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19世紀のドイツを中心とする政治状況

2014年10月02日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1871】年1月,プロイセン国王【ヴィルヘルム1世】は、フランスの【ヴェルサイユ宮殿鏡の間】において、ドイツ皇帝の即位式を行い、ここにドイツ帝国が成立した。ドイツは、中世以来神聖ローマ皇帝が名目上支配していたが、国内は諸侯・自由都市などによって大小200の領邦に分かれていたため、実質的な統一は達成されていなかった。 17世紀後半以降,北ドイツでプロイセンがオーストリアに次ぐ第2の強国として台頭しつつも、19世紀初頭のナポレオンの大陸支配により統一の歩みは一時頓挫した。その間、【プロイセン改革】を【シュタイン・ハルデンベルク】が進めたことで、農奴解放は進み、ギルド規制も廃止された点である。 しかし、ナポレオン没落後のウィーン会議において、オーストリア・プロイセン以下【35】の君主国と【4】自由市からなる【ドイツ連邦】が成立。正統主義の下で、改革のスピードは低下した。しかし、【1834】年に発足した【ドイツ関税同盟】は、各領邦国家間の関税障壁をなくし、プロイセンを中心とする経済的統一への動きを進めた。オーストリアはこのドイツ関税同盟からは除外されている。 1848年の三月革命の際に、このような統一の機運は一気に盛り上がったが、結局軍隊に鎮圧され、さらに【Fヴィルヘルム4世】に皇帝就任を拒否されて、反革命の勝利に終わった。このことで自由主義者・ブルジョアジー勢力は旧来の支配階級である【ユンカー層】との協力なくしてドイツの統一は不可能であると悟った。また、ユンカー層も経済が農業から工業に転換する過程にあることを自覚し、ブルジョアジーとの協調の必要性を認識していた。その結果、1862年、プロイセン国王【ヴィルヘルム1世】から首相に任命された【ビスマルク】の下で、「【鉄血政策】」がとられ、ドイツ統一の主導権はプロイセンに移った。プロイセンは、【1864】年に【シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題】をきっかけにしてデンマークと戦い、ホルシュタインを獲得。さらにシュレスヴィッヒ・ホルシュタインの領有権問題が原因して、【1866】年にはオーストリアとの戦いが起こった。プロイセンはこれに勝利して【マイン】川以北【22】の領邦国家からなる【北ドイツ連邦】を発足させ、ドイツの盟主となったが、敗北したオーストリアは【マジャール】人のハンガリー王国の独立を承認して、【オーストリア・ハンガリー二重帝国】として少数民族の独立運動に対処した。 ついで、フランスとプロイセンは、【スペイン王位継承問題】で独仏関係はこじれていた。【ビスマルク】は【エムス電報事件】を利用して【ナポレオン3世】に宣戦布告をさせ、【1870】年【普仏戦争】が始まった。開戦後、1870年に第2帝政のナポレオン3世を【セダン】で降伏させた。その結果、プロイセンを中心とするドイツ諸国の連合軍が、ヴェルサイユに到達し、パリを占領するに至ったのである。ドイツ帝国となったドイツは、フランスから【アルザス・ロレーヌ】地王と【多額の賠償金】を獲得し、富国強兵の道を推進した。  一方、フランスでは、第2帝政を支配したナポレオン3世が退位した後も,国民防衛政府はしばらくドイツヘの抗戦を続けたが、ついに1871年1月末に降伏した。その後、共和派の【ティエール】を首班とする政府である【第3共和制】が成立し、ドイツとの講和条約を結んだものの、これを認めないパリ民衆は、社会主義者の指導の下で反抗し、【パリ=コミューン】という自治政府を樹立した。初の社会主義政権であるこのコミューン政権が2ヵ月あまりで崩壊した後、1875年には共和国憲法が制定されて第三共和政の基礎が固まったが、なおも多くの小政党に分裂したままで、フランスの政情は不安定であった。特徴的なことは、【反ドイツ感情】が強かったことと、それに加えて【軍部が台頭】して事である。 一方、イタリアもこの頃、国家統一への道を歩んだ。イタリアでは、教皇領のほか多くの都市国家や諸侯領に分裂して統一は遅れていたが、二月革命後、【ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世】が【サルデーニャ】王位につくと、首相【カヴール】のもとで近代化を図り、この王国が統一運動の中心になった。は【カヴール】1859年のオーストリアとの戦争や、フランスの【ナポレオン3世】との取り決めによって領土を拡大し、さらに「【青年イタリア党】」の党員でもあった【ガリバルディ】からの【シチリア島・ナポリ】など南イタリアの献上地を加えることで、イタリアの国土の統一を成し遂げ、【1861】年3月にサルディニアの首都【トリノ】を首都とするイタリア王国を成立させたのである。


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1 コメント

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シュレスヴィッヒ (ゆき)
2009-10-20 23:50:33
プロイセンは、【1864】年に【シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題】をきっかけにしてデンマークと戦い、ホルシュタインを獲得。

とありますが、板書のプリントだと、
「北 シュレスヴィヒ=プロイセン
 南 ホルシュタイン=オーストリア」
となっています。どちらが正しいですか?
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