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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

師岡貝塚―歴史雑感〔27〕―

2016年06月12日 13時11分14秒 | 考古

師岡熊野神社(最寄り駅・東急東横線大倉山駅、最寄り停留所・師岡熊野神社前)の北側丘陵上に師岡貝塚(神奈川県横浜市港北区師岡町1137番地2)があります。神社社殿の左側(西)から前に進むと、丘陵への登り道があります。この頂上が「熊野神社市民の森」として整備され、頂上南側が貝塚です。ここは鶴見川中流右岸の丘陵で、北西に張り出した半島状台地基部から北東に分岐した舌状台地南半部に位置し、標高約43mです。本貝塚は縄文前~中前期のもので、規模は東西約20m・南北約15m以上と推定されています。発掘調査により、ハイバイが主体で、ハマグリ・アサリなどの海水性の物から構成されています。すなわち、本貝塚は縄文海進により形成された古鶴見湾岸に形成された保存状態のよいもので、1994年11月に横浜市指定史跡に指定されました。

写真1は、本貝塚案内板を左端に見た貝塚で、御覧のように発掘調査後は保存のため埋め戻されています。

写真2は、左手から貝塚全体を撮ったものです。右上部に見える屋根は「熊野神社市民の森」中央北側に建てられた東屋のもので、ここで足を休めることが出来ます。

最後の写真3は、師岡熊野神社からの登り道上から見た貝塚全景です。台地頂上部の南側に位置して、御覧のようにわずかに傾斜しています。以上、写真は2016年6月11日(土)午前に訪れたものです。

(2016.06.12)

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18 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
貝塚 (ちゃお)
2016-06-15 10:08:27
高さ約43mと言ったら、随分大きな貝塚ですね。縄文人が何千年に亘って、貝を食べ続けてきた、貝殻跡なんでしょうかねえ・・。
明治期にモースが大森で発見した貝塚も、この様に大きな貝塚だったんでしょうね。

「天府広場」、今頃になって思い出しました。自分の以前のブログにも「天府」と書いてありましたが、この巨大な毛沢東像を見て、何故か、人民広場と混同、混乱してしまいました。どうもうありがとうございました。
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毛沢東像 (ちゃお)
2016-06-15 17:35:24
3月に当方が成都を訪問し、天府広場で毛沢東像を見た時は、かなり新しい建造のように見えましたが、何年か置きに、クリーニングしているんですね。

当方、中国のあちこちの街へ行ってますが、これ程大きな毛沢東像を見たことはありませんでした。成都の人、四川の人は、毛を今もなお尊敬しているんでしょうね。
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毛沢東像 (正大)
2016-06-15 18:54:15
四川省は文革後期に趙紫陽が省書記として経済改革を実施し、農家経営請負制を導入し、四川省では農業生産が飛躍的に向上しました。これで「メシが欲しければ、趙紫陽を探せ」といわれるようになり、鄧小平の経済開放で、紂王に抜擢されきっかけとなりました。文革の時には激しい武闘が有りましたが、四川人は決して文革を支持したわけではありません。それに、文革を否定した鄧小平の故郷は四川省です。他省の毛沢東像が撤去されたのに、成都市のそれが残されているのは謎です。
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四川省 (ちゃお)
2016-06-17 21:24:43
成都を流れる錦江は川幅も広く、現在は水量が少なめでしたが、嘗ては、かなりの水量も想像でき、三国の時代には、ここから船団等が直接長江まで出て行ったと想像していたのですが、貴殿のご指摘でどうもそうではなかったようです。どうもありがとうございました。

そうですか、趙紫陽は四川の省長をされていたんですか?天安門事件で失脚し、残念でしたが・・。それに鄧小平が四川出身だったんですか・・。顔つきからすると田舎出身を思わせましたが、上海周辺の、どこか江南の地方の出身かと思っていました。尤も、中国要人の出身地とか、経歴がどうとか、我々日本人には直接関係ないことですが、一つ気になるのは、薄熙来で、確か彼の父親は薄一波、広東閥の葉剣英と組み、一時は失脚しましたが、その後復権し、党幹部に昇進しましたが、その息子さんも父親と同じような道を歩んで行くのかなあ・・、と外から様子を見ています。
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中共元老 (Unknown)
2016-06-17 23:26:34
鄧小平は四川省広安市(重慶市の北に隣接)の客家計の地主の家に生まれ、仏留学の経歴があります。

薄一波は山西省忻州市定襄県出身で抗日戦中は山西省で活躍しました。
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屋根付きの橋 (ちゃお)
2016-06-18 07:30:47
お早うございます。
鄧小平は客家計の地主と言いますと、客家の出身なんですか? 客家というと直ぐに山東省や福建省を思い出しますが、四川にもあるんでしょうかねえ・・

バスの中から屋根付きの橋を見た時、瞬間的にポンテベッキオを思い出しましたが、マルコポーロが先にこの橋を見ていたんですか! 驚きです。彼は成都経由でシルクロードを歩いて行ったんですね・・
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落ち葉の清掃 (ちゃお)
2016-06-20 18:26:52
人民網日本語版、などというHPがあるんですね。日本語で詳しく解説してあって、分かりやすい内容でした。

そうですか・・。イチョウの落ち葉を清掃しないという理由が、このHPを見て理解できました。
成都市は、中国大都市の中では、1-2を争う、歩道の綺麗な都市と思いました。あちこちに清掃員がいて、道路を掃き清めていましたが、イチョウの葉に関しては、そうだったですか・・
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望江楼 (ちゃお)
2016-06-21 20:50:18
今、望江楼公園のHPを見ました。当方のツアーでは、この区画は全く回って無く、今写真で初めてしりました。

薛涛井の建物も初めてみましたし、この公園の中には、こんな素晴らしい場所もあったんですね。
薛涛さんは白楽天が評価していた、とのことですが、当方が残念に思ったのは、この成都で杜甫草堂を訪問できなかったことです。
話は変わりますが、当方以前紹興で、王羲之の小山に登り、筆塚を見てきました。懐かしいです。

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杜甫草堂 (正大)
2016-06-21 23:11:41
ちゃおさん、こんばんは。

杜甫草堂の現在の建物・像などには歴史的価値のある物はありません(行かれた寛窄巷子の方がいいです)。
以前、紹興を訪れた際は、蘭亭を訪れました。

成都市一のお勧めは金沙遺址博物館です。これがコースに入ったツァーは例外的ですが。
http://4travel.jp/travelogue/11134544
を御覧ください。
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成都担々麺 (ちゃお)
2016-06-22 22:11:41
先刻、成都担々麺のHPを拝見しました。3月に当方が行った時の店、担々麺総本店の写真が出ていました。同じ場所なんですね。それと、担々麺の小さめの椀も同じでした。いろいろと勉強になりました。

そうですか・・、杜甫草堂は余り良くない、代わりに、金沙遺跡の方が良いですか・・。この金沙、どこかで聞いた名前ですが、誰か唐代の高貴な人のお墓で、当時の副葬品がそっくり出てきた場所でしたかねえ・・
いずれにしても、もう一度成都へ行ってみたくなりました。
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