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東インド会社の歴史

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度
1600年にイギリス東インド会社が設立されました。東インドとは現在のアジア地域を指します。この会社はアジアの香辛料貿易に乗りましますが、1623年のアンボイナ事件でオランダに敗れ、香辛料貿易からの撤退を余儀なくされました。
そこでインドに退き、キャラコというインド産の高品質な綿織物を輸入し始めました。キャラコは瞬く間に人気商品になりますが、当時のイギリス政界を握っていたのは、毛織り物工業と関係の深い長老派国教徒です。したがって彼らは権力を振るって1720年代に次々とキャラコ輸入禁止の法律を制定します。

ちょうどイギリス東 インド会社がキャラコで潤っていた17世紀後半は、オランダの東インド会社が香辛料貿易と日中貿易を独占していました。そのためフランスのコルベールは1664年に東インド会社を復活させ、まで介入の余地があるインド貿易つまりキャラコや紅茶の輸入で利益を上げようとしました。ベンガル地方にはシャンデルナゴルフを建設し、イギリスの拠点カルカッタと対抗するとともに、南インドではイギリスのマドラスに対抗してポンディシェリを建設しました。
ここから英仏による重商主義をめぐる戦争が約100年間断続的に始まります。これを第2次英仏100年戦争と呼びます。

さて、イギリスの東インド会社がキャラコの輸入ができなくなると、イギリス人は自分たちでキャラコのような綿織物を製造し始めました。この綿織物工業こそが産業革命の幕開けになります。1733年以降の話です。すなわちそれまでヨーロッパでは毛織物工業が工業生産の中心でした。しかし産業革命は綿織物工業で始まったわけです。

一方、イギリスの 東インド会社は主力商品を失ったのでとうぜん赤字で苦しみます。その東インド会社を救済するために、議会は会社に中国貿易の独占権をあたえます。これが1773年の茶法です。

東インド会社に独占を認めた茶法の制定によって紅茶の値段が上がります。それに起こった北米マサチュセッツ植民地のボストン市民はがボストン茶会事件を起こし、この事件をきっかけにアメリカ独立革命が発生していきます。

イギリス東インド会社はその後、1833年に中国貿易の独占権を失い、インドにおける超税収入による会社経営に転換を余儀なくされました。しかし、インド農民にとってこれは大きな負担になります。この時の徴税方法をザミンダーリー制と言いますが、これに対する反乱がインド大反乱です。1857~59年まで続いた反乱の責任を負って1858年東インド会社は解散しました。

17世紀後半のオランダ・イギリス・フランスの抗争  関西学院大学

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

1651年から1689年までと,1689年から1763年までという時期区分は,世界の経済事情の変化を映すものであるが,そうした変化がもたらした政治的結末をも反映したものである。
 最初の時期(1651年から1689年まで)には,【オランダ】のヘゲモニー(覇権)に対する【イギリスとフランス】のチャレンジが成功し,イギリス人やフランス人は,1672年までには,オランダ国家が,もはやこれまでのように疑問の余地のない巨人などではない,と感じるようになった。1689年までには,オランダ人自身でさえ,そのように感じるようになったと思われる。したがって,【ウィリアム3世】と【メアリ2世】のイギリス王位への登位を転換点とみるのが自然といえよう。
 ついで,間断のない英仏抗争期として,1689年から1763年までの時期が設定できる。【1763】年という年は,いわゆる【第二次英仏百年】戦争が終わって,イギリスの勝利が決定した年だといえよう。たとえ,フランスが1815年まで,この事実を認めようとしなかったとしても,である。1689年の時点では,イギリスが対仏抗争に勝利できるかどうかは,決して判然としてはいなかった。フランスはイギリスの4倍の人口と,遥かに大きな陸軍をもっていた。そのうえ,イギリスでは内乱(ピューリタン革命)の後,成長率が低下しつつあったのに,フランスの工業生産は成長しつつあった。したがって,次のように言うとしても,あながち不当とはいえない。すなわち,1689年以降,イギリスはこれまでのスペインやオランダとは桁違いに強力な,フランスという敵対国に直面することになったのだ,と。この抗争は,ヨーロッパでは領土,同盟関係,市場をめぐっての,北アメリカ,南アメリカ,西アフリカ,インドなどの辺境および外縁部からの奴隷供給や砂糖のような熱帯・亜熱帯産物,毛皮,海軍・造船資材などの供給をめぐっての,ほとんど果てしない1ラウンドの戦いのようなものであった。
(I・ウォーラーステイン『近代世界システム』


ルイ14世の気分は

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

【ルイ14世】の気分は、ヨーロッパキリスト教徒世界のリーダーとして君臨したい、というものでした。彼が主張してい【太陽王】と言われた所以です。新教勢力をヨーロッパから駆逐する役割を神から任されているという自負を持っていたと考えて良いでしょう。彼が主張していた「【王権神授説】」は、フランス王権がなぜ他を圧倒する権力を持っているかを説明するために、キリスト教の神に統治を委ねられているとしています。神の声に応える必然があるわけです。
そのために、ルイ14世は国内にいるカルヴァン派を追放するため、ルイ14世が出した【1685】年【ナントの勅令を廃止】。ユグノーの追放に踏み切りました。この時、フランスにいたユグノーの多くは【プロイセン】に亡命したと言われています。
しかし、その代償は大きかったと言えます。コルベールが育てた毛織物工業は破綻し,フランスの重商主義は東インド貿易と北米大陸での貿易にのみ依存する事になっ
,その植民地支配を巡って、イギリスとの【第2次英仏100年】戦争を戦わねばならなくなりました。


コルベール主義

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【30年戦争】中に即位した【ルイ14世】は、【1648】年貴族最後の反乱といわれる【フロンドの乱】を鎮圧し、絶対王政の基礎を築きました。宰相【マゼラン】が亡くなると親政を開始し、財務長官に【コルベール】を登用して、重商主義政策を展開させました。コルベールが行ったフランスの重商主義政策を「【コルベール主義】」といいます。コルベールは活動を停止していた【1664】年【東インド会社】を復活し、【1682】年【シャンプラン】に北米植民地の【ルイジアナ】を建設させています。フランスの北米植民地は【1608】年に建設された【ケベック】(カナダ)とルイジアナが中心です。もちろん、ルイジアナの「ルイ」はルイ14世のことです。
 一方、イギリスがピューリタン革命や名誉革命で混乱していたため、イギリスの毛織物生産は停滞していました。このことに乗じてコルベールは、【国立マニュファクチュア】を設立して、フランスにおける毛織物工業を育成しました。その担い手は【ユグノー】です。ユグノーは【1598】年に出された「【ナントの勅令】」で個人の信仰の自由を認められていたことを思い出してください。
 しかし、ルイ14世が【1685】年に「ナントの勅令」を廃止してしまうと、フランスの毛織物工業は一気にしぼんでしまいました。フランスが北米植民地や香辛料などのアジアの貿易で利益を上げられれば問題はないと考えたのでしょう。ユグノーたちはウェストファリア条約でカルヴァン派の信仰を認めていた神聖ローマ帝国内の【プロイセン】に移住してしまいました。