京の四季 名勝散策 写真集

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東山 円山公園 安養寺 09/11/04

2009年11月06日 | 洛東 東山 四条八坂近辺

      円山公園は、京都で最も有名な公園で元々は、八坂神社の一部で明治維新以降に国へ納めるという形で分離されました。
      円山公園の敷地面積は、約8600㎡もあり公園内には、坂本龍馬・中岡慎太郎像や有名な枝垂桜があり、 桜の季節には
      昼夜を問わず多くの人が花見に訪れます。
      円山公園のシンボルになっているこの桜は、「一重白彼岸枝垂桜」といい、現在の桜は二代目で初代は樹齢220年で
      昭和22年に枯死いたしました。昭和3年に初代より種子を採って育成された桜を、15代佐野藤右衛門氏により昭和24年
      に寄贈・植栽され、平成21年現在81歳を向えております。
      しかし、ここ10年を見ておりましても、枝のボリュームが極端に落ちてまいり、見ていて可愛そうな位になってしまいました。









      









                
                ひょうたん池と昼寝中の白鳥と青首鴨 大変人馴れしており、近づいても逃げようといたし
                ません。









                          









                
                東山から湧き出る水を、ひょうたん池に運ぶ小川です。








      
      公園の奥の南側、料理屋のいそべの手前に、坂本龍馬・中岡慎太郎像があります。








                
                いそべのところを南に東大谷廟に出ますと長楽寺があります。平安時代の延暦24年(805)
                桓武天皇の勅命によって伝教大師を開基として観世音菩薩を本尊として創建されました。
                宗派は、当初(平安時代)は天台宗でしたが、鎌倉時代初期、天台宗名僧で隆寛(りゅう
                かん)律師が浄土宗開祖の法然上人を慕い、その教えを受けるために比叡山からこの寺に
                移り、専修念仏長楽寺派を開立いたしました。
                また長楽寺は、平清盛の娘徳子・建礼門院が髪をおろされた寺としても知られております。







      
      長楽寺からさらに山手に進みますと、料亭「左阿彌」があります。
      左阿彌が誕生したのは、1615年のこと、織田信長の甥である織田頼長により、安養寺の末寺として建てられました。
      頼長の父は、茶人の織田有楽斎。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと云います。
      江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわいでした。中でも左阿彌は、安養寺「円山の六坊」
      の一つと数えられ、文人墨客の集うところとなり風流の限りが尽くされたと伝えられています。 左阿彌が料亭を始めたの
      は1849年。明治維新以降、御前会議に使われたこともありました。








                
                個人的な話になりますが、この左阿彌は私が小学校ころまで、母方の祖父母が経営して
                おり、物心付いたときから年に何度も遊びに来ており、そこらじゅうを走り回ってたことを前を
                通る度に思い出します。








      
      山の傾斜部分に建っておりますので、一階から入っても階段で地下に降りていく感覚でした。 祖父の話では、建物の
      下のほうに山科まで抜けるトンネルがあったと聞かされ、入り口を見せてもらったことがありました。







       
      







                
                玄関まえにある、織田頼長公の石碑









       
      左阿彌から、さらに上がりますと、法然上人ゆかりの吉水の井のある吉水弁財天があります。








                









                           









      
      お堂の裏手の山肌から湧き出る清水








      
      お堂に向かって右側(南側)の法然上人閼伽の水「吉水の井」 閼伽(あか)とは、仏教において仏前などに供養される
      水のことだそうで、サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳されます。インドでは古く、来客に
      対し足をそそぐための水と食事の後口をすすぐための水が用意されたといい、それが仏教に取り入れられ、仏前や僧侶に
      供養されるようになったもだそうです。










      
      安養寺 は、桓武天皇が平安京に遷都された延暦年間(782~806)、都を鎮守する寺として、伝教大師 最澄が創建され
      ました。また、法然上人が比叡山を下り、吉水で開かれた草庵の一つでもあり天台宗が始まりで、現在は時宗となって
      おります。
      比叡山を下りた法然房は、最初、京都西郊・粟生の光明寺に住まわれましたが、ほどなく東山大谷へ移られたのが、こ
      の地吉水です。この東山一帯の土地は、天台宗の堂舎が建立したところで、この頃は青蓮院門跡が所轄しておりました。
      






                
      この吉水において草庵をもった法然房は、一心に南無阿弥陀仏と声を出して称えれば、貴族や庶民という身分に関わら
      ず、阿弥陀仏の救済を受け、浄土に生まれることができる、とした教えを説かれ広められました。いわゆる専修念仏であ
      り当時は、貴族中心の仏教が全盛時代で、この教えは人々に深く帰依されたことは言うまでもなく、瞬く間に受け入れら
      れることとなりました。








       
      その後、1206年12月、鹿ケ谷(安楽寺)の草庵で法然の弟子、住蓮房と安楽房が開いた念仏会に参加した後鳥羽上皇
      の女官姉妹が感激して尼僧になった事に激高された天皇は1207年法然を讃岐の国(四国)へ、親鸞を越後へ配流する
      など、法然の有力な門弟もそれぞれ処罰されて専修念仏が全面的に禁止されました。この騒ぎになるまでの三十年間
      (上人75歳)、ここ吉水を本拠として布教伝道をされておられました。









      
      草庵は、法然上人が流罪のあと念仏停止となり、慈鎮和尚(慈円)が来られ、慈円山大乗院安養寺と号されることになり
      ました。徳川時代に入り、慈円山は「円山」と称される寺坊六ヶ寺と本坊を構える一大山寺となりましたが、明治となって
      坊舎は政府に没収され円山公園となりました。








      
      本堂前からは、京都市内が一望出来ます。 私の祖父母のお墓もこちらにあり、年数回はお参りに寄せていただく縁の
      ある寺院です。

      東山の高台に位置しておりますが、4日現在紅葉はまったくいたしておりませんでした。
      今の時期は、比叡山か高雄の神護寺・西明寺方面をお奨めします。


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