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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

源義経は名将か?否〔改訂〕(その4)―歴史雑感〔20〕―

2015年08月21日 14時50分51秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による三草山・福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置


四、福原合戦〈2〉『玉葉』による三草山・福原合戦

福原合戦の基本史料は、『玉葉』・『吾妻鏡』・『平家物語』諸本です。それに簡単ですが『百練抄』です。確かに『玉葉』は同時代史料として価値が高いですが、その合戦経過記述は簡潔です。一方、『平家物語』諸本はエピソードも含み詳細ですが、物語という性格から虚構が含まれていることは避けられません。『吾妻鏡』は史書ですが、後世の編纂物です。いずれも一長一短があります。

福原合戦に関して、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本が依拠したのは何かについて、「かくて『吾妻鏡』も『平家物語』も、ともに義経の合戦注文をもとに構成していたとみられる」と五味文彦氏が指摘しています(『増補吾妻鏡の方法』2000年吉川弘文館)。したがって、『平家物語』と『吾妻鏡』は同一史料グループとして扱い、まず『玉葉』による福原合戦の経緯を、次いで『吾妻鏡』・『平家物語』諸本による経緯を述べることにします。

源氏軍の京都進発は1月26日にはじまり、29日には「追討使」(範頼・義経)が進発、2月1日には全軍の出陣が終了したと記しています。しかし、そのまま前進せず、翌2日には京西郊の大江山(旧山陰道の山城・丹波国境辺―現国道9号線老ノ坂)に滞留との情報を記しています。これは丹波路に向かう義経軍のことだと考えます。そして、4日には、平家軍が安徳帝を擁して福原に着し、この軍勢が数万騎との情報をえます。一方、源氏軍がわずか1・2千騎だとしています。6日(合戦前日)には、平家軍が一谷に後退し、さらに西に伊南野(播磨国印南郡―兵庫県加古川市周辺)に退いたとして、その軍勢を2万騎としています。しかし、その後平家軍後退は誤謬だと記しています。また、源氏軍は僅か2・3千騎ともしています。以上、合戦前では『玉葉』記者の右大臣九条兼実は、平家軍が万単位に対して源氏軍が千単位と、平家軍が圧倒している認識を持っていました。

7日の福原合戦での源氏軍勝利の報を8日未明に九条兼実は知りました。梶原景時の使者の報告を、高倉範季(源範頼養父)が伝えてきたものです。さらに、午刻(12時)ころ、二条定能(兼実正室兄弟)が来て詳細を話します。これによると、後白河院への源義経の報告が一番に到着します。義経は搦手で、まず丹波城(三草山)を落としてから、一谷を落としました。次いで、源範頼の報告が来ます。範頼は大手で、浜(生田森)より福原を攻めました。以上により、合戦は辰刻(8時)から己刻(10時)までのわずか2時間ほどで決着し、平家軍は敗退しました。多田行綱が山側から攻撃し、最初に山手(会下山辺か)の守りが落ちたのです。福原城の平家軍は1人も残らなかったとあります。これは誇張でしょうが、平家軍が福原城から排除されたことは確かです。非武装の人々が乗船する4・50艘の船が大和田泊沖の経島に浮かんでいましたが、これに乗船中の人々も放火で焼死したとあります。この中には宗盛も含まれているとの疑いもありと記しています。このことは平家総帥の宗盛は福原城に上陸することなく、海上の船上にいたことになり、ひいては安徳帝と三種の神器も船上であったとすべきです。そして、平家軍の戦死者の交名はまだ届かず、また三種の神器の安否も不明と記して福原合戦の記載を終えています。

以上が『玉葉』による福原合戦の経緯で、この元暦元年2月8日条以後には、本合戦自体についての記述はありません。ともあれ、搦手の源義経軍が丹波路(山陰道)から播磨国へと迂回して、丹波城(三草山)の平家軍を撃破した後、7日午前に福原合戦が行われ、源氏軍は大手源範頼軍が生田口から、搦手源義経軍が一谷口からと、二手に分かれて攻撃し、短時間のうちに平家軍が敗北し、福原を追われ海上に逃れたことが分かります。ここで特に注意することは、源氏軍勝利の要点を、山手より攻撃した多田行綱により平家軍の守りが敗れたとしていることです。すなわち、源氏軍勝利の功績第一は多田行綱だということです。

(2015.08.21)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その3)―歴史雑感〔20〕―

2015年08月05日 14時37分11秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 (その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

 

三、福原合戦〈1〉作戦目的

1184(元暦元)年2月7日、福原合戦(一谷合戦)は行われました。摂津国福原(兵庫県神戸市兵庫区等)に拠を構える平家軍に対して、源氏軍が攻撃し、平家軍を海に追落し、源氏軍が勝利したのが本合戦です。

前年7月に都落ちした平家は西国に下り、巻き返しを図りました。それが着々と実り、本年初には、福原にまで進出し、東は生田森(同市中央区生田神社辺)、西は一谷(同市須磨区一谷町辺)に、山際から海へと南北に防御施設を構築して、福原一帯を中核として「福原城」と称された城郭としたのです。この後背として、大輪田泊に代表されるように海が控えていました。そして、ここを拠点として、平家は京都の再奪還を図ろうとしていたのです。

この平家の一大拠点の福原へ、源氏軍は京から二方面軍に分かれて攻撃するのです。主力は源範頼が大将軍に大手の生田森を、源義経と甲斐源氏安田義定を大将軍とする別軍が搦手の一谷を目指すのです。すなわち、3軍編成なのです。(彦由一太氏「甲斐源氏と事情寿永争乱」『日本史研究』43号参照)

では、源氏軍の合戦目的はなんでしょうか。平家の再入洛の阻止は、平家の都落ちに同行せず、さらに安徳帝がいるにもかかわらず後鳥羽帝を践祚させて、平家を「逆賊」とした後白河院としても、もっとも切実なものです。頼朝は後白河院を推戴することで、おのが立場を「官軍」として正当化できたのです。したがって、第1に、平家が京都の再奪還を目途としていた以上、逆に源軍はその企図の阻止ということになります。そのため、福原城を拠点とする平家軍を、海に追落して、その拠点を破砕することです。すなわち、平家軍の撃破です。

平家は都落ちに際して、安徳帝のみならず、三種の神器も保持してゆきました。すなわち、後鳥羽帝は三種の神器なしに践祚しています。このことはその正当性が揺らぐことになります。後白河院としては、是非ともその無事な奪還は皇位継承の正当性上欠かすことのできないものです。したがって、第2に、三種の神器の無事な京都への帰還です。同様に安徳帝の無事帰還もです。すなわち、三種の神器・安徳帝の確保です。この第2のことは、後白河院にとって、平家戦における至上命令なのです。それ故、これは一谷合戦のみならず、以後の合戦においても同様なことなのです。

作戦目的において、瀬田・宇治合戦では後白河院の保護が第1で、木曽義仲排除が第2でしたが、福原合戦では平家軍撃破が第1で、三種の神器・安徳帝の確保が第2と、優先順位が逆転しています。これは、次節述べるように平家軍は義仲軍が小勢であったのとは対称的に万を超える大軍であった事、三種の神器・安徳帝は陸上(福原)にいるにせよ、海上(船)にいるにせよ、多数の護衛に守られているとすべきで、この確保にはまず平家軍を撃破せねば成功はない以上、当然のことといえます。したがって、源氏軍の攻撃がまず平家軍の撃破を目指して行われることが必然となり、両軍主力の激突が予想されるのです。

義仲攻めから2週間余で福原合戦が生起したことからして、鎌倉・京都の連絡期間を考えても、東国軍の上洛に際して、福原合戦は事前の頼朝指示にもとづくものです。同時に、前段でのことを考えると、それは後白河院の強い意志によるものであることが分かります。

(2015.08.05)

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