小雨降る新緑を楽しむには、最高のコンディションの中、八瀬の瑠璃光院に行ってまいりました。
叡山電鉄、八瀬比叡山口駅より高野川の清流に沿って歩き、吊り橋を渡ると瀟酒な山門が目に入ります。
ここ「八瀬」の地は、「矢背」とも記されるように、壬申の乱で背中に矢傷を負われた天武
天皇(672~686)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒されてより、平安貴族や武士たちに「やす
らぎ」の郷として愛されてきました。
喜鶴亭玄関
玄関に向かうエントランス
水の透明感が目を引きます。
本願寺歴代門跡もしばしば訪れたと記録に著され、明治の元勲三条実美
公は、当時の庵に「喜鶴亭」と名付けて直筆の命名額を下されています。
まず、玄関を入り受付を済ませますと、書院の二階に案内されます。二階に上がって最初に見える景色です。
正面に見える山裾を右手に進みますと大原の里につながります。
書院二階から眺める瑠璃の庭です。
大正末から昭和の初めにかけて、一万二千坪の敷地に延二四〇坪に及ぶ数奇屋造りに大改築するとともに、自然を借景
とした名庭を造営されました。
建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、築庭は、佐野藤右衛門一統の作と伝えられます。
その後現在まで、日本情緒あふれる名建築・名庭として多くの人々に親しまれております。
このお座敷で写経が出来、始めはしたのですが、結構時間が掛かるので途中で断念して持って帰ってきました。
次回、秋までに仕上げて奉納させて頂くことにいたしました。
二階から降りてきて、釜風呂に向かいます。
八瀬の釜風呂 日本式蒸し風呂の原型であり半円形の釜の中に10数時間、青松葉や薪などを燃やし、内部の土壁が
充分に熱せられた頃合を見計らって火を引いて燃えかすを掃除して、むしろを敷いて寝転がるお風呂です。
昔はこれほどの手間を掛け使用いたしましたが、現存する釜はボイラーを使用しているとの事です。
釜風呂の中まで入り見学することが出来ます。
書院、一階から見る瑠璃の庭
瑠璃(るり)の庭 瑠璃色に輝く浄土の世界を表わした当寺の主庭。数十種の苔のじゅうたんをぬって一条のせせらぎが
清らかに流れます。
瑠璃色とは、紫がかった深い青色。古くは薄青色と辞書には載っております。
瑠璃光院の名称のもとになった名庭です。 説明によりますと、高い木立のうっそうとした深山に分け入って、ふと木立が
とぎれ、泉が湧き、せせらぎが流れ、瑠璃色に輝く小宇宙に出会う。
この庭は、ある気象条件が整うと、深々とした苔が一瞬瑠璃の光をはなち、仏典にいう瑠璃光浄土が現れる、とあります。
書院を抜け御本尊が祀られている仏間から、茶室に向かいますが、建物が山の傾斜に
建っておりますので、階段で下に下がって行きます。
茶庵「喜鶴亭(きかくてい)」 茶室手前の縁側と庭園
臥龍(がりょう)の庭 天にかけのぼる龍を水と石で表した池泉庭園。眺める人の心を解放し、昇運の兆しをもたらすと
言われております。
喜鶴亭 茶室 三条実美公命名の由緒ある茶室。和敬静寂の精神を映す千家第六覚々斉原叟好みの佇まい。
">
臥龍(がりょう)の庭の座敷を挟んだ、裏庭です。
高野川に掛かる橋です。 瑠璃光院に叡山鉄道で来られた方は、もう一本下流の吊橋を使います。
大変、美しい瑠璃光院ですが、春の特別拝観は5月31日で終了いたします、次回は秋となりますので確認のうえ御参
拝ください。 075-781-4001
帰りに、蓮華寺に寄ってきます。
橋本関雪(1883-1944) 日本画壇の重鎮であり、大正5年よりこの地に移り住み昭和20年に亡くなられるまでの30年間、
庭園の造作に努力をされてこられました。
門を入ってすぐの所で出迎えてくれる、お釈迦さま?
の石像。
この石碑に刻まれた文字は、読んで字のごとく臭い物を食べてる方やお酒を飲んでる方の入山をお断りの標識です。
この「葷(クン)」と言う漢字は、韮やニンニクのように匂いのきつい野菜を意味するそうです。
国東塔(くにさきとう) 静御前の供養塔と伝えられる国内現存最大の国東塔。
国東塔(くにさきとう)とは、大分県国東半島を中心に分布する宝塔の一種で一般の宝塔が
台座を有さないのに対して、国東塔は基礎と塔身の間に反花または蓮華座、ものによって
は双方からなる台座を有するのが外観上の最大の特徴である。
こちらの母屋の座敷では、庭園を眺めながらのお食事も出来ます。受付で
申し付けてください。
芙蓉池越に見える存古楼(ぞんころう)
問魚亭茶室(もんぎょてい) 関雪が妻の為に造ったと言われる茶室。
シートに覆われているこちらの建物は、残念な事に今年災禍にみまわれ焼けてしまい、現在修復中です。
不審火とも漏電の疑いありとも言われておりました。
茅葺の美しい茶室です。
九輪草 ピンクまたは白色の花が段々に輪生(りんせい)し、茎を伸ばしながら下から段になって 次々と咲く。
輪生する花の、幾段にもなった様子が、お寺の五重塔などの頂上にある柱の飾り「九輪」のようなのでこの名になったそ
うです。
存古楼(ぞんころう)関雪画伯が、大作を描くために造った画室です。 現在は、個展や催し物やパーティーなどにも使わ
れるそうです。
クレマチスの一種(別名 鉄線 てっせん)
花菖蒲と竹薮に佇む羅漢像
これは、アヤメです。
花菖蒲、最近やっと杜若と花菖蒲とアヤメの区別がつくようになりました。
藪の羅漢像 羅漢とは、お釈迦様の下で修行を積んだおぼうさんとか、小乗仏教のさとりを得た聖者のことを言うそう
ですが、仏弟子などをさす場合も多いとか。
西側の庭園を回り復路に入ります。
写真の石などは、関雪画伯が自身で選び運ばせた物で、主に鞍馬のしづ原に出向き石に番号を振り庭園のどの位置に
使うかは、頭にえがかれていたそうです。
「石も木も呼吸している。それを見た瞬間、その呼吸さえぴったりすれば、すぐどこに据えるかという判断がつくべきである。
これは私の信条である。一つの物象を見た切那、これはこう描こう、そう感じた時、すでに画は出来ているのである。石を
据え、木を植えるのも同じ理合いでなければならぬ・・・」 橋本関雪遺稿より
善気山 法然院 萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ) 善気山は山の名をとり、法然院は開山上人の
御名により、萬無は中興和尚の称によっております。
銀閣寺に程近く哲学の道の東側、東山山麓に佇んでいる、閑寂な寺院です。拝観料が無料で檀家信徒で支えられている
寺院でもあります。梶田貫主の法話『法然・親鸞の人間観 善人・悪人』を拝聴することも可能です。
年2回 4月1日~7日 11月1日~7日の期間は伽藍内の特別公開が行われます。
この一枚だけピントがずれてしまいました。
山門
鹿ケ谷? 獅子谷 昔の呼び方でしょうか?
白砂檀 修行中の若いお坊さんが毎朝自分の心の中にあるものを描くそうです。先日伺った比叡山の浄土院の方もそう
仰っておられました。
両側にある白い盛り砂の白砂壇は、水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているそう
です。
人が少ないこの時期の静寂さがとても良いですね。
山門を入り白砂壇の右手にある講堂 もとは1694年建立の大浴室だったそうですが、1977年(昭和52)に内部を
改装し、現在は講堂として、講演会・個展・コンサートなどに利用されています。
講堂の向かいの経蔵 1737年の建立で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像が安置されております。
また多数の経典の版木も所蔵されております。
池に泥が多くすこし気になりましたが、後で理由がわかりました。
橋を渡り境内突き当たりにある庫裏で法話を聞くことができます。その庫裏の玄関です。 法話が聞ける時間はちゃんと
表示されていますが、前もって調べて行かれる事をお勧めします。 TEL: 075-771-2420
これも木魚と呼ぶのでしょうか? 年季が入っておりました。
下の張り紙は、用も無いのに叩く方が居られるからの物だと思いますが・・・
誰が何のために叩くのでしょうか?
葉っぱを使い上手く下の受け鉢に落ちておりました。 粋なアイデアですが、応急処置でしょうか?
庫裏から本堂に向かう石畳
雨が降ると山の斜面が急すぎて吸水力が追いつかないのでしょうね、土が流され根っこがむき出しになっておりました。
横の池も流れ込んだ泥で濁っており勿体なく思いました。
上の写真の樹々も倒されまいと必死で隣の樹にしがみついてる様に見えます。
本堂 堂内には、本尊阿弥陀如来坐像の他、観音・勢至両菩薩像、
法然上人立像、萬無和尚坐像が安置されております。
地蔵塔 本堂正面の石段上にある地蔵塔は、1690年忍澂和尚46歳の時、自身と等身
大の地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されたものだそうです。
地蔵塔から見た方丈と庭園 通常は拝観は出来ませんが、年2回の特別拝観があります。
復路です。
経蔵西側の多宝塔
谷崎潤一郎や著名人が永眠されている墓所です。
左手が銀閣寺方面、右手が安楽寺・永観堂・南禅寺方面です。 観光シーズンにこの道に車を乗り入れるとひんしゅくを
買いますし、すれ違いが出来ませんのでご注意を。 徒歩か人力車を利用してあげてください。
五月のある日、仕事帰りにお客さんに誘われ祇園甲部のお茶屋さんに飲みに連れて行ってもらいました。
この日は、お客さん6名と私の7名で二階のお座敷を利用し舞妓ちゃんを3人呼んでもらいました。 お茶屋・多麻さん所属の若菜ちゃんが、二週間後
の衿替えを控え、黒紋付に先笄(さっこう) を結い「黒髪」を舞ってくれました。
三味線を弾いていただいた地方のお姉さん
衿替えとは、舞妓さんから芸妓さんになる花街の儀式で、衿替えの二週間前から黒紋付を着て先笄(さっこう)の髪型を結い贔屓衆にお披露目いたしま
す。 自分の髪の毛で結う舞妓最後の髪型です。 後ろに控えておられるのが、多麻のお母さんです。
先笄(さっこう)とは、元々は京都を中心にした町家の若いお嫁さんが結っていた髪型で、現在は舞妓が芸妓になる時に結う慣わしになっております。
理由を尋ねますと、昔の舞妓さん芸妓さんは自由に結婚が出来なかったので、可哀想と言う理由から若妻の恰好をさせてあげたそうです。
多麻さんの満奈葉ちゃん若菜ちゃん弥須葉ちゃん地方の幸苑(ゆきその)さんです。
衿替えの時期は、先笄(さっこう)と共にお歯黒もいたします。お歯黒の意味は、昔は女性の身だしなみの意味がありましたが、時代と共にその意味あ
いが移り変わってまいり、平安時代から戦国時代においては娘の成人を意味し、江戸時代には既婚女性を意味いたしました。先笄(さっこう)と同じよう
に若妻の習慣に真似たものが現在まで続いているようです。
現在のお歯黒は、蝋に着色されたものをライターで炙り緩くなったものを指で付けるそうです。なんせ、熱に弱いため熱い料理や飲み物はこの時期は
極力避けるそうです。二週間の間ご苦労様です。 手前の満奈葉ちゃんは最近少なくなった地元出身の舞妓ちゃんで「お店出し」してからまだ一年が経
っていないので口紅は下唇だけです。
二階のお座敷から、一階のカラオケも出来るホームバー移動いたしました。
ホームバーでカラオケタイムが始まると、年頃の高校生と変わらないはしゃぎぶりで、若い子の唄う歌には全然付いていけませんでしたが、お客さんの
年代に合わせた懐メロにも対応出来、普段接しているお客様の層の厚さを感じました。
気が付けば、深夜二時を回っており花見小路の人影もまばらでした。約4時間遊ばせていただきました。 参考のためにお幾ら位になるのか想像いた
しましたが、自腹で来れる身分でもないので、ご馳走様にあずかりました。 これからも祇園街の発展のために宜しくお願いいたします。
青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、
現在は天台宗の京都五箇室門跡の一つに数えられています。青蓮院門跡は、古くより皇室と関わり深く格式の
高い門跡寺院とされております。
平安神宮の神宮道を南に下がりますと青蓮院、そのままこの道を
進みますと知恩院の山門へと続きます。
青蓮院の起源は伝教大師最澄による「青蓮坊」日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、
山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。
伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、
東塔の主流をなす坊でした。
長屋門と天然記念物の大楠(5本有ります)
華頂殿の襖絵 「蓮」です。
不動明王二童子画像(青不動)の9月からの初開帳に伴うプレス発表の会見が行われておりました。
青不動は平安仏画の最高峰とされる国宝で、東伏見門主の後ろに掛かっている画は、精密なデジタル複製で今回製
作されたものです。
過去三回、美術品として博物館などで公開されたことはありましたが、信仰対象としての御開帳は初めてだそうです。
期間中は、宸殿に安置され、夜間拝観も行われ恒例のライトアップもされます。
華頂殿から相阿弥の庭
相阿弥の庭 この写真からモード設定を間違え、実際の色より白けて写ってしまいました。
華頂殿から小御所への渡り廊下にあります。 一文字蹲 太閤秀吉からの寄進だそうです。
小御所
宸殿南側の庭園 手前が、左近の桜に右近の橘
相阿弥の庭園
小堀遠州作、霧島の庭
青不動が祀られている本堂
本堂南側の西方浄土を表した石庭
宸殿庭園の西南角にある鐘楼
鐘の下には、残響効果を高める甕が三個埋め込まれて下ります。
大玄関前に佇む親鸞像
この像は、昭和の始めに大阪の信徒さん
の願により建てられた物で、親鸞得度の時、
この近くの古松に馬を繫いだところから、
この場所に建てられたそうです。
大玄関
御祭神 第50代桓武天皇・第121代孝明天皇
日本文化の祖神を御祀りする平安神宮は、明治28年(1895)平安遷都1100年を記念して創建された神宮で、その社殿
は平安京の正庁朝堂院の様式を模しております。
應天門(神門)
大極殿(外拝殿)
手水場 白虎 蒼龍
蒼龍楼
大極殿(外拝殿) この時期の京都は、修学旅行生と外国人観光客がとても多いです。 最近の学生さんは、小グループ
で分かれ皆貸切タクシーで回っております。
神苑を入った所の枝垂れ桜です。 今年は見逃したので来年伺います。
花菖蒲
西神苑 白虎池 睡蓮(すいれん)
白虎池
西神苑を抜け本殿北側の鬱蒼とした樹間を進むと中神苑が見えてまいります。
蒼龍池
杜若(かきつばた)
栖鳳池(せいほういけ)と尚美館(貴賓館)
栖鳳池に掛かる泰平閣(橋殿)
泰平閣
この泰平閣の中央には、鯉の餌の自動販売機があり、人が顔を出したり手を叩くと鯉や亀などが寄ってきます。
神楽殿(結婚式場)
平安神宮から神宮道を下がって来ますと三条通りの角のビルに
描かれた般若に出会います。
常行堂、法華堂と言う同じ形の二堂が、渡り廊下で繋がっており、俗に『弁慶のにない堂』と呼ばれております。
法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われます。
にない堂 弁慶ゆかりの地
西塔には力持ちの弁慶が常行堂と法華堂の渡り廊下をてんびん棒にして担いだという伝説から『弁慶のにない堂』と
呼ばれるようになりました。
弁慶は比叡山延暦寺に入り、自ら西塔の武蔵坊に住んだことから武蔵坊弁慶と名乗り、学問や仏修行より武芸が好き
であったと伝えられています。
釈迦堂
西塔の中堂で、正式には転法輪堂と言い、現在の建物は、信長の比叡山焼討ち後、秀吉が三井寺(園城寺)の金堂を
1596年移築して手を加えたと伝えられています。
山内では最も古い建物で本尊は伝教大師御自作の釈迦如来立像で、堂の名前もこれに由来する。
「普賢象」
奥比叡ドライブウェイの展望レストランより。
伝教大師象
展望レストランに車を止め徒歩で青龍寺に向かいました。
青龍寺までの距離を確認せずに向かったのですが、この看板を見て少し
後悔しました。
この時点で約20分ほど下って下って下って、帰り道を考えると憂鬱に
なってきました。
やっとたどり着いたと思ったら。
最後に嫌がらせの様な階段が待ち受けておりました。
黒谷青龍寺は、浄土宗の開祖である法然上人(1133~1212)が若いときに修行された聖地とされています。
18歳でこの地に隠遁された法然上人は、43歳で浄土宗を開祖され比叡山を下山されるまでの25年間を、ここで修行
されたそうです。
本堂は、慈恵大師良源(912~985)によって創建されております。
若き日の法然上人の像。 18歳の上人の姿が表されております。
ご本尊は阿弥陀如来座像が祀られ、維摩居士像と法然上人座像が
安置されております。
青龍寺には、昭和42年に青少年の教化研修のための修行道場が建てられており、毎年浄土宗門系の各学校などが
研修、別時、念仏の道場として活用されております。
片道30分、2キロ弱の行程を戻ります。この日は夏日で汗だくの中水も無く泣きそうになりながら戻りました。
この写真は、昨年11月に来たときの物です。
ロテルド比叡
ロテルド比叡を過ぎたところの展望台です。
大津市内です。
60日に一度の三面大黒天さんの御本尊を預けに比叡山に行って参りました。ドライブウェイを走っていて新緑の中に
京都市内では、4月下旬に終わった里桜の品種が咲き乱れており、もう一度お花見が出来ました。
里桜の品種の「松月」と表示されていました。
この樹も「松月」です。
比叡山・東塔から西塔に向かう遊歩道の途中にある湧き水です。
「大島」
「御信」
「普賢象」
比叡山・東塔から車で5分で西塔の入り口に到着いたします。徒歩なら
20分ほど掛かると思います。
手前駐車場から坂を下り突き当りを右手の伝教大師御廟の浄土院に向かいます。
この階段を進めば東塔に繋がります。
浄土院は、伝教大師の御廟所で、比叡山で最も清浄な聖域に当ります。822年に入寂された大師は、この地に埋葬さ
れました。
御廟を守る僧は侍真と称され、厳しく戒律を守り、12年間籠山の誓いをたてて行に励み、大師にお仕えするそうです。
白砂の庭園の模様は、その日に掃き清める修行僧の方の気分と感性で描かれているそうです。余り難しく考え過ぎると、
出られなくなるそうで慣れるまで大変苦労されるそうです。
この庭は、今日はあまり気が乗らなかったのでしょうか、それとも直線が一番難しいかも?
などと考えながら観察しておりました。
高僧の方が見れば、その日の修行僧の心の動きを見透かされそうです。
浄土院を出たところの石垣です。 いつ見てもこの色の苔が生えております。
この方が、先ほど石庭のお話を伺った修行僧の方です。 あと何年ここに
籠られるのか聞くのを忘れましたが、頑張ってくださいとだけ申し上げて
おきましたが、余計なお世話だったかも知れません。
浄土院を後にし、来た道を戻りますと最初に椿堂があります。 にない堂の手前にある小さなお堂で、千手観音が祀られ
ております。
聖徳太子が入山されたおり、杖にしていた椿の枝を土にさして帰ったところ、根をおろしてあたり一面に育ったというのが
名前の由来です。
椿堂の裏手の階段を登ると、すぐに弁慶のにない堂があります。
大田神社から上賀茂神社に向かう途中の風景です。上賀茂神社からの小川が流れ風情を感じられます。
上賀茂神社の門前町の社家と呼ばれる独特な造りの家々は、昔は神社に仕える方々が住んでおられた住居です。
明神川には、一軒一軒橋が掛けられております。各家々は、この川の水を家に引き入れ生活用水として利用されて
おります。
上賀茂神社 一の鳥居 正式名称を加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と言い加茂別雷大神が祀られております。
この注意書きは、5日に行われる「加茂競馬(くらべうま)」のための立て札です。
手前が、斎王桜で奥が御所桜と書いてありました。
来年はこの枝垂れを観に来ます。
日本の乗馬の発祥の地とされ、馬とのかかわりが深い上賀茂神社は、5日に天下泰平と五穀豊穣を祈願する「加茂競馬」
が行われます。
二頭の馬に「乗尻(のりじり)」と呼ばれる騎手が黒い装束と赤い装束に分かれ6回勝負いたします。当日は5千人もの
観客が観戦に訪れるそうです。
飼葉は有料で馬に直接食べさせてあげることが出来、小さなお子さんが
恐る恐るあげておりました。 神馬舎
二の鳥居前の御所舎
上賀茂神社の由来は、神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、
現在の社殿の基が造営されました。
本殿御鎮座以後も広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまなく、国家の重大時
には必ず奉幣、御祈願がありました。
嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎王(さいおう)と定め、その制度は以来三十五代、
約四百年続きました。
細殿と立砂
御手洗川
楼門
中門(ちゅうもん)この奥が本殿になってます。
新緑の中、水遊びが出来、一の鳥居と二の鳥居の間の枝垂れ桜の
周りでは、お弁当を広げているグループも多数あり開かれた空間
になっております。
桜の周りでピクニック感覚の方が沢山おられました。
北区、上賀茂に位置し古くは恩多社(おんたしゃ)と呼ばれた事もあり、上賀茂神社の摂社です。
上賀茂神社の東、徒歩で10分程度の距離です。
祭神には、天鈿女命と猿田彦命を祀っており、延喜式内の古社で、この付近の沼沢池を開墾して栄えた賀茂氏の崇敬を
受けた神社です。
右方東側の沢池を「大田の沢」といい、野生のかきつばたが美しく咲き乱れております。
藤原俊成の古歌に「神山や大田の沢のかきつばたふかきたのみは色にみゆらむ」と詠われ、平安時代からこの付近の
沢地には、かきつばたが咲きみだれて、名勝となっていたようです。
五月上旬から下旬にかけ、濃紫、鮮紫の花が美しく咲き、このかきつばたの群落は、国の天然記念物に指定されています。
約二万本群生していると言われ、5月20日頃までが見頃と仰っておられました。
車で行かれる方は、神社の西側に5~6台分の駐車スペースしかなく、周りは住宅で道路も狭いので御気を付けください。