高台寺の塔頭圓徳院は、豊臣秀吉の妻、北政所ねね終焉(しゅうえん)の地であり、豊臣秀吉の没後、その妻北政所
ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に1605年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築
して移り住みました。
長屋門造りの正門
それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。ねね
58歳の時のことです。 これが今日の圓徳院の起こりです。ねねは77歳で没するまで19年間この地で余生を送り、ここは
北政所の終焉の地となりました。
そのねねを支えていたのが、兄の木下家定とその次男の利房です。圓徳院は利房の手により、高台寺の三江和尚を開
基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされました。寛永9年、ねねの没後9年目のことです。
唐門
唐門を入ったところ右手にある手水鉢
方丈
方丈内部は、撮影禁止になっておりますので、下の写真はパンフレットから転載しました。
松竹梅図襖 木下育應作
雪月花図襖 志村 正作
方丈南庭 徳村宗悦氏作
方丈から北書院に向かう廊下です。
北書院入り口
名勝 北庭園 もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の
代表的庭園のひとつで、賢庭作で後に小堀遠州が手を加えたものです。池泉回遊式ですが枯山水となっています。
原点となるのは東北部で、枯滝石組を構成し、築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめて数群展開
させ、あるいは蓬莱石組を作っています。
桧垣の手水鉢 宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その面を凹字形に切り取り手水鉢としたものです。笠石は室町時
代の作と考えられており、北書院脇の茶室のそばにあります。
青毛氈の席では、お抹茶がいただけます。(有料)
北書院 床の間に掛かる北の政所のお軸
秀吉の側室 茶々
北書院南側の小部屋
三面大黒天 圓徳院の北側に、秀吉が出世時代に念持仏とした三面大黒天が祀られております。
北政所がこの地に祀ったものであり、大黒天、弁財天、毘沙門天の三面を併せ持ち、一 つの仏様を拝むことによって三
尊のご利益を得るという、秀吉らしい信仰であります。今日では、大黒天は福の神、弁財天は学問、毘沙門天は勝利 と
子宝の神として、信仰を集めております。
三面大黒天の向かい側(南側)には、京・洛市「ねね」があり、お土産や都路里の甘味処などがあり観光客で賑っており
ます。
三面大黒天を祀る堂の東側に歌仙堂がある。歌仙堂は長嘯子(ちょうしょうし)を祀り、もと霊山(高台寺の東の山)にあっ
たものを木下家の関係でここに移築した。長嘯子(若狭藩主だった勝俊)は木下家定の甥、すなわち北政所の甥で 歌聖
として知られておりました。なお歌仙堂は、詩仙堂、雅仙堂と合わせ、京都の三堂といわれる堂で、詩歌を志す人の信仰
を集めております。
ねねの道から三面大黒天に出入りできる大黒門 三面大黒天は、圓徳院を拝観しなくてもこの門から自由にお参りでき
ます。
高台寺(こうだいじ)は臨済宗建仁寺派の寺院で、山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称します。
豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の院号である高台
院にちなんで名付けられました。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格を
もった寺院です。
ねねの道から参道を登っていくと山門があります。
豊臣秀吉が病死したのは 1598年で、秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月尼)は秀吉の菩提を弔う
ための寺院の建立を発願し、現在地に建立することになりました。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、当時の政治
的配慮から北政所を手厚く扱い、多大なの財政的援助を行ったので、寺観は壮麗をきわめました。
拝観入り口のある庫裏の正面
庫裏の手前、東側(右手)の唐門と方丈庭園にある枝垂桜
庫裏の玄関 ここからは入れませんので、左手に門があり受付があります。
拝観受付 塔頭の圓徳院とセットで買うと200円お徳で絵葉書がいただけます。
土蔵
土蔵を右に曲りますと湖月庵があります。湖月庵の東側には高台寺を代表する鬼瓦席茶
室がありますが、拝観は出来ません。
遺芳庵(いほうあん)茶席 灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席であり鬼瓦席と共に高台寺を代表する茶席として知ら
れております。
遺芳庵(いほうあん)茶席の南側、書院の北庭園
書院から開山堂に続く回廊
現在、書院で仏教彫刻展が開催されていおります。
方丈庭園と勅使門、右手が枝垂桜、春先にはライトアップも行われます。
左前方には、霊山観音がうかがえます。
方丈から望む、開山堂
回廊の中央の檜皮葺の四本柱の建物は、観月をするための観月台です。
観月台と開山堂
方丈庭園と勅使門
方丈 方丈と傘亭・時雨亭茶室などは伏見城から移築したものだそうです。
方丈東側より土塀を出たところの開山堂と霊屋(みたまや)に向かう参道、右手はお茶席の雲居庵
開山堂への入り口の中門
開山堂は書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂で、1605年の建築されました。
お堂、東側は臥龍池(がりゅうち)です。
元来、北政所の持仏堂だったものですが、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっており、堂内は中央奥に
三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像
を安置しております。
高台寺は、書院・方丈・開山堂・霊屋・傘亭など各ポイントに女性の説明員を配置されており、とても親切な寺院です。
この堂の天井は、入ったところが秀吉の御座舟の天井と、その奥(写真)
北政所の御所車の天井を用いたものといわれております。
臥龍廊(がりょうろう)開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ屋根付きの階段で、屋根が龍の背に
似ているところからこの名が付けられております。
開山堂の東側の臥龍池
観月台(重要文化財)-書院と開山堂を結ぶ屋根つき廊の途中にある小規模な建築である。ここから北政所は亡き秀吉
をしのびながら月を眺めたといい伝えられ、観月台のある開山堂西側の池は 偃月池(えんげつち)といいます。
開山堂から見た方丈 偃月(えんげつ)とは、半月よりやや細い月のことを言い、弓張り月ともいいます。
開山堂をでたところのお茶席の雲居庵
霊屋(みたまや)への参道
霊屋(みたまや) 開山堂の西方、一段高くなった敷地に建つ、檜皮葺きの堂で1605年の建築です。内部は中央の厨子
に大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・北政所の
片膝立の木像がそれぞれ安置されております。
厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されており、厨子の目立たぬところに蒔絵の作者の名が
描かれており、これらを高台寺蒔絵と称しております。
霊屋から見た臥龍廊(がりょうろう)
傘亭 霊屋からさらに東に階段を登りますと、千利休の意匠による茶室の傘亭と時雨亭があります。両茶室共に伏見城
から移築されたものです。
時雨亭
傘亭は、竹が放射状に組まれ、唐傘を開けたように見えることからこの名がありますが、正式名称は、安閑窟(あんかん
くつ)といいます。 写真手前の入り口は、船で出入りできるように設計されてるとの説明をうけました。
パンフレットより
傘亭と時雨亭は土間廊下で繋がっており、ここにも説明係りの方が説明してくださいます。
時雨亭は、茶室では珍しい二階建てになっております。
境内の中では、この茶室が一番高台にありますので、あとは竹林を通り下ってゆきます。
開山堂の中門前にあるお茶席の雲居庵です。
開山堂の中門
境内を一周してまいりここが出口となります。 真っ直ぐ進むと山門があり山門を抜けるとねねの道を挟み塔頭の圓徳院
があります。
勅使門
山門南側の鐘楼
鐘楼東側の天満宮
天満宮前のお牛様
霊山観音の入り口もここにあります。
国宝 青不動御開帳に合わせ夜間拝観も行われております。
写真は昨年の夜間拝観の時のものです。
華頂殿の蓮の襖絵
華頂殿から宸殿方丈に向かう渡り廊下にある蹲、豊臣秀吉からの寄進の一文字手水鉢
宸殿 右、元三慈恵大師と左、第三代門主慈鎮和尚像
大玄関から入ったところにある御籠
宸殿南庭園のライトアップ、間隔を置いて昨年は2パターンの演出がありました。
小御所前の相阿弥の庭
相阿弥の庭の北側に広がる小堀遠州作、霧島の庭
霧島の庭東側にある好文亭茶室
小御所
庭園を一周しますと宸殿庭園に戻って来ます。2パターン目のライトアップで梵字が浮かび上がります。
昨年の紅葉は、11月中旬から12月上旬が見ごろでした。 写真は12月1日のものです。
クリックをお願いします。
したとされ、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって再興された芭蕉庵があります。
864年、慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置いたし、 開山当初は天台宗
でしたが、後に荒廃したために1688年~1704年に圓光寺の鉄舟和尚によって再興され、その際に圓光寺の末寺となり、
天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗いたしました。
山門左手のくぐり戸を入りますと村山たか女創建の弁天堂があります。
山門を入り正面で拝観受付を済ませ、左手の戸口から庭園に入ります。
庭園に入ったところ左手にある「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」の蹲があります。
「吾唯足知」とは際限ない欲望に溺れることなく、現在の状況を善しとして生きる大切さを説いたもので、「知足の者は貧
しといえども富めり、不知足の者は富めりといえども貧し」という禅の言葉からきているようです。
京都では、竜安寺にある「吾唯足知」の蹲(つくばい)が有名です。
方丈庭園
金福寺の主の登場です。とても人馴れしていてサービス満点擦り寄って来ました。
庭園の片隅に建つ与謝無村の歌碑
芭蕉庵 元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民に
よって芭蕉庵と呼ばれるようになりましたが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門に
よって、1776年再興されました。
茶室内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっています。
芭蕉庵から、北に少し上りますと与謝無村と一門のお墓が佇んでおります。
方丈内に安置されている文化財等には、番号がふられ方丈中央にあるボタンを押すと順を追って説明が流れてまいります。
写真左下にあるボタンで説明が流れます。
村山たか女のお墓は、圓光寺の徳川家康公の位牌堂のすぐ横にあります。
本堂の本尊は、慈覚大師円仁自作の聖観音菩薩像が安置されております。
元南禅寺管長 柴山全慶老師筆 南禅寺 慈氏院の不許複製だそうです。
車で来られる方は、駐車スペースが2台分しか有りませんので、詩仙堂に停めて徒歩で行かれる事をお勧めします。
詩仙堂から南に5分です。
このエリアに来られる方は、是非曼殊院・圓光寺・詩仙堂・金福寺とセットで廻られる事をお勧めします。
臨済宗南禅寺派に属しており開山 三要元佶(閑室)禅師、開基 徳川家康公となっております。
1601年、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に
圓光寺を建立し学校といたしました。 一時期、相国寺山内に移った時期もありましたが、1667年に現在の地に移されま
した。伏見にあった頃の圓光寺は、足利学校の三要元佶(さんようげんきつ)閑室(かんしつ)を招き、文教事業に傾注し
ており、特に朝鮮から輸入した木版活字を使った書籍の出版活動をしていたことが有名です。圓光寺には今も伏見版木
活字52320個が残っていて、宝物館に陳列されております。
右手に拝観受付がありますが、無人で志納料400円を納めますので小銭をご用意ください。
紅葉時には夜間拝観もなされております。
玄関の襖図
玄関横に庭園への入口があります。
本堂上がり口と書院と水琴窟
書院の前の百日紅が唯一彩を添えております。
水琴窟 京都の寺院には、ここの他に清水寺の成就院や大原・宝泉院や妙心寺・退蔵院
などにも水琴窟があります。
本尊は、伝運慶作の千手観音像が祀られております。
十牛の庭
本堂内にある茶室
本堂北庭園
十牛図(じゅうぎゅうず)は、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの
で、中国宋代の禅僧、廓庵(かくあん)によるものが有名です。
ここで牛は人の心の象徴とされ、またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てております。
1)尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2)見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3)見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
4)得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5)牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6)騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7)忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
8)人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の
自然な姿に気づく。
9)返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10)入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の
童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
十牛図を庭園で表した「十牛の庭」
水琴窟の横に佇むわらべ地蔵
本堂を出て順路に従い庭園を廻ります。
本堂東側のお堂に掲げられた山額
竹林のところで道が左右に分かれ、先に家康公の墓所のある左手の山上に向かいます。
家康公の位牌が祀られているお堂と右手のお墓地には、儒学者の中村斎(てきさい)と井伊直弼に仕えた密偵・村山
たか女の墓があります。家康公の墓所・東照宮は正面の階段を更に登ります。
徳川家康公を祀っている東照宮
高台からの眺めは、北山の妙法の妙の字や舟形・左大文字まで見渡せます。
庭園にある栖龍池(せいりゅうち)は、洛北一の古い池といわれており優雅に泳ぐ色とりどりの鯉を守るため水面に糸が
張り巡らされておりました。
左手の建物が宝物殿の瑞雲閣です。
宝物殿 伏見版木活字52320個が展示されております。
参道北側(左手)に駐車場がありますが、詩仙堂・金福寺と廻られるのであれば、詩仙堂前の駐車場に停めるのが勝手
がいいと思います。
左に行けば詩仙堂まで徒歩3分、さらに5分で金福寺です。右手に行けば曼殊院まで徒歩15分です。
1727年大愚和尚が開山し、室町の両替商「伊勢屋」荒木光品宗禎の寄進で、七堂伽藍を建立し、開基荒木宗禎の帰
依を受けた時の高僧「萬海慈源和尚」が創建立いたしました。
山門から境内に入り突き当りの手前、左手に「十二支干支達磨大師」像があります。達磨大師坐像を囲み十二支が安
置されており動物愛護の願いから寄進されたものだそうです。
十二支干支達磨大師の石畳を挟んだ庫裏側に建つ達磨大師立像
達磨堂 インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は今日日本では「だるまさん」として親しまれ、子供に
いたるまで知らぬものはいない存在になっております。
達磨大師は527年インドから海路3年の歳月をかけ中国崇山の少林寺に入り、この地で面壁9年、(達磨大師が、中国
の少林寺で壁に向かって九年間座禅し、悟りを開いたということ) 手も足もなくなり、尻も腐ったと世間が評判するほどの
忍苦の修行をなされ、禅宗の開祖となられました。
この達磨大師の忍苦の精神を慕い、貧禍厄病を転じ福寿を得んとの願いから、静的坐禅の面壁達磨を動的七転八起の
起き上がり達磨に姿を変え、日本独特の達磨に発展させたのが七転八起の現在の形です。
三国随一といわれる起き上がり達磨をはじめ、堂内には、諸願成就に奉納された八千体に及ぶ達磨が奉納されております。
左端が姫達磨です。
達磨堂の達磨天井図は、樋口文勝老師の画で、戦後、世に達磨三福人とたたえられた一
人が樋口文勝老師で老師83歳時の筆です。
達磨三福人とは、蒐集して日本一は木戸忠太郎翁、説法して日本一は先住伊山和尚、画
いて日本一は樋口文勝老師と説明されております。
達磨堂前の鐘堂は明治維新に崩壊し、梵鐘は境内の大藪の中に埋められたとの言伝えがあり、先住職伊山和尚の代の
昭和9年、庫裏新築工事の折に発見されて掘り出されました。
掘り出された時、梵鐘の中に白蛇が棲息していて、まるで鐘を護るかのようであったといわれております。
鐘楼西側の本堂庭園への入り口
衆聖堂 山門を入り右手にある衆聖堂は、山田無文老師の命名で、一階には樟一本造りの大達磨立像、十六羅漢木像
などが奉安されております。
衆聖堂の二階には、建物の裏側の階段から上がります。
手前に仏涅槃木像などと共にキネマ殿があり、歴代の映画関係者や俳優の位牌6百余りが祀られております。
仏涅槃木像は、約4百年前の作といわれ金箔等身蓮上聡耳の木像です。涅槃とは如来の死そのものを指す事とあり、
涅槃仏などはまさに、死を描写したものだそうです。「悟り」とも「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」を
いうそうです。
衆聖堂一階の樟一本造りの大達磨立像や十六羅漢木像
衆聖堂の南側に位置する本堂の東庭園
本堂南庭園 禅の仏道入門から真の悟りに至るまでの過程を、牧者と牛に託して描かれた十牛図を庭園で再現した
「十牛の庭」
1)尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2)見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3)見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
4)得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5)牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6)騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7)忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
8)人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の
自然な姿に気づく。
9)返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10)入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の
童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
月羅山和尚の筆による「転法輪」の山額
「転法輪」とは、車の輪が廻るように、仏法を説いて止めてはならぬ。仏法を
行じて絶えてはならぬ。と法輪寺の精神がここに書いてあります。
本堂東側にある「少林寺拳法 根本道場発祥の地」の石碑
山門を入ってすぐ右手にある庫裏
車で行かれる方は、寺院東側に10台程度の駐車場があります。電車の方はJR山陰線円町駅が最寄り駅です。
等持院(とうじいん)は、北区衣笠にある臨済宗天龍寺派の寺院です。足利尊氏将軍の墓所としても知られ、夢窓国師作
と伝えられる庭園でも有名です。
足利尊氏将軍は、1341年に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の1343年、現在の
京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立し尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」
と改称しました。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になりました。
参拝受付のある庫裏の入り口です。
左手が書院で庭園への降り口になっておりますが、順路に従い正面の方丈から回ります。
元天龍寺管長関牧扇筆による祖師像
方丈南庭園と勅使門
現方丈は1616年に福島正則が妙心寺海福院から移設したもので、襖絵は狩野興以の作です。
方丈東側にあります霊光殿には足利尊氏をはじめ歴代の将軍の仏像が安置されており、中でも徳川家康像は、家康が
42歳の時に厄落としの為にわざわざ作らせ、石清水八幡宮・宝蔵坊に納めていたものを明治維新に等寺院に移された
ものです。
家康42歳の時の木像 パンフレットより
霊光殿から見た方丈南庭園
霊光殿を後にし方丈を一周するかたちで書院に向かいます。方丈東側に広がる庭園は後ほど紹介いたします。
方丈北庭園と書院
夢窓国師作と伝えられる北庭園、様式的には江戸時代中頃の作と言われており、庭園に
は池をはさんだ対岸に茶室清漣亭があります。庭園は本来は衣笠山を借景としておりまし
たが、立命館大学衣笠キャンパスの拡充により、今では校舎に眺めを遮られております。
清漣亭の左手に見える建物といい折角の文化財の景観をいとも簡単に壊してしまう文化
レベルの低さを露呈しております。
書院の毛氈の敷かれたお茶席
庭園は池泉回遊式になっておりますので、書院から履物を履き庭園におります。
茶室 清漣亭 方丈の北側、書院の東にあたる庭園の小高い丘には、茶室『清漣亭』がひっそりとたたずんでおります。
茶道に興味を持ち、室町文化の発展に貢献した八代将軍足利義政公が建設いたしました。
建設当時は、東側(右手)の茶室のみ建てられ、左手は後に建て増しされたものと説明されており、清漣亭とは東側の
茶室の名称とあります。
茶室入り口にある、手水鉢は司馬温公型と呼ばれております。司馬温公型手水鉢とは、縁がでこぼこし、凹凸が激しい
石に水穴をあけたものだそうです。
清漣亭から見る方丈
清漣亭の前にある等持院型と呼ばれる燈籠
清漣亭から東に丘を下りてまいりますと、左手に足利歴代将軍の十三重の遺髪塔があります。
華やかな四季折々の草花に彩られた方丈北庭園から東の庭園の林泉は芙蓉池と呼ばれ、池の形が心の一字をかた
どったように見えることから心字池と呼ばれることもあります。
どこか苔寺の庭園に似ていると思いつつ回っておりましたが、天龍寺や苔寺も夢窓国師の作と知り自分の無知ぶりを認
識いたしましたが、一つ賢くなりました。
等持院の説明書によりますと、よく、池の周辺をたどる人たちは、廻遊式庭園という名を用いますが、天龍寺の曹源池
でも苔寺の黄金池でも、この芙蓉池の庭でも、それぞれの池は仏菩薩の逍遙(しょうよう)せられるところであって、
(「逍遙 」には、散歩あるいはそぞろ歩く、などの意味があります)われわれの廻遊観賞のために国師が構想築造された
のではなかった筈で、これを逍遙式庭園と呼ぶのが至当である。とあります。
左手の建物は、方丈東側の霊光殿の裏側になります。
芙蓉池を一周してまいり、方丈の北東角の位置に足利尊氏将軍のお墓が佇んでおります。
書院内部のお茶席
庫裏の屋根裏です。
山門を出たところに、木々に覆われた鐘楼があります。
等持院は金閣寺と龍安寺の間にあり立命館大学の南側に位置しております。徒歩であれば龍安寺から向かわれるのが
一番近いです。電車は京福電鉄に等持院駅があります。