両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継ぐ龍山徳見(りゅうざん とっけん)禅師を開山とする
臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。 創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にありま
したが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。
開山 龍山徳見禅師(1284~1358)は、関東の名族・千葉氏の出身で、今の千葉県香取市周辺が生誕地です。徳見は、最初「利見」という名で十二
歳のころ、鎌倉五山の寿福寺に入り禅僧の道を歩み始めます。 当時、円覚寺には中国からの稀代の高僧・一山一寧(いっさんいちねい)和尚が居り、
彼に参ずるものが後を絶たない状況でした。そこで一山和尚は、漢詩文の試験を行い、そこでトップで試験をパスしたのが利見です。円覚寺で禅と漢詩
文を勉強する間、一山和尚は利見の才能を見抜き、中国への渡航を薦めます。そして、利見は22歳の時に中国へ単身渡ることを決意いたしました。
当時の元(中国)にて45年を過ごした禅師は、足利尊氏の招きにより帰国することとなり、禅師が帰国する際、惜別に耐えかね追随する形で来日した
林浄因が、日本で始めて饅頭を作った人物であることから「饅頭始祖の寺」としても知られております。 帰国後の禅師は、建仁寺35世、南禅寺24世、
天龍寺6世の住持として栄西禅師直系の黄龍派を広めていきました。 のちに功績を称えられ朝廷から「真源大照禅師」の号を賜り、1358年75歳で
入滅なされました。
山門の突き当たりの唐門前の砂山
拝観受付が置かれている 唐門と本堂南庭 こちらで茶席のお抹茶券を求めます。
唐門の南側の手水鉢 本堂南庭
本堂南庭
両足院は、普段は公開なされておりませんが、年始と半夏生のこの季節に1ケ月ほど特別公開なされます。期間中は、本堂と書院に説明をしていただ
く係りの方が居られ詳しい説明を受けることができます。 半夏生の公開時期は毎年6月の10日前後から7月の10日前後の1ケ月間になります。
本堂で説明を受け廊下を進み東側庭園を通り北側の書院に向かいます。
お茶席券を購入の方は、こちらの門から茶席に向かいます。
書院庭園 池の向こう側の建物は、左が国宝如庵の写し「水月亭」と大村梅軒好み「臨池亭」の二つの茶室が並びます。
水月亭
お抹茶が頂けるのは、二つの茶室の内の東側(右側)の茶室・臨池亭です。
書院
書院で係りの方の説明を受けている方々です。
書院前の庭園は、半夏生の庭と呼ばれており、池畔にはクチナシの白い花も咲き涼感を感じさせます。梅雨時でもあり、雨の日の拝観もしっとりとして
良いと思います。
半夏生の葉の白い割合は、6月より7月の方が増えているようです。 この後は、また青くなるそうです。
こちらの写真は、昨年の6月16日の写真です。
本堂と庫裏の間の閼伽井の坪庭。閼伽(あか)とは、神仏に御供えする水のことで、その水を汲む井戸が閼伽井です。
龍山徳見禅師画像 本尊 阿弥陀如来立像
雪梅雄鶏図 伊藤若冲筆が所蔵されております。
長谷川等伯筆 水辺童子図襖
唐門
両足院を出て石塀を北に進みますと、同じ敷地内に毘沙門堂があります。
鞍馬の胎内仏 両足院の毘沙門天は、鞍馬寺毘沙門天の胎内仏でした。戦国時代 比叡山が織田信長によって焼き
討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、比喜多養清(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達)のところへ、
尊像を疎開させたものです。
黒田家必勝の御守護 関が原の会戦に黒田長政が、関東方として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利
を収めたといわれています。そのあと尊像は代々黒田家で信仰されましたが、維新の変革で明治10年ごろ当院に寄進
されました。 以後、勝利の神として商売繁盛、合格祈願、良縁成就、誓願成就 など参拝の方々が訪れております。
寅年の本尊 本尊の毘沙門さんは、脇仏に閻魔大王、不動明王をおまつりしています。毘沙門天堂の狛犬は、寅。
香炉や灯篭にも寅が、浮き彫りされていることから寅年生まれの方やご縁のある方がよくお参りされております。同じ
毘沙門天を祀っていることから、鞍馬寺と同じ狛寅が両側をかためております。
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私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。
祇園 割烹 ふじ原 ホームページ http://kappou-fujiwara.com/
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