goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―

2022年02月08日 16時54分34秒 | 日本史(古代・中世)

本年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は北条小四郎義時です。義時はこれからのドラマでは「北条」ではなく「江間」でも登場するでしょう。当時の名字の過半が居所(地名)に由緒するのは知っての通りです。「江間」は、北条氏の本貫伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市寺家等)とは狩野川を挟んだ対岸を北に少し行ったところに位置する江間荘(静岡県伊豆の国市南江間・北江間等)です。伊豆の国市南江間862には義時館跡とする地があり江間公園となっています。北条氏館跡(円成寺跡・同市寺家13)からはほぼ北に約800mです。さて、本来は北条であった義時は何時から江間と称したのでしょうか。その根拠は義時が江間荘を所有したことによることは間違いないですが。

『吾妻鏡』に於ける義時の表記で、「江間」が初見するのは養和元年(1181)4月7日条で、「江間四郎」とあります。これ以前は「同四郎」と北条一族としてのものです。本条は鎌倉殿源頼朝の寝所警護役11人を選定した記事です。続いて、所謂亀の前事件で北条時政が伊豆に無断帰国した、寿永元年(1182)11月14日条で、これを知った頼朝は、「江間は穏便の存念あり」として、尋ねたところ、義時が帰国していないことを知って、安堵激賞した記事です。これらを見ると、すでに養和元年段階で江間と称したことになります。

しかるに、元暦元年(1184)8月8日条の、平家追討使源範頼軍の一員として鎌倉を進発した記事では、「北条小四郎」、と北条に戻っており、これは翌文治元年(1185)10月24日条の勝長寿院落慶供養記事まで継続します。そして、文治2年(1186)7月19日条で「江間四郎」となり、以後は「北条」と「江間」表記が相互に見られて一定しません。建久2年(1191)正月5日条から、頼朝期を越えて実朝期の元久元年(1204)3月6日に相模守に補任された後の、同年月24日条以後は「相州」表記となり、「江間」表記が終ります。

亀の前事件で頼朝が「江間は穏便」と言ったことから、これ以前、すなわち初見の養和元年以前にすでに江間と称したと考えることが出来ます。するとこれまでに江間荘を新恩として給与されたと考えられます。時期的には富士川合戦後、相模国府で行われた勲功賞となりますが、『吾妻鏡』治承4年10月23日条には、記されている25人中の筆頭に「北条殿」、すなわち父時政は記載されていますが、義時の記載はありません。そこで、『曽我物語』等での伊東祐親の娘(所謂八重姫)と頼朝との悲哀説話では、八重姫が頼朝と分かれさせられた後に江間次郎に嫁がされたことになっています。これが事実なら江間荘を本貫とする江間氏が存在し、極めて伊東祐親に近い存在といえます。頼朝反乱に祐親が敵対した時、江間氏もこれに加わり、これにより本荘を没収されて、北条に近接していることから、北条氏に新恩として給付されたとするのは自然といえます。しかし、義時は記載されていません。基本的に家の惣領に勲功賞がなされるのであり、まだ惣領でない義時が単独で勲功賞を受けるのは自然とはいえないでしょう。『吾妻鏡』に記載された時政に新恩として給付されたとするが自然です。すなわち、養和元年時点で義時が江間と称したのは不自然なのです。ただ、時政が江間荘の管理を義時に任せたとして、「北条江間小四郎」と称されたことまでは否定できませんが。

石橋山合戦で兄の三郎宗時が戦死し、後の時房は幼児であり、時政の後継成人男子は四郎義時ただ一人となっていました。このためもあるのでしょうか、平家追討の範頼軍関係で『吾妻鏡』に記載される義時の表記はすべて「北条」であり、「江間」はありません。これは勝長寿院落慶供養交名でも同じです。このことはこの時点では義時が基本的に北条氏であることを示しています。その後、建久元年に至るまでは「北条」「江間」表記が混在しています。しかし、建久二年以後は「江間」表記のみとなり、北条氏ではなく江間氏であることを示しています。

北条時政の後妻牧の方所生の男子、後の政範は『吾妻鏡』元久元年(1204)11月5日条で、16歳で死去しているので、文治五年(1189)生まれです。従って、建久二年には3歳となっています。この時点で赤ん坊期を脱し、ようやく成長の目処が付いたといえます。そこで、父時政として愛妻牧の方所生の幼児を将来の北条家の継承者と考えたとしても不思議ではありません。この布石が江間荘を義時に譲与することで独立した家、すなわち別家させようとしたと考えることが出来ます。この別家が『吾妻鏡』の「江間」表記のみという事態を生じさせたと考えられます。以上、建久二年段階で義時は正式に北条家から独利した別家の「江間家」となったことになります。

(2022.02.08)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする