【フランチェスコ=ザビエル】以来、中国にキリスト教(カトリック)を布教する際に【イエズス会】は中国の伝統的な宗教観や宇宙観、宗教上の儀礼などといった【典礼】を利用して中国人にキリスト教を理解させようとした。すなわちイエズス会は【典礼を容認】したのである。また、布教には宮廷との結びつきが不可欠と考え、清朝宮廷に出入りして西洋技術を伝授する一方で、その代わりに布教のための便宜を受けていた。
しかし、このような布教活動は後から中国にやってきた別の教団の宣教しから見れば、キリスト教を冒涜することにほかならず、彼らは教皇【クレメイス11世】にこのことを訴えたのである。これを受けて教皇クレメンス11世は1704年に【イエズス会の布教活動を禁止】した。これが、キリスト教会内の典礼問題を巡る対立である。
しかし、当時の皇帝【康熙帝】はイエズス会師から逆に直訴され典礼を認めない他の教団、すなわち【ドミニコ会】や【フランチェスコ会】による中国における布教を禁止した。ここに典礼問題が西洋の価値観を全面に出す教皇側と中国の価値観を基準とする皇帝との異文化対立の国際問題に発展したといえる。
さらにドミニコ会師が宮中の陰謀に関与したため、【1724】年に【雍正帝】は【キリスト教の全面布教禁止】に踏み切り、一部の宮廷内の宣教しを除いて【ポルトガル人】が居住権を持つ【マカオ】に宣教師を追放した。しかし、日本のような激しい弾圧は行われず、したがって殉教者も出なかった。
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