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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

石橋山古戦場址―歴史雑感〔14〕―

2014年05月21日 11時49分39秒 | 日本史(古代・中世)

2014年5月20日(火)、神奈川県小田原市石橋の石橋山古戦場址に行ってきました。石橋山合戦は、伊豆国で平家六波羅政権打倒に蹶起した源頼朝が、相模国の豪族三浦氏と合流するため、3百騎の軍勢を率いて相模国に向かった途上、これを阻止すべく迎撃に向かった、相模国豪族で平家方の旗頭であった大庭景親の率いる3千騎の軍と、1180(治承4)年8月23日、戦ったものです。頼朝軍の惨敗となり、頼朝は命からがら戦場から離脱し、箱根山に逃亡・隠れて、その後、真鶴岬より海を渡り、安房国で三浦氏と合流して、再起を図りました。両総の豪族である上総広常と千葉常胤の合力を受けて、奇跡といわれる再起を頼朝は果たして、鎌倉に入城して、南関東に覇権を立て、1185年3月の檀浦海戦での勝利により、平家本宗を壊滅させ、内乱の最終的勝利者となります。

石橋山古戦場址はJR東日本の東海道本線早川駅と根府川駅のほぼ中間の早川よりに位置します。国道135号線で早川駅から南下して、丸石橋を通過して、国道から右に分かれる旧道を行くと、案内板(駅から2Km余)があり、ここから右に道を上ったところです。写真1は、上って70mほど行ったところにある、石橋山合戦800年を記念して、1980年4月、建立された「石橋山古戦場碑」です。この手前で、道は文三堂への左と、佐奈田霊社への右へと道が分かれます。

写真2は、文三堂(旧道から200m)です。豊(文)三家安は頼朝軍の先陣として戦死した佐奈田義忠の郎従で、義忠戦死後に、奮闘して戦死します。この文三家安を祀ったのが文三堂で、小丘上にあります。

写真3は、佐奈田与一義忠と文三家安の墓と伝える「与一塚」です。佐奈田霊社(旧道から直行で180m)の境内にあります。文三堂への途上に、霊社への階段道があり、50段以上の階段を上っていくと、ここに至ります。佐奈田与一義忠は、三浦一族の岡崎義実の嫡男で、母が中村宗平です。すなわち、石橋山合戦の頼朝軍の主力で、合戦場を本貫地としていた土肥実平の兄弟が母です。このためでしょうか、頼朝から先陣を命じられて、大庭方の俣野五郎景久(大庭景親弟)と戦い戦死します。後方に見える堂は霊社の脇堂です。

写真4は、佐奈田義定を祀る佐奈田霊社の本殿です。この霊社のある丘上に頼朝軍が陣を取ったと考えられています。

写真5は、佐奈田霊社の北(早川側)から霊社のある丘とその南の文三堂のある丘を俯瞰したものです。丘といっても、箱根山外環山から舌上に延びる丘(山)で、霊社の丘の両側は川のない小さなくぼみ状の谷となっています。海岸線手前で、丘が急に落ちていることがお分かりでしょう。この地形からして、頼朝軍は霊社のある丘上に陣を構えて、早川から海岸線の道を進んだ大庭軍は南北の谷から攻め上がったと考えます。

写真6は、石橋山から北に眼下に玉川の谷間海岸寄りにある石橋の集落を挟んで北側の斜面をも写し込んだものです。御覧のように北側の山は急斜面で、石橋山の北斜面も同様に急斜面です。大庭軍は小田原方面から行軍して、玉川北岸にまず布陣したといえます。なお、下の鉄道は東海道本線で、通過中の電車は特急踊り号です。

(2014.05.21)

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