神護寺は嵐山のさらに北側の高雄に位置し、高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号し開基は
和気清麻呂です。
和気清麻呂とは奈良時代末期~平安時代初期の高級官僚で、歴代天皇の側近として平安京遷都などに力を発揮した
人物です。
神護寺の参道入り口に架かる高雄橋と下を流れる清滝川
清滝川に架かる高雄橋を渡ると、階段の参道入り口があります。
結構きつめの石段は、仁王門まで約10~15分続いております。頑張ってしまいますと息が
上がってしまいますので、紅葉を愛でながらのんびりとお登りください。
お疲れの方は、途中何軒も茶屋がありますのでご安心ください。
各茶屋の規模も大きく席数も十分ありますので、参拝前でも後でもゆっくり紅葉を眺めながら食事も取っていただけます。
写真の規模のお店が三箇所ほどあります。
楼門(仁王門) 参道から急な石段を上りつめた先に建つ正門で毘沙門堂などと同様、1623年の建立とされております。
楼門の手前、右側に本坊の入り口の門があり、中には書院や茶室がありますが、非公開になっております。
神護寺の始まりは、平安京造営(794)の最高責任者であった和気清麿公が、いまの愛宕神社の前進、愛宕山白雲寺
などとともに建てた愛宕五坊の一つで「高雄山寺」と呼ばれましたが、824年河内の神願寺(清麿公創建)の地が、よご
れた所でふさわしくないという理由から高雄山寺に合弁されて、「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称したの
が始まりですが、これより先、和気一族は、叡山の伝教大師最澄や弘法大師空海をこの寺に招いて活動の場とされた
ため、時の仏教界に新風を送ることとなり、平安仏教の発祥地となったところであります。
弘法大師は、唐より帰朝して、809年に入山し以来14年間住持され、真言宗立教の基礎を築かれたところであり、のち
の東寺や高野山金剛峰寺と並ぶ霊刹であり、弘法大師を初代としております。 楼門を入り、すぐ右手に見える宝蔵
和気公霊廟
鐘楼 毘沙門堂などと同様1623年の再建とされ楼造の鐘楼で、楼上に国宝の梵鐘があり
ますが、非公開です。
明王堂
五大堂 毘沙門堂の背後に建つお堂で、やはり元和9年(1623年)の建築です。
毘沙門堂 金堂へと上る石段の下に建ち、金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されて
いました。元和9年(1623年)の建築で、内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文)が安置されております。
大師堂 毘沙門堂、五大堂のさらに奥にある入母屋造りの、杮(こけら)葺きの住宅風の仏堂です。空海の住房であった
「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建です。内部の厨子に1302年作の板彫弘法大師像(重文)
が安置されており、現在特別公開がされております。
大師堂の前から毘沙門堂、五大堂、階段の上に金堂が見えます。
金堂に登る階段です。
金堂 楼門を入って境内奥へ進み、右手の石段を上った先に建ちます。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂であり
ますが、建築年代は新しく、昭和9年(1934年)に実業家山口玄洞氏の寄進で建てられたもです。
金堂の本尊は、薬師如来立像が祀られており、神護寺の前身寺院である神願寺または高雄山寺のいずれかにあった像
と思われますが、どちらの寺に属していた像であるかについては定説がないそうです。
金堂の向かって右奥にある石仏像
手前、五大堂と毘沙門堂
金堂の向かって左奥にある多宝塔
多宝塔 金堂からさらに石段を上った高みに建つお堂で、金堂と同様、昭和9年(1934年)、実業家山口玄洞の寄進で建
てられたものです。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像が安置されておりますが、非公開です。
金堂から正面の階段を下りずに右手の細い道を進みますと、地蔵院に出ます。
地蔵院の前の建物で開かれている永坂嘉光氏の写真展
です。
とても素晴らしい写真が展示されております。
地蔵院の前は、眼下に清滝川が望め、厄除けと書かれた6cmほどの素焼き焙烙の「かわらけ投げ」が出来ます。
ここから、焙烙を投げますが、遠くに長く飛んでるほど良いそうです。見ておりましたら、老若男女問わず皆さん嬌声を上
げながら楽しんでおられました。
こちらの茶屋で「かわらけ」を買い求めます。
ここが神護寺の折り返し地点になりますので、帰路に入ります。
「かわらけ投げ」を終え戻ってまいりますと、五大堂横に出ます。そのまま真っ直ぐ進みますと、楼門に着きます。
明王堂
御覧の様に綺麗に色付いてる木もありますが、来週末あたりからピークを迎えると思います。週末は、嵐山・高雄方面は
くれぐれも車での乗り入れは御注意ください。神護寺・西明寺の駐車場は少なく、すぐに一杯になってしまい入れ替わる
のに2時間は掛かります。
神護寺の高雄橋から西明寺までは、徒歩で5分位です。
西明寺の入り口の橋です。
和気清麻呂です。
和気清麻呂とは奈良時代末期~平安時代初期の高級官僚で、歴代天皇の側近として平安京遷都などに力を発揮した
人物です。
神護寺の参道入り口に架かる高雄橋と下を流れる清滝川
清滝川に架かる高雄橋を渡ると、階段の参道入り口があります。
結構きつめの石段は、仁王門まで約10~15分続いております。頑張ってしまいますと息が
上がってしまいますので、紅葉を愛でながらのんびりとお登りください。
お疲れの方は、途中何軒も茶屋がありますのでご安心ください。
各茶屋の規模も大きく席数も十分ありますので、参拝前でも後でもゆっくり紅葉を眺めながら食事も取っていただけます。
写真の規模のお店が三箇所ほどあります。
楼門(仁王門) 参道から急な石段を上りつめた先に建つ正門で毘沙門堂などと同様、1623年の建立とされております。
楼門の手前、右側に本坊の入り口の門があり、中には書院や茶室がありますが、非公開になっております。
神護寺の始まりは、平安京造営(794)の最高責任者であった和気清麿公が、いまの愛宕神社の前進、愛宕山白雲寺
などとともに建てた愛宕五坊の一つで「高雄山寺」と呼ばれましたが、824年河内の神願寺(清麿公創建)の地が、よご
れた所でふさわしくないという理由から高雄山寺に合弁されて、「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称したの
が始まりですが、これより先、和気一族は、叡山の伝教大師最澄や弘法大師空海をこの寺に招いて活動の場とされた
ため、時の仏教界に新風を送ることとなり、平安仏教の発祥地となったところであります。
弘法大師は、唐より帰朝して、809年に入山し以来14年間住持され、真言宗立教の基礎を築かれたところであり、のち
の東寺や高野山金剛峰寺と並ぶ霊刹であり、弘法大師を初代としております。 楼門を入り、すぐ右手に見える宝蔵
和気公霊廟
鐘楼 毘沙門堂などと同様1623年の再建とされ楼造の鐘楼で、楼上に国宝の梵鐘があり
ますが、非公開です。
明王堂
五大堂 毘沙門堂の背後に建つお堂で、やはり元和9年(1623年)の建築です。
毘沙門堂 金堂へと上る石段の下に建ち、金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されて
いました。元和9年(1623年)の建築で、内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文)が安置されております。
大師堂 毘沙門堂、五大堂のさらに奥にある入母屋造りの、杮(こけら)葺きの住宅風の仏堂です。空海の住房であった
「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建です。内部の厨子に1302年作の板彫弘法大師像(重文)
が安置されており、現在特別公開がされております。
大師堂の前から毘沙門堂、五大堂、階段の上に金堂が見えます。
金堂に登る階段です。
金堂 楼門を入って境内奥へ進み、右手の石段を上った先に建ちます。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂であり
ますが、建築年代は新しく、昭和9年(1934年)に実業家山口玄洞氏の寄進で建てられたもです。
金堂の本尊は、薬師如来立像が祀られており、神護寺の前身寺院である神願寺または高雄山寺のいずれかにあった像
と思われますが、どちらの寺に属していた像であるかについては定説がないそうです。
金堂の向かって右奥にある石仏像
手前、五大堂と毘沙門堂
金堂の向かって左奥にある多宝塔
多宝塔 金堂からさらに石段を上った高みに建つお堂で、金堂と同様、昭和9年(1934年)、実業家山口玄洞の寄進で建
てられたものです。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像が安置されておりますが、非公開です。
金堂から正面の階段を下りずに右手の細い道を進みますと、地蔵院に出ます。
地蔵院の前の建物で開かれている永坂嘉光氏の写真展
です。
とても素晴らしい写真が展示されております。
地蔵院の前は、眼下に清滝川が望め、厄除けと書かれた6cmほどの素焼き焙烙の「かわらけ投げ」が出来ます。
ここから、焙烙を投げますが、遠くに長く飛んでるほど良いそうです。見ておりましたら、老若男女問わず皆さん嬌声を上
げながら楽しんでおられました。
こちらの茶屋で「かわらけ」を買い求めます。
ここが神護寺の折り返し地点になりますので、帰路に入ります。
「かわらけ投げ」を終え戻ってまいりますと、五大堂横に出ます。そのまま真っ直ぐ進みますと、楼門に着きます。
明王堂
御覧の様に綺麗に色付いてる木もありますが、来週末あたりからピークを迎えると思います。週末は、嵐山・高雄方面は
くれぐれも車での乗り入れは御注意ください。神護寺・西明寺の駐車場は少なく、すぐに一杯になってしまい入れ替わる
のに2時間は掛かります。
神護寺の高雄橋から西明寺までは、徒歩で5分位です。
西明寺の入り口の橋です。
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