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5月30日の革命

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1792年に発足した国民公会では、立法議会時代から議員をやっていたジロンド派議員が国民公会発足時期の議会を運営していました。普通選挙によって田舎から出てきた新人議員たちは、ジロンド派議員を見てびっくりしたようです。というのも、ジロンド議員のなかにはかなり贅沢な生活をしており、新人議員から見ると不正が横行しているように感じたわけです。普通選挙ですから新人議員の多くは貧しい人々、つまり農民やサンキュロットの代表だと自負していたでしょう。そのような中、新人議員たちはジャコバン=クラブに出入りし、ロベスピエールやダントンなどから強い影響を受けていきました。国民公会ではロベスピエールもダントンも議員になっています。彼らは新人議員たちと階段状になっていた議場の上段に陣取って、ジロンド派議員を激しく攻撃していました。そのような彼らを、議場の高いところにいたので「山岳派」すなわち「モンターニュ派」と呼ばれました。


 ジロンド派に分類される議員はおよそ150人、モンターニュ派は150人、どちらにも分類されない議員(平原派といいます)は300人くらいでした。国民公会の政治課題は、ルイ=カペ(元国王ルイ16世)をどのように処遇すべきか?という点です。議会は1793年1月にルイ=カペを処刑しました。このことが革命政府を新しい危機に追い込むことになったわけです。周辺各国はフランスを「国王殺しの国」と断定し、イギリス首相小ピットが提唱した「第1回対仏大同盟」を結成しました。「92年の危機」が墺普2カ国との戦争だったのに対し、「第1回対仏大同盟」はイギリスを加えた全ヨーロッパが敵です。さらに戦争が始まると物価は急上昇。ジロンド派国民公会は、この戦争を戦い抜くために「徴兵制度」を実施しました。しかし、農民の多くは徴兵に反発しました。とくにヴァンデ県の蜂起やフクロウ党の乱などがおこり、反徴兵制運動も危機をさらに悪化させました。つまり、全ヨーロッパとの戦争と激しいインフレに加え、反徴兵制暴動を「93年の危機」といいます。


 「93年の危機」をのりこえるためにモンターニュ派議員は「革命独裁」の必要を訴えました。独裁を行うことで危機を乗り越えようというわけです。平原派議員もこれを容認せざる得ないと考えていきました。これを受けてモンターニュ派のダントンはパリのサンキュロットを率いて議場に乱入し、ジロンド派議員を逮捕・追放した事件を「5月30日の革命」といいます。もっとも、ジロンド派議員の多くは事前に情報を察知し、パリを脱出していたので大した混乱もなく、モンターニュ派が政権を奪い取ることに成功しました。


 「5月30日の革命」は「93年の危機」を乗り越えるために、モンターニュ派が「革命独裁」を実施するために起こした事件です。国民公会からはジロンド派議員はいなくなり、モンターニュ派議員と革命独裁を我慢しつつ受け入れた平原派議員が議場に残りました。モンターニュ派の指導者エベールやダントンやロベスピエールなどが政治を牛耳る「革命独裁」の1年間を政治に反対したり、逆らった多くの人々がギロチン台に送られたために「恐怖政治」と呼びます。「恐怖政治」によっておよそ60万人が処刑されたとも言われています。「おお自由!汝の名のもとにいかに多くの罪が行われたことか!」という言葉は、この時期にギロチン台で死んだロラン夫人の言葉です。人々は「自由」をまもるために「殺人」を犯し続けた。そんな時代が「恐怖政治」の時代といえます。


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