【 】の用語を文章の中で覚えて置くように・・・
イスラム教の始まり~10世紀
6世紀後半,アラビア半島西部の町メッカは,【ビザンツ帝国】の【ユスティニアヌス帝】と【ササン朝ペルシア】の【ホスロー1世】との長年の抗争により、【シリア】の交通が遮断され、東西交通路が変化したため,中継商業都市として栄えていた。【メッカ】で生まれた【ムハンマド】(マホメット)は,【610】年宗教的に覚醒し、【アラー】を唯一絶対の神とする厳格な【一神教】を唱えた。しかし、多神教信仰が根強いメッカでは受け入れられず,【622】年に少数の信者を連れて【メディア】の町に移住し,そこでムスリムの共同体【ウンマ】を建設した。この移住を【ヒジュラ】といい、移住の年はイスラム暦の紀元になっている。
それから数年後,ムハンマドはウンマに属するムスリム兵士を率いてメッカを征服した。その後アラブの、諸部族はつぎつぎに彼の支配下に入り,【632】年に彼が没するまでにアラビア半島一帯のアラブ人はイスラム教に改宗し、ムハンマドのもとに統一された。
ムハンマドの死後,ムスリムは共同体(ウンマ)の指導者として【カリフ】を選出した。4人のカリフが続いた時代を【正統カリフ時代】という。カリフとは【預言者ムハンマドの後継者】という意味である。アラブ人はカリフに従って大規模な征服を行った。ササン朝ペルシアを【ニハーヴァントの戦い】で破ったのもこのころである。【651】年にはササン朝ペルシアはついに滅亡した。しかし急速に拡大した支配地では、アラブ人のムスリムと異教徒・異民族との間にさまざまな対立を呼び起こした。
ムハンマドの娘婿で叔父にあたる第4代カリフの【アリー】が暗殺されると,【ムアウィア】がシリアの【ダマスクス】に【ウマイヤ朝】を開いた。ウマイヤ朝は,東はインド西部インダス川流域,西は北アフリカを征服し,イベリア半島にまで進出して、【711】年キリスト教国の【西ゴート王国】を滅ぼし,さらにヨーロッパ内部に進出した。しかし、【732】年に西欧に君臨していたフランク王国の【宮宰】【カール=マルテル】と戦って敗れ,ピネー山脈の南のイベリア半島まで退いた。
ウマイヤ朝の政策はアラブ人の特権が顕著で、征服地のすべての住民は地租【ハラージュ】と人頭税【ジズヤ】を払わねばならず、異民族である彼らはイスラム教に改宗しても、ハラージュもジズヤも免除されなかった。このようなウマイヤ朝の政策に反発する人々は,ムハンマドの叔父第4代カリフのアリーの家系による革命運動によるに協力し,【750】年にウマイヤ朝を倒し,【アッバース朝】を開いた。このようなウマイヤ朝を滅ぼす力となった一派を【シーア】派という。シーア派の人々は【正統なカリフはムハンマドの叔父アリーのみ】であるという立場をとっており、現在でもイラクやイラン、リビアなどに分布している。
アッバース朝では,第2代カリフの【マンスール】がイラクの地に新都【バグダッド】を建設し、アラブ人の特権を廃止し,アラブ人か被征服民かを問わず,ムスリムであれば徴税の点で平等に扱う原則を確立した。アッバース朝の最盛期は8世紀末から9世紀初頭にかけての第5代カリフの【ハールン=アッ=ラシード】のときであった。この時代、アッバース朝はビザンツ帝国に対して優位に立ち,フランク王国のシャルルマーニュ(カール1世)とも外交関係をもった。しかし,その後、【トルコ人】の台頭などによってアッバース朝の統治は乱れ,カリフの位をめぐる争いも繰り返され,カリフの権威は弱まり,各地で反乱も相次いだ。
イスラム教の始まり~10世紀
6世紀後半,アラビア半島西部の町メッカは,【ビザンツ帝国】の【ユスティニアヌス帝】と【ササン朝ペルシア】の【ホスロー1世】との長年の抗争により、【シリア】の交通が遮断され、東西交通路が変化したため,中継商業都市として栄えていた。【メッカ】で生まれた【ムハンマド】(マホメット)は,【610】年宗教的に覚醒し、【アラー】を唯一絶対の神とする厳格な【一神教】を唱えた。しかし、多神教信仰が根強いメッカでは受け入れられず,【622】年に少数の信者を連れて【メディア】の町に移住し,そこでムスリムの共同体【ウンマ】を建設した。この移住を【ヒジュラ】といい、移住の年はイスラム暦の紀元になっている。
それから数年後,ムハンマドはウンマに属するムスリム兵士を率いてメッカを征服した。その後アラブの、諸部族はつぎつぎに彼の支配下に入り,【632】年に彼が没するまでにアラビア半島一帯のアラブ人はイスラム教に改宗し、ムハンマドのもとに統一された。
ムハンマドの死後,ムスリムは共同体(ウンマ)の指導者として【カリフ】を選出した。4人のカリフが続いた時代を【正統カリフ時代】という。カリフとは【預言者ムハンマドの後継者】という意味である。アラブ人はカリフに従って大規模な征服を行った。ササン朝ペルシアを【ニハーヴァントの戦い】で破ったのもこのころである。【651】年にはササン朝ペルシアはついに滅亡した。しかし急速に拡大した支配地では、アラブ人のムスリムと異教徒・異民族との間にさまざまな対立を呼び起こした。
ムハンマドの娘婿で叔父にあたる第4代カリフの【アリー】が暗殺されると,【ムアウィア】がシリアの【ダマスクス】に【ウマイヤ朝】を開いた。ウマイヤ朝は,東はインド西部インダス川流域,西は北アフリカを征服し,イベリア半島にまで進出して、【711】年キリスト教国の【西ゴート王国】を滅ぼし,さらにヨーロッパ内部に進出した。しかし、【732】年に西欧に君臨していたフランク王国の【宮宰】【カール=マルテル】と戦って敗れ,ピネー山脈の南のイベリア半島まで退いた。
ウマイヤ朝の政策はアラブ人の特権が顕著で、征服地のすべての住民は地租【ハラージュ】と人頭税【ジズヤ】を払わねばならず、異民族である彼らはイスラム教に改宗しても、ハラージュもジズヤも免除されなかった。このようなウマイヤ朝の政策に反発する人々は,ムハンマドの叔父第4代カリフのアリーの家系による革命運動によるに協力し,【750】年にウマイヤ朝を倒し,【アッバース朝】を開いた。このようなウマイヤ朝を滅ぼす力となった一派を【シーア】派という。シーア派の人々は【正統なカリフはムハンマドの叔父アリーのみ】であるという立場をとっており、現在でもイラクやイラン、リビアなどに分布している。
アッバース朝では,第2代カリフの【マンスール】がイラクの地に新都【バグダッド】を建設し、アラブ人の特権を廃止し,アラブ人か被征服民かを問わず,ムスリムであれば徴税の点で平等に扱う原則を確立した。アッバース朝の最盛期は8世紀末から9世紀初頭にかけての第5代カリフの【ハールン=アッ=ラシード】のときであった。この時代、アッバース朝はビザンツ帝国に対して優位に立ち,フランク王国のシャルルマーニュ(カール1世)とも外交関係をもった。しかし,その後、【トルコ人】の台頭などによってアッバース朝の統治は乱れ,カリフの位をめぐる争いも繰り返され,カリフの権威は弱まり,各地で反乱も相次いだ。