18世紀後半のイギリスでは,「道具から機械へ」という技術革新をきっかけとして、繊維工業から産業革命が始まった。産業革命以前のイギリスでは、商業資本の担い手である織物商が手工業者や農民に原料や道具を前貸ししてその製品を独占的に買い上げるような【問屋制家内工業】から,産業資本家が賃金労働者を雇用して組織的に生産させるような工場制手工業すなわち【マニュファクチュア】へと発展がみられていた。このような生産形態は「【神の見えざる手】」を主張した【アダム=スミス】がその代表的著書の中でピン製造工場の例を用いて示したように,分業と協業による生産性向上をもたらし、また、それにともなう工程の専門化・単純化を通じて機械利用の下地を作った。そして産業革命を迎えると,実際に機械や動力が発明され、利用されることになる。
最初に本格的な機械の発明や利用がみられたのは、産業革命以前に工場制手工業の主体だった【毛織物】工業ではなく、【綿織物】工業においてであった。【ジョン=ケイ】の【飛びヒ】は、もともと毛織物工業で発明されたものだったが、その後綿織物工業に転用されてから普及し、織布工程での大幅な生産性向上をもたらした。その結果、それより前の工程での生産性向上が求められ、原理的には今でも使われている、紡績工程での【クロンプトン】の発明などがみられ、普及した。さらに、今度は逆に、紡績工程での生産性向上に刺激されて、織布工程での【カートライト】の発明がもたらされることになる。
このように、イギリスの産業革命は毛織物工業ではなく綿織物工業から始まった。その理由は、長い伝統をもつ毛織物工業では機械導入に対して既存労働者の抵抗が強かったこと、綿織物工業では原料をインドなどから安価に輸入できたこと、綿織物の方が扱いやすかったこと、などにあるといわれる。しかし、より根本的な理由は、綿織物工業では機械の発明や利用によって大きな利潤が見込まれたことにある。
18世紀になって【インド産】の綿織物製品(【キャラコ】)がもたらされるようになると、丈夫で安くまた染色が容易な綿織物製品の需要が急増した。イギリス綿織物工業は、急増する需要に対応するためにも、また、インド産の安価な輸入織物へ対抗するためにも、積極的な機械導入によって大量生産体制を確立する必要があったのである。さらに、綿織物製品の需要増大に危機感を抱いた毛織物工業者の反対で輸入が制限されるようになると、市民革命によって経済活動の自由が保障されるようになっていたイギリスでは、原料を輸入して自国で綿織物製品を生産しようとする動きが活発化した。その結果、イギリス産の綿織物製品は国内のみならず世界市場にも大量に出回ることになり、もともとは輸出国であったインドも19世紀には輸入国に転じて「インド織匠の骨はインドの原野を白色に染めている」と描写されるほどであった。
機械の導入に必要な資本は、毛織物工業の発展や重商主義的政策の積極的展開を通じて準備されていた。他方、労働力は、【第2次囲い込み運動】やイングランド東部【ノーフォーク】地方で始まった農法などを内容とする【農業革命】によってもたらされた。こうして、綿織物工業では機械を利用した資本主義的経営が一般化することになる。だが、その一方で、産業革命は、資本家階級と労働者階級との対立,長時間労働など労働条件の悪化,都市人口の急増にともなう生活環境の悪化など、様々な問題をもたらしたことも忘れてはならないであろう。
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