(1) 13世紀はモンゴルの世紀
① 元を建国したモンゴル民族
1206年、チンギス=ハン(幼名テムジン)が可汗(ハン)に即位すると、20年間のうちにモンゴル高原から中央アジア一帯を征服していきました。次いで可汗に即位したオゴタイ=ハンは、1234年淮水以北の華北を征服する一方、バトゥに命じて西方にも軍を派遣して、現在のロシアまでその支配下に納めました。そのときには、中国の南半分の華南には南宋という中国人の王朝が存続していました。しかし、フビライ=ハンが第5代可汗に即位し、1271年に華北で元を建国すると、1279年にフビライ=ハンによって滅ぼされました。以後、約100年の間、中国は異民族モンゴル人によって支配されたのです。
中国を支配したフビライ=ハンは「モンゴル人至上主義」をとり、それまでの中国の伝統的な政治手法などを軽んじる傾向がありました。科挙という、唐の時代から続いた役人を採用する制度を廃止したことなどが、そのよい例です。しかしその一方で、ソグド人やムスリムなど西域の人々を多く採用するなど、家柄や身分よりも実力・能力本位による人材登用を行っています。
② モンゴル民族が支配したユーラシア大陸
13世紀、5人の可汗たちによって、モンゴル民族はユーラシア大陸のほぼ全域を支配する大帝国を建設しました。しかし、この大帝国も元・オゴタイ=ハン国・チャガタイ=ハン国・キプチャク=ハン国・イル=ハン国の5カ国に分裂します。
しかし、ユーラシア大陸が一つの民族によって支配されていたという意味は大きいといえます。とくにシルク=ロードの交通網であるジャムチは、モンゴル帝国分裂後も、モンゴル各国によって保護され、13世紀に歴史上もっとも活発な動きを見せました。イタリアのジェノヴァ人であるマルコ=ポーロが元の都の大都を訪れ、帰国後に「東方見聞録(世界の記述)」を著したことはよく知られています。また、モロッコ出身のムスリムの大旅行家イブン=バトゥータは、14世紀に「三大陸周遊記」を著しましたが、彼もモンゴル民族が築いた交通網の恩恵を受けた一人であったといえます。
① 元を建国したモンゴル民族
1206年、チンギス=ハン(幼名テムジン)が可汗(ハン)に即位すると、20年間のうちにモンゴル高原から中央アジア一帯を征服していきました。次いで可汗に即位したオゴタイ=ハンは、1234年淮水以北の華北を征服する一方、バトゥに命じて西方にも軍を派遣して、現在のロシアまでその支配下に納めました。そのときには、中国の南半分の華南には南宋という中国人の王朝が存続していました。しかし、フビライ=ハンが第5代可汗に即位し、1271年に華北で元を建国すると、1279年にフビライ=ハンによって滅ぼされました。以後、約100年の間、中国は異民族モンゴル人によって支配されたのです。
中国を支配したフビライ=ハンは「モンゴル人至上主義」をとり、それまでの中国の伝統的な政治手法などを軽んじる傾向がありました。科挙という、唐の時代から続いた役人を採用する制度を廃止したことなどが、そのよい例です。しかしその一方で、ソグド人やムスリムなど西域の人々を多く採用するなど、家柄や身分よりも実力・能力本位による人材登用を行っています。
② モンゴル民族が支配したユーラシア大陸
13世紀、5人の可汗たちによって、モンゴル民族はユーラシア大陸のほぼ全域を支配する大帝国を建設しました。しかし、この大帝国も元・オゴタイ=ハン国・チャガタイ=ハン国・キプチャク=ハン国・イル=ハン国の5カ国に分裂します。
しかし、ユーラシア大陸が一つの民族によって支配されていたという意味は大きいといえます。とくにシルク=ロードの交通網であるジャムチは、モンゴル帝国分裂後も、モンゴル各国によって保護され、13世紀に歴史上もっとも活発な動きを見せました。イタリアのジェノヴァ人であるマルコ=ポーロが元の都の大都を訪れ、帰国後に「東方見聞録(世界の記述)」を著したことはよく知られています。また、モロッコ出身のムスリムの大旅行家イブン=バトゥータは、14世紀に「三大陸周遊記」を著しましたが、彼もモンゴル民族が築いた交通網の恩恵を受けた一人であったといえます。