歴代の中国王朝は,その広大な領土と多数の人口を統治するシステムとして,皇帝を頂点とする中央集権的官僚支配体制を採用してきた。秦の始皇帝以来,最後の清の【宣統帝溥儀】にいたるまで一見すると同じような政治体制が繰り返し出現したかにみえるが,仔細に観察すればその内実はかなり異なる。
唐の皇帝は,中央政府組織のうち詔勅の起草をつかさどる【中書省】とだけ直接の関係をもち,詔勅は拒否権をもつ【門下省】の審議をへて,【尚書省】に降され実施される。【門下省】はいわゆる【貴族の牙城】であったから,皇帝は貴族の同意を得なければ政策を実行できない仕組みであった。
宋になると三省六部は崩れ,皇帝は複数置かれた【宰相】や【禁軍】(近衛軍)を直接指揮するようになり,多くの権限は皇帝に集中した。宋代になって【門下省】が廃止されが、これは、【唐末五代】の混乱期に貴族階級が没落したことが原因している。
【1271】年に建国した元では、【尚書省】が廃止され、皇帝から中書省を経由して六部がその下に配属された。
【1368】年に建国した明での変化も見落とせない。太祖【朱元璋】は,自らの独裁権力を無事に子や孫へと伝えるため,建国の功臣を次々と粛清し,あらかじめその危険を取り除いた。その結果、【六部】を皇帝の直属下に置き,【中書省】と【宰相】を廃止した。しかし皇帝補佐の職なくして政治は不可能であり,洪武帝は【殿閣大学士】を配置し、第3代皇帝に即位した【永楽帝】は内閣を置き,【内閣大学士】が事実上の宰相となった。
次の清では【雍正帝】のときに設置された【軍機処】が,皇帝の諮問機関であり、内閣大学士は廃止されて、軍機処が政治の最高機関となった。
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