(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路
(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路
(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上
(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中
(その5)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下
四、『吾妻鏡』の検討・下
改めて、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』における石橋山・椙山合戦敗北後の時政の行動を見てみます。先ず、『吾妻鏡』では、24日、①時政父子3人は時政が疲労のため頼朝に追従出来ません。②時政・義時は湯本から湯坂道で甲斐国に向かおうとします。③湯本から引き返して、時政は箱根神社の永実と出合い、晩に頼朝と再会します。翌25日、④頼朝の命で箱根神社僧の案内で甲斐国へと向かいます。⑤土肥郷へと隠れた頼朝の無事を確認するため引き返します。27日、⑥安房国ヘと渡海し、到着します。29日、⑦頼朝と再会します。9月8日、⑧頼朝の命で使者として甲斐国に向かいます。15日、⑨甲斐国逸見山で時政は武田信義と対面します。20日、⑩土屋宗遠が頼朝使者として下総国から甲斐国へ向かいます。24日、⑪土屋宗遠が甲斐国石和で武田信義・北条時政と会います。
一方、『延慶本平家物語』では、a敗戦後に頼朝に追従した武士達に頼朝が解散を告げます。b時政・義時父子は甲斐国に向かいます。c時政は甲斐国に到り、武田信義・一条忠頼と会います。d土屋宗遠が頼朝無事を伝えるために安房国から甲斐国に向かいます。e土屋宗遠が甲斐国で一条忠頼に会います。
『吾妻鏡』での③・⑥の記述に関しては幾多の無理と虚構があることは前回述べたところです。とりわけ、③に関して疲労のため頼朝に追従出来なかった時政が湯本から引き返して晩に頼朝と再会したというのは、18歳と若い義時と異なり43歳という年齢を考えれば、いっそうの無理があるといえ、虚構の可能性が高くなるのです。とすれば、以降の時政の安房国渡海とそこでの頼朝との再会という行動過程はすべて虚構ということになります。
これに対して、『延慶本平家物語』での記述には、敗戦後に頼朝の下に再度蝟集した武士達に各個に逃れるように指示したことは『吾妻鏡』と同様であり、合理性があり、以上一連の行動には無理がありません。すなわち、時政は自身の意思で甲斐国を目指したことになり、甲斐国に到着して武田信義に会います。
以上見てくると、『吾妻鏡』より『延慶本平家物語』の記述する時政の行動に妥当性があるのです。すなわち、いったん頼朝に再会しましたが、その指示で別れたのではなく、自身の判断で甲斐国に到ったということです。
そのように見てくると、時政の行動は『延慶本平家物語』の示すとおりで問題ないように思えます。そうならば、『吾妻鏡』も疲労で頼朝に追従出来なくなった時政に関して、湯坂路に関する記述をすることなく、休息後に追従出来たとして再会したとすれば、問題の破綻はなかったはずです。では、何故わざわざ湯本を経ての湯坂路越えの記述を入れたのでしょうか。すでに述べてきたとおり、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述は無理と虚構に満ちており、大いなる作為性があることは確かです。『吾妻鏡』の作為性に関しては、無から話を創作するのではなく、何らかの事実に絡めて作為を行なうのが執筆態度であることをすでに示しています(拙稿「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」〔Ⅱ〕『政治経済史学』第227号1985年6月参照)。とするなら、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述の中にも元になる事実があると考えます。『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』との比較では『延慶本平家物語』の記述に妥当性があると述べました。すなわち、時政は渡海せずに箱根山外輪山から直接甲斐国に行ったということです。ということは、時政が湯本から湯坂路を経て甲斐国に向かうとしたとの『吾妻鏡』の記述が動かすことの出来ない事実として、その後の作為の出発点となったと考えることが出来ます。
頼朝が山木夜打の前に味方する武士を一人一人呼んで、「ひとえに汝を恃むによりて、仰せ合わせられる」と、感激させたのに対して、時政に関しては、「真実密事おいては時政の外知る人なし」、と『吾妻鏡』では記述しています(治承四年八月四日条)。すなわち、挙兵にあたって、頼朝が最も信頼して頼りにしたのが時政であると『吾妻鏡』は主張しているのです。挙兵の出発点について『吾妻鏡』がこうであるなら、以後もそう主張しなければ一貫性がありません。石橋山合戦敗戦後に時政が頼朝渡海に付き合わずに、独自に甲斐国へ逃亡したなどと、記述することは当然ながらそのことに反します。そこで、甲斐国逃亡と頼朝と行動を共にしたとの間に整合性のある記述をする必要になります。それ故に、湯本から引き返して頼朝に再会して、次いで日を経て安房国に渡海して、ここで頼朝に再度再会して、この命で甲斐国に赴いたというストリーを創作・作為したと考えます。こうすれば、時政は頼朝を支えてその忠実な武士であることを示すことが出来るのです。
頼朝を最も支えたのが北条氏であるとの『吾妻鏡』の主張にとって、時政の湯坂路から甲斐国への記述は、これに反して、本来は消したい事実であったはずです。しかし、この記述は『吾妻鏡』に残されました。そこで、何故こうなったかを考えてみましょう。『吾妻鏡』編纂は北条得宗家が主導したことは確かでしょう。しかしながら、実際の執筆者は得宗家が直に行なったというより、得宗家の周辺にいた文士御家人、例えば大田氏などでしょう(五味文彦氏『増補吾妻鏡の方法』2000年吉川弘文館参照)。もちろん彼らは得宗家の意向に従って執筆したでしょう。そして、幕府関係の文書・記録を多く保持して、これらに習熟していた彼らは基本的にこれに依拠する執筆態度を取るのが当然です。だからこそ、創作・作為を行なうにも何らかの事実に絡めてこれを行なうことになります。さらに、表面的には得宗家に従う態度を取っているように見えても、それに反した本音を奥深く蔵した者もいたと想像できます。とするなら、このような執筆者が何らかの事実に絡めて創作・作為を行なうという編纂姿勢を利用して、記述の中に真実を埋め込ませようとするのは当然考えられます。すなわち、時政の湯坂路から甲斐国へ赴いた事実を、これを当初は企図したと改編して、その後の創作・作為に繋げたのです。以上考えることで、『吾妻鏡』の時政の行動記述の作為が説明できます。結論は、『吾妻鏡』の記述は大いなる創作・作為で、真実は、石橋山・椙山合戦敗北後、北条時政・義時父子は、頼朝に追従することなく、箱根外輪山を東北に湯本に至り、次いで湯坂路を経て甲斐国の甲斐源氏の下に到達した、ということなのです。
以上、『吾妻鏡』においても『延慶本平家物語』においても時政は石橋山合戦敗戦後に安房国に渡海することなく独自に甲斐国に逃走したことになります。では、時政が甲斐国へ向かう記述ではどちらがより事実を伝えているのでしょうか。時政の史料に関しては伝承も含めて、当然ながら『吾妻鏡』執筆者の方が豊富であったでしょう。おそらく、『延慶本平家物語』の筆者は時政の甲斐国逃走の事実は知っていましたが、具体的な経緯は知らず、頼朝が再結集した武士達に別れて自身で逃走するようにとの事実から、時政もその一員として、甲斐国逃走の事実と絡ませて記述したと考えます。とすならば、やはり『吾妻鏡』の記述、石橋山合戦敗北後、時政は頼朝に再会することなく、湯坂路から甲斐国に逃走したというのが事実であると考えてよいことになります。
(終わり)
(2016.10.06)