両足院では、6月11日より7月11日(日)までの期間、半夏生の庭特別公開をなされております。 書院の池の周りを囲むように可憐に色付いた葉が、
水面を飾っております。 ハンゲショウ(半夏生、半化粧、)とは、ドクダミ科の多年性落葉草本植物で、名前の由来は、半夏生(太陽の黄経が100°に
なる日)の頃に花を咲かせることに由来する説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説があります。 また、葉の片面(表面)だけ
が白くなることから古くはカタシログサ(片白草)とも呼ばれておりました。
花見小路を四条から南に下がり突き当りの山門を入り、現在修復中の鐘楼の南東に位置しており法堂の東側です。 両足院は、建仁寺の開山・明庵
栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継ぐ龍山徳見(りゅうざん とっけん)禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院で
す。 創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、
「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。
開山 龍山徳見禅師(1284~1358)は、関東の名族・千葉氏の出身で、今の千葉県香取市
周辺が生誕地です。徳見は、最初「利見」という名で十二歳のころ、鎌倉五山の寿福寺に入
り禅僧の道を歩み始めます。 当時、円覚寺には国からの稀代の高僧・一山一寧(いっさんい
ちねい)和尚が居り、彼に参ずるものが後を絶たない状況でした。そこで一山和尚は、漢詩文
の試験を行い、そこでトップで試験をパスしたのが利見です。円覚寺で禅と漢詩文を勉強する
間、一山和尚は利見の才能を見抜き、中国への渡航を薦めます。そして、利見は22歳の時に
中国へ単身渡ることを決意いたしました。
当時の元(中国)にて45年を過ごした禅師は、足利尊氏の招きにより帰国することとなり、禅師が帰国する際、惜別に耐えかね追随する形で来日した
林浄因が、日本で始めて饅頭を作った人物であることから「饅頭始祖の寺」としても知られております。 帰国後の禅師は、建仁寺35世、南禅寺24世、
天龍寺6世の住持として栄西禅師直系の黄龍派を広めていきました。 のちに功績を称えられ朝廷から「真源大照禅師」の号を賜り、1358年75歳で
入滅なされました。
山門の突き当たりの唐門前の砂山
唐門と本堂庭園
本堂南庭園と廊下を進み左手に回ると書院の庭園が見えてまいります。
本堂東庭園
書院庭園 池の向こう側の建物は、左が国宝如庵の写し「水月亭」と大村梅軒好み「臨池亭」の二つの茶室が並びます。
池のほとりを彩る半夏生
期間中は、本堂と書院で係りの方が説明をしてくださいます。
書院前の庭園は、半夏生の庭と呼ばれており、池畔にはクチナシの白い花も咲き涼感を感じさせます。梅雨時でもあり、雨の日の拝観もしっとりとして
本堂東庭
本堂と庫裏の間の閼伽井の坪庭。閼伽(あか)とは、神仏に御供えする水のことで、その
本堂に戻り靴を履き庭園に出ます。お茶席でお茶を召し上がる方は、拝観受付の唐門で
申し出てください。唐門横の手水鉢
庭園の北側のお茶室前より。 こちらの茶室では期間中、お抹茶をいただくことも出来ます。
両足院は、唐から来朝した林浄因が、日本で初めて饅頭を作った人物であることから、「饅
頭始祖の寺」としても有名で、お茶席では美味しいお饅頭も提供されます。
二つの茶室の内の東側の茶室・臨池亭
両足院を出て石塀を北に進みますと、同じ敷地内に毘沙門堂があります。
鞍馬の胎内仏 両足院の毘沙門天は、鞍馬寺毘沙門天の胎内仏でした。戦国時代 比叡山が織田信長によって焼き討ちにあった際、鞍馬の僧が尊
像の安全を危惧し、比喜多養清(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達)のところへ、尊像を疎開させたものです。
黒田家必勝の御守護 関が原の会戦に黒田長政が、関東方として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利を収めたといわれています。
そのあと尊像は代々黒田家で信仰されましたが、維新の変革で明治10年ごろ当院に寄進されました。 以後、勝利の神として商売繁盛、合格祈願、
良縁成就、誓願成就 など参拝の方々が訪れております。
寅年の本尊 本尊の毘沙門さんは、脇仏に閻魔大王、不動明王をおまつりしています。毘沙門天堂の狛犬は、寅。
香炉や灯篭にも寅が、浮き彫りされていることから寅年生まれの方やご縁のある方がよくお参りされております。同じ
毘沙門天を祀っていることから、鞍馬寺と同じ狛寅が両側をかためております。
毘沙門堂の北側、西来院の参道に咲く紫陽花
両足院は、年に二回、1月とこの半夏生の時期しか公開なされておりませんので、ご確認
の上訪問してください。
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