“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

憧れというもの

2013-01-18 01:54:40 | 日記
今晩は。
ここ数日、ニュースでは首都圏を中心に、全国的な積雪の話題が盛んでした。
しろねこの地域では、13日(日)には雪が無く見た目濡れているだけなのに実際は徒歩でも怖い朝の道路凍結、14日(月)成人の日に著しい積雪、15日(火)には根雪になっているのを雪掻きして夜には踏み固まった分が再び凍結、一昨日16日(水)には降雪が見られるも漸く屋根の雪が解けて落ち始め、昨日17日はまた新たに少し積雪がありました。

タイヤにチェーンを付けた通勤バスに揺られながら朝の雪景色を眺め、「雪」に因んだ漢語を浮かべてみようとしたのですが、
しろねこの好きな四字熟語「雪魄氷姿(=梅の形容)」と「雪花菜(=おから)」が頭の中を過(よぎ)ったきり、後は何も浮かんでこないではありませんか…。
我ながら語彙力の乏しさに項垂れるばかりです。
そうそう、普段仕事で漢文を解いてる割には、「雪辱を果たす」が即座に出てこない。「雪(すす)がなければならない恥や罪」が、差し迫って自分に無いからなのか…我ながら、いまひとつ言葉の瞬発力が弛緩しているようです。
別の視点で考えると、雲や雨と同様、雪にも降り方や形質によって様々な名前があるようですが、それについてはここでは措きます。

24-3漢検まであと16日です。今更ですが残り日数の無さに驚いています(笑)。
今回も毎日数十分ですが、過去問の復習に専念するのに終始しています。
辞書浚いは相変わらず心の片隅にありながら、勉強の全貌を考えると時間の問題で難しいです。
最低限、気になるところはいちいち引くしかありません(それも落ち着いて出来ないことがあるのでそれは今回は避けたい)。
語彙範囲は広げられませんが、取り組んでいることについてはなるべくやっつけ勉強にならないよう心掛けています。

センター試験までは愈愈残り1日となりました。
しろねこの担当教科である国語は、最早時間を計って問題を解くことを終え、ここ数日は解法解説若しくは最終的な語彙力の詰めをする段階に入っていました。
泣いても笑っても、センターから個別試験迄のあと十数日で、彼らのここ数年の未来が決定されつつあるのだと思うにつけ、とにかく出来ることを思いつく限りやってほしい、また自分もそれに求められる限り付き合おうという毎日です。
受験するのは彼らでありしろねこではないのですが、やはり何か「枕戈待旦」のような心持ちでいます。

最近思うことは、
好きな言葉や漢字の記憶に纏わる自分のエピソードを想起した際に、改めて浮かんでくるキーワードは
「憧れ」
なのかもしれない、ということです。

今でも(多分これからも)時々「何のために漢字をはじめとする言葉の勉強をしようと望むのか」と自問自答するのですが、
そしてその問いに対しては、「国語科教員」として教材を扱う際に役立つという大義名分以外、大して実用性も発展性もない自己満足の領域に過ぎない理由しかない、と消極的に独り考えを収めることも多いのですが、
しかし他方で、同じ独りよがりでも自分に前向きになれる動機の端緒といえば、「憧れ」なのかもしれない、と先日思い当たりました。

言葉は千差万別の器であり、その中に込められた一つひとつの意味は個々の器の姿を借りて、日常会話においても芸術的な表現活動においても、万華鏡のように濃やかな魅力を醸し出しているのだと思います。
言葉は表現活動の手段の一つに過ぎず、伝達のための演出要素には非言語的なものも勿論あるわけですが、
自分が憧れる文学・音楽・絵画・映像・舞台・踊りなどの表現内容や、それらの背景になる抽象的な表現意図を、より多岐に渡る精緻な言葉で深く味わい理解できたら、と思うことが近頃増えてきました。
憧れる対象を表している一つひとつの言葉は、その意味に対して何かオーダーメイドのような特別な感じがするのです。
そう考えると、この世に存在する、ありとあらゆる意味の器を追いかけ続けることに一生を費やしてもいい、という思いに駆られます。

今はこのような感想で止まっていますが、
この先も漢字を勉強し続けることで、もっと考えを高めて実践に移していけたらよいと思います。