノ
間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐三法院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られております。
棚の下の地袋には友禅染、引手は羽子板の形、花車を形どった七宝流しの釘隠しなど、女性のお住まいらしい華やかさが表れております。
床、襖、壁には和歌や漢詩の色紙を張り交ぜるなど雅を極めており、襖の腰貼りは群青と金箔の菱形を交互に並べた幾何学文で飾られておりま
す。
客殿裏側
中離宮を後にして松並木を戻り上離宮に向かいます。
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