(1)ムスリム・・・イスラム教徒のことを「ムスリム」といいます。江戸時代の日本でキリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んでいたのと似ています。ムスリムは世界に9億人以上いて、アフリカなどでは今での増え続けています。
(2)ウンマ・・・「ムスリム共同体」と訳します。つまり、仲間意識を持っているムスリム達の世界のことです。例えば、関東学院にも三春台と六浦がありますが、なんとなく関東学院生としての一体感や仲間意識がありますよね。他校の生徒よりも親近感を持っていると思います。そのような「仲間意識」をもったムスリム社会を「ウンマ」と呼びます。少し前に、「オウム真理教」が富士山の麓に「サティアン」を作って生活していました。初期のムスリム達のウンマはそんな感じだった?のかもしれません。
(3)ヒジュラ・・・メッカで成立した「ウンマ」が622年にメディアに移ったことを「ヒジュラ」といいます。メッカで弾圧されたマホメットたちイスラム教徒が、弾圧を避けて第2のオアシス都市である北方のメディナに引越しをしました。この「引越し」のことを「ヒジュラ」と呼びます。なお、イスラム教を信仰している国では、この622年を紀元1年とする暦を使用しています。この暦を「ヒジュラ暦」といいます。
(4)ジハード・・・「聖戦」と訳します。「右手に剣、左手にコーラン」という言葉があります。イスラム教を受け入れるか、戦うか、という二者択一を迫ったという言葉です。イスラム教徒の中に存在する敵(アラーを信じきっていない自分)を倒すことも「ジハード」です。「ジハード」が成功するとイスラム教が広まっていく、と考えて結構です。
(5)ミスル・・・「軍営都市」と訳します。ジハードが成功した結果、ムスリム達が都市を支配することになります。ムスリムの軍隊がその都市を支配するので、「軍隊が経営する都市」という意味です。都市を征服するために基地として建設される場合もあります。
(6)アター(アター制)・・・「俸給制」と訳します。ムスリム達が兵士として戦争に参加した代償を受け取る制度です。ジハードに勝ったら負けた敵から財産を奪い取ります。そしてジハードに参加した兵士たちで、その戦利品をを山分けしました。こうして兵士たちは報酬を得たわけで、このやり方(制度)を「アター制」といいます。この制度は10世紀くらいまで続きました。
(7)ティマーム制・・・イスラム教徒たちが支配する地域が広がっていくと、組織的に統治する必要が出てきました。無駄がないように税を集めたり、反乱などが起こらないようにする必要があるからです。そのために作られた組織を「ティマーム制」といいます。現在の役所のように役人とか官僚とかの組織です。しかし、征服に成功していったアラブ人たちは、このような組織(官僚組織)を作るのが苦手だったようです。しかしイラン人たちはアケメネス朝ペルシアからずっと、このような官僚組織を運営してきた経験があったので、この「ティマーム制」の官僚にはイラン人のアイディアが多く取り入れれら、実際にイラン人が活躍しました。
(2)ウンマ・・・「ムスリム共同体」と訳します。つまり、仲間意識を持っているムスリム達の世界のことです。例えば、関東学院にも三春台と六浦がありますが、なんとなく関東学院生としての一体感や仲間意識がありますよね。他校の生徒よりも親近感を持っていると思います。そのような「仲間意識」をもったムスリム社会を「ウンマ」と呼びます。少し前に、「オウム真理教」が富士山の麓に「サティアン」を作って生活していました。初期のムスリム達のウンマはそんな感じだった?のかもしれません。
(3)ヒジュラ・・・メッカで成立した「ウンマ」が622年にメディアに移ったことを「ヒジュラ」といいます。メッカで弾圧されたマホメットたちイスラム教徒が、弾圧を避けて第2のオアシス都市である北方のメディナに引越しをしました。この「引越し」のことを「ヒジュラ」と呼びます。なお、イスラム教を信仰している国では、この622年を紀元1年とする暦を使用しています。この暦を「ヒジュラ暦」といいます。
(4)ジハード・・・「聖戦」と訳します。「右手に剣、左手にコーラン」という言葉があります。イスラム教を受け入れるか、戦うか、という二者択一を迫ったという言葉です。イスラム教徒の中に存在する敵(アラーを信じきっていない自分)を倒すことも「ジハード」です。「ジハード」が成功するとイスラム教が広まっていく、と考えて結構です。
(5)ミスル・・・「軍営都市」と訳します。ジハードが成功した結果、ムスリム達が都市を支配することになります。ムスリムの軍隊がその都市を支配するので、「軍隊が経営する都市」という意味です。都市を征服するために基地として建設される場合もあります。
(6)アター(アター制)・・・「俸給制」と訳します。ムスリム達が兵士として戦争に参加した代償を受け取る制度です。ジハードに勝ったら負けた敵から財産を奪い取ります。そしてジハードに参加した兵士たちで、その戦利品をを山分けしました。こうして兵士たちは報酬を得たわけで、このやり方(制度)を「アター制」といいます。この制度は10世紀くらいまで続きました。
(7)ティマーム制・・・イスラム教徒たちが支配する地域が広がっていくと、組織的に統治する必要が出てきました。無駄がないように税を集めたり、反乱などが起こらないようにする必要があるからです。そのために作られた組織を「ティマーム制」といいます。現在の役所のように役人とか官僚とかの組織です。しかし、征服に成功していったアラブ人たちは、このような組織(官僚組織)を作るのが苦手だったようです。しかしイラン人たちはアケメネス朝ペルシアからずっと、このような官僚組織を運営してきた経験があったので、この「ティマーム制」の官僚にはイラン人のアイディアが多く取り入れれら、実際にイラン人が活躍しました。