京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

嵯峨野 二尊院 新緑 6/16/2011

2011年06月26日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      二尊院(にそんいん)は、嵯峨野にある天台宗の寺院で、山号は小倉山、正しくは小倉山二尊教院華台寺といいます。二尊院の名は、本尊の「発遣の

      釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像が祀られているところからきております。  総門は慶長18年(1613)、豪商角倉了以氏の寄進によるものです。

 

  

 

 

 

      

      総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られ、また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所があり

      ます。 

      

 

 

      

      起源は嵯峨天皇(809~823)の勅願によって慈覚大師が承和年間(834~847)に開山し、鎌倉初期には円光大師(法然上人)がここに居を定め、当時

      の貴顕の信望を集めたと伝わります。以後、一時荒廃いたしますが、法然上人の高弟である湛空らにより再興され、応仁の乱により堂塔伽藍が全焼い

      たしますが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建されました。 本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)唐門「小倉山」

      の勅額(後柏原天皇)は、この時に下賜されたものです。       

 

 

 

      

      境内の山側の高台にはには、土御門(つちみかど)天皇、後嵯峨、亀山三天皇の分骨を納め、三帝陵として明治維新までは勅使の参拝がありました。

      また、二尊院は皇室直属の黒戸四ヶ院の一寺で明治維新迄御所の御内悌殿のお守りをして居り、宮中でのお彿事を勤めてきた歴史もあります。

 

 

 

 

 

      

      黒戸四ヶ院とは、もともと皇室をはじめ一般庶民にいたるまで、葬儀の際には仏教が関わるようになってきておりましたが、皇室は明治維新に神仏分離
     
      令により仏教を捨ててしまったため、今は無関係でありますが、京都には今でも「黒戸の四箇院」といって、皇室の葬儀などの仏事を専門的に行ってきた
      4寺院が現存しております。即ち、二尊院(京都市右京区)・般舟三昧院(上京区)・廬山寺(上京区)・遣迎院(北区)の4ヶ寺をいい、「黒戸」とは内裏の御内
      仏の扉が黒塗りだったことに由来し、元は四宗兼学といって、天台・真言・浄土(西山義)・律の教学を宗旨としていた寺院です。
      そういう皇室との関係から、昨年(22年)天皇両陛下が京都にお越しになられた時に、二尊院にお立寄りになられました。


 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

              勅使門の唐門 

 

 

 

 

 

      

      二尊が祀られる本堂 

 

 

 

 

 

 

      

      二尊院の本堂前庭は、その昔この地に龍女が住み、正信上人によって解脱昇天した故事をもとに「龍神遊行の庭」と申し、また、本堂南側の石庭は浄

      土の世界をあらわしたものとして「寂光園」と名づけられております。
 

 

 

 

 

 

      

       木造、釈迦如来立像・阿弥陀如来立像  本堂に安置されております二体の本尊は、鎌倉時代の作で、像高は両像とも78.8センチ、向かって右に発

      遣(ほっけん、現世から来世へと送り出す)の釈迦如来、左に来迎(西方極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来が並び立ちます。像表面は現状では黒

      ずんでおりますが、金泥塗りとし、截金で文様を表しております。 

 

 

 

                           

      両像はよく似ておりますが、下半身の衣文の形式などに変化をつけており、右の釈迦如来像が右手を上げ、左手を下げる一般的な印相を示すのに対

      し、阿弥陀像は右手を下げ、左手を上げる形に造り、両像は左右対称形となっております。また、通常の阿弥陀如来像は親指と人差し指(または中指、

      薬指)で輪をつくる印相を示しますが、二尊院の阿弥陀如来像は下げた右手の指を5本とも真っ直ぐ伸ばしている点が珍しいそうです。 

 

 

 

 

 

      

      本堂の南側の納経所から本堂に上がります。 御朱印受付の右手が、浄土の世界をあらわした石庭の「寂光園」です。
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      寂光園 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               愛宕山の「火の用心」お札が、貼られております。 

 

 

 

 

 

      

      庭園奥の 茶室「御園亭」は後水尾天皇(1611~1629)の第五皇女、賀子内親王の御化粧間であったものを元禄10年に下賜されたもので、狩野永

      徳筆の腰張りがあるそうですが、一般公開はなされておりません。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      本堂南側に展示されております「御駕籠」は、江戸時代末期頃、二尊院住職が御所に読経(おつとめ)に上がる時に使用されたもので、菊の御紋が付

      いているため、無条件で出入りできたそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      本堂北側の御霊屋と奥に九頭龍弁財天堂

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      九頭龍弁財天堂 

 

 

 

 

 

               

               弁財天堂の前に建つ扇塚

      

      吉村雄輝氏とは、 上方舞吉村流の四世家元で、人間国宝です。高知県生まれで、俳優池畑慎之介 (ピーター) の実父だそうです。  

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

                   九頭龍弁天堂と鐘楼の間の階段を登りますと、湛空上人廟が建ち、廟の左手の山中

                  に「時雨亭」跡があり、藤原定家卿が百人一首を選定した場所として知られております。  

 

 

 

 

      

      二尊院中興の祖、湛空上人廟 

 

 

 

 

 

      

      坂の途中にある公卿の墓所

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      角倉了以像の裏手にたつ鐘楼、梵鐘は1604年の鋳造でしたが、1992年に再鋳し、「しあわせの鐘」と名付け、世界平和を祈願して参拝者に撞いてい

      ただける様になっております。

 

 

 

 

 

      

      角倉 了以(すみのくら りょうい、1554年~1614年8月17日)は、戦国期の京都の豪商で、 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、京都山

      城の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名です。 

      角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉 つまり質屋も営んでおり、了以は祖父の企業家精神と、医者であった父の科学的精神をうけて、

      医業は弟に譲り自分は土倉経営 を中心に家業を発展させ、海外貿易でも文禄元年(1592)豊臣秀吉の朱印船に加わり、安南国(今のベトナム)と貿

      易して莫大富を得ました。家康が江戸幕府を開いて3年後に、京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの

      舟運に関する権利を得て、開削を始めて6カ月後には竣工させております。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を 振るって仕事にあたっ

      たと言われ、史料等々によりますと、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着 き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれは

      じめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと記録されております。 角倉家 は、莫大な資金を投じて開削ましたが、開削後の水運による収益を

      すべて独占する事で、さらなる利益を得たと考えられます。他にも幕命により了以が行った通船のための河川疎通事業としては、 富士川・天龍川・高

      瀬川等の開削があります。

 

 

                

               

               

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      小倉餡発祥の地の石碑の横のモニュメントは、「真(しん)」と名付けられ、平安遷都1200年祭にプレイベントして開かれた野外彫刻展の入選作で、橋

      本清氏の作品です。 円形は時間の流れを現し、ややねじれているのは、この世に完全無欠なものはないことを象徴していると説明されております。

     

 

 

 

 

               

               こちらの石碑は、井筒八つ橋本舗が、創業200年を二記念して建てられたもので、裏面に小倉餡の歴史が刻まれ

               ております。 

 

 

 

 

 

 

      

      境内の北の端に建つ八代ノ宮

 

 

 

 

 

 

               

                八代の宮の前から坂を上って行きますと各家の墓所があります。公家の二条家、三条家、四条家、三条西家、

               鷹司家の墓地のほか、伊藤仁斎・伊藤東涯父子、角倉了以・角倉素庵父子の墓など。また境内奥には土御門

               天皇、後嵯峨天皇、 亀山天皇の分骨を安置する三帝陵があります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      唐門内側の「小倉山」の勅額(後柏原天皇)は、永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建されました時に下賜されたものです。       

 

 

 

 

 

      

      蟇股の牡丹でしょうか?椿でしょうか? 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      雨の中の遠足でしょうか、小学生数人が総門の軒下でお弁当を食べておりました。 雨降りで可哀想ではありましたが、・・・・・・・ 

 

 

 

 

 

      

      山門の向かって左手前に「大界外相(たいかいげそう)」と刻まれた石碑が立ち、ここからは聖域であるという意味を表しています。その当時の律宗の寺

      院では「禁女人入門内」という意味も含まれているところもあるそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

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鹿ケ谷 安楽寺 新緑 6/4/2011

2011年06月23日 | 洛東 銀閣寺方面

      

       住蓮山安楽寺は、鹿ケ谷・法然院の南にあり、法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人を開基とします。この開山両上人が、現在地より東1キロメート

      ルあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結び、布教活動の拠点を持たれたのがこの寺のはじまりです。

 

 

 

 

      

      山門前の石柱には、「浄土礼讃根元地」と刻まれており、開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(天台宗)の礼讃

      声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。両上人が称える礼讃は誠にすばらしく、両上人の前で出家を希望する人も出るほどと

      伝わっております。

 

 

 

 

                  

      その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられ、両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、いつしか仏門に入りた

      いと願うようになりました。建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」

      を訪ね剃髪、出家を乞います。最初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫のお詠に感銘され受け入れをけついされました。


      「哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき」
     

 

 

 

 

      

       19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け「妙智法尼」と法名を授かり、また17歳の鈴虫姫は、安楽上人から剃髪を受け「妙貞法尼」と法名を授かり

      ます。

 

 

 

 

      

       この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てます。翌建永2年(1207)2月9日、住蓮上人は近江国馬淵(まぶち)(現在の滋賀

      県近江八幡市)で、同日安楽上人は京都六条河原(東本願寺近く)で斬首され、この迫害はこれに止まらず、法然上人を讃岐国(香川県高松市)に流罪、

      親鸞聖人を越後国(新潟県上越市)に流罪に処します。いわゆる建永(承元)の法難です。

 

 

 

      

      

       その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられています。

 

 

 

 

 

      

       また、両上人の亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃いたしましたが、流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命

      ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けられました。その後、天文年間(1532〜55)に現在地に本堂が再建され、今日にいたっております。

 

 

 

      

               

               なお、安楽寺は、春と秋のお花の時期に併せて一般公開を行い、庭園をはじめ、本堂・書院を解放しております。

               春は、さくらの頃、つつじの頃、サツキの頃を中心として、秋は、もみじの頃に公開日を設定しています。

               仏さまのみ教えに触れていただきたいという願いを込め、本堂で30分おきに約10分間、寺の由来やお木像の説

               明をしていただき、また、書院では(催しが行われている時は除く)床の間に宝物(掛け軸)を公開し、ご希望があ

               れば、絵解きもしていただけるそうです。法務がない時間帯は、住職が本堂におりますので、寺の縁起のこと、仏

               教のこと、植物のことなどお尋ねがありましたら、できる限り対応していただけるそうです。また、納経(朱印)は書

               院で受け付けております。  公開の日時は、土日が中心になりますが、毎年時期がずれることがありますので、

               ネットなどで確認の上参拝してください。  http://anrakuji-kyoto.com/anrakuji

 

 

 

 

 

      

      本堂 

 

 

 

 

 

                  

                   山門を潜り参道を進みますと、左手に本堂、右手に石碑が立ち両上人の墓所が佇

                  んでおります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       墓所前の両氏の歌が刻まれた石碑

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      安楽寺では、毎年7月25日の9時から15時(入山)まで「中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供養」を勤めており、当日ご参拝されたお方に、煮炊きされた鹿ヶ

      谷カボチャを食べていただき、中風にならないよう祈願する行事です。鹿ヶ谷カボチャは、寺伝によりますと、寛政年間をはじめ(1790年頃)、京都の粟

      田に住んでいた玉屋藤四郎(たまやとうしろう)が青森県に旅行した際にカボチャの種をお土産に持ち帰り、鹿ヶ谷の庄米兵衛に与え、当地で栽培した

      ところ、突然変異して、ひょうたんの形になったといわれています。

 

 

 

 

 

      

       この頃、当寺の住職、真空益随(しんくうえきずい)上人が本堂でご修行中、ご本尊阿弥陀如来から「夏の土用の頃に、当地の鹿ヶ谷カボチャを振る

      舞えば中風にならない」という霊告を受けられたそうです。以後7月25日に供養日を定め、今日にいたっており220年続く伝統行事です。

      なお、当日、本堂では「安楽寺縁起絵」「剃髪図」「九相図」などの宝物(掛け軸)十数点も虫干しを兼ねて公開され、10時と15時から絵解きも行われ

      ます。

 

 

 

     

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂西側の「縁」と彫られた石碑

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂右手が庭をはさんだ書院になります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       書院の南側の客殿につながる架橋と呼ぶのでしょうか? 

 

 

 

 

 

                

                 書院と客殿の間の坪庭

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂正面

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       客殿 「椛 momiji」 2010年夏、安楽寺境内に新しい客殿が建築されました。飛騨高山の大工さんを招き、日本の伝統的な建築方法で木と土の家

      が完成しました。東山の木々を借景とし境内の桜やさつき、紅葉を融合するこの建物を「椛 momiji」と命名しました。お寺の中のフリースペースとして

      広く開放していきたいと思います。 お寺の公開していない日を中心にカフェスペースとして開放しています。安楽寺オリジナルの「京野菜ジュース」を飲

      みながらお寺の庭園でゆっくり自分だけの時間をお過ごしください。詳しくはhttp://anrakuji-kyoto.com/momijiを御確認してください。

      安楽寺ホームページより。

 

 

 

 

     

      

 

 

 

 

 

 

               

                生垣には、幾種類もの木々が使われており、季節ごとの花を咲かせております。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       安楽寺の前の道路は、車がすれ違うのがやっとの幅しかないのと、駐車場がありませんので、紅葉シーズンの土日は車の乗り入れはお勧め出来ませ

      ん。 歩いてる方の顰蹙の眼差しを浴びることを保証いたします。 銀閣寺に何カ所か大きい駐車場がありますので、そちらをご利用ください。徒歩10分

      程度です。

 

 

 

 

 

 

 

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山縣有朋別荘 無鄰菴 新緑 5/24/2011

2011年06月19日 | 洛中 

      

       岡崎の動物園の疎水を挟んで南側に位置する無鄰菴庭園は、明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて明治・大正の元老である山県有朋(

      やまがた ありとも)が京都に造営した別荘です。その名は、有朋が長州(山口県)に建てた草庵が隣家のない閑静な場所であったことから名付けら

      れたといいます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       その後、有朋は京都の木屋町二条に別荘を構え、無鄰菴と号しましたが、さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え、明治27年(1894)現在の

      地で無鄰菴の造営にとりかかりました。工事は日清戦争の勃発により一時中断しましたが、翌年2月から本格的な工事を再開し、明治29年(1896)に

      完成しました。 有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し、多忙な公的生活の合間にも夫人を伴ってしばしば訪れましたが、その後大正11年(1922)に8

      3歳でこの世を去っています。

 

 

 

 

 

      

      玄関を入り受け付けは、左手奥にあります。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      拝観受付を済ませ、小さな庭園入口の潜戸を入ります。 

 

 

 

 

 

      

       左手に母屋があり、庭園内を廻ることが出来ます。 右手は「無鄰菴会議」が開かれた洋館です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      敷地の大半を占める庭園(面積約3,135平方メートル)は、有朋自らの設計・監督により、平安神宮の神苑などを手掛けた造園家・小川治兵衛(おがわ

      じへえ)が作庭したもので、ゆるやかな傾斜地に、東山を借景とし、疏水の水をとり入れ三段の滝・池・芝生を配した池泉廻遊式庭園です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       母屋の小川をはさんだ南側には、藪内流燕庵写しの茶室が建ちます。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動

      きがあったと云われており、この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を

      命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされました。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられ、琵琶湖からこの地に至る

      琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工すると、京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っ

      ておりました。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となり、無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを

      引き受けることとなったと説明されております。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

      

       庭園の東端には、池の源泉になる琵琶湖疏水を引き込んだ、滝があります。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       庭園は、池を一周するのではなく、滝の所で引き返すように散策路が出来ております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

               茶室東側の蹲踞

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       茶室西側

 

 

 

 

 

      

       母屋二階と茶室は、事前の申し込みがあれば、借りることが出来るそうです。  詳しくは電話でお尋ねください。 075-771-3909

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      二階建ての洋館の1階は展示室となっており、山縣氏の功績や小川冶兵衛氏の作庭した庭の写真などが展示されております。

 

 

 

 

     

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日ー 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)から、明治維新を経て陸軍軍人、政治家

      として活躍した人物で、階級は元帥陸軍大将、位階は従一位、勲等は大勲位となっております。功級は功一級、爵位は公爵、内務大臣(初・第2・第

      3代)内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)な

      どを歴任いたしました。 長州藩領内の蔵元仲間三郎有稔(ありとし)の子として生まれ、幼少の頃より改名を重ね、明治維新後は有朋の名を称しまし

      た。 高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となり、明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築い

      て「国軍の父」とも称されるようになりました。国政に深く関与するようになってからも「わしは一介の武弁」と称するのが常であり、官僚制度の確立に

      も精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成し山縣が軍部・政官界に築いた幅

      広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称されまでになりました。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保

      ち、「日本軍閥の祖」の異名をとり、伊藤博文とならび明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物です。  

 

 

 

              

              七代小川 治兵衛(おがわ じへえ、1860年5月25日ー 昭和8年(1933年)12月2日)は、近代日本庭園の先駆者

              とされる作庭家、庭師で、通称植治(屋号)の名で有名です。 中興の七代目小川治兵衞は源之助といい、山城

              国乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)生まれで、明治10年(1877年)に宝暦年間より続く植木屋治兵衛で

              ある小川植治の養子になり、明治12年(1879年)に七代目小川治兵衛を襲名いたしました。 

 

 

 

 

      

      植治は、明治初期、京都東山・南禅寺界隈に新たに形成された別荘地において、東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群

      (南禅寺界隈疏水園池群)を手掛けたことで名高く、琵琶湖疏水は計画段階では工業動力としての水車に用いることが期待されていたものの、その後、

      工業動力としては水力発電が採用され、明治23年(1890)に疏水が完成した時には水車用水としての用途はなくなっておりました。明治27年、植治

      は並河靖之邸の七宝焼き工房に研磨用として引きこんだ疏水を庭園に引き、次いで山縣有朋の求めに応じて、庭園用を主目的として疏水を引きこん

      だ無鄰菴の作庭を行い、これを草分けとして、植治は自然の景観と躍動的な水の流れをくみこんだ自然主義的な近代日本庭園を数多く手がけて、それ

      らを設計段階から資材調達、施工、維持管理まで総合的に引き受けていきました。 

 

 

 

 

 

      

      植治の手掛けた庭園は数多く、平安神宮・円山公園・無鄰庵(山縣有朋公邸)・清風荘(西園寺公望公邸)・対龍山荘(市田弥一郎邸)・等国指定名勝

      指定庭園の作庭をはじめ、さらに古河庭園、平安神宮、京都博物館前庭、野村碧雲荘などや住友家(有芳園・茶臼山邸・鰻谷邸・住吉・東京市兵町邸)

      ・三井家・岩崎家・細川家等数多くの名庭を残し、そのほかにも京都御苑と御苑内御所・修学院離宮・桂離宮・二条城・清水寺・南禅寺・妙心寺・法然院

      ・青蓮院・仁和寺等の作庭および修景も手がけました。

 

 

 

 

 

 

      

      植治の屋号は現在に至るまで代々「小川治兵衞」の名前を受け継いでおり、とくに写真にある7代目の作庭は有名であるが、しかし実際には、7代目

      作とされる庭も8代目、9代目により製作されたものもあり、混同されているまま現在に伝わっている点もあります。当時は、京都御所、桂離宮、二条城

      や市内街路樹などの手入れも植治で行い、東京の岩崎邸の修景なども手掛けております。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられたそうで、日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」

      が行われました。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎でした。

 

 

 

 

 

      

       当時、ロシアは強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめており、 桂は、ロシアの満州における権利は認めても、

      朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊

      藤と山縣から取り付けようとしたのがこの会議です。

      この時桂は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤と山縣から同意をとりつけ、以下はその時の「対露方針四個條」です。

  1. 露國にして、満州還付条約を履行せず、満州より撤兵せざるときは、我より進んで露國に抗議すること。
  2. 満州問題を機として、露國と其の交渉を開始し、朝鮮問題を解決すること。
  3. 朝鮮問題に対しては、露國をして我が優越権を認めしめ、一歩も露國に譲歩せざること。
  4. 満州問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること。

  この後、この「満韓交換論」に基づく対露直接交渉の方針は、山縣、伊藤、大山、松方、井上に、桂首相、下村外相、山本海相、寺内陸相が出席した

  6月23日の御前会議に提出され、上の方針に基づいて対露交渉に臨むことが確認されました。国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まり

  つつありましたが、元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争という破局を避けようと模索していたとあります。

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      車でお越しの方は、無鄰菴南側にある京都市国際交流会館の駐車場が一番近くて便利だと思います。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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御寺 泉涌寺 新緑 5/23/2011

2011年06月17日 | 洛南 東山 東福寺方面

      

      御寺(みてら) 泉涌寺は天長年間(824~)、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名されました。

      建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた

      大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみました。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改められ、この泉

      は今も枯れることなく涌き続けております。

 

 

 

      

      月輪大師は若くして仏門に入り、大きな志を持って宋に渡り深く仏法の奥義を究められ、帰国後に泉涌寺を創建して戒律の復興を計り、律を基準に

      天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として大いに隆盛させました。時の皇室からも深く帰依せされ、1242年に四条天皇が当寺に葬られてからは、

      歴代天皇の山陵がここに営まれるようになり、皇室の御香華院(菩提寺)として篤い信仰を集めております。 こちらの門は大門と呼ばれております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門を入り正面に位置する仏殿 当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降建立のものです。大門から参道を下って正

      面の仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されております。仏殿は一重もこし付入母屋造り本

      瓦葺き、唐様建築の代表作で、国の重要文化財に指定されております。

       

 

 

 

 

      

      仏殿には、御本尊の三尊仏が祀られており、内陣に向かって左から伝運慶作お阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されております。

      
     
  
 

 

 

      

      仏殿から望む本坊 

 

 

 

 

 

      

       舎利殿の南側に位置します霊明殿前の門。

 

 

 

 

 

      

      仏殿の後方、舎利殿は、釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿であり、慶長年間(1596~1615)、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同

      時代に現位置へ移されました。開山俊律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来し遷座いたしました。

      舎利殿では、天井板に描かれた龍の下で手を叩きますと天井板が響く「鳴き龍」がありますが、特別公開の時以外は経験することが出来ません。


 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿東側の御座所の勅使門

 

 

 

 

 

      

       霊明殿

 

 

 

 

 

      

       本坊を入り御座所の庭園に向かいます。

 

 

 

 

 

      

       左、本坊玄関と御座所の玄関があり右手は、霊明殿です。

 

 

 

 

 

               

               現在の霊明殿は、明治17年に明治天皇により再建されたもので、外観は宸殿風になっており内陣・中陣・外陣に

               分かれており天智天皇以来の歴代天皇の御尊牌が奉祀されており、皇室との御縁が深く、内部の荘厳具は明治

               天皇以降のご皇族から寄進されたものだそうです。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本坊玄関 

 

 

 

 

 

               

                本坊玄関の襖絵

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      御座所 明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失いたしましたが、明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の

      御里御殿をお移しになりました。この建物は文化15年(1818)に造営されたものであり御殿は西に御車寄があり、これに続く一棟は六室に別れ、南側

      は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼んでおります。

       玉座の間

 

 

 

 

 

      
       御座所玄関と勅使門

 

 

 

 

 

      

      御座所庭園

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       御座所から見た霊明殿ですが、こちらは拝観はなされておりません。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      御座所庭園 御座所の東南から御殿の南側にかけて、小さな御庭が築かれており、霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれた御庭です。

      庭園の東側には、月輪陵(つきのわみさぎ)と呼ばれる墓所があり、四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれて

      おり、ここに鎮まる方々の御葬儀は泉山長老が御導師をお勤め申しあげ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされているそうです。 

 

       月輪陵

    

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      海会堂は京都御所内の御黒戸を移築したもので、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られている。方形土蔵造り塗り込めの御堂で、外

      面は白壁塗り、床も高く御屋根は宝形造り御厨子入りの御仏体は大小様々であるが、各時代の代表的仏師が心をこめて彫像しただけあって、いずれ

      も素晴らし御像が祀られております。

        海会堂

      

 

 

 

               

               菊の御紋の蹲踞                       

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       舎利殿と仏殿

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      坂の手前の白壁の建物は、浴室でその横に、寺の名前の由来になった泉涌水があります。 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       泉涌寺の大門を潜りすぐ左手にある楊貴妃観音堂

 

 

 

 

 

      

      楊貴妃観音堂は、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文)で湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに将来された像です。

      像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来ました。

 

       楊貴妃観音像

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       観音堂前の願掛け地蔵

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

                         

  

                

 

 

 

 

 




 

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泉涌寺塔頭 雲龍院 新緑 5/23/2011

2011年06月15日 | 洛南 東山 東福寺方面

       

      泉涌寺別院 別格本山 雲龍院 本坊南の高所に位置する別院雲龍院は、1372年後光厳院(ごこうごん)の思召しによって、竹巌聖皐(しょうこう)

      が開いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経の儀を興そうと寺領を寄せられました。 また後小松、称光の両天皇もこの寺を崇敬され、四天皇崩

      御の後は後山に御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が霊明殿に奉安されており、古くから写経道場として修行の場とされております。

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       山門を潜ったところ左手の社

 

 

 

 

 

      

      石畳左手に「衆宝観音」像が鎮座されております。 

 

 

 

 

 

      

      知徳照十方と書かれた球体は、 衆生観音の右隣にりあり「知徳照十方」とは、知と徳をもって十方を照らすとの、弘法大師(空海)の教えを表している

      ものだそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       石畳正面の庫裡を右手に進みますと、拝観受付の玄関があり柱には、木版が掲げられており 「生死事大無常迅速」の言葉が書かれております。

      この句は、修行僧の修行道場ひ書かれている語句で、生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(かくぎせいかく)慎勿放逸(しん

      もつほういつ)と書かれています。その意味は「生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進につ

      とめ、無為に過ごしてはいけない」。叩いて合図をするだけではなく、その音声で心をも目覚めさせようとの意味が込められています。

 

 

 

 

               

                玄関を入り正面に雲龍図が迎えてくれます。

 

 

 

 

 

      

       雲龍図を左に進めば書院があり、右手には客殿につづき霊明殿、本堂へと順路が示されております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本殿の裏手、右側が玄関、左側が霊明殿に囲まれた坪庭

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       霊明殿前 毛氈を進みますと本堂正面に出ます。

 

 

 

 

 

      

       勅使門と本堂の龍華殿前

 

 

 

 

 

      

       白壁の向こうが山門からつづく石畳みの参道です。

 

 

 

 

 

      

      本堂 龍華殿 昭和四十一年に重要文化財に指定された本堂の龍華殿は、さわら材を竹の釘で打った雄大なこけら葺きで今ではたいへん貴重なもの

      となっています。雲龍院は、南北朝時代の後光厳天皇と三代にわたる菩薩寺院で、特に後円融天皇が写経の功徳をご信奉になり、妙法写経を発願さ

      れ、それ以降妙法写経の勤修は雲龍院に受け継がれております。 正面に見えるのが写経塔で、玄関受付で申し込めば、龍華殿内で写経をすること

      が出来ます。

 

 

 

 

 

               

               御本尊 薬師如来三尊像 薬師如来は、瑠璃光王や大医王尊などと呼ばれることがあり、お医者様の

               役目をはたす現世利益の仏として親しまれてきました。 雲龍院は、西国薬師霊場第四十番札所で、藤

               原時代作の本尊薬師如来座像を中心に日光・月光両菩薩を両脇に安置祀られております。

 

 

 

 


      

      昨年の11月13日から12月5日まで公開されておりました本堂の襖絵「双龍風雷図」です。縦1.9㍍、横計約14㍍で、龍華殿を飾っておりました。

      制作者は、兵庫県たつの市在住の水墨画家、堂野夢酔(むすい)氏66歳で一年がかりで仕上げられ昨年奉納されたものです。襖絵は、14面あり10

      面に二匹の龍と風神、雷神を描き、中央の4面に般若心経と円相が描かれております。

 

 

 

 

 

      
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      霊明殿 当院は後水尾天皇以降の歴代の陵が後山にあり、皇室と大変密接なご関係のお寺です。霊明殿はその皇族の位牌堂のことで、現在の建物

      は明治元年に孝明天皇・大宮御所・静寛院宮・各尼門跡宮からの援助を受け建立されました。内陣の中央には、北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後

      小松天皇、称光天皇の御尊牌そして左側には後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、右側には東福門院・普明照院といった江戸時代の皇子・皇

      女の尊牌が奉安されています。

 

 

 

 

 

      

       霊明殿の裏側(東側)に位置する客殿

 

 

 

 

 

      

       紅葉の時期には、夜間拝観も行われとても素晴らしいモミジのある庭園です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

               書院廊下  書院は庭園の左側(北側)に面しております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       書院の悟りの窓と迷いの窓

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

                 書院の西側、庫裡にある台所に祀られております。

 

 

 

 

 

 

昨年の秋、紅葉シーズンの夜間拝観の様子です。

http://blog.goo.ne.jp/kappou-fujiwara/preview?eid=441fac54c7cae2ba053d51f2c39c4cf3&t=1308127475598

 

 

 




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東福寺塔頭 光明院 新緑 5/23/2011

2011年06月10日 | 洛南 東山 東福寺方面

      

      東福寺の25寺院ある塔頭の一つで、本山南側の六波羅門から南に徒歩1分の距離に位置します光明院は、明徳2年(1391年)に金山明昶(きんざん

      みょうしょう)により創建された塔頭で、本山の方丈庭園などを手掛けられた重森三玲氏による「波心の庭」が有名です。別名「虹の苔寺」とも言われて

      おります。

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       玄関

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

                山門を潜り石畳を左手に進みますと突き当たりに摩利支尊天をお祀りするお堂があります。 拝観受付の庫裡は、

               この摩利支尊天の右手になります。


 

 

      

       秋の紅葉の季節には、受付が開いておりますが、この時期は左手の竹筒に志を納めるようになっております。300円~500円が目安となります。

 

 

 

 

 

      

      東福寺の方丈や塔頭も含む庭園は重森三玲氏による作品が多く、この庭園もその一つの「波心の庭」です。右手が本堂です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       石群の向こうの築山は、ツツジで覆われており少し前まで満開の花を咲かせていたそうです。

 

 

 

 

 

      

      波心庭は、三組の三尊石を中心に大小75個の石が配されております。

 

 

 

 

 

      

      本堂南側の納骨堂

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       本堂には、山号の寶珠山の額が掛ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

                紅葉の期間中は、一番奥のお座敷がお茶席になります。そのお茶席前からの景色です。ご住職いわく夕方の西

                日に照らされた紅葉が一番美しいそうです。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庭園の東端に一段高くなったところにお茶室がありますが、その前にある蹲踞です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庫裡を出たとこです。右手が摩利支尊天堂 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

                

                山門を入った所の多宝塔の前です。

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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臨済宗大本山 東福寺 新緑 後編 5/23/2011

2011年06月09日 | 洛南 東山 東福寺方面

        

       今から回ります通天橋や開山堂などの拝観は、方丈とは別料金になっております。 東福寺のポスターの写真ですが、仏殿に描かれている雲龍図だ

      と思います。

 

 

 

 

 

      

       秋の紅葉シーズンには、この回廊が一日中観光客で埋まってしまうほど紅葉の名所として人気があります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       回廊の右手が方丈の西庭園の壁になります。

 

 

 

 

 

      

      石碑には、高松宮親王殿下・妃殿下記念御植樹と彫られております。 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

      通天橋 仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷(洗玉澗;せんぎょくかん)に架けられた橋廊で、1380(天授6)年、春屋妙葩(しゅんおくみょうは;普明

       国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたとつたえられ、歩廊入口には同国師の筆になる「通天橋」の扁額をかかげます。南宋径山(きんざん)の

       橋を模し、聖一国師が通天と名付けました。 その後、第四十三世住持、性海霊見が修造し、長廊を架したともいわれますが、その後も幾度か架け

      替えられ、現在のものは、1959(昭和34)年、台風によって倒壊したものを1961(同36)年、再建したものです。 

       

 

 

 


 

      

       眼下に広がる新緑の木々はほとんどが、モミジ(楓)の木です。

 

 

 

 

 

               

               通天橋の下は、洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷になっており、一筋の川が流れ一帯に繁るモミジは俗に通天

               紅葉と呼ばれており、開山聖一国師円爾弁円が宋国より渡来したものとつたわります。葉は三つに分かれ、黄

               金色に染まるのが特徴で、数は二千本に及んでいます。

 

 

 

 

               

      

       通天橋から西側に架かる臥雲橋が望めます。

 

 

 

 

 

      

      洗玉澗

       

 

 

 

 

 

      

      方丈の西面です。

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

       

       通天橋の北側の突き当たりの左手に朱色の愛染堂が建ちます。

 

 

 

 

 

      

      突き当たりを右に進みますと上り坂になっており、開山堂と普門院に通じます。

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

       方丈と仏殿

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      開山堂 通天橋を渡って至る、別名常楽庵。もとの建物は1819年に焼失し、1823年一条忠良によって再建されました。屋上に閣を持つ類例を見ない

       開山堂で、祀堂は床高で開山国師像を安置します。上層伝衣閣は正面三間、内部左右いっぱいに壇を設け、中央に阿弥陀、右に薬師、左に布袋像

      を祀り、前方天井は格子天井で、この縁から見る庭園は、四辺の眺望を借景にして格別だそうです。

       

 

 

 

 

 

               

               楼門を潜り右手には、墓地につながる階段が続きます。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

                開山堂正面には、別名の常楽庵の額が掛っております。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      普門院は、開山堂の西に位置する寝殿造風の建物で、開山国師常住の方丈とつたわります。内部は三室に仕切られ、その襖絵は花鳥草花・唐人物

      を主題とし七十四面(桃山-江戸)からなる、画流各派の競作が残されていますが、現在は収蔵庫に収納されているそうです。 開山堂・普門院をは

      じめ、書院、庫裏、楼門、裏門そして鐘楼を合わせて全7棟が、国の重要文化財に指定されています。

      


 

 

       

      開山堂庭園 普門院の前庭も兼ねた池泉鑑賞式庭園で、開山堂への参道を中ほどまで進めば左手に枯山水の庭が開けます。枯山水は約百坪の

      平庭式で市松の砂紋をつけ、鶴島、亀島を象った石組を配して蓬莢山水をあらわし、対面の池庭は築山風、池中に亀島をつくり、枯滝を設けており禅

      院式と武家書院式とを調和させた江戸中期の代表的な名園とされています。

      

 

 

 

 

 

       

 

      

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      城壁を思わせる専門道場入り口 階段から先立ち入り禁止です。



 

 

 

      

      愛染堂 開山堂の西、南正面にして立つ丹塗りの八角小円堂です。もと万寿寺愛染堂と呼ばれていましたが、昭和9年の室戸台風で倒壊、その後現

      在の地に移されました。唐様を主とした鎌倉末期風の優雅さをもって現存する貴重な遺構で、こけら葺、内部は瓦敷、鏡天井とし、須弥壇上に宝塔形の

      厨子を置き、愛染明王を祀ります。 


 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       愛染堂前から見た、普門院

 

 

 

 

 

               

               下から見る通天橋、愛染堂の前から洗玉澗に下りることが出来ます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       洗玉澗に架かる三番目の橋の臥雲橋は、一般の方が生活道路としても使われている橋です。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       東福寺境内の西端の土壁です。 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       手前、経蔵と禅堂 禅堂は、1347年に再建された、国内最古最大の禅道場で、鎌倉風の華頭窓が美しく、聖一国師の師の宋の佛鑑禅師による「選

      佛場」の扁額が掛っております。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       経蔵の前に建つ鐘楼、左手前が仏殿で奥が三門です。

 

 

 

 

      

      正面、庫裡 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       左禅堂と鐘楼の間を通る東福寺のメインの出入り口にあたる、日下門

 

 

 

 

      

       境内を出て、臥雲橋です。 この道を進めば、東大路に出ます。

 

 

 

 

      

       臥雲橋から望む通天橋

 

 

 

 

       

      雨の新緑は、心が洗われるようで梅雨が明けるまでの間、雨降りの度にあちこち足を運んでみます。 

 

 

 

 

 

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臨済宗大本山 東福寺 新緑 前篇 5/23/2011

2011年06月08日 | 洛南 東山 東福寺方面

 

      

       臨済宗大本山・東福寺は、摂政九条道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの

      念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。 嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年

      を費やして完成しました。 

 

 

 

 

 

               

               工事半ばの寛元元年(1243)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ、まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を

               完備しましたが、元応元年(1319)・建武元年(1334)・延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。

 

 

 

 

 

      

       延元元年(1336)8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し、貞和3年(1346)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ、延元の火災以

      降実に20余年を経て、再び偉観を誇ることになりました。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていましたから、再建後の東福寺は完

      全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。  三門の北側には仏殿(本殿)が建ちます。

                                            

  

 

 

       

      三門前の池に架かる石橋と向こうに見える東司

 

 

 

 

       

      

      境内の一番南に位置する三門は、空門・無相門・無作門の三解脱門の略で南都六宗寺院の中門にあたります。東福寺は新大仏と呼ばれるような巨大

      な本尊を安置するなど南都二大寺に影響を受け、この三門は大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様をたくみに組み合わせた建造方式となっています。

      両脇に階上へのぼる山廊を設けた、日本最大最古の遺構で、応永年間(1394-1428)、足利義持の再建で、1977(昭和52)年、大修理が完成しました。

 

 

 

 

 

      

       開山 聖一国師とは、円爾弁円(えんにべんえん)といい、三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、のち栄西(建仁寺開山)の高弟行勇・栄朝に

      ついて禅戒を受け、嘉禎元年(1235)34歳で宋に渡り、在宋6年、杭州径山の無準の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月に帰朝しました。 帰朝後まず筑紫

      に崇福・承天二寺を建てて法を説き、名声は次第に国内に及んで寛元元年(1243)には藤原(九条)道家に迎えられて入京、道家に禅観密戒を授けま

      した。次いで東福寺開山に仰がれ、同4年(1246)2月には山内の普門寺を贈られて常住しました。


 

 

 

 

 

      

       その後、宮中に宗鏡録を進講し、後深草天皇の勅を奉じて、京都岡崎の尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺などの大寺院を観閲し、また時には延

      暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられ、遂に建長6年(1254)には幕府執権北条時頼に招かれて、鎌倉の

      寿福寺に住することとなりました。 翌7年6月、一条実経の東福寺落慶供養にあたり帰山、爾来東福寺に住し、弘安3年(1280)10月17日79歳で入定

      (にゅうじょう)しました。 聖一国師の号は花園天皇より贈られたもので、日本禅僧最初の賜号です。

      その他に国師の功績といたしましては、中国(宋)より帰朝にあたっては多くの文献を伝え、文教の興隆に多大の貢献をしましたが、また水力をもって

      製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し、今日わが国最大のお茶の生産地となった静岡茶の原種を伝えたことも見逃せない功業です。

 

 

 

 

 

               

               仏殿(本堂)は、1881(明治14)年焼失後、1934(昭和9)年に再建されたもので、起工から竣工まで17年を要し復

               興させた昭和の木造建築中最大の建物です。 三門にならった大仏様の組物と角扇垂木、禅宗唐様の桟唐戸・

               礎盤・鏡天井、裳階の窓は和様の連子窓、破風の妻飾りは法隆寺南大門風と、多様に様式が組み合わされてい

               ます。 内部は禅式床瓦敷とし、正面須弥壇上に本尊釈迦立像、脇に摩訶迦葉尊者 阿南尊者、四天王を安置し

               天井の画龍は堂本印象氏の作、龍の大きさは体長54m・胴廻り6.2mに及んでいます。                       

 

 

 

 

 

      

      手前三門へ上る楼閣と仏殿 

 

 

 

 

 

      

 

                      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂から見た三門

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      経蔵は、 三門、禅堂、東司などとともに旧観を残す宝形造りの瀟洒な建造物です。 開山の聖一国師(円爾弁円)は宋からの帰朝の際一千余りの

      典籍を持ち帰り、我が国文教の興隆に多大な貢献をしました。経蔵や寺内には今なお、宋代の書跡や貴重な書物が多数所蔵されています。

            

 

 

      

       仏殿と通天橋をつなぐ楼閣

 

 

 

 

 

      

       左手に方丈、正面が拝観受付の庫裡になります。

 

 

 

 

 

               

               昭憲皇太后の寄進といわれる方丈表門

                

 

 

 

 

      

      庫裡と方丈をつなぐ回廊 

 

 

 

 

 

      

      方丈は1890(明治23)年再建で、前庭には昭憲皇太后の寄進とつたえる向唐破風の方丈表門があり恩賜門ともいい、小型ながら明治期唐門の代表

      作です。 方丈南庭園は、禅宗の方丈には古くから多くの名園が残されてきましたが、四周に庭園をめぐらせたものは当寺唯一の試みで、当庭園は1

      938(昭和13)年、重森三玲氏が作庭しました。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名され、近代禅宗庭園の代表として広く世界各国に紹介されています。

      

 

 

 

 

      

       東庭園 方丈前庭を廊下ではさんだ東側に位置します。

 

 

 

 

               

               北斗の庭は、もと東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様地割に配している小宇宙空間です。

               

 

 

 

 

 

 

      

      方丈東面

 

 

 

 

 

      

      方丈正面の南庭は210坪(693平方メートル)、東西に細長い地割に、蓬莢・方丈・瀛洲(えいじゅう)、壺梁(こうりょう)の四島に見立てた巨石と、砂紋

      による荒海の表現に加え、西方に五山を築山として大和絵風にあらわし、神仙境を表現しています。 鎌倉時代の質実剛健な風格を基調に、近代芸

      術の抽象的構成をとり込んだ枯山水式庭園です。

       

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

       

      

 

 

 

 

 

 

               

               庭園西端から経蔵 の眺め。

 

 

 

 

 

      

       仏殿

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      方丈西庭は「井田市松」の庭で、さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図して表現します。色彩の変化も楽

       しい庭です。

       

 

 

 

  

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

      

       方丈の西北には、モミジを愛でるための舞台が設えてあり、この時期は新緑が目に優しく映ります。

 

 

 

 

 

      

       舞台から眺める通天橋

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      方丈北庭(裏庭)は、市松の庭は、作庭以前に南の御下賜門内に敷かれていた石を市松模様に配したもので、通天紅葉の錦織りなす景観を借り、

       サツキの丸刈り、苔地の妙が調和するという、南庭とは逆に色彩感あふれる空間となっています。

       

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      方丈と庫裡を結ぶ回廊の向こうに東庭があります。

 

 

 

 

     

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

  

               

               方丈を後にし、通天橋を通り開山堂・普門院に向かいます。 

 

 

 

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真正極楽寺 真如堂 新緑 5/21/2011

2011年06月01日 | 洛中 

      

      平安神宮の東北、金戒光明寺の北側に位置する真如堂は、正式には鈴聲山(れいしょざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)といい、比叡山延暦寺を

      本山とする天台宗のお寺です。 真正極楽寺とは、「極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味で、一般には「真

      如堂」と呼ばれていますが、それはもともとは本堂の呼び名でした。
 

 

 

 

 

      

      今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院(藤

      原詮子。円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりといわれております。 表参道の表門

 

 

 


 

      

      慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿明神(のうかみょうじん)で根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥

      陀さまの形が現れたといいます。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置し、後に日吉大社念仏堂の本尊とされました。立像は

      そのままご自身で持っておられました。

 

 

 

 

 


      

      その後、大師が唐(中国)に留学された帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏(いんせいねんぶ

      つ)の一節を授けました。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの

      3センチほど如来を納められました。

 

 

 


 

      

      もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫(びゃくこう)を入れようとすると、如来は首を振っ

      て拒否されました。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、

      「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。

 

 

 


 

      

      永観2年(984)の春、開祖戒算上人の夢枕に、阿弥陀仏の化身である老僧が現れ老僧は、「我は叡山の常行堂より参った。京に出てすべての者に

      利益を施すであろう。わけても女人を済度するものである。急いで京に下山させるべし」と、戒算上人に告げました。
 

 

 

 

 

 

      

      比叡山の僧衆が協議した結果、慈覚大師作の常行堂の阿弥陀如来を下山していただくことを決定。ひとまず、雲母坂の地蔵堂に仮安置し、どこに遷座

      していただくかと協議していたら、また夢の老僧が現れて、「神楽岡のあたりに、小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そここそ仏法有縁の

      地であり、衆生済度の場である。まさしく末法の世に、真正極楽の霊地なるぞ」とお告げになりました。
 

 

 

 

 

      

      その場所は、折しも同じ夢をご覧になった東三條女院(藤原詮子)の離宮でした。女院は寝殿を飾り、堂荘厳を施して、ここに如来を遷座し真如堂の始

      まりとなりました。

 

 

 

 

 

                

                表門を入り参道の右手に見えてまいる多宝塔(三重塔)は、寺内でも一番新しく1817年の竣工となっております。

 

 

 

 

 

      

      その後、一條天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者、

      多くの民衆の厚い信仰を集め、ことに女人の非常に深い帰依を得てきました。
 

 

 

 

 

 

      

      しかしながら、応仁の乱(1467~77)の時、この辺り一帯が東陣となり、その戦火で堂塔は消失。ご本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太(あのう)に避難。

      その後も京都室町勘解由小路(足利義輝邸)、一条西洞院(1477)を転々とした後、旧地にもどり再建されました(1519)。その後、秀吉により京極今出川

      下るに移転(1578)しますが類焼し、ようやく元禄6年(1693)東山天皇の勅により、再び旧地にもどり再建されました。今でも、寺町今出川下るには「真如

      堂突抜町」「真如堂前町」、一条西洞院(上京税務署近辺)には「元真如堂町」、烏丸二条に「真如堂町」として名残をとどめています。

 

 

 

 

 

      

      本堂は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立。総欅・単層入母屋・本瓦葺で、木材にはことごとく「〇〇家先祖代々菩提の為」と記されて

      います。 正面「真如堂」の大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付によるものです。本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉公と桂昌院の寄進)の

      中には、ご本尊阿弥陀如来・不動明王(安倍晴明の念持仏)・千手観音がおまつりされています。 
 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂に上がりお参りをすませ、本堂内から書院庭園の拝観受付をして書院にむかいます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

                    不動明王(安倍晴明の念持仏)   御本尊阿弥陀如来      千手観音


 

 

 

 

 

      

      本堂北側から書院に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      廊下左手が、真如堂の大玄関になります。

 

 

 

 

 

      

      書院手前に清めの手水鉢が備わっております。 

 

 

 

 

 

      

      書院に入ると案内の方が、順路に従い、右手の南庭から案内をしていただけます。 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      この燈籠は、真如堂を菩提寺とする旧財閥の三井家から寄贈されたものだそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               燈籠の隣の小小坊(しゃしゃんぽ)とは、ツツジ科スノキ属の常緑樹で、7月頃に白色の馬酔木のような壺状の花

               が咲き、果実は小さい球形の液果で黒紫色に熟し、食べることができるそうです。この果実は同属のブルーベリー

               類と同じく、アントシアニンを多く含み、名前の「小小坊」は小さな丸い果実を意味すると説明されております。            

 

 

 

 

 

      

      書院東側には、涅槃の庭と呼ばれる庭園が、左手の大文字山と東山を借景に、北枕で右側を下にして横たわるお釈迦様の姿を現せております。借景

      の大文字山を お釈迦様の頭と見立てれば二重の涅槃図を表現しているそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      案内をしていただいている方の説明がとても詳しく丁寧なので、いろいろと勉強させていただきました。

 

 

 

 

 

      

       右手の島の中央の石は、涅槃図の中の右上に描かれているお釈迦様の母親の姿を現しているそうです。

 

 

 

 

                         

                         こちらの涅槃図は、毎年3月に一般公開されるそうです。

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       書院の北側には、隋縁の庭と名付けられた庭園が昨年の7月に完成しました。 作庭は、重森三玲氏を祖父に持つ重森千青の設計によるものです。

      正面の仏殿の蟇股に掛る四つ目の家紋をモチーフに作庭されたそうです。

 

 

 

      

     

 

 

 

 

 

       

      隨縁の庭の西側に建つ茶室

 

 

 

 

 

      

      茶室横の東屋

 

 

 

 

 

 

      

      内側から見た大玄関前です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂裏側(東側)

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂裏側の釈迦三尊図  左から像に乗った普賢菩薩と釈迦如来と獅子の乗った文殊菩薩です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂を回り南側から見た三重塔です。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       書院を回り本堂も一周してまいりました。

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

                本堂前の北側にある弁天池に浮かぶ島に佇む弁天堂

 

 

 

 

 

      

       本堂前北側に建つ伝教大師立像

 

 

 

 

 

      

       本堂を下りて北側から本堂裏に回り一周してまいります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂裏の東庭園には、渡り廊下の階段の下を潜り裏側に出ます。

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

     

      先ほど伺った書院庭園の南門です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

  

               

               本堂南側の石に囲まれた桜は、「たてかわ桜」と言い徳川家光の乳母・春日の局が、父・斉藤内蔵介利三の菩提

               を弔うために植えた桜といわれております。 斉藤内蔵介利三は、明智光秀の重臣でしたが、秀吉軍に敗れた後、

               粟田口の刑場で斬首された首を友人が、奪い返し真如堂に葬られたことから、この桜につながります。現在の樹は、

               伊勢湾台風で倒れた樹から接ぎ木をして根付かせたものだそうです。



 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      阿弥陀如来露仏 本堂の南側に、大きな金仏さんが鎮座されています。その台座の蓮弁の石には、「木食正禅(もくじきしょうぜん)造立」と刻まれて 

      います。 「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼ぶそうです。

 

 

 

 

 

      

       仏像前の藤棚

 

 

 

 

 

      

      三重塔 

 

 

 

 

 

      

      真如堂で飼われている猫でしょうか、いつもこのあたりに二、三匹がくつろいでおります。       

 

 

 

 

 

      

       三重塔南側の参道です。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      参道南側の吉祥院の山門前 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

        こちらは、2010年の秋、紅葉の様子です。

       http://blog.goo.ne.jp/kappou-fujiwara/e/90982152362970ced0c627706af7d246 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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