“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

「不言実行」存亡の危機?(2)

2015-03-04 23:40:44 | 日記
こんばんは。
桃の節句も過ぎました。
昨日の朝、通勤路を歩いていたら、水潦[スイロウ]に薄氷[ハクヒョウ]が張っていました。
水潦を「にわたずみ」、薄氷を「うすらい」と読むと、急に短歌の世界だなあ、などと考えてみたり。

なんだか今年は、歳月の過ぎ去るのが曾てないほど早く感じられます。
26-3Web合否通知サービス解禁日も近づいてきましたね。
自分の結果は先にお伝えした通りではありますが、
やはりどこか身の引き締まるべき日であることに変わりはありません。

数日内に前の記事の「その2」を出すどころか、10日ほど経ってしまいました。
先日高校の卒業式も、雪の中なんとか無事終わり、
いよいよ今週末は、我が中3の人たちが卒業の日を迎えます。とはいえ、また翌週から普通に補講授業で登校、普通に卒業研修旅行の準備なのですが………。

今年度、何がどうなってか、
中学校の卒業台帳なるものの筆耕担当になってしまい、
数日前まで、まとまった時間があると集中力を維持するため、
誰もいない教室や誰もいない会議室にこもり、
小筆の穂先と書体と、ままならぬ自分の腕と格闘しておりました…。
主に卒業生全員の卒業証書番号と氏名、及び生年月日、更には皆勤者や精勤者の氏名と出身小学校を、間違えないように筆で書くのですが、
これが半端なく難しいのです。
昨年度までの歴代の先生方の筆跡が、美しく涼しすぎて、
それに引き換え、どうでしょうこの私の筆跡の暑苦しさは…!

ときどき母に、「黙っていてもあんたは騒がしい」と五月蝿そうに言われることがありますが、
誰もいない空間で筆を手に紙面に向かうと、
確かに自分のざわざわが分かる気がします。

人名用漢字とじっくり向き合えた上に、
己を知るよい勉強になりました。


さて、前回の記事の続きですが、
「不言実行」はそんなにも人々の記憶から薄れている言葉であり、
その言葉の存在を知らなかったり、
「有言実行」が先に生まれた言葉だと信じて疑わなかったりする人々がざらにいることには、
本当に驚愕しました。

私の勤める進学校は、それこそ有言実行型の方針で、
みんなの前で目標や志望校を宣言するのは伝統になっています。
私自身は、もとはバリバリの(?)不言実行型で育てられているので、
勤めたての頃は、「不言実行型の子は、さぞや辛かろう」などと密かに憂いていました。
(しかし最早その憂いも、この現状においてはまさに杞憂というものです。そもそも、少なくとも不言実行という言葉では、その概念自体、殆ど生きていない現状なのですから。)

と同時に、それほどまでに有言実行が際立つ環境にいるせいか、
職場での在り方としては有言実行のよさをも受け入れながら、
個人では常に、不言実行の概念を意識するようして勤めて来たのです。
これまで長年勤めてきたうちで、最も衝撃的かつ意識的に大騒ぎしたのは、そういう経緯が自分にあったからなのかなあ、と、
自分のことながら、日数が経つにつれ気づくようになりました。


「願掛け」というものがありますが、あれも他人に口外しないのがよい、という暗黙の了解があるはずです。
たとえば、ハードルの高い志望校合格を果たすなら、
私の勤務先ではどうしても有言実行型の受験生になるように育つため、
同時に己の中での信念を密かに保つ、禁欲的な願掛けの発想も必要になってくるように思うのですが、
ここ4、5年ほど、授業などで願掛けや断ちものの話をしても、
高校生にせよ中学生にせよ、なんだか通じ切った感じがしないなあ、と教室の空気を読んだ記憶が、そういえば確かにあったのです。

そのしっくりこなかった原因が、一面的であるにせよ、今回はっきり分かったような気がしました。


生徒のみんなに、
「有言実行」ってどういうときに使う言葉なの?
と聞いてみると、
「自分の言ったことには、きちんと責任とるみたいな」
とか、
「自分の目標をちゃんと掲げて、それをみんなの前でちゃんと宣言して、実現させるように頑張るときとか」
などと話してくれます。
時代小説が好きで、いつも禁煙が長続きしない化学の先輩の先生は、
「『不言実行』がかっこいいとは思いつつも、
実際には『有言実行』が殆どだったり、下手すると『有言不実行』で終わっちゃったり…(笑)
でも、本当に大事なことは不言実行にするけど、
人に言っとかないと挫けそうなことは有言実行にしといて、逃げ場を断つ、みたいな使い分けはあるかも」
と、自己分析してくれました。

全体的に、この「逃げ場を断つ」という発想は、多くの人が話してくれました。
実際、うちの職場でも受験から逃げないために、その趣旨で有言実行スタイルをとっているところが大きいのです。

あとは、自分より他者に認められること、他者の前で自分の思いをしっかり宣言して共有することのほうが、今の若い人たちにとっては重要なのだ、という見方もあります。

でも、もしそれが時に足枷にしか感じられなくなったとしたら、
その手綱をとっているのは自分ばかりではなく、その宣言を耳にした他者でもあるのですから、
その他者の目を、どんなにか煩わしく感じることでしょう。
有言実行として掲げた内容を遂行する[し続ける]にあたり、
それを苦痛を伴う義務としてしか感じられなくなったとき、
有言不実行の柔軟性を、誰もが持てるとは限りません。
しかも、その行き詰まりの心理に、無自覚だったら?
そのとき、思考の避難場所はどこになるのでしょう。

現代人が何だかつかれやすい原因には、もしかしたらこういうところも関わってきているのではないでしょうか。

そのように有言実行の壁にぶつかったときに、その苦しみをバネに変えるのが、不言実行の発想ではないのかと思います。
私が第一に何がショックだったかといえば、
人々が不言実行の発想も知っていて、有言実行を敢えて選んでいるならば何の問題もないのですが、
不言実行の発想を持たないまま、有言実行ありきの世界で何の疑問も持たずに生き続ける虞のある日本人が、今や大多数である、ということに対してなのです。

「不言実行は、もう流行らないよね……」
と答えた先生方が、何人かいらっしゃいました。


人に言わないから逃げ道があるのではなく、
人に決して言わないからこそ、己のなかでの己の在り方が確実で、揺らぎがなくていられる。
その発想を、願わくは多くの人々に、もっと実感してもらいたいです。
【(3)へ続く】