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カルヴァンの宗教改革

2015年05月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

【フランス】生まれの【カルヴァン】は,自国での迫害を逃れて,【1536】年スイスの【バーゼル】で『【キリスト教綱要】』を著した。これによって一躍名を知られるが,【ジュネーヴ】に姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人にすぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえジュネーヴは,宗教改革の洗礼を受けない司教座都市にとどまっていた。
 カルヴァンは,ルターに比べ,【信仰のみ】によって義とされるという考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへの服従を説く【予定説】がある。この教えはヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった【商工業者】層に受け入れられ,彼らのなかに独特の【職業労働への倫理的態度】を生み出した。
 またカルヴァンは,先行していたスイスの宗教改革指導者の【ツヴィングリ】に比べても,教会の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される【司教】を廃止し,信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として【長老】に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。
 フランスでもカルヴァン派プロテスタント(彼らは【ユグノー】と呼ばれた)は増加し,商工業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,【1555】年【ルター】派を容認した【アウグスブルクの和議】に見られるような「支配者の宗教がその地域の宗教である」とするドイツの【領邦教会】制のような秩序は,フランスでは成立せず,抗争はより複雑化した。そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。【1562】年のカトリック勢力によるプロテスタントの殺害に端を発し,30年間以上にわたって断続的に続いた【ユグノー戦争】は,スペインなど外国の介入をも招いた。この間,【1572】年には,【カトリーヌ=ド=メディチ】による【サン=バーテルミーの虐殺】のような血なまぐさい悲劇も起こる。『【随想録】(エセー)』の著者の【モンテニュー】は,これに衝撃を受け,自身は国王派のカトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれて【ボルドー】市長になると,同市を両勢力の抗争の場としないように奔走した。
 長い争乱は,【プロテスタント】の首領【アンリ=ド=ナヴァール】の【1598】年の国王即位,彼の【カトリック】への改宗,【ナントの勅令】の公布により,ようやく終わりを迎える。カルヴァン派にも礼拝の自由や公職就任が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,【1685】年にはナントの勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。


メソアメリカ 04年関西学院大学より

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
 先住民とは近年になって成立した政治的概念である。西欧の国家形成過程や近代化のなかで,民族としての存立を否定されたか,そうした脅威を受けている人々を指す。
 アラスカとカナダに居住する先住民のイヌイット以外,新大陸の先住民はインディオと総称されるが,彼ら先住民はベーリング海峡が陸続きの時に移住したモンゴロイド系と思われる人々であり,その後,新大陸各地に拡散したものと考えられている。こうした人々は独特の農耕文化を持ち集落を形成した。たとえばメキシコ湾岸では,前1000年頃【オルメカ】文明が成立し,中央アメリカのユカタン半島や【グアテマラ】 では,4世紀から10世紀初頭にかけてマヤ文明が形成された。12世紀の中頃からメキシコ高原に進出した【アステカ】族は,15世紀以来強力な国家を形成した。北部アンデス地域には,前1000年頃から【チャビン】文化が成立して,灌漑による【トウモロコシ】の栽培が普及した。さらに15世紀にはエクアドルからチリにおよぶ広大な地域に【インカ帝国】が成立した。しかし15世紀末から16世紀初頭のヨーロッパ人の新大陸「発見」の後,こうしたインディオには過酷な運命が待っていた。ヨーロッパ人が残忍な征服を続けたからである。
 

イギリス身分制議会の成立

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

ロンドンのウェストミンスター修道院周辺地域は,中世以来,イギリスの政治・行政において重要な役割を果たしてきた。現在でも,そこには,首相官邸をはじめ主要な官庁が置かれているが,その中でもとりわけ重要なのは,ビッグ=ベンの名で有名な時計塔を持つ国会議事堂である。テームズ川に面して聳える今日の国会議事堂の建物は,1834年の火災後に,ゴシック様式を模して再建されたものである。 
 もともと、封建家臣は領主である国王に【助言する義務と権利】があると考えられていたため,国王は彼らを集めて会議を開いていたのである。このような封建集会は,イギリスに限らず当時の大陸でも一般に見られる慣行であった。また,中世ヨーロッパでは,同じような利害を持つ人々が集団として王権などから特権を獲得したり擁護したりするという慣行も広く存在していた。
 中世中期以降王権が伸長してくると,自分たちの権益を護るために人々はますます団体としてまとまって王権に対して要求を行うようになった。また,王権側も,戦争や課税といった政治的に重要な課題についてこれまで以上に臣民の団体の代表から意見を聞くことが必要だと考えるようになってきた。これらの団体が身分を体現しているため,このような国王の会議は【身分制議会】と呼ばれている。この身分制議会は,当時のカトリック=キリスト教圏で広く見られるものであった。その身分は,一般的に【市民・貴族・聖職者】の3つであり,それぞれが国王と個別に会議を開くのが普通であった。
 【身分制議会】の成立年代や形態は,それぞれの王国により異なっていた。この制度が最も早く確立されたのは,イスラム教徒に対してレコンキスタ運動を行っていたスペインの諸王国であった。ここでは,諸王国は,常に戦争状態にあったため,臣民から戦費を調達し,戦闘において彼らの支持を得る必要があったのである。レオン王国では,既に12世紀末に市民・貴族・聖職者が招集され,身分制議会が開かれていたことが知られている。フランスでも時期は遅れるが同様の発展が見られた。ここでは,国王【フィリップ4世】が教皇【ボニファティウス8世】に対抗するため【1302】年に市民・貴族・聖職者の3身分を招集したのが身分制議会の始まりといわれている。フランスでは,この会議は【三部会】と呼ばれた。多様な地域を含むフランス王国では,全国的なものと並び地方的なものが存在し,むしろ地方的なものがより重要な役割を果たしていた。また,権力の細分化が進んだドイツでも,14世紀後半から,全国的なものよりもむしろ領邦単位の身分制議会が発展した。しかし,ここでも他の諸王国と同じように3身分が議会を構成していた。
 これに対して,イギリスでは,独自の発展が見られた。イギリスでは,【13】世紀に入ると,諸侯が一体となって王権に対抗し,失政の矯正を求めるようになった。【ジョン】王治世下,【1215】年の【マグナ=カルタ】に至る反乱がその代表的な例である。次の【ヘンリー3世】の時代にも,【シモン=ド=モンフォール】を首謀者とする諸侯の反乱が起きるが,伝統的見解では,その時期,【1265】年に,王国の諸身分が【ウェストミンスター】に招集されたのが,イギリスの身分制議会の起源であるといわれてきた。さらに,次の王国【エドワード1世】は,【1295】年,戦費調達のために議会を開催するが,その時聖職者の上層部や諸侯だけでなく後に【庶民院】を構成することになる人々も招集したため,それは一般に【模範議会】と呼ばれている。
 しかしながら,厳密な意味で議会制度が確立されるのは,【エドワード3世】治世下,【百年戦争】の時代のことであった。国王は,戦費調達のためにたびたび議会を招集せざるを得なかったのである。国王は,聖職者の上層部と諸侯のみを一体として個別に招集し,さらにそれ以外の【各州の騎士】と【市民】の代表を一体として招集した。やがて,前者は真の法的貴族身分として発展し,後者も庶民という新たな階層を形成していくことになり,現在の【二院制】の基礎が確立された。百年戦争の間,庶民は,戦費調達のための課税に同意することと引き替えに,自分たちの要求を国王に認めさせることに成功し,【庶民院】は制度として着実に発展していった。
 このように,身分制議会は,中世後期には,ヨーロッパ中で発展し政治的に重要な役割を果たしていたが,近代に入ると,様々な状況の変化から,その役割は大きく変わっていくことになった。近代には,ヨーロッパの諸王国でより専制的な統治が行われるようになり,身分制議会は,招集されないか翼賛的なものとなり,衰退していったのである。たとえば,そのような発展が最も顕著に現れたフランスでは,全国三部会は,【1615】年に開かれた後,【1789】年まで開かれなかった。しかし,その時開かれた会議は,皮肉にも旧体制の崩壊を決定づけるものとなった。
 ほとんどのヨーロッパ諸国では,中世に確立された身分制議会が現代の議会へと直接的に発展することはなかったが,イギリスは,特殊な事情から結果として例外となった。イギリスでも,近代に入ると,程度の差はあれ専制的な王政がみられるが,議会,とりわけ庶民院は,17世紀の間,様々な政治的動乱のなかで,スコットランドやアイルランドへの支配も含めて,その立場を強化していった。【1688】年に国王【ジェームズ2世】がフランスへ亡命した後,王女【メアリー】とその夫オランダ総督【ウィリアム(ウィレム)】が,共同統治王として即位した。両王は,即位にあたり議会の要求を承認し,【1689】年12月に【権利章典】を発布した。これにより,王権は著しく制限され,以後議会の承認・同意なくして統治は事実上不可能となった。この時点で議会主権が確立され,立憲王政が成立したのだと久しくいわれてきた。確かに,この後の議会制度の歴史も単純なものではない。しかし,1688年から89年の事件の意義をどう評価するにせよ,少なくともこの段階で現在の議会制度へとつながる発展を可能とする基本条件が確立されたとみなすこともできるであろう。


ネーデルラント独立戦争 2002年大東文化大学改

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
 1556年,フェリペ2世がカルロス1世の跡をついでスペイン王位についたとき,その領土はスペイン本土のほか,ヨーロッパではネーデルラント,フランシュ・コンテ,ミラノ,ナポリ,シチリアに及んだ。ヨーロッパ外ではメキシコ,ペルーなどのアメリカ大陸の植民地,西インド諸島がスペイン領となった。そのうえ,彼の在位中に彼の名前をとって名づけられたフィリピン諸島を加え,1580年には後継者がなかったことから,母がポルトガル王家であった事情からポルトガルをも併合した。この結果,ポルトガルが領有していたアジア,アフリカ,ブラジルの植民地がスペイン領となり,スペインは世界史上空前の大帝国を築き上げることができた。

 民族,宗教,制度などを異にする広大な領土の統一を維持していくためには,なんらかの統治原理が必要であった。フェリペ2世はそれをカトリシズムに求め,カトリックを国教として宗教的統一を押し進めた。中世末期に宗教裁判をはじめイエズス会を設立したスペインが,反宗教改革の拠点だったことを考えれば,それは当然のことといえよう。まさにスペインはレコンキスタの国だったのである。彼は異端を宗教裁判にかけたが,その犠牲者はネーデルラントで最も多かった。それはネーデルラントの独立運動の原因ともなるのである。
フェリペ2世治下のスペインは,外見上は富裕であったにもかかわらず,王室財政と国民経済は破綻寸前にあった。カール5世として神聖ローマ帝国内でオスマン帝国のウィーン包囲に耐え忍んだだけでなく,新教徒との戦いに明け暮れた結果,スペイン王室財政はすでにカルロス1世の時代から赤字に苦しみ,16世紀の中頃には王室財政のほとんどは外国金融業者に依存していた。新大陸から大量の銀が持ち帰られたが,それは王室の支払いのためすぐに国外に流出してしまった。

 スペインの王室財政が窮乏した原因は,国王が行った対外戦争にあった。フェリペ2世は,フランスの旧教派を援助してユグノー戦争に積極的に介入し,激しい異端の弾圧と,重税に反対して反乱を起こしたネーデルラントに大軍を送らねばならなかった。オスマン帝国とのレパントの海戦の勝利は,トルコの進出からキリスト教ヨーロッパを守ったが,国家財政にとってはマイナスであった。イギリスとは旧教徒のメアリ女王との結婚によって一時友好関係をつくりだしたが,アン=ブーリンの娘エリザベス1世の時代になると,ドレークやホプキンスが率いた私拿捕船によるスペイン商船の襲撃などの事件によって両国関係は悪化した。フランスに対しては,イタリアでのスペインの覇権に挑戦したフランス王アンリ2世の軍を破り,1559年にカトー=カンブリッジ条約を結んでフランスのイタリア支配を最終的に断念させた。

 ネーデルラントは,中世以来,毛織物工業と中継貿易で栄え,当時ヨーロッパで最も繁栄した地方であった。特に,南ネーデルラントでは,ヨーロッパ有数の商工業都市が発達した。ブリュージュは14世紀ころからシャンパーニュの大市の遺産を受け継ぎ,東方貿易とハンザ貿易を結ぶ「キリスト教世界の仲立ち人」として,「中世の世界市場」になった。15世紀末になると,イギリス商人の当地への進出,銀などを供給する南ドイツとの結びつき,各種の植民地物産の取引などによってアントワープが国際的な通商・金融の中心都市として台頭した。16世紀前半には取引所が設立され,各地から多数の商人が集まった。この都市は,経済の中心地にとどまらず16世紀のヨーロッパ文化の一大中心地にもなった。しか)同市はネーデルラント独立戦争の際にスペイン軍の攻撃と略奪によって陥落し,国際的な通商・金融都市としての機能を失ってしまった。

北ネーデルラントは,南ネーデルラントに比べて経済的に遅れていたが,15世紀に入ると,バルト海地方の穀物や木材の貿易に進出し,ハンザ同盟の強力な競争相手になった。政治的にはネーデルラントは,ハプスブルク家のカールが婚姻関係から相続し,カールがカルロス1世としてスペイン王位につくとともに,スペイン領となったのである。宗教的には,ネーデルラントは,1540年代の中頃から(18)カルヴァン派が急速に増え,小貴族や市民層の間で信奉されていた。フェリペ2世はカルヴァン派を激しく弾圧し,旧教を強制した。これに対して民衆が反抗すると,フェリペ2世は大軍を派遣して新教派の弾圧をさらに強めた。

ネーデルラントの反乱は,オラニエ公ウィレムがネーデルラントの自由と特権の回復を目指して軍を起こし,新教徒の貴族たちがそれに呼応したとき本格化した。
 ネーデルラントの北部7州と南部10州は民族的にも,宗教的,経済的,政治的にも異なるところが多く,南部の旧教派の貴族は抵抗運動に消極的であった。スペインの援軍が到着して南部貴族を懐柔すると,彼らはスペインと和平を結んで戦線から離脱した。しかし,北部7州は団結し,ユトレヒト同盟を結成し,1581年に独立を宣言し,ネーデルラント連邦共和国(オランダ)を建てた。その後も戦いは続けられ,スペインに対抗するイギリスやフランスの援助を受けた。17世紀初めには,スペインと休戦条約を結んだが,それは事実上,独立を承認することを意味した。こうして1648年のウェストファリア(ヴェストファーレン)条約によって独立は国際的にも承認されることになった。
 
 独立した北部7州は,正式には「ネーデルラント連邦共和国」と称したが,7州のなかでもホラント州が指導的な地位を占めたので,通常オランダと呼ばれる。独立戦争中から戦後にかけて南ネーデルラントの毛織物業者が移住してきたために毛織物工業が発達し,これを背景に,アジア貿易や北アメリカにも進出して,スペイン,ポルトガルに代わり世界商業の覇権を握るに至った。
 学問や芸術の分野でも黄金時代を迎えた。法学の分野では,グロティウスが,『海洋自由論』を著し,イギリス,スペインの海洋独占に反対して公海自由の原則を主張し,「国際法の父」と呼ばれた。

古代ギリシア人の人間中心主義とルネサンス人の人間中心主義の違い

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ルネサンスが古代ギリシア文化の人間中心主義の復興だとすれば、古代の人々の人間中心の考え方とルネサンスの人々の人文主義との間にどのような違いがあるのだろうか。古代ギリシアの人間中心の考え方の特徴は、アリストテレスが言うように「人間はポリス的生き物」であるといえる。古代ギリシア人は市民共同体の一員としての自覚が強烈であった。それはファランクス軍団の戦い方に必要な意識であり、在留外人や市民の数倍に及ぶ奴隷から搾取するために必要不可欠な連帯感といえる。すなわち、ファランクスは市民どうしがまさに「肘を付き合わせる距離」で隊列を組み、一つの塊として敵に向かっていく。この距離は、敵前において恐怖のあまり、仲間を見捨てて逃げ出すことを許さない距離である。個人が名乗りを上げて敵と対峙する戦い方とは大きく異なる。その仲間意識を育てるために、各ポリスは「市民団」の結束を強固にする様々な工夫をした。とくに奴隷が市民の10倍程度もいたスパルタは、この市民団の組織化に成功したポリスである。彼らはそのために奴隷を共有し、市民はともに毎日の食事を取った。子供の教育も家庭が行うのではなく、市民共同体が行う。古代ギリシア世界の人間中心主義は、以上のように市民共同体の一員としての人間であり、そこには個人への信頼は希薄であった。

  一方、中世封建社会あるいはキリスト教共同体を否定するルネサンス人の人間中心主義は、個人への信頼が前面に出ている。むしろ個人を強調するあまり、個人の才能への依存が強く、そのような社会の風潮があったからこそダヴィンチやミケランジェロ、ラファエロといった多くの天才が登場したのであろう。中世封建社会は村落共同体が人々を縛り、人々は自分が生まれた農村から一生出ることもなく死んでいった。都市が復活してからも、商業活動はギルドという組合組織に制約を受け、新しくビジネスチャンスを生み出すことはなかった。またキリスト教の教えが社会の隅々までいきわたり、人々の生活を細かくチェックし合う社会であった。教会の教えにあっているかどうかをお互いに気にしあい、もし教えにそれた生活をする人がいたら、その人を社会から締め出していく。そんな息苦しさが13世紀までの中世社会であった。

 しかし、「14世紀の危機」がそのような社会を変えていった。ペストの大流行による人口の激減と権威ある人々も貧しい人々も無力に死んでいく現実、多発する農民反乱、100年戦争に見られるように寒冷化による土地の争奪、十字軍の失敗による教会の権威への失望、これらが社会を支えていた「枠」すなわち「共同体への帰属意識」を崩していったのである。その結果、ルネサンス人の人間中心主義は古代ギリシア人のそれとは大きく異なり、共同体への帰属意識が非常に希薄な、「個人」を前提とする「人間」への信頼を特徴としたものになっている。


レコンキスタ 法政大学2003より

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
 イスラム軍がモロッコから海峡を渡ってジブラルタルに集結,イベリア半島攻略に着手したのは【711】年。まずグアダレーテ河畔の戦いに西ゴート王ロデリックの軍勢を打ち破った。【トレド】を首都とする西ゴート王国はこの一戦で実質上崩壊し,723年までにピレネー山脈以南のイベリア半島のほぼ全域がイスラム世界に組み込まれた。
 イスラム治下のイベリア半島はアル=アンダルスと呼ばれた。かつてこの半島を経て北アフリカに入り,トレドを基地として地中海にも威をふるった【ヴァンダル】族にちなみ,現在もアンダルシアにその名をとどめている。ウマイヤ朝から【アッバース】朝への政変のさいに,ウマイヤ家の一族がそこに逃れ,【コルドバ】に拠って新政権を樹立した。【756】年のことで,一般にこれを後ウマイヤ朝と称する。
 古くから民族交流の舞台であっただけに,イベリア半島に住む人々の民族系統は種々異なり,信教の点でも一様ではなかった。新来のイスラム教徒の系統も複雑である。それにもかかわらず,後ウマイヤ朝のもとで融和が進み,10世紀までにイスラム世界の一翼としての立場が確立した。時あたかも【アブド=アラフマーン3世】の治世にあたり,後ウマイヤ朝の全盛期が訪れる。【ファーティマ】朝に対抗して,それまで【アミール】の称号にかえて【カリフ】の称号が採用された。
 11世紀に入ると,後ウマイヤ朝は下り坂に向かう。主要都市を拠点として各地にイスラム小王国が分立,その混乱のうちに崩壊してしまった。これに乗じて,北部の山岳地帯に割拠するキリスト教勢力が攻勢に転じ,【レコンキスタ】が活発化した。しかしちょうどそのころ,モロッコの【マラケシュ】を首都として【ムラービト】朝が興起,イスラム側はこの勢力を招き入れて反撃を開始する。それに代わった【ムワヒッド】朝もアンダルシアに進出し,レコンキスタは停滞ぎみとなる。
 相つぐ【ベルベル】系王朝のもとで,アンダルシアとマグリブの連帯が一層強まった。それとともに,西地中海のイスラム文化は円熟の域に達する。アンダルシアの誇る大思想家【イブンールシュド】,モロッコ出身の地理学者【イドリーシ】および大旅行家【イブン=バトゥータ】,チュニジア生まれの歴史家【イブン=ハルドゥーン】などをはじめ,数々の学者・文人が輩出した。建築・美術の分野では,東方と異なる特色が遺憾なく発揮され,アンダルシアにおいて【セビリア】のヒラルダの塔や【グラナダ】のアルハンブラ宮殿に結晶している。
 ラス=ナバス=デ=トロサの戦いにイスラム側が大敗し,堰は破られた。数十年のうちに,アンダルシアの大半が【カスティリャ】王国の手に帰した。【ナスル】朝が樹立されたのは,そのさ中である。このイスラム政権はカスティリャと【アラゴン】の対立を巧みに利用して,なお260年あまり生きながらえた。しかし,【1479】年両王国の合邦により成立したスペイン王国の力の前に屈した。【1492】年ここにレコンキスタは終結し,イベリア半島にはスペイン,ポルトガルの二国が並び立つ。

エンコミエンダ制とスペインによる支配

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
 1492年のスペインでは,1月にレコンキスタが完了し,3月にはユダヤ教徒追放令が発布された。異教徒をイベリア半島から追放したカトリック両王の後ろ盾を得たコロンブスは,この年の10月にカリブ海のサンサルバドル島に到着したのである。1494年のトルデシリャス条約に基づき,「新大陸」はスペインとポルトガルの間で分割され,その結果,ブラジルがポルトガル領となり,それ以外の地域はスペイン領となった。
 
 コロンブス以降,多くのスペイン人がアメリカへと渡った。彼らの中からコンキスタドール(征服者)が生まれ,馬と火器を用いて,この地域に古くから栄えていたアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼした。アメリカ統治のために1503年にエンコミエンダ制という制度が導入された。これは王権がインディオに関する義務を植民者に信託する制度である。信託を受けたものは,一定期間インディオを保護しキリスト教に改宗させる義務を負い,その見返りとしてインディオに対して貢租賦役を課する権利を有する。しかし実態は金銀の採掘などのためにインディオを奴隷として酷使したものであった。こうしたスペイン人の暴挙を告発するものが早くも16世紀前半に現われた。最初は植民者としてエスパニョラ島に暮らし,のちにドミニコ会の司祭となったラス=カサスである。
 
 16世紀にアメリカからスペインに運ばれた金銀は莫大な量に達したが,その富は国内の商工業を発展させることはなく,大半は戦費に当てられた。カール5世の治世のヨーロッパは,東方からのオスマン帝国の脅威や,イタリア支配をめぐるキリスト教国家間の争い(イタリア戦争)などがあり,戦乱が絶えなかったのである。こうした状況はフェリペ2世の時代も続き,オランダの独立などもあり,スペインは16世紀後半より徐々に国力を失い,ラテンアメリカに対する影響力も低下させていく。
 
 19世紀になると,ラテンアメリカでも啓蒙主義思想やアメリカ合衆国の独立の影響を受けて,クリオーリョと呼ばれる植民地生まれの白人が中心となって各地で独立運動が繰り広げられるようになる。その結果,シモン=ボリバルやサン=マルティンなどの指導者の下でこの地域に続々と独立国家が誕生していった。しかし,独立後のラテンアメリカ諸国は経済がモノカルチャー化していき,徐々にヨーロッパ列強とアメリカ合衆国に従属していくことになる。とりわけ19世紀後半になると,この地域におけるアメリカ合衆国の影響力は巨大なものとなっていった。

イベリア半島の歴史(~17世紀)

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

 地中海の東部を主たる活動の舞台としていたギリシア人は,前5世紀に東方の大国である【アケメネス朝ペルシア】と対決した。小アジアの【イオニア植民市】のペルシアに対する反乱をアテネなどが援助したのをきっかけに起こったペルシア戦争である。ギリシア側は,【前480】年にアテネの【テミストクレス】がひきいた艦隊が【サラミスの海戦】でペルシア軍を破り,また【前479】年に【アテネとスパルタ】の連合軍が【プラタイヤの戦い】で勝利するなどして,ペルシアの侵攻をしりぞけた。戦争後,ギリシア側の中心となったアテネは全盛期をむかえ,【ペリクレス】の指導のもとで民主政治が完成した。ギリシア人は,均整と調和のとれた美術の創造にすぐれ,【ドーリア】式のアテネの【パルテノン神殿】などをつくりだした。
 地中海の東部のギリシアから西部のイベリア半島へと目を転ずると,ここもまたヨーロッパ勢力と外部勢力との衝突の場となった歴史をもっている。イベリア半島では,ゲルマン民族大移動のなかでヨーロッパを東西に横断した【西ゴート】族が王国を築いていたが,8世紀の前半には【ウマイヤ】朝のイスラム教勢力が進出して【西ゴート】王国を滅ぼした。これ以降イベリア半島はキリスト教徒とイスラム教徒の勢力角逐の場となり,キリスト教勢力による統一が実現するには【カスティリャ】王国の【イサベル】と【アラゴン】王国の【フェルナンド2世】との結婚を機縁として両国が合邦し、【1479】年の【スペイン王国】が成立するのを待たなければならない。【1492】年にスペインは,イスラム教徒の最後の拠点のグラナダを占領し,国土回復運動(【レコンキスタ】)を完成させたのである。この【1492】年はまた,イサベルの後援を受けた【コロンブス】が大西洋を西航して「インド」に到達すべく,スペインの【パロス】港を出帆した年でもあった。
 その後,スペイン王【フェリペ2世】は,【1580】年には王統の絶えたポルトガルの領土をも継承して世界中にまたがる「【太陽の沈まぬ国】」の支配者となった。この王の時代を生きた作家【セルバンテス】は,『【ドン=キホーテ】』のなかで理想に燃える騎士が現実に翻弄されるさまを悲喜劇として描き出した。


カピトゥレーション

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
メフメト2世がイスタンブールに商館を置いたヴェネツィアとジェノヴァの商人に治外法権を与えたのが始まり。スレイマン1世はフランスに対しても治外法権と関税に関する特権を与えた。一般にスレイマン1世のカピトゥレーションが後に西欧諸国によって真似され、不平等条約の締結につながった。

カール4世とジギスムント父子

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

【1356】年に【金印勅書】を出して、【大空位時代】から続いていた不安定であった神聖ローマ帝国皇帝のポストを、安定させることに成功したのが【カール4世】です。皇帝を選挙で選ぶことにしたわけです。カール4世の業績はこればかりではありません。現在のチェコの都であり、ボヘミア地方(この地方をベーメン地方とも言います)の中心都市である【プラハ】の町をヨーロッパの一大中心地にし、ドイツ最初の大学である【プラハ大学】を創始した皇帝でもあります。
 もともと彼は【カレル1世】というベーメン王でした。その次男が【ジギスムント】です。婚姻によりハンガリー王を兼務し、ドイツの諸侯を率いて北上してくる【オスマン帝国】の【バヤジット1世】に対する十字軍を結成しましたが、【1396】年【ニコポリスの戦い】で敗北しました。これによりジギスムントの権威は低落しましたが、1411年になって神聖ローマ皇帝に選出されたため、皇帝権の強化を目指し、【1414】年に【コンスタンツ公会議】を開催し【グレート・シスマ】の解消を成功させています。しかし、彼はここで大きな過ちを犯しましtあ。【1415】年に聖書主義者の【ヤン=フス】を焚刑にしたため、【フス戦争】の呼ばれる【ボヘミア】の大反乱を招きました。


デカルト

2015年05月01日 | 何かの足しになれば

デカルトのいう「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、非常に有名な言葉です。自分以外の存在を否定しても、最後に否定しきれないものが残る。それがすべてを否定しようとしている「自分自身」である。これがこの言葉の意味です。倫理や世界史の授業でこのように説明しますが、彼が否定しようとしたものは何でしょうか。

 それは、「神」や「既存の社会倫理」「封建社会」です。すなわち、彼は「中世」を否定しようとしたといえます。これが、デカルトこそが近代社会の先駆的役割を果たした、とされる理由でしょう。最後にのこった「自己」は近代社会において、社会から独立した「個人」を認識させ、その「個人の確立」こそが、民主主義や自由主義の成立を可能にしたわけです。フランス革命の思想において、デカルトが指導的役割を果たしたとされることはうなづけます。
 しかしその後、近代社会が成熟して複雑化し、加えて、情報が膨大なものになったため、「個の確立」という言葉は虚しく感じられるようになりました。近代は個人のレベルにおいても過ぎ去ろうとしているのかもしれません。「近代とは何か」というテーマの文章は、現代文や英語の文章で目にするのも当然かもしれません。
 このように、一歩踏み込んで知識を取得すると、単なる「暗記」や「項目の羅列」といった状態から抜け出すことができます。