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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

漢陽陵博物館―中国雑感〔20〕―

2016年10月31日 19時46分20秒 | 観光(中国)

2016年10月17日(月)午前、漢陽陵博物館を参観しました。西安市北郊外の渭河北岸台地上には、初代高祖劉邦の長陵以下、7つの皇帝陵が東西に並んでいます。景帝陽陵はその最も東にあります。前漢第6代皇帝景帝劉啓(BC188~141)の陵園を1990年代に発掘調査したのを基盤に、本博物館はその遺跡の保存・展示を行なっているものです。2003年5月1日に本博物館は「陽陵南闕門遺址」展示をもって開館し、以後さらに展示を広げて現在に至ります。外藏坑遺址保護展示庁・南闕門遺址保護展示庁・宗廟遺址・考古陳列館からなり、この順で参観するのがいいでしょう。開館時間は8時半~19時(3~11月)・8時半~17時半(12~2月)、入場料90元(3~11月)・65元(12~2月)です。西安市内からの交通は市内バスの遊4路(市図書館発 運行時間8時30分・10時20分・12時・13時40分・15時20分・17時 2元)で終点の漢陽陵博物館下車です。市図書館へは地下鉄2号線市図書館站(駅)下車(C・D出口)か火車站西発の市内バス266路(2元)がいいでしょう。

今回は時間的関係もあり南闕門遺址保護展示庁と外藏坑遺址保護展示庁の参観のみです。何れも名の通り発掘した遺跡をそのまま保存・展示している展示館です。まず、南闕門遺址保護展示庁からです。皇帝陵封土は塀で取り囲まれて、東西南北にそれぞれ門建築が設けられていました。もちろん南門が正門で、この遺址が南闕門遺址で、これに保護の建物を建設して保護・展示したのが本展示庁です。最初の写真1は、南の入口から入って、西側の遺址へと行き、ここから撮った門道及び東側遺址です。手前右の空間は外塾で、手前左側は内塾です。

写真2は、奥へと延びる主闕台です。中央に見える穴は柱跡です。

写真3は、副闕台で、先端が垣墻です。奥の主闕台中央に見えるのは木柱遺存です。闕台の回りの平面部が回廊で、さらにその外側の石を敷き詰めたところが散水です。

写真4は、東側遺址の副闕台です。西側のそれとは遺存状態が異なります。

次いで、外藏坑遺址保護展示庁です。外藏は陵封土の四周に81座設置されていました。本展示庁は東北10座の外藏坑上に地下建築を建設して保護・展示したものです。写真5は、18号坑で、ご覧のように人俑陶が置かれています。前漢の人俑は秦に比較して小型となっていますが、量的には劣りません。また、裸なのは衣類が腐食して残っていないからです。他の坑の中には動物俑(豚など)や壺等各種のものが置かれています。

写真6は、木車馬遺址です。これに見るように、木車馬とこれに随う人俑も出土しており、木車馬と随員の列の復元展示もあります。

最後の写真7は、1997年9月、南闕門遺址を発掘中に参観した時、陵頂上から南闕門遺址を俯瞰撮影したものです。なお、その奥に見える道路は西安咸陽国際空港(1991年開港)への専用道です。現在は本博物館へのアクセス道ともなっています。

なお、フォトアルバム「西安・漢陽陵博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngscN3PgH3jEoeapifQです。また『漢陽陵国家考古遺址公園』公式サイトはhttp://www.hylae.com/です。

(2016.10.31)

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西安交通大学日語系2期生30周年同窓会

2016年10月22日 09時55分48秒 | 教育

2016年10月15・16日、西安交通大学日語系2期生(1986年入学・1990年卒業)が、西安に集い入学30周年の同窓会を開きました。中国各地および遠くカナダ・アメリカから12名(全15名 女10名・男5名、出席女4名・男4名)の卒業生が母校に集いました。私は14日から18日まで滞在しました。

写真1は、15日(土)午前、西花園で行われた記念植樹です。青楓10本を植樹しました。

次いで、校内を巡ります。写真2は、その一つ旧図書館前の広場の地面に描かれた中国全土地図上で、各自の居住地に立ったものです。ただ、遠く海外からの卒業生は居住地に立てないため、出身地に立ちます。

午後は外国語学院で日語系師生交流会を開きました。写真3は、最初の趙剛教授の挨拶のところです。隣が顧明耀教授です。

写真4は、外国語学院前での記念撮影です。

翌16日(日)午前、まず交代正門での記念写真です。写真5が、そうです。それから、市内に出て、回民街で昼食して、解散となりました。

(2016.10.22)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その5)―歴史雑感〔26〕―

2016年10月06日 10時04分35秒 | 日本史(近世・近代)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

 

四、『吾妻鏡』の検討・下

改めて、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』における石橋山・椙山合戦敗北後の時政の行動を見てみます。先ず、『吾妻鏡』では、24日、①時政父子3人は時政が疲労のため頼朝に追従出来ません。②時政・義時は湯本から湯坂道で甲斐国に向かおうとします。③湯本から引き返して、時政は箱根神社の永実と出合い、晩に頼朝と再会します。翌25日、④頼朝の命で箱根神社僧の案内で甲斐国へと向かいます。⑤土肥郷へと隠れた頼朝の無事を確認するため引き返します。27日、⑥安房国ヘと渡海し、到着します。29日、⑦頼朝と再会します。9月8日、⑧頼朝の命で使者として甲斐国に向かいます。15日、⑨甲斐国逸見山で時政は武田信義と対面します。20日、⑩土屋宗遠が頼朝使者として下総国から甲斐国へ向かいます。24日、⑪土屋宗遠が甲斐国石和で武田信義・北条時政と会います。

一方、『延慶本平家物語』では、a敗戦後に頼朝に追従した武士達に頼朝が解散を告げます。b時政・義時父子は甲斐国に向かいます。c時政は甲斐国に到り、武田信義・一条忠頼と会います。d土屋宗遠が頼朝無事を伝えるために安房国から甲斐国に向かいます。e土屋宗遠が甲斐国で一条忠頼に会います。

『吾妻鏡』での③・⑥の記述に関しては幾多の無理と虚構があることは前回述べたところです。とりわけ、③に関して疲労のため頼朝に追従出来なかった時政が湯本から引き返して晩に頼朝と再会したというのは、18歳と若い義時と異なり43歳という年齢を考えれば、いっそうの無理があるといえ、虚構の可能性が高くなるのです。とすれば、以降の時政の安房国渡海とそこでの頼朝との再会という行動過程はすべて虚構ということになります。

これに対して、『延慶本平家物語』での記述には、敗戦後に頼朝の下に再度蝟集した武士達に各個に逃れるように指示したことは『吾妻鏡』と同様であり、合理性があり、以上一連の行動には無理がありません。すなわち、時政は自身の意思で甲斐国を目指したことになり、甲斐国に到着して武田信義に会います。

以上見てくると、『吾妻鏡』より『延慶本平家物語』の記述する時政の行動に妥当性があるのです。すなわち、いったん頼朝に再会しましたが、その指示で別れたのではなく、自身の判断で甲斐国に到ったということです。

そのように見てくると、時政の行動は『延慶本平家物語』の示すとおりで問題ないように思えます。そうならば、『吾妻鏡』も疲労で頼朝に追従出来なくなった時政に関して、湯坂路に関する記述をすることなく、休息後に追従出来たとして再会したとすれば、問題の破綻はなかったはずです。では、何故わざわざ湯本を経ての湯坂路越えの記述を入れたのでしょうか。すでに述べてきたとおり、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述は無理と虚構に満ちており、大いなる作為性があることは確かです。『吾妻鏡』の作為性に関しては、無から話を創作するのではなく、何らかの事実に絡めて作為を行なうのが執筆態度であることをすでに示しています(拙稿「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」〔Ⅱ〕『政治経済史学』第227号1985年6月参照)。とするなら、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述の中にも元になる事実があると考えます。『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』との比較では『延慶本平家物語』の記述に妥当性があると述べました。すなわち、時政は渡海せずに箱根山外輪山から直接甲斐国に行ったということです。ということは、時政が湯本から湯坂路を経て甲斐国に向かうとしたとの『吾妻鏡』の記述が動かすことの出来ない事実として、その後の作為の出発点となったと考えることが出来ます。

頼朝が山木夜打の前に味方する武士を一人一人呼んで、「ひとえに汝を恃むによりて、仰せ合わせられる」と、感激させたのに対して、時政に関しては、「真実密事おいては時政の外知る人なし」、と『吾妻鏡』では記述しています(治承四年八月四日条)。すなわち、挙兵にあたって、頼朝が最も信頼して頼りにしたのが時政であると『吾妻鏡』は主張しているのです。挙兵の出発点について『吾妻鏡』がこうであるなら、以後もそう主張しなければ一貫性がありません。石橋山合戦敗戦後に時政が頼朝渡海に付き合わずに、独自に甲斐国へ逃亡したなどと、記述することは当然ながらそのことに反します。そこで、甲斐国逃亡と頼朝と行動を共にしたとの間に整合性のある記述をする必要になります。それ故に、湯本から引き返して頼朝に再会して、次いで日を経て安房国に渡海して、ここで頼朝に再度再会して、この命で甲斐国に赴いたというストリーを創作・作為したと考えます。こうすれば、時政は頼朝を支えてその忠実な武士であることを示すことが出来るのです。

頼朝を最も支えたのが北条氏であるとの『吾妻鏡』の主張にとって、時政の湯坂路から甲斐国への記述は、これに反して、本来は消したい事実であったはずです。しかし、この記述は『吾妻鏡』に残されました。そこで、何故こうなったかを考えてみましょう。『吾妻鏡』編纂は北条得宗家が主導したことは確かでしょう。しかしながら、実際の執筆者は得宗家が直に行なったというより、得宗家の周辺にいた文士御家人、例えば大田氏などでしょう(五味文彦氏『増補吾妻鏡の方法』2000年吉川弘文館参照)。もちろん彼らは得宗家の意向に従って執筆したでしょう。そして、幕府関係の文書・記録を多く保持して、これらに習熟していた彼らは基本的にこれに依拠する執筆態度を取るのが当然です。だからこそ、創作・作為を行なうにも何らかの事実に絡めてこれを行なうことになります。さらに、表面的には得宗家に従う態度を取っているように見えても、それに反した本音を奥深く蔵した者もいたと想像できます。とするなら、このような執筆者が何らかの事実に絡めて創作・作為を行なうという編纂姿勢を利用して、記述の中に真実を埋め込ませようとするのは当然考えられます。すなわち、時政の湯坂路から甲斐国へ赴いた事実を、これを当初は企図したと改編して、その後の創作・作為に繋げたのです。以上考えることで、『吾妻鏡』の時政の行動記述の作為が説明できます。結論は、『吾妻鏡』の記述は大いなる創作・作為で、真実は、石橋山・椙山合戦敗北後、北条時政・義時父子は、頼朝に追従することなく、箱根外輪山を東北に湯本に至り、次いで湯坂路を経て甲斐国の甲斐源氏の下に到達した、ということなのです。

以上、『吾妻鏡』においても『延慶本平家物語』においても時政は石橋山合戦敗戦後に安房国に渡海することなく独自に甲斐国に逃走したことになります。では、時政が甲斐国へ向かう記述ではどちらがより事実を伝えているのでしょうか。時政の史料に関しては伝承も含めて、当然ながら『吾妻鏡』執筆者の方が豊富であったでしょう。おそらく、『延慶本平家物語』の筆者は時政の甲斐国逃走の事実は知っていましたが、具体的な経緯は知らず、頼朝が再結集した武士達に別れて自身で逃走するようにとの事実から、時政もその一員として、甲斐国逃走の事実と絡ませて記述したと考えます。とすならば、やはり『吾妻鏡』の記述、石橋山合戦敗北後、時政は頼朝に再会することなく、湯坂路から甲斐国に逃走したというのが事実であると考えてよいことになります。

(終わり)

(2016.10.06)

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