京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

秋の御苑散歩 9/27/2011

2011年09月30日 | 洛中 

      

       梨木神社で萩を見た後に初めて御苑に足を踏み入れました。 いつもは車で周辺を通り抜けるだけでしたが、歩いてみて広さを実感いたしました。

 

 

 

 

 

              

               地図の右側中央の清和院御門から入り、御所の建礼門から南下し厳島神社から

 

 

 

 

 

      

      清和院御門を西に進み右手の芝生の向こうに京都迎賓館があり、左手が大宮御所、正面が御所の東側の塀になります。

 

 

 

 

 

      

       御所東側の建春門です。 京都御所は、794年、桓武天皇が平安京へ遷都した当時の内裏(御所)で、この京都御苑から約2km西に位置していま

      した。現在の京都御所は内裏の焼失等の際に、天皇の仮住まいとなった里内裏のひとつである東洞院土御門殿に由来するもので、1331年(元弘元

      年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。 1392年(明徳3年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るま

      での約500年の間、天皇の住まいでした。建物自体はその間も焼失を繰り返し、現在の建物は安政2年(1855年)に平安時代の内裏の姿にならっ

      て再建されたものです。 御所内の参観には宮内庁への事前の許可が必要ですが、春と秋の年2回、一般公開されます。

 

 

 

 

 

      

      京都御苑は、江戸時代二百もの宮家や公家の邸宅が立ち並ぶ町でしたが、明治になって都が東京に移り、これら邸宅は取り除かれ、公園として整備

      され市民へ開放されました。戦後は国民公園として位置づけられ、御所と一体となった景観を維持しつつ、散策や休養等の場として親しまれています。

      現在苑内には百年を越える樹林が育ち、旧公家屋敷跡や庭園等歴史的遺構が点在し、古都の中心で特別な空間となっております。 

 

 

 

 

 

      

       建春門前を北側(今出川)への大通りです。 右手に、京都迎賓館があります。

 

 

 

 

 

        

       御所の南東角から南側を見たところです。 左手は、大宮御所と仙洞御所です。右手は、有栖川宮邸跡

 

 

 

 

 

      

       右手は、御所の南側壁と正面に蛤御門があります。 御苑の周りには、かつての公家町と市中の境界であった九つの御門があります。この蛤御門は、

      もとは新在家御門と呼ばれ常に閉ざされていましたが、江戸時代の大火で初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ば

      れるようになりました。また、幕末の禁門の変では、御苑一帯が主戦場となり、この戦いに長州藩が敗れたことで幕末動乱の転機となりましたが、そ

      の最大の激戦地だったのが蛤御門で、弾傷らしき跡が残っています。

 

 

 

 

 

      

       御所南側の建礼門前から南側(丸太町)の建礼門前大通りです。

 

 

 

 

 

      

       建礼門と夏の名残の百日紅

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      秋の訪れを知らす彼岸花      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

      車体には、消防署ではなく皇宮警察本部の文字が見て取れます。 

 

 

 

 

 

      

      仙洞御所の御門      

 

 

 

 

      

       建礼門と大通り 京都御所の正門である建礼門前から南に延びる大通りは、沿道の広々とした芝生地とマツと合わせ、京都御苑を代表する風景です。

      明治10年に京都に還幸された明治天皇は、東京遷都にともなって荒廃した九門内を嘆かれ、京都府に旧観を保存するよう御沙汰を下されました。こ

      れに基づき、明治16年まで行われた大内保存事業により、御苑の骨格となる整備が行われ、この大通りもこの時、初めて設けられました。その後、大

      正2~3年に大正天皇の即位大礼を行うための改良工事で、現在の規模に拡幅されています。

      京都三大祭りのうち5月には葵祭、10月には時代祭の行列が建礼門前から出発し、この通りを通って市中に出て行きます。

 

 

 

 

 

 

      

       建礼門前大通りの南側の突き当たりには、九条邸跡と厳島神社があります。

 

 

 

 

 

      

      九条邸跡前、東山方面です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      九條池と拾翠亭は、五摂家の一つであった九條家の屋敷内に設けられた庭園の遺構です。このうち、拾翠亭は今から200年ほど前の江戸時代後期

      に茶室として建てられたもので、貴族の茶室らしく、遊び心にあふれた建築と言われています。 今でもお茶会等に利用されている他、春から秋にかけ

      ての毎週金曜日と土曜日に一般公開されています。拾翠亭の前面に広がる池は九條池と呼ばれており、安永7年(1778年)頃、東山を借景とし、拾

      翠亭からの眺めを第一につくられたといわれています。今は、木々が伸びるなど、当時の景色とは様子が違っていますが、京都の中心部とは思えない

      ようなゆったりとした雰囲気を楽しむことができます。


 

 

 

 

 

 

      

       九条池と高倉橋

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       橋の西側に建つ茶室の拾翠亭は、週末の金曜、土曜日に公開されております。 また、拾翠亭の九條池の畔にあるサルスベリは、7月下旬から9月

      下旬までが花の時期で、漢字で百日紅と書くほど、長い間紅い花を咲かせます。九條池に架かる高倉橋から見るサルスベリは、江戸時代後期の九

      條邸遺構の拾翠亭を背後にして夏の京都御苑を代表する風景の一つとなっています。

 

 

 

 

 

      

       九条池の北側に建つ厳島神社

 

 

 

 

 

      

       厳島神社は、平清盛が母・祇園女御のために安芸の厳島神社を勧請したのが始まりといいます。当初は兵庫の築島にありましたがのちにこの地に

      移されたと伝わります。祭神は、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神を主祭神に、祇園女御を配祀いたします。配祀神は下述するように

      本来は平清盛の母の霊であったと思われておりますが、後に著名なその姉(つまり清盛の伯母)の祇園女御に変えられたようです。

      安芸国厳島社を崇敬した平清盛が、摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀

      したものに起源を持ち、その神社を時期不詳ながら当地へ遷座させたものと云われております。鎮座地は後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮

      守として崇敬されるとともに、池泉廻遊式庭園の1部を構成するものともなりました。明治になって九条家は東京へ転宅し、その邸宅も東京へ移築され

      ましたが、当神社はそのまま残され、昭和2年(1927年)には社殿が改築されました。

 

      

 

 

 

      

      社殿の前に建つ鳥居は、「唐破風鳥居」と称され、北野天満宮境内社の伴氏社の石造鳥居、蚕ノ社の木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居と合わせて

      「京都三鳥居」「京都三珍鳥居」とされております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       橋の上に居たおじさんが鯉のエサやりをされており、鯉が集まっておりました。

 

 

 

 

 

      

      おじさんの叩く手の音に鴨も寄ってまいりました。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

              

              無防備すぎる猫 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

              

              「誰やオマエ。」と言う声が聞こえてきそうな気怠い様子で、また寝てしまいました。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       正面の木が、終わってしまいましたが百日紅の木です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      厳島神社を後にし、北側の宗像神社にまいります。 

 

 

 

 

 

      

      御苑南部にある宗像神社周辺のクスノキの大木には、毎年4月下旬頃から10月頃までアオバズクが訪れ営巣します。この時期、運が良ければ夕方

      から夜にかけて、ホウホウという鳴き声が聞けたり、また、7月以降になると、2羽の親と数羽のヒナと仲良く肩を並べている姿を見ることができます。

      平成4年に「アオバズクのすむ森」として、京都府の自然200選に選定されました。

 

 

               

      アオバズク(青葉木菟)とは、フクロウ目フクロウ科アオバズク属に分類される鳥で、

      夏季に中華人民共和国、日本、朝鮮半島、ウスリーで繁殖し、冬季になると東南ア

      ジアへ南下し越冬いたします。インドやスリランカ、中華人民共和国南部、東南アジ

      アでは周年生息し、日本では亜種アオバズクが九州以北に繁殖のため飛来(夏鳥)

      するそうです。和名は青葉が芽生える季節に飛来することが由来と説明されてます。

 

 

 

 

 

      

      宗像神社は、社伝によりますと、延暦14年(795年)、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京

      第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝わりますが、当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『土右記』が挙げられ、東京第は冬嗣の

      没後、東の花山院と西の小一条第に分けられましたが、同書には当時の小一条第第主師成の語った以下の話を載せております。小一条第は藤原内

      麻呂が息子の冬嗣に買い与えた邸宅ですが、その理由は、冬嗣がまだ内舎人であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで

      小一条第を買ってもらいそこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためであると記されております。

 

 

 

 

 

      

      花山稲荷大明神 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      手水場ですが、水は出ておりませんでした。 

 

 

 

 

 

 

              

              元紫宸殿の左近の桜です。 昭和11年に植え替えられる前の桜で、5年前には衰退して枯れそうでしたが、樹勢

              回復処置により、元気を取り戻したそうです。 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       現在の烏丸竹屋町より夷川の両側を小将井町、小将井御旅町と云いますが、昔八坂神社の御旅所があったところで、その地に祀られていた神社で

      す。京都市民となじみの深い祇園祭の後祭りの7月24日には、八坂神社より神職がお参りされ幣帛を供進されます。幣帛(へいはく)とは、神道の祭

      において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称で、「幣物(へいもつ)」とも言うそうです。 「帛」は布の意味であり、古代においては貴重であ

      った布帛が神への捧げ物の中心となっていた そうです。

 

 

 

 

 

      

      繁盛稲荷社 京都御所にも古くより、この地を外からの侵入者を防ぐ神として祀られ白狐が稲荷山に繁殖して神社を護ったとの伝説により土地を護り

      子孫繁栄、事業発展を願う信仰があります。

      左側の琴平神社(金毘羅宮) 讃岐・丸亀藩主の京極能登の神が1807年、常に崇敬厚き象徴の金毘羅宮を京都に祀り旅の都にて、国や藩の泰平

      無事を日夜祈願されたとのとの事です。旅行の安全や海産に関係のある方々の守り神として崇敬されております。

 

 

 

 

  

      

 

 

 

 

 

 

      

      宗像神社を後にし、神社の西側、御苑の西南角に位置する閑院宮邸跡に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

      閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部の

      この場所に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいこと

      はわかっていないそうです。 明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が

      一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。 第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のち

      に環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。平成18年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示

      品・解説を備えた収納展示室と庭園などを開放しております。

      収納展示室

      休館日

月曜日・年末年始(12月29日~1月3日)
      参観時間 午前9時~午後4時半 ※受付は午後4時まで
      入場料 無料(ご予約の必要はありません)
 
   
   

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               ちなみに、御存じの方も多いと思いますが、京都御所とは中央の天皇の住居及び施設の事を指し、その周り全

               体は京都御苑と云います。

               管轄省庁は、御所が宮内庁、御苑が環境省、迎賓館が内閣府となり御苑内の警備は、皇宮警察が担当いたし

               ます。 迎賓館が建つ前は、市民が利用できる球技場があり、30年のはるか昔に早朝野球で先輩に怒鳴られ

               ながら走り回っていたことを思い出しました。

 

 

 

 

 

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御所東 梨木神社 萩 9/27/2011

2011年09月29日 | 洛中 

      

       梨木神社(なしのきじんじゃ)は、御所の東側の寺町通りに面して建つ神社です。 明治維新に大きく貢献した右大臣正一位 三條実萬(さねつむ)公

      と息子の内大臣正一位 大勲位公爵三條実美(さねとみ)公の二柱をお祀りしている神社です。

 


   

 

 

      

      実萬公は、才識兼備菅原道眞公の生まれかわりと崇められ、当時の人々から今天神様と称せられたと言われ、早くから王政復古の大義を唱えられ、

      明治維新の原動力となられた方でした。明治2年、天皇から「忠成公」の謚(おくりな)を賜り、明治18年10月、旧梨木町の三條家邸跡に隣接する今の

      地に梨木神社が創建され、別格官幣社に列せられたもので、あまたある明治維新の元勲、元老、志士の中で唯一人公をお祀りしたものです。

 

       

 

 

      

      息子の実美(さねとみ)公は、父実萬公の遺志を継がれ、あらゆる困難に堪え、危難に遭遇されながら、明治維新の大業を達成され、明治2年、都が

      東京に移されるについて京都御廃止案は中止となったばかりか却って「国家の大礼は京都御所に於いて行う」と定められ、そのため、大正、昭和の

      即位は京都御所で行われ、その都度京都は発展したといわれ、いわば公は、京都の恩人でもあります。大正4年、大正天皇の即位式にあたり、第二

      座御祭神として梨木神社に合祀されました。 このように父子揃って同じ道を歩み、志を同じくし、御祭神として同一の別格官幣社に合祀されるというこ

      とは実に稀有の例と云われます。  

 

 

 

 

 

      

      旧社格は別格官幣社あり壱の鳥居を潜った所に石碑が建っております。 

 

 

 

 

 

              

              梨木神社は、萩の名所としても知られ、境内には約500株の萩が植えられており、別名萩の宮とも呼ばれており、

              9月の第三日曜に萩祭りがおこなわれ、見頃は、中旬~下旬となります。 

 

 

 

 

      

       9月27日の時点では、鳥居からの参道は8割近くが散っておりました。 毎年、第三日曜に萩祭りが執り行われ萩を詠った短冊があちこちに吊るされ

      ておりました。

 

 

 

 

 

       

      参道の右手には、日本最初のノーベル賞受賞者であり、当神社「萩の会」の初代会長であった湯川秀樹博士の歌碑建てられ、「千年の昔の園もかくや

      ありし木の下かげに乱れさく萩」と、当社の優美な萩を詠んでおられます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

      萩の名所として有名な当神社ですが、紅葉のシーズンには隠れた穴場として紅葉を楽しむ方々が訪れておられます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      境内にある茶席「旧春興殿」は、元京都御所のお清殿を梨木神社の神饌所として一部払い下げられたもので、「虚中庵」と共に、名水でたてるお茶を

      愉しむ方々に利用していただいているそうです。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      京都の三名水(醒ヶ井、県井、染井)のひとつである「染井の井戸」が神社の境内(手水舎)にあり、今も名水を拝受いたしております。この井戸はかつ

      て文徳天皇の皇后明子の方の里御所の跡にあったもので、宮中御用の染所の水として染井の水が用いられたという由緒があります。皆さんペットボ

      トルを持参して水を汲んでおられました。甘みを感じる実にやわらかい味でした。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      

      萩は万葉の時代には最も愛された秋草で、その字もくさかんむりに秋を書き表し、日本で出来た国字だそうです。鑑賞だけでなく、食料、薬草、屋根材

      として暮らしに深いかかわりをもった植物でもありました。万葉集に詠まれた植物のなかで最も多いのも萩の花で、可憐な花、しなやかにたわむ枝が

      風にゆれこぼれる優美な姿を、万葉人はことに愛したと云われます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舞殿前の両サイドには白い萩が植えられております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本殿

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

      

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      こちらの石碑は、実萬公が天壌無窮と軸に書かれ、日夜皇室の弥栄を祈念しておられたが、破損したため石に刻まれたと伝えられており、明治天皇

      はこのことをお聞きになり、日野西侍従に命じ、その石碑を拓本に取られ、2月11日の今の建国記念日にお居間に掲げられ、国家の弥栄、国民の安

      泰を祈念されたと言われております。大正14年、時の京都府知事池田宏がこれを聞き、この石碑を三條家から譲り受け当神社に奉納されたものです。

 

 

 

 

 

              

              石碑は、舞殿の西側に建ちます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

                

                 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       門の内側には、萩祭りで行われた俳句会の受賞作品が、貼り出されておりました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      樹齢何年を数えるのでしょうか、力強い松が何本もそびえております。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       境内には、駐車場もありますが、満車の時は南側に御所の駐車場が控えております。寺町通りから出入りできます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

  

 

 

 

 

       

       梨木神社前の御所の清和院御門です。 お天気もいいので御所の中を散歩しながら帰る事にしました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

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人間国宝 江里佐代子の伝言展 10月16日まで 2011

2011年09月11日 | 京都歳時記

              

      先日、お客さんで写真家の山崎兼慈ご夫妻がお越しいただき、ある展覧会の案内状を頂きました。江里佐代子さんと仰る人間国宝の截金師とうかがいました。

      山崎さんは、上の図録の撮影をなされたかたで、後で江里佐代子さんの御主人で仏師の江里康慧(こうけい)先生もお越しいただき截金の事をうかがい後日、

      展覧会に伺わせていただきました。

      截金(きりかね)と聞きましても、私もその一人でしたが、どういった技術なのかピンと来ませんでしたが、この展示会に伺わせていただき、あまりの技術の高さ

      と芸術性に圧倒されました。 写真で見るのと現物を見るのとでは、感動が全く違うことに驚きを感じた作品の数々でした。 写真は、江里康慧先生と山崎兼

      慈氏に許可を得て搭載させていただきました。

 

 

 

 

              

              図録より

              江里 佐代子(えり さよこ、1945年7月19日 - 2007年10月3日)女史は、日本の截金師として、2002年に諸工芸の

              截金の分野で3人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。京都市に生まれ、大学で日本画や染色

              などを学び、仏師の江里康慧と結婚。それが契機となり截金師北村起祥のもとで截金の技法を習得する。 本来仏

              像の荘厳技法であった截金を飾筥(かざりばこ)、棗(なつめ))、香盒(こうごう)、結界(けっかい)、屏風(びょうぶ)、

              衝立(ついたて)、額装、壁面装飾へと応用しその可能性を広める。また日本伝統工芸展において日本工芸会総裁

              賞、日本経済新聞社賞や高松宮記念賞、京都工芸美術展では市長賞など受賞を重ね、夫の江里康慧との二人展

              「仏像と截金」なども開催し、截金の認知度を高めた。また京都造形芸術大学と龍谷大学で客員教授を、東京芸術

              大学大学院で非常勤講師を務めるなど截金の普及にも力を注がれました。2002年7月8日に全国最年少で重要無形

              文化財保持者に認定され、翌年には江里康慧とともに京都府文化功労賞を受賞。建築や寺院の壁面、空間装飾の

              仕事も多く、京都迎賓館では晩餐室「藤の間」の舞台扉「響流光韻(こおるこういん)」に截金を施すなど多彩な活躍が

              続いておりましたが、後継者の育成や更なる作品の製作の道半ば、 ロンドンの大英博物館で開催中の作品展「現代

              日本のわざの美」で実演と講演をした後、調査のため向かったフランスのアミアンで、脳出血のため62歳で死去なさい

              ました。

 

 

 

 

 

     

               

               1.聖母マリア像 総高89.0cm   こちらの作品は御主人の彫られた仏像に金糸の様な細い金箔で模様が施さ

               れております。仕事の繊細さに目を奪われました。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

             

              

 

 

 

 

       

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

  

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

               

               衝立 この作品などは、写真では素晴らしさが伝わりにくく残念に思います。

 

 

 

 

              

              12.額装「はな和光」

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

        

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

          

          18.截金額装「光 放たれるとき」 横140×138 この技術が、京都迎賓館の内装を彩っているそうです。 

 

 

 

 

        

        こちらの像は、等身大あり本物の衣をまとっておられるようでした。 

 

 

 

 

              

              21.阿弥陀如来立像 総高70.5cm  バート・ド・ヴェール 石田 亘 氏との共同制作

  

 

 

 

              

              22.聖徳太子孝養像 総高67.5cm

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      左座朋子女史とは、江里さんの娘さんだそうです。

 

 

 

 

 

              

              改めて、日本人の繊細さと器用さ芸術センスの高さに感動したひと時でした。 

 

 

 

 

      

      写真撮影者  木村尚達:15・21  山崎兼慈:1・2・3.7-1~7-7・9-1・11・14・18・19・20・22・23・24・表紙 平安仏所:4・5・6・8・9-2・

      10・12・13・16・17・25・裏表紙

      展覧会場は、中信美術館です。月曜休館 入場無料 10月16日(日)まで、午前10~4時45分入館までです。 西隣に6台分のコインパーキング

      があります。

      住所:京都市上京区下立売通油小路東入ル西大路町136-3  TEL075-417-2323

 

 

 

    

 

 

 

 

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南禅寺 大寧軒 特別公開~9月30日まで 9/01/2011

2011年09月07日 | 洛東 南禅寺方面

      

       2011年 京の夏の旅 文化財特別公開の企画により9月30日まで公開されている南禅寺の大寧軒に伺ってきました。

 

 

 

 

 

      

       左手奥に南禅寺の山門があり、その手前の金地院の門を潜り大寧軒に向かいます。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      金地院の山門前を通り南に進みます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      金地院の中にある東照宮の山門です。金地院は、応永年間(15世紀初頭)に室町幕府4代将軍足利義持が大業徳基を開山として洛北・鷹ケ峯に創建

      した寺院で、江戸時代に徳川家康の信任が篤く、「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝(以心崇伝、金地院崇伝)によって現在地に移築され現在に至ってお

      ります。

 

 

 

 

 

      

      本堂の庭園を挟んだ南側には東照宮が建ち、崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628年)に造営したものです。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      その東照宮の南側に位置する大寧軒は、南禅寺境内にあり、臨済宗南禅寺派の塔頭寺院のひとつでしたが、明治初期の廃仏毀釈により 廃寺となり

      ました。その後、明治末期その跡に、茶道の家元・藪内11代家元・透月斎竹窓紹智によって作られたもので、飛び石の打ち方や苑路などに趣向を凝

      らした露地風の庭園となっております。

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

       表門を入り、石畳の突き当たりに受付があります。

 

 

 

 

 

          

          庭園は、中央に池が配され、受付から続く飛び石伝いに回る、池泉回遊式庭園になっております。 

 

 

 

 

 

      

      庭園入口 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      庭園は、東山三十六峰の一つの大日山(標高150m)を借景にした470坪の広さがあり、優雅な曲線を持つ池が作られ、その奥から幅広い流れが池に

      注ぎ込まれております。 右手には、茶室の「環翠庵」が佇みます。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      取水口の滝からの流れの中に建つ「三柱鳥居」

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      庭園内には、様々な形の灯籠と手水鉢があると係りの方から伺いましたのでチェックしてみました。こちらは、池の東側に建つ一般的な六角燈籠です。

      パンフレットでは、春日型・雪見型・織部型などが配置されていると説明されております。 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      こちらの燈籠は、水の中に建っておりますが、火袋から笠の部分にかけては、雪見灯篭といわれる笠に似ております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

               主屋の前の手水鉢は、正方形に彫られております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      手水鉢の前には、利久型と呼ばれる灯籠が建ちます。利久といえば、茶人・千利休を連想しますが、この灯籠の場合は正式には「利久」と言う字を当

      てます。名前から利休や茶道との関連を考えますが、とくに関わりを示すものはないそうです。

 

 

 

 

      

      

      利久型燈籠の右手には、2メートルの玄武岩が鎮座いたしております。玄武岩とは、兵庫県・城崎温泉のほとりを流れる円山川に面した玄武洞で取れ

      る岩の事で、江戸時代後期の文化4年(1807年)幕府の儒学者・柴野栗山がここを訪れ伝説上の動物玄武の姿に見えることから「玄武洞」と名付けた

      そうで、岩は柱状の5~8角形の形状をいたしておいます。 現在は、採掘持ち出しが禁じられているそうです。 

 

 

 

 

      

       燈籠や玄武岩がある築山一帯は夏でも色褪せない杉苔に覆われております。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       池のほとりを通り待合の方に進みます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      澄みきった池に黄金色の鯉が優雅に泳いでおりました。

 

 

 

 

 

       

      庭園で良く目にする石塔は、もとは仏教の緒仏に対する供養として、主として寺院に棒げられていたものですが、桃山時代になって茶人の方々が注目

      するところとなり、茶庭に用いられるようになったと云われており、三・五・七・九・十一・十三と奇数で構成されております。

 

 

 

 

 

      

 

              

               こちらの鳥居は、京都の三珍鳥居の一つと云われる蚕ノ社の「三柱鳥居」を模したものと云われ、普通の明神鳥

              居を三角形に組み合わせたもので、三角形の中央から水が湧き出ており、この湧き水の水源を石で三角に積み

              上げた神座(かみくら)を三方の鳥居で囲んで、それぞれの正面から拝めるようにしてあると言う説が、本家の蚕

              ノ社でも説明されております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

      庭園に取り込まれている滝口の水は、琵琶湖疏水の取水口の一つから導かれ、落差を利用して3メートルの滝を表現しております。こちらの四角の燈

      籠は、基礎の部分が無く活け込み式になっておいます。パンフレットに織部燈籠が配置されていると書かれており、たぶんこの燈籠ではないかと思い

      ます。期間内に行かれる方は係りの方にご確認ください。 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       滝口の横にも燈籠が建ちます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       左手が待合で、係りの方が詳しく説明してくださいます。

 

 

 

 

 

      

       待合から

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

      

      庭内に建つ茶室「環翠庵」は、内部の公開はありませんが、お客さんが少なかったので見せてくださいました。 二畳台目の茶室で、待合を備えてお

      ります。天井の造りも三種類からなり、亭主・主客・お付の席と異なった天井で構成され、亭主の天井は主客の席より一段低い天井になっており主客

      をもてなす気持ちを表しているそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

               茶室前の蹲踞です。 お茶の流派によって左右の石の使い方が違うことを初めて知りました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       庭園出口の手水鉢は、とても趣のあるものでした。 燈籠も先ほどの織部燈籠のようでしたが、(舟着型燈籠にも似ておりますが)笠の形と宝珠の形

      も違い基礎もありました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

       

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

               出口の左手に手水場があり奥に祠が祀られております。

 

 

 

 

 

     

     こちらも個性的な燈籠ですが、名前を見つけることが出来ませんでした。

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

      表門を入ったところの、四角置き燈籠です。 数えましたところ、敷地内の庭園には10基の燈籠と 5個の手水鉢が確認できました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      金地院の向かいの塔頭・南陽院です。非公開 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      この時間に咲いているのは昼顔でしょうか、満開でした。ちなみに、朝顔は、ヒルガオ科の一年草で早朝に開いて昼前にしぼむそうで、 昼顔は、ヒル

      ガオ科の多年草で日中に開くそうです。夕顔 は、ウリ科の一年草で夏の夕方に開き、翌朝にはしぼむそうです。三種類とも種類が違うそうです。知ら

      なかったのは私だけかもしれませんね。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

      南禅寺の駐車場は、一回1000円と小々高めなので、塔頭だけでなく山内も十分お回りください。 

 

 

 

 

 

 

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岩倉 幡枝離宮跡 圓通寺 8/31/2011

2011年09月01日 | 洛北

      

      洛北岩倉の幡枝(はたえだ)に位置します圓通寺は、 臨済宗妙心寺派の寺院で、山号を大悲山と号します。北山通りの植物園の東側を北に進み深泥

      ヶ池(みどろがいけ)の北1kmほどの所にあります。江戸時代の初期、後水尾上皇が造営された幡枝御所跡で、上皇が修学院に山荘(現在の修学院離

      宮)の完成に伴って近衛家に与えられたもので、後に、霊元天皇が乳母円光院の願いを受け御殿と庭園を与えて延宝6年(1678)に尼寺となりました。

      のち、霊元天皇の勅願寺となっております。

 

 

 

 

 

      

      山門を潜り、拝観受付のある庫裡に進みます。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

       

       常陸宮殿下御参拝時の記念植樹の立札

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      光の壁と題された土壁は、ただ崩れ落ちている訳ではないと解りましたが、芸術作品は見る方によって解釈が違いますので、難しいですね。 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

 

 

      

       壁の向こうの手前が、鐘楼で左手奥が本堂です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              意味を調べてみましたが、いまいち解りませんでした。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

        

      拝観受付前の華頭窓、本堂前の庭園になります。 

 

 

 

 

 

      

       靴を脱ぎ、入ったところ右手が拝観受付です。 ここから先は、庭園のみの撮影は許可されておりますが、それ以外は撮影禁止になっております。

 

 

 

 

 

      

      圓通寺は、比叡山を借景とした庭園としては、京都一の評価があり、枯山水式の庭園で国の名勝に指定されております。苔を主体に刈込みと石を配し、

      大小40余りの庭石は上皇となった後水尾天皇が自ら配したといわれております。また、刈込みと立木の背後に望む比叡山を借景としており、上皇は最

      も比叡山の眺望に優れた地を求めて、12年を掛けこの幡枝に山荘を設けたといわれております。

 

 

 

 

 

      

      借景の美しさで名高い庭園ですが、そのため、高層マンション建築など急速に進む都市開発は、貴重な借景を壊してしまう懸念材料になると危惧され

      ており、 そのため、京都市は圓通寺庭園など借景を保護するための眺望条例(正式名称は京都市眺望景観創生条例)を制定するようになり、遅れば

      せながら景勝地の景観に配慮する動きが出始めました。圓通寺は同条例の対象地となり、周辺区域では高さだけでなく、屋根の形式なども制限され

      ることとなりました。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      以前は、この景色の撮影も禁止されておりましたが、近隣の開発に伴い景観が損なわれる恐れが出たため借景を記録に残して欲しいというお寺側の

      配慮から庭園部分のみ撮影が許可されるようになり、観光客にとっては嬉しい結果となりました。

 

 

 

 

 

      

       生垣には、ツツジやサツキが植えられ縁側から見る方の目線に合わせ、1.6mあるそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      比叡山の真西に位置する庭園は、約400坪の平坦な杉苔に覆われ、40個余りの紀州の海石を配した枯山水平庭になります。その周囲は躑躅,山茶

      花などの低い混ぜ垣で囲われ、その外に植えられた杉と檜の間から比叡山を望むます。ここから望む比叡山はその稜線の美しさから「みやこ富士」と

      も言われております。 

 

 

 

 

 

 

       

       比叡山山頂、現在はガーデンミュージアムになっております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

               庭園の北西角にある手水鉢、左に進みますと本堂につながります。

 

 

 

 

 

                 

                  本堂は、「潮音堂(ちょうおんどう)」と云われ御本尊の観世音菩薩が祀られており

                  ます。本尊の観世音菩薩は、黄金色に輝きとても優しい顔立ちをなされております。

 

 

  

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       光の壁の一部に磁器の欠片が見えます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              敷石の大きさが目立ちます。 

 

 

 

 

 

      

      向かいの石垣も個性的な組み方になっております。 

 

 

 

 

 

 

              

              圓通寺の南側です。 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       圓通寺の裏側(西側)に真新しい駐車場が完備されております。約20台ほど駐車出来ます。

 

 

 

 

 

      

       こちらは、正面で大型バスも駐車出来ます。

 

 

 

 

 

      

      圓通寺の前の農地と宅地の先に比叡山が望めますが、先ほど見た山と同じ山に見えないのが不思議です。ロケーションの違いを思い知らされました。

      この違いを体感すれば、近隣の方も高い建物は建てられないですね。 許可を下す京都市の職員は、あちこちの庭園を回り研修を積んでほしいもので

      す。

 

 

 

 

 

 

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