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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

芝離宮―歴史雑感〔92〕―

2025年02月22日 16時18分58秒 | 日本史(近世・近代)
2025年2月15日(土)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「旧芝離宮恩賜公園を散策」に参加しました。本地は海であったのが明暦年間(1655~58)に埋め立てられ、延宝6年(1678)に老中大久保忠朝の邸地となり、上屋敷建築に際して、領地小田原から庭師を招き作庭し、「楽寿園」と名付けました。その後拡張され総面積48.600㎡となりました。数代を経て、幕末には紀州徳川家の別邸芝屋敷となりました。明治維新後、1875(明治8)年に芝離宮となり、1923(大正12)年の関東大震災で全ての建物等が焼失しました。翌年に皇太子(昭和天皇)成婚記念として東京都に下賜され、公園として整備され現在に至っています。
写真1は、入口から入ったところで、南へとほぼ全景を撮ったものです。

写真2は、奥左に滝石組、さらに奥右に八ッ橋、中島、西湖の堤です。

写真3は、大泉水(池)の浮島、奥に大山です。

写真4は、手前右に立つ雪見灯籠、奥に右から大山、西湖の堤、中島です。

写真5は、雪見灯籠です。

写真6は、洲浜です。

写真7は、手前左に雪見灯籠、奥中央に中島です。

写真8は、奥中央が西湖の堤です。中国杭州市の世界遺産西湖にある白堤をを模しています

写真9は、大山からの大泉水です。中央が中島です。

写真10は、奥に池へと枯滝です。左右に石を詰み渓谷を作り、石を滝に模しています。

写真11は、小山からの西湖の堤と中島です。

写真12は、中島から浮島です。ご覧のように島や池には鳥が集っています。

写真13は、石柱です。後北条氏家臣旧邸の門柱を運んだものとされますが、用途は不確かです。

写真14は、石橋の左は大島です。奥は左から、大山、西湖の堤、中島です。

写真15は、九尺台です。この奥(西)は往時は海であり、海の展望台であったといえる。

写真16は、八ッ橋で奥は中島です。

写真17は、瀧石組です。奥の石橋のところの水路は海に通じており、往時の大泉水は潮入池でした。

最後の写真18は、奥に左から八ッ橋、中島、西湖の堤です。

(2025.02.22)

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中山恒三郎家(松林甫)―歴史雑感〔91〕―

2024年10月31日 18時22分06秒 | 日本史(近世・近代)
2024年10月27日(日)午前、中山恒三郎家・松林甫(横浜市都筑区川和町890)を見学しました。本家は非公開で本日は年1回の公開日です。本地は江戸時代の文政年間の頃からの中山恒三郎家の邸宅です。酒類卸売業・醤油醸造業・生糸業を生業とする「中山恒三郎商店」で横浜北部の大豪商でした。邸内には菊園「松林甫(圃)」を創成しました。なお、現在は川和保育園が移転したことで建物配置が変わりました。
写真1は、店蔵(本店)で手前が諸味蔵です。
写真2は、諸味蔵内に保存されている諸道具等の一部です。

写真3は、正面からの店蔵です。

写真4は、店蔵の左前に移転された書院・松林庵です。奥が店蔵です。庵正面の築山から撮ったものです。

写真5は、庵から庭と撮ったものです。

庵室内には幾つかの中山家ゆかりの書が掲げられています。最後の写真6は、その一つで長く明治天皇の宮内大臣を務めた土佐出身の土方久元(1833~1918)です。

(2024.10.31)
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浜離宮―歴史雑感〔89〕―

2023年12月27日 15時16分36秒 | 日本史(近世・近代)
2023年12月16日午後、武蔵野文化協会主催の「浜離宮恩賜庭園を散策」に参加しました。承応3(1654)年に徳川家重が浜御庭池を賜わり造営を始めたのが浜離宮の起こりです。第6代将軍徳川家宣(家重嫡男)が大手門・茶屋等の改修を行ない、浜御殿と改称しました。1870(明治3)年に宮内省管轄となり、戦災により建物は全焼しました。1945(昭和20)年に東京都に移管され都立「浜離宮恩賜庭園」(特別名勝・特別史跡)として現在にいた充ています。
公園に入る前、北に隣接したカレッタ汐留(電通本社ビル)46階から浜離宮恩賜公園を俯瞰し撮ったのが、写真1です。

写真2は、大手門で、大手門橋を渡り、枡形となっています。

写真3は、入って進んだ南西角の内堀です。

写真4は、延遼舘跡地の紅葉です。

写真5は、奥に中の御門〔西〕入口へです。

写真6は、松の御茶屋から手前の潮入の池と横堀に架かる中の橋です。

写真7は、潮入の池に架かるお手伝い橋です。

写真8は、お手伝い橋の北の鷹の御茶屋です。

写真9は、小の字島から奥に中島のお茶屋を望むお手伝い橋です。

写真10は、中島から北にお手伝い橋です。奥に建つ建物は東から松の御茶屋、鷹の御茶屋、燕の御茶屋です。

写真11は、中島橋からの御茶屋です。左奥の小山は富士見山です。

写真12は、馬場跡です。

写真13は、南西角にある新銭座鴨場です。

写真14は、小の字島を挟んでお伝い橋です。

写真15は、宝永7(1710)年頃に建立された観音堂跡です。

写真16は、富士見山から見た塩入の池等です。

写真17は、富士見山です。

写真18は、潮入の池です。

写真19は、中島の御茶屋です。

写真20は、横堀の海手お伝い橋です。

写真21は、お手伝い橋からの横堀です。

写真22は、横堀水門です。

写真23は、新樋の白山から遠望するレインボーブリッジです・

写真24は、将軍お上がり場です。最後の将軍徳川慶喜が大坂城か逃げ帰った時、ここから上陸しました。

最後の写真25は、戻り大手門の手前にある三百年の松です。

(2023.12.27)
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伊達氏関係地巡り(3)大崎八幡宮―歴史雑感〔88〕―

2023年11月26日 14時01分55秒 | 日本史(近世・近代)

(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺

(2)仙台城跡

(3)大崎八幡宮

 

2023年11月19日(日)午後、最後の訪問地は大崎八幡宮(仙台市青葉区八幡4丁目6-1)です。本宮は坂上田村麻呂が創建したのと由来があり、慶長9(1604)年に伊達政宗が仙台城北西の現在地に勧請しました。社殿(本殿・石の間・拝殿)が1952年に国宝に指定されました。

写真1は、大崎八幡宮の入口です。奥に見える大階段を上ります。

写真2は、藩時代に整備された四ッ谷用水跡です。大階段下の橋のところから下流を撮ったものです。

写真3は、大階段を上ってすぐのところから撮った三之鳥居です。

写真4は、本殿へと入る長床(重文)です。

写真5は、拝殿です。

写真6は、本殿です。

最後の写真6は、るーぷる仙台の車内から撮ったもので、仙台城跡から青葉山植物園西の途上です。

なお大崎八幡宮のホームページはhttps://www.oosaki-hachiman.or.jp/です。

(2023.11.26)

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伊達氏関係地巡り(2)仙台城跡―歴史雑感〔88〕―

2023年11月25日 13時13分43秒 | 日本史(近世・近代)

(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺

(2)仙台城跡

(3)大崎八幡宮

2023年11月19日(日)午後、瑞鳳殿に続いて仙台城跡(仙台市青葉区川内1)を訪れました。写真1は、本丸詰門の脇に立てられている仙臺城鳥瞰図です。

写真2は、本丸の東崖上に建てられた懸造跡です。

写真3は、本丸からの仙台市街展望で、中央当りが仙台駅方向です。

写真4は、仙台藩藩祖伊達政宗騎馬像です。戦後再建された本像は東北大震災で破損しましたが、本年3月31日、伊達政宗公騎馬像帰還記念式典を行ない、修復がなり元の位置に鎮座しました。

写真5は、同じく伊達政宗騎馬像です。

写真6は、本丸大広間跡遺構表示です。

写真7は、反対方向から伊達政宗騎馬像を入れての本丸大広間跡遺構表示です。

写真8は、大手門へと到る詰門跡です。

写真9は、詰門跡です。

写真10は、本丸北壁石垣です。

写真11は、中門跡です。ここも東北大震災で破壊され、修復中です。

写真12は、大手門跡です。

写真13は、大手門脇櫓です。現在の建物は戦災で大手門と共に焼失し、現在の建物は1967年に再建されたものです。

大手門復元を見通した発掘調査を本年から行ない、本日午後、「大手門跡および周辺発掘(第1次)遺跡見学会」が開かれました。ちょうどこれに出会い撮ったのが写真14です。写真に見るように礎石跡が確認され、3か所に及びます。大手門南面には5本の柱があり、写真の礎石跡は他の遺構からと合わせると2~4番目の南面柱跡に相当すると推測できます。

写真15は、二の丸の北東角の堀です。

最後の写真16は、二の丸東堀です。

(2023.11.25)

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伊達氏関係地巡り(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺―歴史雑感〔88〕―

2023年11月24日 09時26分35秒 | 日本史(近世・近代)

(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺

(2)仙台城跡

(3)大崎八幡宮

 

2023年11月19日(日)午後、仙台市の伊達氏関係地を巡りました。利用交通手段は仙台市交通局の「るーぶる仙台」を利用しました。最初に訪れたのは経ヶ峯に位置する瑞鳳殿(仙台市青葉区霊屋下23-2)です。本殿は仙台藩々祖伊達政宗の御霊屋です。寛永13(1636)年に2代藩主伊達忠宗により造営されました。戦前に国宝に指定されましたが、1945年に戦災により焼失し現在のは1979年に再建されたものです。他に2・3代藩主の御霊屋や子孫の墓があります。

写真1は、瑞鳳殿入口からの杉参道です。上がって左側に折れて上ると瑞鳳殿で、

写真2は、瑞鳳殿に入る涅槃門です。

写真3は、左右に大香炉と正面に唐門です。奥が瑞鳳殿です。

写真4は、唐門越しの瑞鳳殿です。

写真5は、瑞鳳殿です。

写真6は、涅槃門から唐門への階段に並ぶ伊達政宗の重臣寄進の石灯籠で、10基有る内の代表として片倉小十郎のものです。

写真7は、瑞鳳殿を出て奥にある戊申戦争弔魂碑です。戊辰戦争で仙台藩は奥羽列藩同盟の中心として1200名の戦死者を出しました。1877(明治10)年に建立されました。

写真8は、2代藩主伊達忠宗(1599~1658年)の御霊屋の感仙殿です。

写真9は、左に位置する3代藩主伊達綱宗(1640~1711年)の御霊屋の善応殿です。

写真10は、両殿の右側に広がる妙雲界廟です。奥のが第9代藩主伊達周宗(1798~1812年)墓です。以上で、瑞鳳殿は終わりです。

次いで杉参道を下ったところにある臨済宗正宗山瑞鳳寺(仙台市青葉区霊屋下23-5)に行きます。本寺は藩祖政宗の菩提寺として寛永14(1637)年に2代忠宗のより創建されました。

写真11は、山門の冠木門です。

写真12は、本堂です。

写真13は、本堂左手前の花塚にある紅葉です。

写真14は、山門内右側の紅葉です。

写真15は、紅葉を背景とした石塔です。

最後の写真16は、山門内右側と本堂間の紅葉です。以上の通り山門内右側には少ないですが紅葉が盛りです。

(2023.11.24)

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鉄道発祥関係地―歴史雑感〔85〕―

2023年05月18日 16時46分44秒 | 日本史(近世・近代)

2023年5月14日(日)午後、武蔵野文化協会例会の「高輪築堤の現在―海上鉄道―と泉岳寺「浅野長矩墓所」の拝観」に参加しました。今回はこの参観地を紹介します。

最初の参観地は臨済宗大徳寺派東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11−1)です。写真1は、入口から上がったところの左側にある沢庵墓(国史跡)です。沢庵宗彭(1573~1645)は但馬国出石の出身で、慶長14年(1609)の京都大徳寺の住持となり、紫衣勅許事件で寛永7年(1629)に出羽国上山に流されたが、同9年(1632)に赦免され、3代将軍徳川家光に重用されて東海寺の開山に迎えられました。正保2年12月に死去し享年73です。

写真2は、同じく沢庵墓、ご覧のように墓石は自然石です。

奥の墓地に入ると、写真3の、渋川春海墓です。渋川春海(1639~1715)は暦学・天文学者で、平安時代の宣明暦長く使われたため誤差が甚だしく、改暦を幕府に建言し、貞享元年(1684)に日本独自の新暦(貞享暦)が採用され、初代幕府天文方となります。正徳5年に死去し享年77です。以後も鉄道庁長官を退官する明治26年(1893)まで鉄道行政のトップとして全国への鉄道展開の尽くし「鉄道の父」と称されています。明治43年に死去し

写真4は、井上勝墓です。井上勝(1843~1910)は長州藩士で、文久3年(1863)に伊藤博文等と英国に渡り鉄道・鉱山技術を学んだ。明治維新政府では大蔵省に出仕し、鉄道敷設推進派となり、工部省に移籍し鉄道頭として鉄道敷設を推進した。明治5年(1872)9月12日(新暦10月14日)に新橋・横浜(桜木町)の日本最初の鉄道を開業させました。明治20年(1887)に子爵を授爵します。鉄道庁長官を退官する明治26年(1893)まで鉄道行政のトップとして、全国への鉄道展開に尽くし、「鉄道の父」と称せられいます。明治43年に死去し享年66です。写真に見るように宇佐子夫人と共に葬られています。なお、井上亥六は息子です。

写真5のように、井上勝墓の脇には新幹線が走っています。

写真6は、賀茂馬淵墓(国史跡)です。賀茂馬淵(1697~1769)は遠江国の神官の出で、江戸中期の国学者です。荷田春満に学び、元久3年(1738)に江戸に出て学塾を開いた。田安宗武に仕えた。宝暦10年(1760)に隠居し、その後近畿を旅行し、この時に本居宣長が入門した。明和6年に死去し享年73です。写真のように墓の前に鳥居が立っています。

写真7は、同じく賀茂馬淵墓です。以上で大山墓地は終わりです。

本来ならば、高輪築堤を見学すべきですが、現時点では非公開のため割愛となりました。次いで泉岳寺(東京都港区高輪2-11-1)です。写真8は、山門です。

写真9は、四十六士墓の手前にある「首洗い井戸」で、ここで吉良上野介義兼の首を洗い主君浅野長矩墓に捧げたとされるものです。

写真10は、井戸の隣り奥にある浅野長矩墓です。

写真11は、四十六士の墓の奥右端にある大石内蔵介良雄墓です。以上で泉岳寺は終わりです。

写真12は、高輪大木戸跡(国史跡 東京都港区高輪2-19先)です。高輪大木戸は東海道からの江戸府内への入口に位置しました。木戸は両脇に長五間(9m)・幅四間(7.2m)・高一丈(3m)の石垣です。

写真13は、側面からのものです。

写真14は、旧新橋停留場鉄道歴史展示室(東京都港区東新橋1-5-3)です。本館は旧新橋停留場の同位置に復元した駅舎外観となっています。駅舎は木骨石張の構造で、明治4年(1871)12月に完工しました。

写真15は、再現された線路とプラットホームです。

写真16は、0標です。

最後の写真17は、新橋SL広場のC11です。土台の回りの石積みは高輪築堤跡から出土した石を再現して積んだものです。

(2023.05.18)

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石垣山城遺址―歴史雑感〔73〕―

2022年04月08日 15時50分20秒 | 日本史(近世・近代)

2022年4月2日(土)ごぜん、石橋山城遺址を公園化した石橋山一夜城歴史公園を訪れました。よく知られてるように石垣山城は天正18年(1590)の豊臣秀吉の後北条氏小田原城攻めの際に築かれました。山の木を一斉に切り払って、一夜で城が完成したように見せたとの伝説を生み、「石垣山一夜城」とも称せられています。土日(祝日)は小田原宿観光回遊バス「うめまる号」が運行され、小田原駅東口・一夜城歴史公園間を1時間に1本程度で循環します。運賃は乗り降り自由で500円です。徒歩だとJR早川駅から約2.3km(標高差約200m)です。

写真1は、城入口前に立つ「石橋山城」案内板です。

写真2は、東登城口旧城路です。本丸への正面道となります。

写真3は、南曲輪を経て本丸に至る虎口です。現在は石垣が崩れ歩行困難となっています。

虎口前で路を右に取り、東曲輪の下を通ると、写真4の、二の丸(馬屋曲輪)です。左奥が本丸です。

写真5は、二の丸から奥に本丸を見たものです。

写真6は、東から西へと二の丸と撮ったものです。左のところが本丸北門への虎口となっています。上がり左に折れます。右の高まったところは櫓台です。

二の丸から西へと本丸下を通り、案内板に従い左に下ると、写真7の、南曲輪です。

写真8は、南曲輪の虎口です。写真3に続くものです。

路を戻りさらに西に行くと、写真9の、西曲輪です。

写真10は、西曲輪からの本丸天守台です。

写真11は、西曲輪から本丸です。

写真12は、本丸東門への上りです。ここからは見えませんが右への折の虎口となっています。

写真13は、本丸から下に二の丸を経て小田原市街を遠望したものです。

写真14は、天守台です。本丸南西隅に位置します。

写真15は、天守台上からの本丸です。

写真16は、東門脇の物見台です。

写真17は、北門の虎口です。左に折れていて北門に至ります。

写真18は、二の丸から北門への虎口です。

写真19は、北門虎口を二の丸から撮ったものです。

写真20は、二の丸を北へと撮ったものです。

写真21は、二の丸からの本丸です。

写真22は、二の丸北側の櫓台です。

写真23は、二の丸北端の腰曲輪から見た井戸曲輪です。

写真24は、井戸曲輪に下り、井戸を撮ったものです。

写真25は、腰曲輪北端の展望台からの箱根連山です。

最後の写真26は、腰曲輪から二の丸櫓台で、そこから井戸曲輪と三ノ丸に下る虎口があります。

(2022.04.08)

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旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

2021年05月28日 16時56分48秒 | 日本史(近世・近代)

2021年5月25日(火)午前、馬場花木園内(横浜市鶴見区馬場2−20−1)にある旧藤本家住宅を訪れました。本住宅は、江戸時代末期~明治初期に現在の港北区篠原に建てられた茅葺き農家を、現在の地に1913年に移築されたものです。主屋(45坪)と東屋(7坪)とがあります。横浜市特定景観形成歴史的建造物に2016年11月15日に指定されました。

写真1は、右側(東)からの主屋全景です。

写真2は、左側(西)からの主屋全景です。

写真3は、西からの主屋全景です。ご覧のように主屋何面は庭として整備されています。

写真4は、ドマからのチャノマです。左の柱が大黒柱です。奥に左がザシキ、右にデイです。

写真5は、ダイトコロ(土間)から見たザシキと奥にデイです。ザシキの右上に神棚がまつられています。

写真6は、逆にデイからザシキとダイトコロです。

写真7は、デイからの庭です。

写真8は、西側の北にある厠です。

写真9は、ダイトコロで、農具が展示されています。

写真10は、主屋の東に離れて建っている東屋です。

写真11は、同じく東屋です。

最後の写真12は、庭越しの主屋です。紫陽花を入れて撮りました。

(2021.05.28

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平林寺&法台寺―歴史雑感〔43〕―

2019年05月22日 15時33分26秒 | 日本史(近世・近代)

2019年5月18日〔土〕、武蔵野文化協会主催の「武蔵野の雑木林と時宗板碑を探る」に参加しました。平林寺(埼玉県新座市野火止3-1-1)と法台寺(埼玉県新座市道場1-10-13)を巡るものです。10時、平林寺前に集合して散策開始です。

最初の訪問地は臨済宗妙心寺派の別格本山の金鳳山平林禅寺です。本寺は南北朝期の永和元年(1375)に武蔵国騎西郡渋江郷金重村(埼玉県岩槻市)に岩槻領主の太田氏により建立されました。小田原攻めの際、火災で過半が焼失しましたが、徳川家康の関東入部で保護を受け再建されました。元和4年(1618)に大檀那大河内秀綱が本寺で葬送され、大河内氏の霊廟となりました。孫の信綱は川越藩主となり野火止の原野に移転を企てたが果たせず、この思いは子の輝綱により寛文3年(1663)に移転がなされて今日に至っています。約13万と墓の境内地を擁し、武蔵野原野の趣を残し、境内林は天然記念物に指定されています。

写真1は、総門を入ると控える山門です。茅葺重層入母屋造りで、岩槻平林寺のそれを解体して移築したものです。楼の扁額「凌霄閣」は江戸初期の石川丈山筆です。

写真2は、修復中の仏殿の奥にある本殿です。明治13年(1880)に再建されたものです。

写真3は、庭園内から本堂を見たものです。

 

本堂の左手から奥に進むと、写真4の、島原の乱戦没者慰霊碑にでます。乱の戦没者を敵味方なく慰霊したもので、このことは日本の伝統でした。碑面には「肥州島原對死亡靈等」と刻しています。この先には武田信玄娘の見性院の宝篋印塔や増田長盛墓もあります。

さらに奥に入ると松平(大河内)家墓所(約3千坪)があります。これだけ大名家一族の墓が集まっているところはありません。写真5は、元和4年(1618)没の大河内秀綱(信綱実祖父)の墓です。ご覧のように墓は五輪塔です。

写真6は、秀綱墓への参道です。両脇には坐禅灯籠が50基並立しています。

秀綱墓右横には写真7の、3・4代将軍に仕えた寛文2年(1662)没の老中松平信綱の墓があります。

写真8は、信綱墓前の右に据えられている坐禅灯籠です。寛文4年(1664)に寄進されたものです。「御庿(廟)前」と刻しています。

写真9は、信綱墓の右横の寛永13年(1636)の正室井上氏の墓です。

平林寺最後の写真10は、さらに奥の野火止塚の道の途上の林です。この辺りもみじ山といい、紅葉の名所です。平林寺林には数千本の紅葉があります。

昼食後は太平山法台寺です。本寺は時宗2世の他阿真教が開祖と伝える古刹で、中山開山の増上寺住持普光観智国師により浄土宗となり、現在に至っている。本寺内からは時宗系の板碑卒塔婆が発掘されています。

写真11は、山門です。奥に見えるのが本堂です。

写真12は、収蔵庫内の板碑塔婆群です。

写真13は、発掘最古の正和2年(1313)銘の南無阿弥陀仏板碑塔婆です。収蔵庫右側の奥から2番目です。

最後の写真14は、元亨2年(1322)銘の阿弥陀三尊種子板碑塔婆です。中央の南無阿弥陀仏板碑の右側にあります。

なお、フォト・アルバム「平林寺&法台寺」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng49Qm_wSrh81GDl7sgです。

(2019.05.22)

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獅子ヶ谷横溝屋敷―歴史雑感〔39〕―

2018年02月27日 09時18分02秒 | 日本史(近世・近代)

2018年2月24日(土)、獅子ヶ谷の横浜市農村生活館みその公園「横溝屋敷」(横浜市鶴見区獅子ヶ谷3-10-2)に行ってきました。本公園は、旧獅子ヶ谷村の豪農で名主を代々務めた横溝家の旧居が横浜市に寄贈されて、修復復元されて、同時に寄贈された往事の農村生活資料を展示するとともに、旧居を公開しています。なお、横浜市農村生活館みその公園「横溝屋敷」のURLはhttp://qq2h4dy9n.wixsite.com/yokomizoyashikiです。最寄りバス停等はこれをご覧ください。

写真1は、右が表門(寄棟茅葺平屋建・66㎡)と左が穀蔵(置屋根両妻兜造茅葺二階建・66㎡)です。

写真2は、主屋(寄棟茅葺二階建・352㎡)です。明治29年(1896)建築です。

 

写真3は、1階の奥座敷で、ひな祭りが近く雛人形が飾られています。

写真4は、2階で、元々は蚕室ですが、獅子ヶ谷村関係、横溝家関係、横溝家の什器・人形・家具等を展示しています。右手に見えるには獅子ヶ谷村のジオラマです。

写真5は、主屋2階から見た表門です。弘化4年(1847)建築です。

写真6は、表門右長屋の農耕具展示です。手前には草鞋奥には鋤鍬等が並んでいます。

写真7は、主屋右の蚕小屋(寄棟茅葺二階建)です。主屋と同時期の建築です。

最後の写真8は、左の白い建物が主屋裏の文庫蔵(置屋根両妻兜造茅葺二階建)です。安政4年(1857)建築です。主屋と文庫蔵の手前、すなわち奥座敷からは小庭園が眺められます。

写真9は、穀蔵です。天保12年(1841)建築です。

最後の写真10は、穀蔵左室の養蚕関係の展示で、奥は繭籠です。右室は脱穀関係の展示です。


(2018.02.27)

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馬場の赤門―歴史雑感〔34〕―

2017年07月15日 19時09分27秒 | 日本史(近世・近代)

横浜市鶴見区馬場2-23に所在する馬場の赤門(澤野家長屋門)は天領東寺尾・北寺尾・西寺尾・馬場4か村の総代名主澤野家が安政年間(1851年頃)に建てたものです。1991年に横浜市指定史跡となっています。最寄りバス停は横浜市営バス西寺尾建功寺前・臨港バス東高校入口です。東北に徒歩約300mです。

写真1は、T字路に立つ右から見た赤門です。赤門の由来は紅殻柄で門を塗ることを許されたため、門が赤色をしていることからです。ご覧のように中央の門が赤色です。

写真2は、左から見た赤門です。

最後の写真3は、裏から見た赤門です、長屋門ですから、門の左右には部屋があります。そして、門の背面は小さいですが公園「馬場の赤門公園」となっています。以上撮影は2017年7月14日(金)午前です。

(2017.07.15)

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白河小峰城―歴史雑感〔30〕―

2017年02月21日 19時46分49秒 | 日本史(近世・近代)

2017年2月17日(金)、白河小峰城に行ってきました。本城は14世紀中期(南北時代)に結城親朝が築城したと伝えています。現在の城址は、江戸時代に入り、1627年(寛永4)に白河藩初代藩主となった丹羽長重が1632年(寛永9)まで約4年を費やし大改修したものです。本丸・竹之丸・二之丸・三之丸と梯郭式平山城となっています。本丸・竹之丸・二之丸を中心とした16万3千㎡が史跡となっています。三之丸は現JR東北本線白河駅の南まで広がっていました。城全域は約54万㎡と推定されます。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟軍が本城を拠点として新政府軍と戦い、多くの建物を焼失させました。1991年(平成3)に三重櫓、1994年(同6)に御前門を木造で復元再建しました。二之丸の南に隣接して、JR東北本線白河駅があります。なお、城山公園(白峰城)南口から入ると、西側に白河集古苑があり、「白河結城古文書館」と「阿部家名品館」からなっています。開館時間は9時~16時(月曜休館日)・入館料320円です。

写真1は、二之丸からの本丸・竹之丸の望見です。

写真2は、東北大震災で崩壊した竹之丸石垣の修復工事中の様子です。石垣を組み直すため、目印の札を石に付しています。

写真3は、本丸の裏門に当たる竹之丸からの桜門への道です。

写真4は、本丸です。奥に復元された三重櫓と御前門が見えています。

写真5は、本丸正門の御前門です。

写真6は、3層3階の三重櫓で手前左にはおとめ桜があります。

最後の写真7は、三重櫓二層内部です。本櫓は「白河城御櫓絵図」と発掘調査に基づき、ご覧のように木造で忠実に復元されました。復元用材には近くの戊辰戦争激戦地の松波稲荷山の杉の木も用いられており、この中は弾痕跡のあるのもあります。

なおフォトアルバム「白河白峰城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngshQlrQ16x_cq1lYyAです。

(2017.02.21)

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横浜市開港記念会館―歴史雑感〔27〕―

2016年12月25日 09時06分58秒 | 日本史(近世・近代)

2016年12月23日(金)、横浜市開港記念会館(神奈川県横浜市中区本町1-6)に行ってきました。本会館は1914(大正3)年9月に着工され、1917(大正6)年7月1日に開港記念日に合わせて開館しました。関東大震災で被害を受けましたが、その後の補修で今日まで横浜の近代建築の一つとして保存・利用されてきました。そして、1989(平成元)年9月2日に重要文化財に指定されました。本会館は建築面積1536.93m²・延床面積4426m²、煉瓦造(一部RC、SRC造)、地上2階建+塔屋5階建、地下1階建です。見学時間は10~16時で、休館日は第4月曜日(祝日の場合は翌日)です。最寄り駅は地下鉄みなとみらい線日本大通り駅(徒歩1分)です。

写真1は、国道133号(日本大通り)から見た会館全景です。正面中央の高くそびえるのが時計塔です。

写真2は、2階ホールのステンドグラス全景です。

写真3は、2階の特別室(貴賓室)で、室内を復元したものです。

写真4は、2階階段の所にある「黒船ポーハタン号」ステンドグラスです。本船は1854(嘉永7)年の黒船来航時のペリー提督乗艦です。

最後の写真5は、講堂(421席+補助席60席)です。講堂・会議室は有料利用です。

なお、フォトアルバム「横浜市開港記念会館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsgmoBWN6yn6YInf5Aです。横浜市開港記念会館のURLはhttp://www.city.yokohama.lg.jp/naka/kaikou/です。

(2016.12.25)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その5)―歴史雑感〔26〕―

2016年10月06日 10時04分35秒 | 日本史(近世・近代)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

 

四、『吾妻鏡』の検討・下

改めて、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』における石橋山・椙山合戦敗北後の時政の行動を見てみます。先ず、『吾妻鏡』では、24日、①時政父子3人は時政が疲労のため頼朝に追従出来ません。②時政・義時は湯本から湯坂道で甲斐国に向かおうとします。③湯本から引き返して、時政は箱根神社の永実と出合い、晩に頼朝と再会します。翌25日、④頼朝の命で箱根神社僧の案内で甲斐国へと向かいます。⑤土肥郷へと隠れた頼朝の無事を確認するため引き返します。27日、⑥安房国ヘと渡海し、到着します。29日、⑦頼朝と再会します。9月8日、⑧頼朝の命で使者として甲斐国に向かいます。15日、⑨甲斐国逸見山で時政は武田信義と対面します。20日、⑩土屋宗遠が頼朝使者として下総国から甲斐国へ向かいます。24日、⑪土屋宗遠が甲斐国石和で武田信義・北条時政と会います。

一方、『延慶本平家物語』では、a敗戦後に頼朝に追従した武士達に頼朝が解散を告げます。b時政・義時父子は甲斐国に向かいます。c時政は甲斐国に到り、武田信義・一条忠頼と会います。d土屋宗遠が頼朝無事を伝えるために安房国から甲斐国に向かいます。e土屋宗遠が甲斐国で一条忠頼に会います。

『吾妻鏡』での③・⑥の記述に関しては幾多の無理と虚構があることは前回述べたところです。とりわけ、③に関して疲労のため頼朝に追従出来なかった時政が湯本から引き返して晩に頼朝と再会したというのは、18歳と若い義時と異なり43歳という年齢を考えれば、いっそうの無理があるといえ、虚構の可能性が高くなるのです。とすれば、以降の時政の安房国渡海とそこでの頼朝との再会という行動過程はすべて虚構ということになります。

これに対して、『延慶本平家物語』での記述には、敗戦後に頼朝の下に再度蝟集した武士達に各個に逃れるように指示したことは『吾妻鏡』と同様であり、合理性があり、以上一連の行動には無理がありません。すなわち、時政は自身の意思で甲斐国を目指したことになり、甲斐国に到着して武田信義に会います。

以上見てくると、『吾妻鏡』より『延慶本平家物語』の記述する時政の行動に妥当性があるのです。すなわち、いったん頼朝に再会しましたが、その指示で別れたのではなく、自身の判断で甲斐国に到ったということです。

そのように見てくると、時政の行動は『延慶本平家物語』の示すとおりで問題ないように思えます。そうならば、『吾妻鏡』も疲労で頼朝に追従出来なくなった時政に関して、湯坂路に関する記述をすることなく、休息後に追従出来たとして再会したとすれば、問題の破綻はなかったはずです。では、何故わざわざ湯本を経ての湯坂路越えの記述を入れたのでしょうか。すでに述べてきたとおり、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述は無理と虚構に満ちており、大いなる作為性があることは確かです。『吾妻鏡』の作為性に関しては、無から話を創作するのではなく、何らかの事実に絡めて作為を行なうのが執筆態度であることをすでに示しています(拙稿「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」〔Ⅱ〕『政治経済史学』第227号1985年6月参照)。とするなら、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述の中にも元になる事実があると考えます。『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』との比較では『延慶本平家物語』の記述に妥当性があると述べました。すなわち、時政は渡海せずに箱根山外輪山から直接甲斐国に行ったということです。ということは、時政が湯本から湯坂路を経て甲斐国に向かうとしたとの『吾妻鏡』の記述が動かすことの出来ない事実として、その後の作為の出発点となったと考えることが出来ます。

頼朝が山木夜打の前に味方する武士を一人一人呼んで、「ひとえに汝を恃むによりて、仰せ合わせられる」と、感激させたのに対して、時政に関しては、「真実密事おいては時政の外知る人なし」、と『吾妻鏡』では記述しています(治承四年八月四日条)。すなわち、挙兵にあたって、頼朝が最も信頼して頼りにしたのが時政であると『吾妻鏡』は主張しているのです。挙兵の出発点について『吾妻鏡』がこうであるなら、以後もそう主張しなければ一貫性がありません。石橋山合戦敗戦後に時政が頼朝渡海に付き合わずに、独自に甲斐国へ逃亡したなどと、記述することは当然ながらそのことに反します。そこで、甲斐国逃亡と頼朝と行動を共にしたとの間に整合性のある記述をする必要になります。それ故に、湯本から引き返して頼朝に再会して、次いで日を経て安房国に渡海して、ここで頼朝に再度再会して、この命で甲斐国に赴いたというストリーを創作・作為したと考えます。こうすれば、時政は頼朝を支えてその忠実な武士であることを示すことが出来るのです。

頼朝を最も支えたのが北条氏であるとの『吾妻鏡』の主張にとって、時政の湯坂路から甲斐国への記述は、これに反して、本来は消したい事実であったはずです。しかし、この記述は『吾妻鏡』に残されました。そこで、何故こうなったかを考えてみましょう。『吾妻鏡』編纂は北条得宗家が主導したことは確かでしょう。しかしながら、実際の執筆者は得宗家が直に行なったというより、得宗家の周辺にいた文士御家人、例えば大田氏などでしょう(五味文彦氏『増補吾妻鏡の方法』2000年吉川弘文館参照)。もちろん彼らは得宗家の意向に従って執筆したでしょう。そして、幕府関係の文書・記録を多く保持して、これらに習熟していた彼らは基本的にこれに依拠する執筆態度を取るのが当然です。だからこそ、創作・作為を行なうにも何らかの事実に絡めてこれを行なうことになります。さらに、表面的には得宗家に従う態度を取っているように見えても、それに反した本音を奥深く蔵した者もいたと想像できます。とするなら、このような執筆者が何らかの事実に絡めて創作・作為を行なうという編纂姿勢を利用して、記述の中に真実を埋め込ませようとするのは当然考えられます。すなわち、時政の湯坂路から甲斐国へ赴いた事実を、これを当初は企図したと改編して、その後の創作・作為に繋げたのです。以上考えることで、『吾妻鏡』の時政の行動記述の作為が説明できます。結論は、『吾妻鏡』の記述は大いなる創作・作為で、真実は、石橋山・椙山合戦敗北後、北条時政・義時父子は、頼朝に追従することなく、箱根外輪山を東北に湯本に至り、次いで湯坂路を経て甲斐国の甲斐源氏の下に到達した、ということなのです。

以上、『吾妻鏡』においても『延慶本平家物語』においても時政は石橋山合戦敗戦後に安房国に渡海することなく独自に甲斐国に逃走したことになります。では、時政が甲斐国へ向かう記述ではどちらがより事実を伝えているのでしょうか。時政の史料に関しては伝承も含めて、当然ながら『吾妻鏡』執筆者の方が豊富であったでしょう。おそらく、『延慶本平家物語』の筆者は時政の甲斐国逃走の事実は知っていましたが、具体的な経緯は知らず、頼朝が再結集した武士達に別れて自身で逃走するようにとの事実から、時政もその一員として、甲斐国逃走の事実と絡ませて記述したと考えます。とすならば、やはり『吾妻鏡』の記述、石橋山合戦敗北後、時政は頼朝に再会することなく、湯坂路から甲斐国に逃走したというのが事実であると考えてよいことになります。

(終わり)

(2016.10.06)

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