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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

京都寺巡り(6)金地院―歴史雑感〔86〕―

2023年02月16日 14時21分44秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月8日(水)午前、南禅寺に続いて臨済宗南禅寺派金地院(京都市左京区南禅寺福地町86-12)を訪れました。本院は南禅寺の塔頭で、徳川幕府初頭の政僧として知られる以心崇伝が住していました。

写真1は、方丈(重文)からの蓬莱式枯山水の鶴亀庭園全景です。小堀遠州作庭です。奥に見えるのは金地院東照宮(重文)です。小堀遠州作の茶室「八窓席」(重文)が方丈北側の小書院に付設されています。方丈内の狩野派の襖絵と共に見学しました。

写真2は、鶴亀庭園の左にある弁天池です。

写真3は、金地院東照宮です。寛永5年(1628)に造営されました。

写真4は、方丈と鶴亀庭園です。

写真5は、方丈です。

写真6は、鶴亀庭園です。

真7は、右側の鶴島と下に羽石です。

写真8は、中央の平面石が遙拝石で奥が三尊石組で、さらに奥が蓬莱山です。右の石は鶴嘴石です。

最後の写真9は、左側の亀島と下に亀甲石です。最右の石が亀頭石です。

以上、京都寺巡りは終わりです。

(2023.02.16)

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京都寺巡り(5)南禅寺―歴史雑感〔85〕―

2023年02月15日 15時02分35秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月8日(水)午前、自由散策として、まず臨済宗南禅寺派大本山瑞龍山南禅寺(京都府左京区南禅寺福地町86)を訪れました。本寺は、正応4年(1291)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。実際の寺院の建物は、第2世規庵祖圓禅師(南院国師)により、約15年をかけて完成しました。これにより規庵禅師が創建開山と呼ばれるようになりました。

写真1は、左に勅使門(重文)、右に中門です。

写真2は、勅使門です。

写真3は、「天下竜門」と称される三門(重文)です。上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つです。三門は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さは約22mです。

写真4は、三門楼上から勅使門へとです。

写真5は、三門楼上からの南禅僧堂です。

写真6は、三門楼上からの法堂です。

写真7は、拡大した法堂です。

写真8は、三門楼上からの天授庵です。

写真9は、法堂です。

真10は、同じく法堂です。

真11は、法堂の右手側を流れる琵琶湖疎水「水路閣」です。大津市内から東山区蹴上へと通じています。

写真12は、同じく疎水で、奥は法堂です。

写真13は、疎水で蹴上へと流れていきます。

写真14は、法堂右側面です。

最後の写真15は、裏面の三門です。

(2023.02.15)

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京都寺巡り(4)清水寺―歴史雑感〔84〕―

2023年02月13日 16時26分50秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月7日(火)午後、北法相宗音羽山清水寺(京都市東山区清水1丁目294)を訪れました。副住職のお出迎えを受け、大講堂で貫主お話を伺いました。次いで多宝閣を参観しました。そして成就院の庭園を拝見しました。

写真1は、大講堂から眺めた京都市街です。

写真2は、三重塔(重文)です。

写真3は、本堂(国宝)の舞台からの京都市街です。

写真4は、舞台から手前に音羽の瀧、奥に子安塔(重文)です。

写真5は、奥の院(重文)からの本堂です。

最後の写真6は、舞台を下から眺めたものです。なお、時間の関係で多くの建物は撮っていません。

以上で、武蔵野文化協会2月例会の寺巡りは終わりです。

(2023.02.13)

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京都寺巡り(3)萬福寺―歴史雑感〔83〕―

2023年02月12日 16時24分09秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月7日(火)午前、黄檗宗大本山萬福寺(京都府宇治市五ケ庄三番割34)を訪れました。山門で副住職のお出迎えを受けました。本寺は明から渡来した隠元隆琦が寛文元年(1661)に開創しました。他の日本の寺院とは異なり、建築物・作法等が基本的に明末の様式となっています。ですから、本堂も中国式の大雄寶殿と称します。

写真1は、総門(重文)です。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国門の牌楼式となっています。本寺の建物は基本的に中国の明時代末期頃の様式で造られています。これは宗祖隠元禅師によるものです。

写真2は、山門(重文)です。重層の楼門造りで、正面の額「黄檗山」、「萬福寺」は隠元書です。

写真3は、天王殿(重文)です。弥勒菩薩(布袋像)が安置されています。山門から続く参道は石で龍の背の鱗を模擬化したもので、本寺の参道は基本的にそうなっています。

写真4は、山門の先の左側に位置する開山堂(重文)です。黄檗開山隠元禅師をお祀りしているところです。

写真5は、開山堂の左手前にある松隠堂(重文)です。隠元が住持を退いた後に居住したところです。

写真6は、壽塔(真空塔)、すなわち「開山隠元和尚之塔」です。

写真7は、壽塔の手前右の亀跌です。

写真8は、中和園です。奥は山門です。

写真9は、法堂側から見た大雄寶殿(重文)です。

写真10は、法堂(重文)です。説法の場で、内部に須弥壇のみを置いてあります。扁額「獅子吼」は費隠書で、勾欄は卍及び卍くずしの文様で、開山堂も同様です。

写真11は、鐘楼(重文)です。

写真12は、東方丈(重文)の石庭です。

写真13は、東方丈の庭園です。

写真14は、東方丈です。

写真15は、法堂と左に西方丈(重文)です。

写真16は、大雄寶殿です。本尊は釈迦牟尼佛、両脇侍は迦葉、阿難の二尊者、両脇に十八羅漢像を安置されています。上層の扁額「大雄寶殿」は隠元書、下層の扁額「萬徳尊」は木庵書です。以上で本寺は終わりです。

塔頭宝蔵院に移動し、昼食後、鉄眼版一切経版木(重文)を見学しました。全6956巻の6万枚の版木が保存されています。一枚に版木は縦26cm・横82cm・厚1.8cmで、吉野杉です。鉄眼禅師により延宝6年(1678)に足かけ17年をかけて完成しました。

写真17は、版木と戦前の国定教科書に載せられた鉄眼禅師を示しています。

写真18は、版木とその印刷物です。ご覧のように、現在の明朝体の素となったものです。

写真19は、3階から2階の版木を見たものです。

最後の写真20は、3海にある版木の印刷場です。

(2023.02.12)

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京都寺院巡り(2)天龍寺―歴史雑感〔82〕―

2023年02月10日 16時21分14秒 | 日本史(古代・中世)

023年2月6日(月)午後、臨済宗天龍寺派大本山霊亀山天龍資聖禅寺(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68)を訪れました。本寺は、後醍醐天皇の菩提を弔うために、暦応2年(1339)、足利尊氏を開基、夢窓疎石を開山として、創建され、康永4年(1345)、落慶しました。まず、副住職の御案内で法堂に入り、住職のお話を伺い、その後に加山又造作「八方睨みの龍」の天井画の説明を受けました。次いで、方丈の方へと移動しました。

写真1は、方丈奥に位置する後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂の後醍醐天皇聖廟多宝殿です。

写真2は、方丈裏(西側)の曹源池庭園で、この右側の部分です。夢窓疎石の作庭と伝えられています。

写真3は、曹源池庭園左側部分です。借景に嵐山をえています。

写真4は、曹源池庭園中央奥の龍門の滝です。

真5は、方丈に入り撮った曹源池庭園です。

真6は、大方丈からの曹源池庭園です。

真7は、同じく龍門の滝です。

写真8は、小方丈からの曹源池庭園全景と大方丈です。

真9は、大方丈中央に掲げられた扁額「方丈」で、関牧翁老師(天龍寺第8代管長)筆です。

写真10は、方丈庭園(東側)と奥に中門です。

写真11は、大方丈内を写し込んだ方丈庭園です。

真12は、大方丈玄関前の石庭です。

最後の写真13は、総門です。

(2023.02.10)

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京都寺院巡り(1)臨川寺―歴史雑感〔81〕―

2023年02月09日 16時33分06秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月6日(月)~8日(水)、武蔵野文化協会の2月例会として「京都を巡る」と題して寺院を巡りました。最初は6日午前の霊亀山臨川寺(京都市右京区嵯峨天龍寺造路町33)です。臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の別院です。非公開寺院で、特別に副住職の御案内を受けました。

写真1は、山門です。普段は閉められおり、特別にここより入らせてもらいました。

写真2は、奥の中門への参道です。

写真3は、中門です。この奥に龍華三会の庭と三会院(本堂)です。

写真4は、中門に掲げられている足利義満筆の扁額「三會院」です。

写真5は、手前が龍華三会の庭、奥が三会院です。

写真6は、同じく龍華三会の庭、三会院をより右から少し拡大したものです。院内には中央に本尊の弥勒菩薩、右に世良親王像位牌、左に開山の夢窓疎石木像があります。

写真7は、三会院からの龍華三会の庭です。さらに、奥に中門・参道・山門です。

写真8は、夢窓疎石が埋葬されている開山堂です。三会院の左後方に位置します。床下にある蓮華石の下に埋葬されています、のぞき込めば、石が確認できます

最後の写真9は、世良親王墓のあるところです。本寺の地は亀山天皇の離宮亀山殿の別殿川端殿であり、皇女昭慶門院憙子内親王、後醍醐天皇第二皇子世良親王と相続されました。若くして死去した親王に代わり、父後醍醐天皇が建武2年(1335)に夢窓疎石を開山として川端殿を改めて臨川寺を建立しました。そして、親王の墓地ともなりました。

(2023.02.09)

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