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宗教改革の概要 

2015年05月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 16世紀にドイツから起こった【宗教改革】は,ルネサンスと並んで,近代ヨーロッパを誕生させる大きなうねりとなったものである。この動きを,前史から余波に至るまでのひとつの大きな流れのなかに置いて眺めてみよう。
 かつては隆盛を誇ったローマ=カトリック教会の権威も,【14】世紀には教会大分裂(大シスマ)で失墜し,こうした状況のなかで教会の世俗化や腐敗が進んだ。14世紀後半,イギリスに出た【オックスフォード】大学の【ウィクリフ】や,その影響を受けた【ベーメン】の【フス】は,【聖書】に基づいて教会のあり方を批判した。このような宗教界の混乱を収拾するために15世紀前半に開かれた【コンスタンツ】公会議では,フスの説は異端とされ,フスは【火刑】に処された。彼らによる教会刷新運動は結果として挫折した形とはなったが,宗教改革運動の先駆として大きな影響を残した。
 16世紀前半,【メディチ】家出身の教皇【レオ10世】は【サン=ピエトロ】大聖堂の建築資金を得るために,ドイツで【贖宥状(免罪符)】を販売することを許可した。これに対して【ヴィッテンベルク】大学の神学教授ルターは,1517年,魂の救済はただ福音への【信仰のみ】によるものであり,贖宥状とは無関係であると主張する「【95カ条の論題】」を発表し,後に『【キリスト者の自由】』を著した。あくまでも自説を変えなかったルターは、1519年の【ライプチヒ討論】の結果、教皇から破門され,【ヴォルムス国会】にいて【カール5世】に法の保護を剥奪された。しかしルターの説は多くの人々に支持され,その後ドイツ国内ではルター派を旗印とする勢力の関与する争乱があいついだ。争乱状態に一応の決着がつけられたのは,【1555】年の【アウグスブルクの宗教和議】によってである。
 ドイツに並行してスイスでも宗教改革が起こった。まず【ツヴィングリ】が,【チューリヒ】で改革運動を開始した。続いて【ジュネーヴ】に,人間の救済は神の絶対的な意志に基づいて予定されているもので,人間は信仰によってのみ救済を確信することができると説くカルヴァンが出た。彼の【予定説】は,人々が世俗的な勤労に励むことによって【蓄財】することは,救済の確信につながることとして認められるとするものであったため,各国の資本主義勃興期における【中産市民】の間に広く普及した。
 ローマ教皇の権威を認めないこれらのルター派,カルヴァン派を総称して新教,あるいは【プロテスタンティズム】という。対する旧教,ないしカトリック教会もいつまでも手をこまねいていたわけではなかった。【1545】年から開かれた【トリエント】公会議では,教会の粛正がはかられるとともに,教皇の至上権【教義】とが再確認された。さらに,一方では【宗教裁判の強化】や【禁書目録の制定】による新教派の弾圧,他方ではヨーロッパ内外への強力な宣教活動が行われた。こうした動きを一般に【反宗教改革】というが,このため新旧両教派の対立は一段と激化し,ヨーロッパ各地で宗教戦争を引き起こした。その最後で最大のものが,17世紀前半のドイツを中心として起こった【三十年戦争】である。


カルヴァンの宗教改革

2015年05月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

【フランス】生まれの【カルヴァン】は,自国での迫害を逃れて,【1536】年スイスの【バーゼル】で『【キリスト教綱要】』を著した。これによって一躍名を知られるが,【ジュネーヴ】に姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人にすぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえジュネーヴは,宗教改革の洗礼を受けない司教座都市にとどまっていた。
 カルヴァンは,ルターに比べ,【信仰のみ】によって義とされるという考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへの服従を説く【予定説】がある。この教えはヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった【商工業者】層に受け入れられ,彼らのなかに独特の【職業労働への倫理的態度】を生み出した。
 またカルヴァンは,先行していたスイスの宗教改革指導者の【ツヴィングリ】に比べても,教会の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される【司教】を廃止し,信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として【長老】に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。
 フランスでもカルヴァン派プロテスタント(彼らは【ユグノー】と呼ばれた)は増加し,商工業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,【1555】年【ルター】派を容認した【アウグスブルクの和議】に見られるような「支配者の宗教がその地域の宗教である」とするドイツの【領邦教会】制のような秩序は,フランスでは成立せず,抗争はより複雑化した。そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。【1562】年のカトリック勢力によるプロテスタントの殺害に端を発し,30年間以上にわたって断続的に続いた【ユグノー戦争】は,スペインなど外国の介入をも招いた。この間,【1572】年には,【カトリーヌ=ド=メディチ】による【サン=バーテルミーの虐殺】のような血なまぐさい悲劇も起こる。『【随想録】(エセー)』の著者の【モンテニュー】は,これに衝撃を受け,自身は国王派のカトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれて【ボルドー】市長になると,同市を両勢力の抗争の場としないように奔走した。
 長い争乱は,【プロテスタント】の首領【アンリ=ド=ナヴァール】の【1598】年の国王即位,彼の【カトリック】への改宗,【ナントの勅令】の公布により,ようやく終わりを迎える。カルヴァン派にも礼拝の自由や公職就任が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,【1685】年にはナントの勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。