奥嵯峨野、大覚寺の北に位置する直指庵は、モミジと苔庭の美しい隠れた名所になっております。 紅葉の季節は観光客で溢れておりますが、この
時期は静かに回ることが出来ました。
浄土宗 祥鳳山(しょうおうざん) 直指庵(じきしあん) 直指庵は、南禅寺で臨斉禅を学んでいた独照性円(どくしょうしょうえん)が正保3年(1646)に
営んだ草庵「没蹤(ぼつしょう)庵」が起源です。その後、独照が明(中国)の日本黄檗宗の禅開僧・隠元(いんげん)禅師をこの地に招請し、教えを受け
てから帰依者も増え次々と伽藍が建ちならび大寺院となりましたが、黄檗宗の正統を「直指人心」するという意味から直指庵と称され寺名を定めなかっ
たと言われております。その後は次第に荒廃していき、諸堂は明治13年(1880)に焼失しましたが、有志の方々によって再建されました。
幕末の時代には、尊王攘夷(じょうい)派の公家近衛家に仕えていた津崎村岡が再建して、浄土宗の庵寺となりました。 村岡局は、近衛家の侍女と
して江戸城に行き、水戸藩士らと親交をもち、勤王の志士達と近衛家およびその他の公卿との連絡に当たり特に近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け
活躍したことから、安政5年(1858)の安政の大獄が起こると、村岡局も捕らえられて江戸に送られました。その後、放免された村岡は、北嵯峨の直指
庵に 隠居し付近の子女の教育に尽くし、晩年は嵯峨庶民の慈母であり、明治6年(1873)八十八歳でこの地で没しました。
左の階段を進みますと本堂の玄関につきます。
本堂から見下ろすかたちの苔庭
本堂 直指庵は悩む女性の駆け込み寺としても知られており、本堂内には心の内を打明けるためのノート「想い出草ノート」が置かれています。
本堂玄関
玄関前を右手に進み、写経堂、開山堂、思い出草観音、水子地蔵堂、村岡の墓所、道場と回っていきます。
本堂の右手の写経堂と二河白道の庭
待合とその奥には、水子地蔵堂と思い出観音が建っております。
待合に向かって左手に開山堂への階段があります。
境内の一番高台にある開山堂 開祖の独照性円の墓といわれる石塔を中央に祀ったお堂です。
開山堂から水子地蔵堂の横につながる細道です。
水子地蔵堂と石楠花
観音像の手前の一番大きい石塔には、 月潭澂老和尚之塔と刻まれております。
思い出草観音菩薩像 境内の一番奥まったところに建っており、五千冊以上の思い出草ノートに綴られたさまざまな苦しみや悲しみを取り除いてくだ
さり、願いを汲み取ってくださる観音様でノートを持っておられる姿をなされております。
水子地蔵堂
水子地蔵尊 水子地蔵をお参りすれば、子宝に恵まれるといわれており、別名「子授け地蔵」ともいわれております。
水子地蔵堂の前に佇む村岡の墓石 本名・津崎矩子は大覚寺の寺侍津崎左京の娘で 天明6(1786)年 嵯峨に生まれ8才で公卿の近衛家に仕え
たと言われ侍女から村岡局となりました。 明治6(1873)年に88才の生涯を閉じたと言われており、明治24(1891)年12月には、明治天皇より朝権
の回復に貢献したとして勲章が贈られたそうです。
五千冊の思い出草ノートが納められている道場への竹垣。
道場の奥には、直指庵の墓所があり、ただ今分譲中とのことです。
道場玄関
紅葉の時期は、解放されておりましたが、今日は閉まってました。
写経堂
すべての諸堂を回り本堂前に帰ってきました。
モミジの種が可愛く色づいておりました。
本堂玄関 本尊の阿弥陀如来像が祀られております。
本堂内で思い出草ノートを書くことができます。
本堂横手の日本石楠花の庭
直指庵には、7台程の駐車場がありますが、道が細くすれ違いが出来ませんので、土日や観光シーズンはお気を付けください。大覚寺に停めますと徒
歩5分程度です。
広沢の池の西側から見た右手が直指庵方面、正面の高い山が愛宕山だと思います。 雲一つない快晴の日でしたが、車の温度計は30度近くを指し
ておりました。
広沢の池
暑い中、何を待っておられるのでしょうか?
湖畔の平和の郷の庭園内に建つ休憩所の茅葺の建物です。