五味文彦氏は、
なおこの時期は実朝の官位が次々と上昇していった時期であり、それに伴って幕府の関係者には官位の上昇を望む動きがあった。建保二年四月に「武州有三品所望之由、内々申之、雖非当時事、終不可空之旨、御契約云々、」とあるのは、武蔵守足利義氏が三位になることを望んだものである。そうしたなかで広元が建保四年四月七日に改姓の諾否を実朝に伺い、十七日に実朝の許可を得た結果、六月一日に改姓を認める宣旨が下されているが、これは広元が大江匡房に倣って公卿に昇進するための布石と考えられ、京に大きな勢力を築いていた広元であれば、関東の推挙さえあれば公卿になることも可能と思ったのであろう。
と、述べている〔1〕。この広元が三位を望んだというのは興味ある見解である。しかし、中原から大江の改姓がその布石とは述べているものの、他に根拠は述べておらず、その見解には裏付けがないようにも見える。そこで五味氏の広元が公卿を望んだとの見解を改めて検討することにする。
五味氏は『吾妻鏡』での「武州有三品所望」記事は足利義氏が三位を望んだとし、これに続いて広元が三位を望んだとの見解を出している。これは義氏の三位の望みが広元の三位の望みを引き出したのではないかと考えているかのような記述である。そこで、改めてこの『吾妻鏡』建保二(一二一四)年四月廿七日条の記事を検討してみることにする。
『吾妻鏡』の示す武州は、承元四年(一二一〇)正月廿日に駿河守から武蔵守に遷任し、建保五年(一二一七)十二月十二日に相模守に遷任した北条時房〔2〕に比定されるのが普通である。しかし、時房は当時従五位下であり、追討恩賞での越階を別として、通常の除目での三位への越階はありえない事である。このためもあり、『大日本史料』第四編之十四頁七九〇の建保六年十一月十一日・臨時除目の条では、『武家年代記』により時房の従五位上への昇叙を記した後、上記の『吾妻鏡』を引用して、「三品」にママの(五カ)と注記している。これは史料編纂所の編者は時房の三位の望みありえず、『吾妻鏡』は「五品」と誤記したと解釈していることを示している。しかし、既に五位となっていた時房が改めで五位を望むのは矛盾しており、編纂所編者の解釈も整合性がないことになる。
ところで、佐藤雄基氏が『吾妻鏡』の「武州有三品所望」記事を考察した「公卿昇進を所望した武蔵守について」と題する論文を発表している〔3〕。まず、建保二年当時の武蔵守は北条時房であり、『吾妻鏡』の記述する「武州」、即ち時房が三位昇進をねだったという解釈が導き出されるとしている。当時時房は従五位下であり、兄義時も正五位上であって、円満な協調関係からも、兄を差し置いて公卿を望むことがありえようかとして、結論として建保二年時点で時房が三位昇進を望むと言うことを想定し難いとする。以上の佐藤氏の考察の結論は筆者が上記述べたことに一致し問題はなかろう。さらに当該記事の「三品所望」の文言に問題がないなら、建保二年に誤って挿入された可能性を指摘される。即ち、『吾妻鏡』編纂時の錯簡の可能性を検討していくとする。
次いで、公卿昇進を望み得た他の武蔵守の人物検討に移る。時房の就任時期は承元四年正月十四日から建保五年十二月十二日で、その後に『吾妻鏡』の人名表記から武蔵守任官が確認されるのは建保六年(一二一八)十二月二十日条の政所始記事の大江親広である。その前の同年七月八日条の行列記事では「民部権少輔親広」とあることから、親広はこの時点では武蔵守でなく、建保五年十二月十二日から同六年七月の間は別の人物が武蔵守になっていたと考えられるとしている。そこで、同年六月二十七日条・七月八日条の行列記事で「民部権少輔親広」と並んで「前武蔵守義氏」の名が見えるが、和田合戦記事では「足利三郎義氏」と無官の三郎であったことから、建暦三年(一二一三)五月から建保六年六月の間のいずれかの時期に義氏は武蔵守に補任されていたと考えられるとされる。そして、同年七月九日に臨時除目の微証があることから、この日に義氏から親広に武蔵守が交替したと推定されるとしている。
以上から、三位昇進を所望する武蔵守の候補は足利義氏と大江親広の二人に絞られるとされる。義氏は建保五年十二月十二日から同六年七月九日の間、親広は同六年七月から北条泰時が補任される承久元年(一二一九)十一月十三日までの間、武蔵守の地位にあったと考えられるとされる。そして、『吾妻鏡』の切貼りミスが年だけだとすれば、当該記事は建保六年四月二十七日であり、当該記事は義氏であると考えるのが自然であるが、これでよいか義氏の政治的立場からまず検討するとしていとする。
建保六年には北条政子が上洛し卿二位と面談したことで、実朝に不慮の事態が生じた後は、政子が後見しつつ親王将軍を戴くという方向で政子・義時の意向が固まっていたと推定されるとされ、こうした中で源氏一門の義氏が鎌倉殿と同じ公卿の地位を欲するのは将軍後継候補への名乗りともいえ、以上から建保六年段階で義氏が実朝に三位を所望することは想定しがたいとする。また義氏には実朝近臣としての微証がなく、当該記事の武蔵守は義氏ではないとする。
しかし、佐藤氏は義氏の武蔵守補任時期に関して『吾妻鏡』の人名表記の官歴がそのまま真実として考察することで、重大な誤謬をしており、上記の論述は意味がないのである。実朝期の武蔵守に関しては、菊地紳一氏が考察しており〔4〕、さらに筆者は「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配」でこれを追証している〔5〕。残念なことに佐藤氏は本論文を読んでいないようである。さて、北条時房の武蔵守在任期間を除くと、元久二(一二〇五)年閏七月より承元四(一二一〇年)正月までの四年弱、建保五(一二一七)年十二月より承久元(一二一九)年正月までの一年強が武蔵守空白となり、前者を義氏と推定した。補任理由を所謂牧氏の変で武蔵守平賀朝雅が誅殺され、後任の武蔵守に北条氏がなるのは露骨すぎるので、幕府成立以来、源家御一族の平賀氏が当国守であった先例から、北条氏への中継ぎには北条時政女所生の足利義氏が最適任であるとした。また、『吾妻鏡』では和田合戦の「三郎義氏」表記は語謬というより意図的隠蔽表記として論証しているが、ここでは直接関係しないので指摘だけに止める。以上の佐藤氏の主張する建保五年十二月十二日から同六年七月九日に義氏が武蔵守であるというのは虚構なのである。さて、義氏は十七歳で元久二年に武蔵守になっているから、ここで敍爵したとするの自然であり、そうすると建保年間では二十代後半であり、まだ五位であったと推定できる。従って、三位への越階は無理といえる。即ち、結論としては佐藤氏と同じく『吾妻鏡』の示す三位を望んだ「武州」は義氏ではないのである。
もう一人の武蔵守候補である大江親広に関して佐藤氏は次のように論述している。建保年間に於ける親広の立場を述べ、次いで、父広元が建保二年(一二一二)に正四位下に昇叙し三位目前と思われたと述べ、さらに大江改姓の狙いが本論冒頭に述べた五味氏の見解、即ち「公卿に昇進するための布石」との見解を引くが、続いて義時が実朝の急速な昇進を諫めた際に広元も同調したことから、広元自身の昇進もしにくくなり、これを義時は狙ったとの五味氏との説を述べる。そして、五味氏の言うように広元が三位目前であったとする。
これを受けて、広元の出家後、子息の親広が実朝に近仕していることから、「内々」に三位所望することは十分に想定出来るとして、親広説の可能性が支持されるとする。以上から、実朝に三位昇進を所望したのは大江親広とであり、当該記事は建保六年七月九日から実朝暗殺のあった翌建保七(一二一九)正月七日までの間の記事の錯簡であると結論づけられている。
しかし、この佐藤氏の結論は正しいであろうか。まず、親広の武蔵守在任は建保六年四月から承久元年十一月十三日の間とされている。拙稿Ⅰに於いて実朝期の武蔵守在院者を考証した結果、親元の在任は佐藤氏の言う義氏在任期間を含んいる建保五(一二一七)年十二月より承久元(一二一九)年正月までと推定した。広元が病気により出家したのは建保五年十一月九日である〔6〕。広元の陸奥守辞任を受けて後任には同年十二月十二日に北条義時〔7〕が、義時の相模守後任に北条時房〔8〕が補任された。即ち親広の武蔵守補任は広元の陸奥守辞任に伴う北条氏と大江氏との守の相博なのである。在任期間の筆者と佐藤氏との差は直接的な問題ではない。
さて、建保五年八月段階での親広の位階は何であろうか。建保五年八月廿二日付将軍家政所下文〔9〕の別当署判は大江広元を筆頭に、源仲章、北条義時、源賴茂、大内惟信、大江親広、北条時房、中原師俊、二階堂行光の九名である。彼等の位階を見ると、頼茂の最終位階は正五位下〔10〕、時房は従五位下〔11〕である。政所下文の別当署判順は基本的に位階上位者からで同位者の場合は先任順となります。上記の政所下文筆頭の広元は正四位下である〔12〕。従って、五位の賴茂と時房に挟まれている親広も五位である。当然ながら、「時房は当時従五位下であり、追討恩賞での越階を別として、通常の除目での三位への越階はありえない事である」と上述したと同様に、親広の越階昇進はありえないのである。即ち、佐藤氏の親広が三位昇進を望んだという考察は誤りとなる。
以上、「武州有三品所望」に想定された北条時房、足利義氏、大江親広の三人共に該当しないことが分かった。そうならば当該記事は誤謬記事であろうか。たとえ誤謬記事であっても何らか事実を下敷きに作り上げるのが『吾妻鏡』の手法である〔13〕。とすれば、三位を所望した「武州」御家人に該当者いないとしても、三位を所望したこと事態は事実としてこれを元に誤謬記事をなしたとするのが自然であろう。これから導かれるのは「武州有三品所望」の武州に問題があったとすべきである。
即ち、武蔵守ではない別国の守であった可能性である。同時に越階はないのが基本であるから、当該御家人は四位であることである。建保年間でこの条件に当てはまる御家人はただ一人である。建保二年正月五日に従四位上から正四位下に昇叙し、同四年正月二十八日に陸奥守に補任された大江広元である〔14〕。
そこで、注目されるのは五味氏以下が注目した広元の中原氏から大江氏の改姓である。『吾妻鏡』によれば、将軍実朝がこれを承認したのは同四年四月十七日である〔15〕。同年六月十一日付中原広元申文で改姓申請をし、閏六月一日付で勅許がおり、十四日に鎌倉で披露された〔16〕。申文には、「散位従四位上大江朝臣維光、依有父子之儀」と述べ、「中原朝臣広秀(季の語謬)、雖蒙養育之恩」ながら改姓を欲するとして、最後に「早復本姓、可継絶氏」と締めている。しかし、「絶氏」とは維光には男子として従四位下まで昇進した匡範おり、この子孫は少なくとも六代は続いており〔17〕、「絶氏」の心配はなかったはずである。にもかかわらず、この時点で正四位下と広元が匡範より位階が上で、大江氏を望んだことは大江氏の氏長を望んだことになる。単純な改姓ではなく何らかの意図を持った改姓とすべきである。これが非参議従三位の望み、即ち公卿となることといえないだろうか。中原氏が諸大夫を止まりで公卿を出していないのと比較して、大江氏は参議音人、参議朝綱、中納言維時、そして維光祖父の匡房が権中納言と公卿を輩出している〔17〕。いわば改姓は公卿への望みの前提となるのといえる。
そこで、『吾妻鏡』の当該記事の誤謬は「武州」が「奥州」ということにならないだろうか。これが単に写本上の誤謬か作為的誤謬かは別として。すると、広元が陸奥守となったのは建保四年正月であるから、当該記事は本当のところは建保二年ではなく四年以降であるはずである。更に言うなら広元が出家した同年五年十月十日〔18〕以前ということになる。年だけの誤謬なら建保四年か五年となる。広元の改姓申文は建保四年六月付であり、かつ実朝が正二位右中将から権中納言という見任公卿に昇進するのが建保五年六月二十日〔19〕であることを思うと、、建保五年が相応しい。これが単なる切貼りの誤謬か作為的誤謬かは別として。誤謬の原因がいずれかは史料的限界もありここでは考えないことにする。以上、広元が非参議従三位を望んだのは建保五年四月といえる。しかし、広元は十一月九日に危篤となり北条義時が見舞いに訪れて〔20〕、翌十日にはいわば末期出家をしたことで、三位の望みは絶たれたのである。
註〔1〕五味文彦氏、『中世社会史料論』三和歌史と歴史学 二〇〇六年校倉書房。
〔2〕『吾妻鏡』では承元元(一二〇七)二月廿日条に時房が正月十四日に武蔵守に補任されたとの記事があるが、実は承元四年(一二一〇)正月十四日であることを筆者は立証している(拙稿Ⅰ、「武蔵守北条時房の補任年時について」『政治経済史学』第百二号一九七四年十一月)。時房が武蔵守から相模守に遷任するのは建保五年(一二一七)十二月十二日である(『関東評定衆伝』仁治元年条)。
〔3〕佐藤雄基氏、「公卿昇進を所望した武蔵守について―鎌倉前期幕府政治史における北条時房・足利義氏・大江親広―」阿倍猛編『中世政治史の研究』二〇一〇年日本史史料研究会。
〔4〕菊池紳一氏、「武蔵国における知行国支配と武士団の動向」『埼玉県史研究』十一号一九八三年三月。
〔5〕拙稿Ⅰ、「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配―武蔵守北条時房補任事情―」『政治経済史学』第二百二十二号一九八五年正月。
〔6〕『吾妻鏡』健保五年十一月九日条。
〔7〕『吾妻鏡』十二月廿四日条。
〔8〕『将軍執権次第』(『群書類従』第四輯補任部)では十三日となっているが、『関東評定衆伝』(『群書類従』第四輯補任部)では十二日となっており、この一連の人事は十二日行なわれた京官除目(「叙位除目執筆抄」〔『大日本史料』第四編之十四頁五二七〕)であり、義時・時房共この日の除目である。
〔9〕「禰寢文書」建保五年八月廿二日付将軍家政所下文(『鎌倉遺文』第四巻二三三二号)。
〔10〕『尊卑分脉』第三篇頁一三〇。
〔11〕『将軍執権次第』。
〔12〕『尊卑分脉』第四篇頁九八。
〔13〕拙稿Ⅱ、「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義(Ⅱ)『政治経済史学』第二二七号一九八五年六月(『鎌倉幕府成立期の東国武士団』二〇一九年九月岩田書院収録)では、『吾妻鏡』の治承・文治内乱期に於ける源氏関係の誤謬に関して、単なる切貼りの誤謬ではなく、何らかの事実に基づいて作為を行なっていることを提示した。
〔14〕『尊卑分脉』第四篇頁九八。陸奥守補任日は「二十七日」とあるが、公卿の補任日から、二十八日の臨時除目である(『大日本史料』第四編之十三頁九五六)。
〔15〕『吾妻鏡』建保四年四月十七日条。
〔16〕『吾妻鏡』同年閏六月十四日条。
〔17〕『尊卑分脉』第四篇頁九七。
〔17〕『尊卑分脉』第四篇大江朝臣。
〔18〕『吾妻鏡』健保五年十月十日条。
〔19〕『公卿補任』建保五年条。
〔20〕『吾妻鏡』健保五年十一月九日条。
(2024.12.02)