











一、長春
二、長白山北線
三、長白山西線
四、五女山
7月1日(日)午前は世界文化遺産「五女山城」観光です。五女山は遼寧省桓仁満族自治県桓仁鎮(県城)の北約8kmに位置する海抜804mの山です。五女山に築かれたのが五女山城です。漢元帝建昭2年(紀元前37年)、北扶余王子朱蒙がこの地に逃れて、五女山上に高句麗国の都城として築いたのが五女山城です。この当時は迄升骨城と称していました。五女山城は南北長約1500m・南北長3~500mの不規則な楔形をしており、山頂部の内城と山麓部の外城からなっています。西暦3年に高句麗国2代琉璃明王が現在の集安に都城を移転しました。2004年7月、五女山城は「高句麗王城、王陵及貴族墓葬」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
写真1は、朝ホテルから撮った五女山全景です。
五女山景区游客中心には五女山博物館があり、五女山城遺址発掘遺物や周辺遺跡の発掘遺物が展示されています。その中から五女山城遺址発掘遺物を幾つかご覧に入れます。写真2は、鉄双孔斧等の鉄器類です。
写真3は、鉄脚鐐です。
写真4は、上部の印章中、中央が「経略司之印」、右が「安撫使之印」が五女山城遺址発掘遺物です。
景区内バスで西門服務点に行きました。写真5は、ここにある世界文化遺産「五女山城」石碑です。
写真6は、登り口にある「十八盤」石碑です。西門服務点から登りは本来十八曲りなので、この名があります。写真の直行する階段道は新しい道で、本来の十八盤は石碑右からで、全長938mです。この新しい階段道は四百段余あります。10時30分前に上り始め、50分過ぎに上(西門址)に着きました。
写真7は、二号大型建築遺址です。長20・幅9.5m、東西に3列の礎石(列に10個)があります。崖下には黄土台が設置されています。
写真8は、同じく二号大型建築遺址です。ご覧のように本遺址の主要遺址には木製の見学台が設けられています。
写真9は、哨所遺址です。本城には何か所も哨所が設置されています。
写真10は、本城の南東角にある点将台です。
写真11は、点将台か見下ろした桓龍湖(人造湖)です。
写真12も、桓龍湖です。
写真13は、居住建築群遺址です。20余りの半地下穴式住居址です。兵舎と推測されています。
写真14は、三号大型建築遺址です。長22・幅16mの長方形で、東面が土積で、南・西・北面が石積です。
写真15は、一号大型建築遺址です。長13.5・幅22mの長方形で、7個の礎石(6個の礎石が保存され、1つには柱穴があります)の6間建物で、王宮と推測されています。
最後の写真16は、西門服務点の外、道路から見た五女山です。12時40分過ぎでした。
なお、フォト・アルバム「五女山」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5khYUbqEnSCTzfspA?e=pjjKOdです。
(2019.07.15)
一、長春
二、長白山北線
三、長白山西線
四、五女山
30日(日)は長白山西線観光です。景区内バスを降り、1440段余の階段を上り西線観景台に向かいます。50分余をかけて12時40分に観景台に着きました。「登頂成功 我真棒!」「海抜2470米」と記した大きな表示板があります。
写真1は、観景台に上がったところにある中朝国境を示す5号定界碑(実際の国境は観景台の少し南)です。2009年との表示が下にあります。
写真2は、観景台からの天池です。本日も霧のため景観を得られません。それでも中国人観光客はご覧のように記念写真を撮っています。
写真3は、下る途上で景区内バス終点を見下ろして撮ったものです。登山道は登りと下りとに分れていますが。
バイキングの昼食を済ませ、錦江大峡谷に移動します。錦江大峡谷は火山大爆発の火砕流・噴石・火山灰等の堆積物が流水で浸食されて、幅約2~300m・深さ約80~100mの峡谷となったもので、全長約70kmです。この一部に周回路が設置されて観光出来るようになっています。14時35分過ぎに入口から周回路を約50分歩きました。森林として各種の針葉樹・落葉樹の混合林です。秋には紅葉します。写真4は、その一つの臭冷杉(白松)です。
写真5は、大峡谷が見えるところに出て、少し行き撮ったものです。
写真6は、さらに行き、峡谷の支流が割込んでいるところを撮ったものです。
写真7は、吊橋を過ぎ、さらに行ったところで撮ったものです。
写真8は、さらに進んだところで撮ったもので、下の渓流をも写し込みました。
最後の写真9は、峡谷を離れ、森林の中の紅松王を撮ったものです.ここで15時7分でした。
なお、フォト・アルバム「吉林・長白山」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5ArTpWROqjBtcGLiQ?e=wIUhjfです。
(2019.07.12)
一、長春
二、長白山北線
三、長白山西線
四、五女山
29日(土)は終日長白山北線観光です。長白山(朝鮮名白頭山)は中華人民共和国と朝鮮民主主義共和国の国境線上に位置します。天池はカルデラ湖で天池を囲んで16峰があり、南側の2749mの白頭峰(朝鮮領内)が最高峰です。
まず天池を目指します。景区内専用バスを降り、数分の登りで北線の天池景観台に至ります。写真1は、その途上での上る人々です。残念ながら、ご覧のように雨模様で、人々は雨支度で、雨と霧で視界が開けません。
写真2は、10時50分頃天池景観台での天池を見下ろして撮ったものですが、完全に霧で覆われて全く見ることが出来ません。天池は水面標高2194m・面積10㎢・最大水深370mで、松花江・図們江・鴨緑江の水源です。
天池から下り、次の長白瀑布を目指します。瀑布の下流に位置するのが聚龍泉です。70度以上の47か所の源泉口を有する温泉です。写真3が、それです。
写真4は、長白瀑布(落差68m)の遠全景です。本滝は二道白河を経て松花江の本源となります。12時15分過ぎです。ここからは少し青空がのぞく天気となりました。
写真5は、長白瀑布全景です。中望遠で撮りました。
写真6は、望遠で撮った滝の落口です。
写真7は、同じく望遠で撮った滝壺です。
長白瀑布観光を終り、早めのバイキングの昼食を取り、次は下流の緑淵潭です。写真8が、それでご覧のように奥に3条の滝があります。14時前の撮影です。
写真9は、左側の落口です。
次いで銀環湖(小天池)へと徒歩移動です。小天池は南北40m・東西30m・周回り260m・面積5000㎡・水深10余mです。写真10は、小天池の右側です。湖面に木々が映り込みます。14時20分頃です。
写真11は、湖の中央部で、対岸の石を捉えて撮りました。
写真12は、雲間から姿を見せた長白山の峰峰です。14時35分でした。
最後の写真13は、本日最後の観光場所、地下森林です。ここで再び雨模様となり、帰りは雷雨となりました。15時25分の撮影です。
なお、フォト・アルバム「吉林・長白山」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5ArTpWROqjBtcGLiQ?e=wIUhjfです。
(2019.07.09)
一、長春
二、長白山北線
三、長白山西線
四、五女山
クラブツーリズム主催「色彩豊かな長白山と世界遺産五女山城6日間」(2019年6月27日〔木〕~7月2日〔火〕)中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、
27日(木)午後成田発瀋陽着(南方航空) 夜瀋陽発長春着(高速電車) 長春泊
28日(金)午前長春観光(八大部・杏花沌公園・牡丹園) 午後長白山へ 長白山泊
29日(土)終日長白山北線観光(天池・長白山瀑布・緑淵潭・小天池・地下森林) 長白山泊
30日(日)午前長白山西線観光(天池・錦江大峡谷) 午後桓仁へ 桓仁泊
1日(月)午前五女山城観光 午後瀋陽へ 瀋陽泊
2日(火)朝瀋陽発成田着(南方航空)
です。
最初の観光地は吉林省省都長春市観光です。長春市は旧満州帝国首都であったので、この関係が観光主体です。
まず、旧満州国関係の建築物です。八大部(軍事・司法・経済・交通・興農・文教・外交・民生部)の多くは南北に通じる新民主大街に並んでいます。写真1は、部(省)を統轄する行政府である国務院旧址(朝陽区新民主大街126号)で、大街の一番北右側に位置しています。1936年に完成しました。現在は東北地方の名門校吉林大学白求恩医学院となっています。
写真2は、医学院(医学部)の冠名となっている白求恩立像です。亨利·諾爾曼·白求恩とはカナダ人のHenry Norman Bethune(1890年3月3日~1939年11月12日)の漢字名です。ノーマン・ベチューンはカナダ共産党員として1938年に香港から延安入りをして、八路軍医師として活動中に死去しました。
写真3は、大街の北端の文化広場の奥に立つ旧宮殿旧址(朝陽区西民主大路928号)を車上より撮ったものです。本宮殿は1938年に起工し、1943年に建設中止となり未完でしたが、中華人民共和国成立後の1956年に完工しました。現在は吉林大学地質宮博物館です。
写真4は、中国共産党結成98周年(1921年7月1日)により杏花沌公園で演舞をしている市民達です。いくつもの組が代わる代わる演じていました。本公園はその名の通り杏の木が多く植えられています。
写真5は、牡丹園内にある旧日本神武殿旧址(朝陽区立信街6号)です。本殿は武道場として1940年に完工しました。
最後の写真6は、牡丹園の牡丹オブジェです。本公園はその名の通り牡丹の苑です。
(2019.07.04)
周公廟―中国雑感〔47〕―
2019年4月8日(月)午後、周公廟(陕西省宝鶏市岐山県周五路)を参観しました。周公廟は宝鶏市岐山県城西北約7.5kmの鳳凰山南麓に位置しています。周公廟は周人発祥地である周原の一角を占めています。入場時間は9時半~19時(2~10月)・9時半~17時半(11~1月)です。入場料は70元です。岐山県城からは岐山汽車站(岐山客運汽車站北)から岐山202路に乗車して、終点の周公廟站(2停留所)下車です。30分弱です。
写真1は、周公廟正面です。
写真2は、周公廟山門に対面している2本の老唐柏の右側の樹です。樹齢約1300年の古木です。
写真3は、周公正殿の前殿である献殿内での発掘展示の周公東征鼎です。他に新邑戈等が展示されています。献殿の前には周公立像があります。
写真4は、中央の周公正殿(主殿)です。
写真5は、正殿内の周公塑像です。周公(姫旦)は、周文王姬昌第4子・周武王姫発の弟です。周公は周武王の殷紂王東征を補佐し、武王死後、後継の成王が幼少のため、摂政として周国安定に尽くしました。
写真6は、左の召公殿です。召公(姫奭)は文王・武王・成王・康王の4代に仕えた周国初代の功臣です。召の地(陝西省宝鶏市岐山県の南西)を食邑としたことから召公と呼ばれました。
写真7は、右の太公殿です。
写真8は、太公塑像です。太公(太公望)は姓を姜、氏を呂、諱を望として、一般に名前呂望と称されました。斉国の祖とされ、後世には軍師として奉られています。
写真9は、三殿奥の碑亭です。姜嫄殿の前です。
最後の写真10は、三殿左(東)の庭園の池の風景です。
なお、フォト・アルバム「陝西・周公廟」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng4Akv57qCBraoHNppwです。
(2019.05.10)
2019年4月8日(月)午前、宝鶏先秦陵園博物館(陝西省宝鶏市鳳翔兼南指揮鎮)を参観しました。本博物館は、秦公一号墓、すなわち秦始皇帝14代祖の穆公の4世孫景公墓遺址上に建てられたものです。本墓は1977年に発掘調査がなされ、全長300m・幅38.8m・深さ24.5m・面積5334㎡の大墓で、春秋後期(約2千5百余年前)の秦景公(秦公一号墓)と分かりました。本館は2000年に民間博物館(秦公一号大墓遺址博物館)として開館し、2007年9月18日、国有の宝鶏先秦陵園博物館となりました。開館時間は9時~18時(4~10月)・9時~17時半(11~3月)、入館料は30元です。鳳翔県城からは紙坊城際線の鳳翔南関站(鳳翔汽車站から南に約200m弱)乗車で、8停留所目の西村站下車、南に約150mです。所要時間約30分です。
写真1は、宝鶏先秦陵園博物館入口です。左が窓口です。
写真2は、陳列館です。
写真3は、「黄腸題湊」(復原地下宮)です。
写真4は、発掘品の一つ陶缶です。他にも幾つかの発掘品が展示されています。
写真5は、秦景公大墓です。陳列館の北です。東から西墓道へと撮ったものです。中央の深い区画は主棺室で、回りの木箱は殉葬者のものです。ご覧のように遺址をドームで覆い保護と公開を行なっております。
写真6は、中央を撮ったものです。奥の白い案内板は盗掘跡を示しています
写真7は、車馬坑です。陳列館の入口寄りです。東西全長86m・幅約20m・深さ約14mです。坑の前方から3列縦隊で数十両の戦車が並べられていました。
最後の写真8は、門道です。
なお、フォト・アルバム「陝西・宝鶏先秦陵園博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng4AjeCYxyUsG4BOdWQ[正大1] です。
(2019.05.08)
2019年4月5日(金)午後、大唐西市博物館(陝西省西安市蓮湖区労働南路118号)を参観しました。本博物館は、2010年4月7日、唐長安城のシルクロードとの交易点である西市遺址上に開館しました。開館時間は夏季9時~17時30分(4~10月)・冬季9時~17時(11~3月)で、閉館日は月曜日と旧暦大晦日です。1~3階の展示は午前・午後毎に500人が無料です。4階の特別展示(不時)は30元です。入場券は入口に南面した建物の票務室で旅券提示の上で受け取ります。また、大きな荷物は票務室東側ロッカーに預けます。地下鉄2号線永寧門站(南面南側)からはA2出口から南門に向かい環城南路西段へと曲り行ったところのバス停南門外站(ここまで約400m)から800路に乗り、6停留所目の草陽村站で下車し、少し戻り道を南に労働南路へと取り、約400mで西に西市北街に道を取ると約150mで博物館です。
写真1は、南からの建物正面です。
写真2は、排水溝遺址です。ご覧のように遺址上にガラスを被せて、保護と見ること兼ねていますが、天上が自然光を取りいえる構造となっているため、ガラス面に反射して、写真では遺址がはっきりしていませんが。
これからは2階の基本陳列展庁です。写真3は、左が石臼、右が石杵です。
写真4は、下段の左から2番目が和同開珎です。上段中央には東ローマ帝国の銅貨で、左右がササン朝ペルシャの銀貨で、唐の各国との交易を示しています。
写真5は、絲綢刺綉の中窠聯珠対島含綬紋錦です。
写真6は、銀碗と金帶(トルギスタン汗国)です。
写真7は、蓮花紋方鏡です。
写真8は、双龍柄白瓷壺です。
写真9は、上段中央が白瓷四系罐、下段中央後ろが黄釉馬です。
写真10は、左から三彩七星醆、三彩鴛鴦酒巵、三小皿、三彩三足壺です。
写真11は、白石観音菩薩坐像です。
写真12は、三彩陶駱駝俑です。
写真13は、西市ジオラマです。
最後の写真14は、同じく西市ジオラマです。
大唐西市博物館公式サイトはhttp://www.dtxsmuseum.com/index.aspxです。なお、フォトアルバム「陝西・大唐西市博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng4AB-CoVEUOU1iejawです。
(2019.05.06)
一、西湖
三、黄山(1)
五、朱家角古鎮
六、外灘と黄浦江ナイトクルーズ
27日(木)、16時30分過ぎに上海市内に着き、まず外灘(黄浦江公園)散策です。写真1は、浦東新区風景です。右の高いビルが世界第2位の高さを誇る上海中心大厦(623m)です。
写真2は、租界時代の建物で、左が上海浦東発展銀行(旧匯豊銀行上海支店)、右が上海海関です。
写真3は、左が曼谷銀行(旧大北電報公司)、右が招商局(旧ラッセル商会ビル)です。
外灘散策は17時過ぎには終わり、徒歩で豫園に移動して、散策です。すでに、豫園は開放時間が終わっており、豫園商城での買物となりました。そして夕食後、オプションの黄浦江ナイトクルーズです。乗船して、19時30分には出発しました。写真4は、浦東新区の夜景で、高く聳えるのが上海中心大厦です。左の頂上が赤いのが金茂大厦(420.5m)です。右の青のラインは上海世界金融中心(492m)です。
写真5は、東方明珠塔(468m)です。塔は色々な色で照明されており、写真は紫色の時です。
写真6は、浦東新区夜景で、左が東方明珠塔で、右が上海中心大厦です。この中、青いのが上海世界金融中心です。塔は赤色の照明で、さらに白字で「欢迎上海」(歓迎上海)と出ています。
写真7は、東方明珠塔・上海世界金融中心・上海中心大厦と並んだものです。塔は白字で「爱我中华(愛我中華)」と出ています。
写真8は、黄浦江下流を遠望したものです。遠く見える赤い橋は内環高架路の楊浦大橋です。月も昇ってきました。ここで戻り今度は外灘側と撮っていきます。
写真9は、外灘と浦東新区のビル語群を一望できる、5星ホテルの上海外灘W酒店です。ご覧のように全面を照明で飾っており、色々な絵を描いていきます。
写真10は、蘇州河に架かる外白渡橋です。
写真11は、中国商工銀行(旧横浜正金銀行上海支店)です。
写真12は、和平飯店(旧サッスーンハウス)です。租界時代から営業している老舗ホテルです。
写真13は、上海海関です。租界時代からのものです。
写真14は、上海浦東発展銀行です。
写真15は、桟橋に係留されたクルーズ船です。2層の客室と屋上から展望します。
最後の写真16は、亜細亜大楼(旧マクベスビル)から和平賓館までの外灘です。20時20分過ぎにクルーズは終わりました。
なお、フォト・アルバム「外灘&黄浦江クルーズ」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngul0XSPlhWWwnRtnaAです。
(2018.10.16)
一、西湖
三、黄山(1)
五、朱家角古鎮
27日(木)は、朝に屯渓を出発して上海に向かいます。まず、上海市青浦区朱家角鎮に到着して昼食です。午後は上海四大古鎮(嘉定・松江・朱家角・南翔)の一つ朱家角古鎮散策です。12時過ぎに北から古鎮に入りました。本鎮は多くの水路があります。写真1は、水路を夾む西井街です。碼頭(桟橋)に観光船が係留されています。清代乾隆帝の時、官を辞して帰郷した王昶が乗ってきた船を後に羅鍋船と称するようになり、これが観光船となっているのです。
写真2は、西井街にかかる永安橋です。本鎮には石橋が36ありこの一つです。
写真3は、石橋を代表する放生橋です。東井街から漕港河を渡り北大街に行きます。
写真4は、放生橋上から漕港河上流を撮ったものです。両岸に古街が広がり、河に面した茶館等があります。
写真5は、漕港街からの城隍廟橋です。ご覧のように木橋です。
写真6は、漕港街からです。
写真7は、漕港河下流右岸から撮った放生橋全景です。本橋が創建されたのは明・隆慶5年(1571)で、現在の橋は全長72m・全幅5m・高7.4mです。ご覧のように5つのアーチ口(五孔石栱橋)を持つ橋です。
写真8は、放生橋欄干の獅子です。
写真9は、放生橋欄干の獅子に下流右岸の桟橋を入れて橋を撮ったものです。橋の向こうは新風路です。
写真10は、宝石橋下流側の東井街です。こちらは観光地化しておらず、観光客も来ず、ご覧のように生活臭がします。
写真11は、漕港河下流左岸から撮った放生橋の中央部アップです。左岸には大型観光船の桟橋があります。
最後の写真12は、西井街に戻り、中龍橋を撮ったものです。以上で古鎮散策は終わり14時過ぎでした。そして、上海市内へと向かいます。
なお、フォト・アルバム「上海・朱家角古鎮」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngulbXBrNbH-25fBvKwです。
(2018.10.14)
一、西湖
三、黄山(1)
四、黄山(2)と屯渓老街
五、朱家角古鎮
26日(水)は、引き続き黄山観光です。本来は曙光亭での御来光を迎えるつもりでしたが(ホテル掲示の天気予報では60%の確立)、前日からの曇天で見込みなしとして出かけませんでした。そして、9時に西海賓館を出発して、始信峰に向かいます。写真1は、右手前の夢筆生花です。
写真2は、夢筆生花の左に見える筆架峰です。
道を行くと名松が幾つかあります。写真3は、その代表的な黒虎松です。
写真4は、2本の松が並ぶ連理松です。
写真5は、始信峰への途上から見た峰です。
写真6は、始信峰の登り口にある報引松です。
写真7は、ここから見た始信峰です。
写真8は、望遠で捉えたものです。ご覧のように、安全対策でしょうが、頂には全方位の監視カメラが設置されています。中国は世界で最も監視カメラが普及していることがここでもかいみられます。
写真9は、始信峰に生えている松を撮ったものです。
写真10は、始信峰上から北海賓館を撮ったものです。
写真11は、さらに歩いて石笋峰を撮ったものです。
写真12は、右に聳えるのが石笋矼で、左に連なるのが十六羅漢朝南海です。
写真13は、霞む十六羅漢朝南海です。
写真14は、遠望した雲谷索道です。
写真15は、ロープウェーの途上での峰です。
写真16は、石棚です。10時45分にロープウェーに乗り、黄山観光を終えました。
屯渓区に戻り昼食です。14時半から屯渓老街散策です。写真17は、老街東側です。道中央に置かれている「小姐」の持っている札には「清掃員很辛苦 敬請拉圾入桶」と書いてあります。すなわち、「清掃員さんご苦労さん ゴミは桶(ゴミ箱)に入れましょう」と、あります。後方見える木箱がゴミ箱です。
写真18は、文房四宝、すなわち筆・墨・硯・紙の内、紙を除く三宝を扱う「藝蘭軒」です。黄山市歙県等は中国四大名硯の一つ、歙硯の産地です。本店はこの老舗です。店内中央にそれらが並べられています。
最後の写真19は、老街西側です。左に「四大名茶」との看板があるように、黄山は茶の産地で、特に黄山毛峰は十大名茶の一つとして知られています。老街には多くの茶専門店があるのです。写真にはありませんが、この代表が「王光熙茶行」です。以上で、老街散策は終わり、15時過ぎでした。
なお、フォト・アルバム「黄山&屯渓老街」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngukSIP2k7JM5-0WZHgです。
(2018.10.12)
一、西湖
三、黄山(1)
五、朱家角古鎮
25日(火)は、朝杭州市を出発して、昼前に黄山市屯景区に着き、昼食を取りました。午後、黄山景区内バスで雲谷索道(ロープウェー)の雲谷寺站(駅)に着き、14時、ロープウェーに乗り黄山観光の開始です。
写真1は、雲谷寺站を出て駅を振り返って撮ったものです。ご覧のようにロープウェーは8人乗りの小型のものです。
写真2は、峰を越えて再度上りとなり振り返ったものです。
白鵝岭站でロープウェーを降りて、まず今夜の宿泊先である北海賓館に向かい、この途上の筆架峰を撮ったのが、写真3です。賓館には14時47分に到着しました。
賓館を15時28分に出て、当初の予定では始信峰行でしたが、順番を変えて、登りの厳し光明頂行です。写真4は、その途上、飛来石を遠望できるところで望遠で撮ったものです。
写真5は、皮篷溝断層です。
写真6は、光明頂石碑(1860m)です。16時26分でした。
写真7は、光明頂に立つ気象台で、丸いのはレドームです。
写真8は、気象台奥の展望台から見た黄山です。残念ながら曇天ですが峰から雲が流れています。
写真9は、光明頂を出て少し行ったところで撮ったものです。
写真10は、飛来石が遠望できたところで、雲に霞む飛来石を捉えたものです。
写真11は、望遠で飛来石を撮ったものです。
写真12は、鋏石です。
写真13は、飛来石です。
写真14は、飛来石の展望台から丹霞峰方向を撮ったものです。
写真15は、西海飯店側の飛来石そのものを撮ったものです。
写真16は、西海大峡谷です。
写真17は、排雲亭展望台から西へと撮ったものです。本来はここで夕日観賞でしたが、ご覧のように曇天で日没の太陽は見られませんでした。本日の日の入りは17時58分でした。
最後の写真18は、排雲亭です。本亭は宋三姉妹が1935年に建てたものです。
なお、フォト・アルバム「黄山&屯渓老街」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngukSIP2k7JM5-0WZHgです。また、「黄山風景名勝区」はhttp://www.chinahuangshan.gov.cn/です。
(2018.10.09)
一、西湖
二、銭塘江大逆流と西湖月見
三、黄山(1)
五、朱家角古鎮
24日(月)は仲秋節、すなわち旧暦の8月15日です。月の潮力は満月に大となり、特に8月が最大となります。そこで、この日が銭塘江大逆流観賞の日となったのです。朝に杭州市内を出発して約1時間で塩官・観潮勝地公園(浙江省嘉興市海寧市塩官鎮古邑路1号)に9時過ぎには到着して、観覧席に向かいました。逆流は11時50分頃と予報されていたので待ちます。
11時30分過ぎ逆流が下流に遠望できました。写真1は、観覧席からのものです(11時32分)。上流に円弧を描いて遡ってきます。
まだ遠いですが、近づいてきたのが写真2です(11時38分)。望遠気味で撮りました。
写真3は、逆流と報道用ヘリコプターとを撮ったものです(11時40分)。夜のニュースで流されていました。
逆流が眼前へと迫ってきたのが写真4です(11時43分)。
逆流の円弧部先端が眼前を越えたのが写真5です(11時43分)。ご覧のように、今年は低めの波で、迫力ある壮観なものではなかったです。
写真6は、通り過ぎた逆流です(11時45分)。以上で逆流は終わりです。
塩官で昼食後、市内へと戻り、途上で龍井村の中国茶葉博物館見学・買物をし、西湖に戻り、楼外楼で夕食となりました。
19時過ぎ西湖上での月見のため、杭州香格里拉飯店碼頭から遊覧船に乗りました。仲秋節とあって小月餅が出されました。写真7は、左上に満月、右中央に雷峰塔を撮ったものです。
最後の写真8は、中央に阮公墩(人口島)、左右に市街と雷峰塔、右上に満月を写し込んだものです。小瀛州を回り20時過ぎに戻り湖上の月見は終わりました。
なお、フォトアルバム「杭州・西湖&銭塘江大逆流」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxnguh5-wzxplhO_8ZMcAです。
(2018.10.06)
一、西湖
三、黄山(1)
五、朱家角古鎮
クラブツーリズム主催「【羽田発着】奇観の銭塘江大逆流・中秋の黄山と西湖の月見6日間」(2018年9月23日〔日〕~28日〔金〕)で、中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、
23日(日)午前羽田発上海浦東着(東方航空) 午後西湖散策(花港観魚) 杭州泊
24日(月)午前塩官・銭塘江大逆流観賞 夜西湖船遊覧(月見) 杭州泊
25日(火)午後黄山山頂巡り(光明頂・飛来石・拝雲亭) 黄山山頂泊
26日(水)午前黄山山頂巡り(黒虎松・始信峰) 午後屯渓老街散策 屯渓泊
27日(木)午後朱家角古鎮観光 午後外灘・豫園散策 OP黄浦江ナイトクルーズ 上海泊
28日(金)午前上海浦東発午後羽田着(東方航空)
です。
MU576で昼前に上海浦東空港に到着後、バス移動で杭州市に午後着きました。最初の観光地は西湖・花港観魚です。
写真1は、清朝康熙帝が康煕38年(1699)に杭州に行幸した際の宸筆による「花港觀魚」石碑(同年3月26日筆)です。
写真2は、花港観魚の紅魚池です。ご覧のように紅錦鯉が泳いでいます。
写真3は、蘇提から西湖を眺めたものです。湖上にはご覧のように多数の遊覧船が浮かんでいます。
最後の写真4は、大型遊覧船越しの蘇提からの雷峰塔です。
なお、フォトアルバム「杭州・西湖&銭塘江大逆流」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxnguh5-wzxplhO_8ZMcAです。
(2018.09.23)
2018年4月10日(火)、漢長安城未央宮遺址(西安市未央区二環路外)に行ってきました。本遺址は「漢長安城国家大遺址」として現在整備中です。現在のところ入場は無料です。公共交通機関は地鉄1号線漢城路站下車、A出口から直進して、交差点で右(北)に漢城北路に入り、186路に城西客運站(駅から約200m)で乗車し、漢城遺址站(3停留所)で下車後、北に約1.7km歩くと、未央宮前殿遺址です。なお、前殿遺址までは現在は車・自転車で入れます。
前漢(紀元前206~8年)の都城である長安城(東西7.6km・南北6km)には5つの宮城があり、その一つ西南角にあるのが未央宮です。未央宮は、紀元前202年に建設が開始されて、東西2150m、南北2250m、総面積4.8㎢で、4つの宮門があり、中央に前殿がありました。本宮内では現在までに1号遺址(前殿遺址)、2号遺址(胡椒房殿遺址)、3号遺址(中央官署遺址)、4号遺址(少府遺址)、5号遺址(西南角楼遺址)、6号遺址(天禄閣遺址)、7号遺址(石渠閣遺址)、15号遺址(滄池遺址)、154号遺址(明渠遺址)が発掘されて保護されています。本遺址は1961年3月4日に第1回全国重点文物保護単位に指定され、2014年6月22日に世界文化遺産シルクロードの発起点として指定されました。
写真1は、バス停から北に約600m、漢長安城南城壁に設けられた3つの城門、西側の西安門遺址です。ご覧のように3つの門道があります。西門道は既に破壊されており、中門道・東門道は幅約8mですが、両側の礎石位置から実際の幅は6mです。門道の長さは19~20mです。
写真2は、西安門を通り、城内からの門と西に続く南城壁遺址です。南城壁は幅40~50m・深さ3mの水壕で囲まれており、水壕の水は渭河に排水されるようになっていました。左端の塀に覆われたところは未央宮南宮門とその後背地で、現在整備中です。
西安門から約600mで道を西に取り約300m行くと北正面に前殿遺址が見えます。写真3は、約200m先の前殿遺址全景です。前殿の基壇は南北400m、東西200m、最高15mです。
写真4は、3号庭園からの前殿です。前殿には南から順に1~5号庭園があり、段となり高さを上げています。右に見える黄色の電動カートは中国の観光地によくある移動用ですが、現在のところ運行されていません。
写真5は、前殿上から南を見たものです。
写真6は、前殿を東から西へと見たものです。
写真7は、前殿上から北を見たものです。正面奥に見えるのが2号遺址(胡椒房殿遺址)です。
写真8は、前殿からの戻りで、2号庭園から見たものです。庭園には建物もあり、その位置の表示もあります。
写真9は、1985年12月撮影の西から見た前殿全景です。ご覧のように遺址は畑地でした。
最後の漢長安城・未央宮図は、
『京都・奈良文化財保護サイト』奈良文化財史/花開く都城文化/東アジア都城http://kousin242.sakura.ne.jp/blogs/eee/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E5%8F%B2/%E8%8A%B1%E9%96%8B%E3%81%8F%E9%83%BD%E5%9F%8E%E6%96%87%E5%8C%96/%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E9%83%BD%E5%9F%8E/からです。
なお、フォトアルバム「陝西・漢長安城未央宮遺址」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtN--jAdVi1BynzGsAです。
(2018.04.27)