313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認しましたが、当時のキリスト教会は「イエスとは何者か?」という重要な問題に対して意見を統一することができずにいました。そこで325年にコンスタンティヌス帝はニケーアにキリスト教会の論客たちを集め、議長として「イエスとは神の子である」というアタナシウスの意見を正統だと決定しました。このような会議を「公会議」といい、325年の公会議をニケーア公会議といいます。しかし、本来、キリスト教会の問題であるはずの「イエスとは何者か?」という問に対してローマ皇帝が決定に大きく関与したことは、後の「皇帝」とキリスト教会の指導者である「教皇」との関係に多大な影響を残すことになりました。すなわち、皇帝がキリスト教会の様々な決定に口出しをするということです。 395年にローマ帝国は東西に分裂し、皇帝は2人に成りましたが、ゲルマン民族の大移動の中、ゲルマン人傭兵オドアケルによって、476年年ローマ帝国が滅亡しました。これにより、皇帝は東ローマ帝国皇帝だけになったわけです。旧西ローマ帝国領内に合った各教会は、アリウス派を採用したゲルマン諸族の攻撃にさらされていました。しかし、本来、自分たちを守ってくれるはずの西ローマ皇帝はもういません。そのため、東ローマ皇帝に庇護を求めたわけです。 610年イスラム教が成立し、642年にはネハーヴァントの戦いでササン朝ペルシアが第2代カリフのウマルによって大打撃を受け、651年に滅亡。さらに、ウマルは東ローマ帝国からエジプトを奪います。このようなイスラム勢力の拡大は711年イベリア半島にまで達し、キリスト教世界はエジプトから北アフリカ(マグリブ)さらにイベリア半島まで失ったばかりか、聖像禁止を解くイスラム教の教えにも大きく影響を受けることになりました。 そこで、726年東ローマ皇帝レオン3世(レオ3世とも呼ぶが、カール戴冠を行った教皇レオ3世とは別人)が、「聖像崇拝禁止令」を出しました。皇帝が教会に命令するという慣習まだ生きていることがわかります。 さて、ここで7世紀以降、イスラム勢力が拡大していく中のキリスト教会の状況を説明しておく必要があります。4世紀以降、ローマ帝国の混乱とともにキリスト教会は勢力を広げていきましたが、教会組織は大司教・司教・司祭によって運営されていました。数名いた大司教の中でもリーダーシップをとっていたのが5人の大司教で、その大司教がいる教会を「五本山」と呼びます。イェルサレムにある聖墳墓教会、経済の中心地シリアのアンティオキア教会、文化の中心地エジプトのアレクサンドリア教会、さらに西ローマ帝国の都でペテロの墓の上に建てられたとされたローマ教会、東ローマ帝国の都のコンスタンティヌス教会です。ところが、7世紀のイスラム勢力の拡大によって五本山のうち前者3教会はイスラム勢力の支配下に入ってしまいましたから、キリスト教会で指導的立場を取ったのは西ローマではローマ教会、東ローマではコンスタンティノープル教会です。そしてローマ教会大司教を「教皇」とよび、コンスタンティノープル大司教を「総主教」とよびます。 話を中世に戻します。旧西ローマ帝国領内の教会は教皇が指導的立場にあったわけですが、ゲルマン人に対する布教に聖像を用いていましたから、726年の「聖俗崇拝禁止令」はどうしても受け入れられない命令でした。アリウス派のゲルマン人による攻撃はまだ続いているし、イスラム教徒もイベリア半島からピレネー山脈を越えて攻撃してきている状況ですから、ゲルマン人を味方に付けるためにも、またイスラム教徒の教えを受け入れない(聖像禁止はイスラム教の教えです)ためにも、どうしても受け入れられなかったわけです。 そのような中、カトリック(アタナシウス派)のフランク王国宮宰カール=マルテルが、723年トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム勢力を撃退してくれました。さらに751年にフランク国王に即位したカール=マルテルの子の小ピピンが、北イタリアで教会を攻撃していたロンバルド王国を攻撃し、756年にはロンバルド王国から奪い取った土地ラヴェンナ地方を教皇に寄進してくれました。さらに、774年にはその子カール1世がついにロンバルド王国を滅ぼし、旧西ローマ帝国領からアリウス派勢力を絶滅してくれたわけです。 このような状況で、教皇レオ3世はカロリング家と手を組めば、東ローマ皇帝の命令を無視できると考えたのも当然でしょう。また800年の直前に東ローマ帝国の帝位継承問題がおきていたことも、教皇レオ3世には好都合でした。 教皇がカール一世を皇帝にした、という事実は、以後の皇帝と教皇の関係に大きな影響を残しました。それまでは皇帝>教皇といった力関係であったのが、教皇>皇帝の関係に変化しつつあるということです。その意味でもカール戴冠は重要な転機であったわけです。
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