016年4月20日(水)午後、しとどの窟に行ってきました。最寄りのバス停は湯河原駅・元箱根間の「しとどの窟」です。日に数本しか運行されていないので、事前に時刻表を確認すべきです(奥湯河原温泉までは約7kmの山道です)。停留所横には駐車場もあります。舗装された平坦な林道を進み、トンネルをくぐり出ます。ここまで約200mです。林道から離れて右に下る道があります。約400m下ると窟の前となります。谷の奥まったところがしとどの窟です。
しとどの窟は1180(治承4)年8月23・24日の石橋山合戦に敗れた源頼朝が隠れた場所として伝承されたところで、「土肥椙山巌窟」として神奈川県史跡文化財の指定を受けています。写真1は、窟正面から見た内部です。中央には上の岸壁から水が滴り降りて小さな滝となり、下へと谷川を作ります。また、ご覧のように内部には観音像などの石造物が多数安置されています。立像および坐像が61体あり、過半が無銘ですが、幕末から大正期の銘入りもあり、庶民の観音信仰を知る貴重な資料であるとともに、この窟が観音信仰の聖地であることを示しています。
写真2は、内奥から外へと撮ったものです。外側は開いていますが、関東大震災で入口が崩壊して現在の形状になりました。ですから、以前はより奥まった窟の形状となります。
最後の写真3は、窟の案内板の設置された平地からの全景です。
『吾妻鏡』治承四年八月二十四日条では、頼朝が二寸観音像を巌窟に隠し安置したと記述していますが、その後、椙山陣にいたとしており、自身が巌窟に潜んだとは記していません。また、『延慶本平家物語』第二末・十三石橋山合戦事では次のように記述しています。敗走した頼朝は椙山に入り、山の峰の臥木に腰掛けていたところ、敗走してきた味方武士が集まってきましたが、人数が多くては追撃してくる大庭軍に見つかるから、各自で逃げよと指示したので、各武士は落ちて行きました。北条時政父子は甲斐国へと向かいます。そして、頼朝と行動を共にした武士は土肥二郎実平、同子息弥太郎遠平、甥新開荒二郎実重、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実と実平小舎人の七郎丸の6人で、頼朝を合わせて7人でした。宗遠は実平弟、義実は実平妹婿と、以上の六人は石橋山から西南に位置する土肥郷を本貫とする実平の近親者たちです。地元の地理に精通した実平が気心の知れた少数の近親者で頼朝を守ろうとしているのは肯けるところです(『源平盛衰記』では七郎丸ではなく伊豆流人時代からの側近の安達盛長を6人に含めていますが、『延慶本平家物語』方がふさわしいでしょう)。
以上、両書を見る限り、頼朝が巌窟に隠れたといえず、土肥郷近辺の箱根外輪山中に潜んだといえます。従って、しとどの窟は谷の最奥にあり見つけがたいですが、一度発見されれば、背後は岸壁で逃げ場がなく、この点でふさわしくありませんから、しとどの窟の伝承は頼朝が観音像を巌窟に隠し安置したことから生まれたもので、事実ではないでしょう。『吾妻鏡』の記載からここが観音信仰の聖地となったとすれば、十分に肯けるものです。
(2016.04.22)