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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

再訪宝墩古城遺址―成都雑感〔162〕―

2018年05月08日 00時37分36秒 | 観光(成都)

2018年4月15日〔日〕、成都市新津県龍馬郷宝墩村の宝墩古城遺址に行ってきました。2008年4月13日以来です。この訪問記は「龍馬古城宝墩遺跡―成都雑感〔59〕―」(2008年4月14日付)です。成都市の西南38kmに位置する新津県城の北西約7kmの龍馬郷宝墩村に、宝墩古城遺跡はあります。交通は、成都旅遊集散中心站(新南門)発から高速経由の新都行バス(13元)が約1時間弱で新都客運中心站に着きます(新南門以外にも、城北客運中心站・金沙客運站・石羊場中心站からも新都行バスがあります)。ここからは近くに行くバスはなく、タクシーで約25元です。

宝墩古城遺址は宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)の命名遺跡です。宝墩古城はBC2550年に建設され、BC2300年頃に廃棄されたと考えられています。1996年、成都市文物考古工作隊・四川聯合大学(現四川大学)考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊の日中合同の発掘調査が行われました。これにより、北東から南西方向に1100m・南東から北西方向に600mの長方形の城壁に囲まれた遺跡であり、最大高8mの城壁を持ち、面積が66万㎡に達する大きな遺跡であることが分かりました。その後の調査で、さらに外城壁があり、約268万㎡の規模を有し、古蜀国の王城と考えられています。2001年6月25日に全国重点文物保護単位に指定されました。

 

写真1は、「龍馬古城遺址」石碑の建っているところで、石碑には保護カバー被せられています。そして、ご覧のようにベンチもあり整備されています。以前は石碑の奥、東城壁上には民家がありました。整備・保護の関係で移転したのでしょう。

写真2は、城壁内側に設置された遊歩道から東城壁を撮ったものです。手前の道を入ると、以前に城壁を発掘調査したところとなります。奥右は南城壁です。

写真3は、東城壁上から発掘現場を見たものです。ここは城壁が現存していません。奥は城壁東南角です。

写真4は、南城壁です。写真で分かりませんが、外側の民家もなくなっています。

写真5は、右の南城壁、奥に東城壁を見たものです。

写真6は、用水路越しに祭壇遺址を見たものです。残念ながら、ここから直接行ける徒歩道もなく、行けませんでした。

写真7は、城内の発掘トレンチです、奥の用水路付近で発掘を行なっていました。

最後の写真8は、先の石碑のあるところの東側にある宝墩遺址案内板です。以上、遺址は以前と異なり整備・保護されています。また、案内板の北には発掘遺物展示館が建てられていますが、現時点では展示はまだです。

なお、フォトアルバム「成都・宝墩遺址」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtQdov6Yo7v38CG3RQです。

(2018.05.08)

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再訪永陵博物館―成都雑感〔161〕―

2018年05月06日 09時11分59秒 | 観光(成都)

2018年4月14日(土)、永陵博物館(成都市青羊区永陵路10号)を見学しました。2009年12月4日以来です。この時の記事は「成都永陵博物館(永陵公園)―成都雑感〔88〕―」(2009年12月5日付)としてアップしています。本博物館は唐滅亡後の五代十国時代の前蜀国(大蜀)開祖、王建(847~918年)の陵墓永陵を博物館としたもので、開館時間は8時半~18時、入場料20元です。地下鉄2号線通恵門站・4号線寛窄巷子站下車後、西安路北上(以上約1km)か市内バス槐樹街西站(30・48・54・341路)・永陵路口站(42・126・127路)下車です。

永陵は円形で高15m、直径80m余です。地宮は前・中・後室の3室からなり全長23.4mです。1942年の発掘で王建墓と確定しました。1961年3月4日、第1回全国重点文物保護単位に指定されました。また50年代から2006年までに何度かの修復・復原がなされました。2009年には陵を含む園林区を大改修して、面目を一新しました。2015年には園林区の北に総合館を開設して現在に至っています。同時に地宮の道を保護用のガラスで覆いました。

写真1は、神道から見た永陵正面です。神道の左右は廂房で、文臣・武将・獬獅・鞍馬石像(復原)が立っています。

写真2は、墓道から前室、奥に中室を見たものです。

写真3は、中室で、青白大理石の王建石棺床です。奥が後室です。

写真4は、王建石棺床西壁に彫られている二十四楽伎(南璧4・東壁10・西壁10)の吹葉伎と弾堅箜篌伎です。

写真5は、中室奥から王建石棺床を撮ったものです。

写真6は、後室中央に置かれている王建坐像(高96cm)です。

写真7は、王建石棺床東壁の二十四楽伎の撃羯鼓伎です。頭が見えているのが12座の武士力士石像です。

写真8は、神武殿から見た永陵です。

写真9は永陵背面です。

写真10は、永陵前右側面(東)です。

神武殿内は「千裁帝陵・芙城記憶」と題する展示で、永陵を解説しています。写真11は、永陵のレプリカです。

永陵の北口の北に対面して2階建ての総合館があります。現在のところ地下1階が展示スペースとなっています。写真12は、王建皇后周氏坐像です。1990年に永陵西南数百mで発掘された墓葬から発見されました。

写真13は、前蜀の永平五年(915)の銘のある陀羅尼経幢です。

写真14は、五代八卦銅鏡です。

写真15は、石材等です。上は永陵地宮図です。

最後の写真16は、各種の陶俑です。

なお、フォトアルバム「成都・永陵博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtQcIbXDv80p-zhNzgです、また、『成都永陵博物館-王建墓』公式サイトはhttp://www.cdylbwg.org/index.aspxです。

(2018.05.6)

 

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魚鳬古城遺址―成都雑感〔160〕―

2018年05月02日 09時46分48秒 | 観光(成都)

2018年4月12日(木)、成都市温江区万春鎮報恩村・魚鳧村の魚鳧古城遺址に行ってきました。本遺跡は四川省の古代文化(古蜀文化)の最古文化である宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)に属する遺跡です。古蜀文化は続いて三星堆文化(BC1700~1200年、夏晩期~商後期)、金沙・十二橋文化(BC1200~500年、商後期~春秋後期)、晩期蜀文化(BC500~316年、春秋晩期~戦国期)と、四つに区分されます。そして、宝墩文化は「蚕叢」「柏灌」、三星堆文化は「魚鳧」、金沙・十二橋文化は「杜于=望帝」、晩期蜀文化は「鼈霊=叢帝」という伝説の蜀帝王の時代に相当すると考えられています。BC316年、この古蜀王国は北方の秦恵文王の派遣した司馬緒によって滅亡させられます。

さて、宝墩文化は都江堰扇状地に発展しました、龍馬古城宝墩遺跡以下、6か所かの古城遺跡が残されて、この一つが魚鳧古城遺址です。他にも郫県古城・紫竹古城・芒城・下芒城があります。魚鳧古城は約40万㎡と龍馬古城に次ぐ規模を有します。1996・99年に発掘調査がなされて、城壁・住居址・墓葬が確認され、石器・陶器が出土しました。2001年に全国文物保護単位に指定されました。成都市内からの交通は、地下鉄4号線の南黒大道站下車後、D出口から直進(西)して水面黒大道との交差点で右折して大道には入り、W25路の光華路口站で乗車して13停留所目の報恩村站で下車し、道(郫温路)を戻り(南)約100mで道路東側に「羅家院子休閑庄」の看板のある道を入り道なりに約150mです。郫温路には温江区の設置した「魚鳧村遺址」の説明板があります。

写真1は、城壁遺址上の全国文物保護単位碑のところで撮ったものです。ご覧のように、宝墩文化関係の古城は「成都平原史前城址」で統一されて、魚鳧古城遺址の正式名称は「魚鳧村遺址」です。

写真2は、碑の裏側に回り、古城内から城壁遺址を撮ったものです。ここは西城壁遺址に当たり、さらに長く残されていますが、あいにくの雨模様のため、さらに確かめることはしませんでした。

魚鳧古城を離れて、発掘遺物を展示している温江区博物館(四川省成都市温江区文廟街6号)に移動しました。本博物館は文廟の大成殿(1984年の火災で2003年に再建)にあります。地下鉄4号線南黒大道站下車後、A出口からW29路の地鉄南黒大道站で乗車し3停留所目の文廟広場站で下車し、文廟路を行ったところです。写真3は、魚鳧古城遺址出土の陶器片です。

最後の写真4は、石斧等の石器です。壁には「魚鳧村遺址地理位置図」等があります。

(2018.05.02)

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