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ネーデルラント独立戦争 2002年大東文化大学改

2015年05月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
 1556年,フェリペ2世がカルロス1世の跡をついでスペイン王位についたとき,その領土はスペイン本土のほか,ヨーロッパではネーデルラント,フランシュ・コンテ,ミラノ,ナポリ,シチリアに及んだ。ヨーロッパ外ではメキシコ,ペルーなどのアメリカ大陸の植民地,西インド諸島がスペイン領となった。そのうえ,彼の在位中に彼の名前をとって名づけられたフィリピン諸島を加え,1580年には後継者がなかったことから,母がポルトガル王家であった事情からポルトガルをも併合した。この結果,ポルトガルが領有していたアジア,アフリカ,ブラジルの植民地がスペイン領となり,スペインは世界史上空前の大帝国を築き上げることができた。

 民族,宗教,制度などを異にする広大な領土の統一を維持していくためには,なんらかの統治原理が必要であった。フェリペ2世はそれをカトリシズムに求め,カトリックを国教として宗教的統一を押し進めた。中世末期に宗教裁判をはじめイエズス会を設立したスペインが,反宗教改革の拠点だったことを考えれば,それは当然のことといえよう。まさにスペインはレコンキスタの国だったのである。彼は異端を宗教裁判にかけたが,その犠牲者はネーデルラントで最も多かった。それはネーデルラントの独立運動の原因ともなるのである。
フェリペ2世治下のスペインは,外見上は富裕であったにもかかわらず,王室財政と国民経済は破綻寸前にあった。カール5世として神聖ローマ帝国内でオスマン帝国のウィーン包囲に耐え忍んだだけでなく,新教徒との戦いに明け暮れた結果,スペイン王室財政はすでにカルロス1世の時代から赤字に苦しみ,16世紀の中頃には王室財政のほとんどは外国金融業者に依存していた。新大陸から大量の銀が持ち帰られたが,それは王室の支払いのためすぐに国外に流出してしまった。

 スペインの王室財政が窮乏した原因は,国王が行った対外戦争にあった。フェリペ2世は,フランスの旧教派を援助してユグノー戦争に積極的に介入し,激しい異端の弾圧と,重税に反対して反乱を起こしたネーデルラントに大軍を送らねばならなかった。オスマン帝国とのレパントの海戦の勝利は,トルコの進出からキリスト教ヨーロッパを守ったが,国家財政にとってはマイナスであった。イギリスとは旧教徒のメアリ女王との結婚によって一時友好関係をつくりだしたが,アン=ブーリンの娘エリザベス1世の時代になると,ドレークやホプキンスが率いた私拿捕船によるスペイン商船の襲撃などの事件によって両国関係は悪化した。フランスに対しては,イタリアでのスペインの覇権に挑戦したフランス王アンリ2世の軍を破り,1559年にカトー=カンブリッジ条約を結んでフランスのイタリア支配を最終的に断念させた。

 ネーデルラントは,中世以来,毛織物工業と中継貿易で栄え,当時ヨーロッパで最も繁栄した地方であった。特に,南ネーデルラントでは,ヨーロッパ有数の商工業都市が発達した。ブリュージュは14世紀ころからシャンパーニュの大市の遺産を受け継ぎ,東方貿易とハンザ貿易を結ぶ「キリスト教世界の仲立ち人」として,「中世の世界市場」になった。15世紀末になると,イギリス商人の当地への進出,銀などを供給する南ドイツとの結びつき,各種の植民地物産の取引などによってアントワープが国際的な通商・金融の中心都市として台頭した。16世紀前半には取引所が設立され,各地から多数の商人が集まった。この都市は,経済の中心地にとどまらず16世紀のヨーロッパ文化の一大中心地にもなった。しか)同市はネーデルラント独立戦争の際にスペイン軍の攻撃と略奪によって陥落し,国際的な通商・金融都市としての機能を失ってしまった。

北ネーデルラントは,南ネーデルラントに比べて経済的に遅れていたが,15世紀に入ると,バルト海地方の穀物や木材の貿易に進出し,ハンザ同盟の強力な競争相手になった。政治的にはネーデルラントは,ハプスブルク家のカールが婚姻関係から相続し,カールがカルロス1世としてスペイン王位につくとともに,スペイン領となったのである。宗教的には,ネーデルラントは,1540年代の中頃から(18)カルヴァン派が急速に増え,小貴族や市民層の間で信奉されていた。フェリペ2世はカルヴァン派を激しく弾圧し,旧教を強制した。これに対して民衆が反抗すると,フェリペ2世は大軍を派遣して新教派の弾圧をさらに強めた。

ネーデルラントの反乱は,オラニエ公ウィレムがネーデルラントの自由と特権の回復を目指して軍を起こし,新教徒の貴族たちがそれに呼応したとき本格化した。
 ネーデルラントの北部7州と南部10州は民族的にも,宗教的,経済的,政治的にも異なるところが多く,南部の旧教派の貴族は抵抗運動に消極的であった。スペインの援軍が到着して南部貴族を懐柔すると,彼らはスペインと和平を結んで戦線から離脱した。しかし,北部7州は団結し,ユトレヒト同盟を結成し,1581年に独立を宣言し,ネーデルラント連邦共和国(オランダ)を建てた。その後も戦いは続けられ,スペインに対抗するイギリスやフランスの援助を受けた。17世紀初めには,スペインと休戦条約を結んだが,それは事実上,独立を承認することを意味した。こうして1648年のウェストファリア(ヴェストファーレン)条約によって独立は国際的にも承認されることになった。
 
 独立した北部7州は,正式には「ネーデルラント連邦共和国」と称したが,7州のなかでもホラント州が指導的な地位を占めたので,通常オランダと呼ばれる。独立戦争中から戦後にかけて南ネーデルラントの毛織物業者が移住してきたために毛織物工業が発達し,これを背景に,アジア貿易や北アメリカにも進出して,スペイン,ポルトガルに代わり世界商業の覇権を握るに至った。
 学問や芸術の分野でも黄金時代を迎えた。法学の分野では,グロティウスが,『海洋自由論』を著し,イギリス,スペインの海洋独占に反対して公海自由の原則を主張し,「国際法の父」と呼ばれた。

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