昨日(宿舎に着いたのは本日の16日0時過ぎ)成都に戻りました。成都も日本と同様にまだ寒そうです(エアコンの効きがいまひとつ)。
なお、空港では香港からの便で税関検査の長い列が出来ていましたが、成田便はX線検査なしで別の列から通過できたので、時間ロスがなかったです。
(2012.02.16)
昨日(宿舎に着いたのは本日の16日0時過ぎ)成都に戻りました。成都も日本と同様にまだ寒そうです(エアコンの効きがいまひとつ)。
なお、空港では香港からの便で税関検査の長い列が出来ていましたが、成田便はX線検査なしで別の列から通過できたので、時間ロスがなかったです。
(2012.02.16)
菩提寺近くに小机城址があります。2012年2月12日(日)、快晴の中、自転車で行ってみました。本城は15世紀中頃に関東管領上杉氏の築城と伝えられ、その後廃城となり、後北条氏2代目の氏綱の代に笠原信為が城代となり、小机衆がそのもとに組織され、南武蔵における後北条氏の支城としての役割を果たしました。1590(天正18)年の後北条氏の滅亡後、廃城となりました。第三京浜道路建設に伴い、城址は東西に分断され破壊を受けましたが、現在、「小机城址市民の森」として、整備・保護されています。
最寄り駅はJR横浜線小机駅で、下車後徒歩約15分です。駅前の横浜上麻生道を西(右)に歩き、郵便局が角の小道を北(右)に入り、横浜線の踏切を越えたところの小十字路を西(左)に歩くと、前方に第三京浜が見えますから、その脇の小道の一つ手前の小道に入り上っていくと、根古谷(市民の森入口・トイレあり)に至ります。ここに案内板があります。
写真1は、根古谷から本丸への途上、本丸手前の土橋から東側の空堀を撮ったものです。
写真2は、本丸で、北東角からの全景で、模擬の冠木門が立てられているところが虎口です。
写真3は、井楼跡で、東北からの全景です。中央から右側に高くなっているところが櫓跡(土塁)です。井楼跡の北に二の丸が広がっています。
写真4は、二の丸北側を下って、本丸への通路です。ご覧のようにここは空堀です。そして孟宗竹の竹林ともなって、竹の子掘り禁止の立て札があります。
写真5は、おまけで、第三京浜の西側の富士仙元(富士仙元大菩薩)の南下から見た富士山です。
「小机城址市民の森・案内図」(根古谷)は『ザ・登城』「武蔵小机城〔こづくえじょう〕」http://www.geocities.jp/woodone3831/kanntou/c-4-11-siro-KODUKUE.htmlからの転載です。
(2012.02.13)
『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/が当地よりアクセス不能状態が継続しているので、「拙稿のファイル頒布のお知らせ」(2005年8月24日付)を、その後に発表した拙稿を追加して、再度掲載します。
現在までに発表した拙稿はすべてファイル化してあります。そこで、『政治経済史学』所収の151号(1978年)以前の拙稿に関して、(e-メールの添付ファイルとして)ファイルの頒布をすることにしました。ご希望の方は、メールアドレスをご記入の上、頒布ご希望の拙稿(下記参照)を記して本記事にコメントしてください。なお、確認次第、このコメントは削除します。
『政治経済史学』152号(1979年)以降は国会図書館に納本されていますので、「NDL-OPAC国立国会図書館蔵書検索・申込システム」(http://opac.ndl.go.jp/index.html)の有料コピーサービスをご利用ください。
ファイルは、Word2003(A4 36行40字)で作成してあります。
原文は縦書きですが、ファイルは横書きとなっています。
本文・註および系図・表はファイル化しましたが、地図はWordで作成不能のため除いてあります。なお、系図・表は原文通りの位置にあるとは限りません。
入力は原文通りを原則としましたが、ごく一部の字がユニコードにないため、同義異体字にしています。なお、註の表示は原文の表示にかかわらず〔1〕・〔2〕という具合に統一しました。
以下が拙稿の目録です。
1.仁治三年正月政変について
―後嵯峨天皇即位事情に関する一考察―
政治経済史学50 1967.3 P6
2.寛元四年正月京洛政変に関する一考察
―御深草天皇践祚と関白二条良実更迭の経緯に関する一考察―
政治経済史学62,3 1968.3,4 P11
3.寛元三年段階における天象の政治的影響
―鎌倉天文・陰陽道に関する若干の提言―
政治経済史学81 1972.10 P4
4.四条天皇践祚と九条摂関家の動向に関する研究
政治経済史学84~6 1973.1,2,3 P40
5.仁治三年順徳院崩御と六月関東政変
―『吾妻鏡』仁治三年条欠文との関連において―
政治経済史学89~94 1973.6~11 P61
6.関東天文・陰陽道成立に関する一考察
―特に「和田合戦」との連関について―
政治経済史学96 1974.1 P12
7.関東における天文・陰陽道の確立について
―「承久の乱」前後―
政治経済史学99 1974.2 P10
8.『平戸記』に見えたる「六条宮」について
―「名越の変」との連関において―
政治経済史学99 1974.4 P13
9.治承寿永争乱に於ける信濃国武士団と源家棟梁
―特に「横田河原合戦」を中心として―
政治経済史学100 1974.9 P32
10.武蔵守北条時房の補任年時について
―『吾妻鏡』承元元年二月廿日条の検討―
政治経済史学102 1974.11 P6
11.北条氏執権体制下に於ける関東天文・陰陽道
―「義時政権」より「泰時政権」へ―
政治経済史学111~3 1975.8,9,10 P29
12.四条帝急崩に伴う皇継決定と関東の対応
政治経済史学119 1976.4 P9
13.筑前国宗像神社大宮司職補任と荘園領主をめぐる諸問題
―社家と本所、とりわけ三浦氏との関連に於て―
政治経済史学140,1 1978.1,2 P31
14.鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国国衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義
政治経済史学156,7 1979.5,6 P18
15.治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義
―『吾妻鏡』養和元年三月七日条の検討―
政治経済史学165,227 1980.2,85.6 P18
16.治承・文治大乱に於ける佐竹源氏
―治承・寿永内乱から奥州兵乱へ―
政治経済史学176,7 1981.1,2 P19
17.丹波国和智庄をめぐる一文書に於ける北条時房の権能
政治経済史学200 1983.1 P6
18.『吾妻鏡』夏季合宿研修(Ⅰ)及び北武蔵東部「中世武士団」史蹟踏査報告
一九八三年七月下旬―
政治経済史学209 1983.12 P13
19.建久年間に於ける鎌倉幕府権力構成に関する若干の提言
―『吾妻鏡』春季合宿研修報告(Ⅱ)一九八四年三月下旬―
政治経済史学214 1984.5 P17
20.二条摂関家の成立と幕府
政治経済史学215 1984.6 P6
21.中世武士団小山・長沼・結城三氏の鎌倉期城館跡
―北関東「秀郷流太田氏族」史蹟踏査報告―
政治経済史学220 1984.11 P20
22.十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配
―武蔵守北条時房補任事情―
政治経済史学221 1985.1 P14
23.関白九條兼実の公卿減員政策
―建久七年政変への道―
政治経済史学226 1985.5 P15
24.八条女院と九条兼実外孫昇子内親王
政治経済史学232 1985.9 P10
25.二俣川合戦にみたる安達氏主従
―飽間・加治・鶴見・玉村氏―
武蔵野309 1986.5 P8
26.甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義
―『吾妻鏡』元暦元年六月十六日条の検討―
政治経済史学272,446 1989.1,2003.10 P15
27.平家追討使三河守源範頼の九州侵攻
―「芦屋浦」合戦を中心に―
政治経済史学300 1991.6 P10
28.後深草帝に関する若干の考察
―「正元元年」譲位事情―
政治経済史学313 1992.7 P11
29.三河守源範頼の九州進駐に関する一考察
政治経済史学344 1995.2 P11
30.蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国
―治承寿永内乱期の三河国を巡る源家諸棟梁―
政治経済史学370 1997.4 P14
31.寿永二年八月源軍諸将勧賞任国守の史的意義
政治経済史学438・9 2003.2・3 P6
32.『吾妻鏡』正治二年条歳首垸飯記事の作為(上)
―元旦沙汰人北条時政の再検討―
政治経済史学500 2008.4・5・6 P7
なお、〔P洋数字〕はファイルの総ページ数を示します。
WordファイルかPDFファイルかご希望をお書きください。
(2012.02.03)
〔追記〕 2014年1月21日から、国立国会図書館「図書館向けデジタル化資料送信サービス」が開始されます。
http://www.ndl.go.jp/jp/library/service_digi/index.html
これにより、『政治経済史学』所収論文は、国立国会図書館の承認を受けた図書館等において、送信により閲覧・複写サービスを受けることが出来るようになります。詳しくは上記のリンク(URL)で確認して下さい。
(2014.01.10)