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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

韮山城跡―歴史雑感〔94〕―

2025年04月29日 17時10分37秒 | 日本史(古代・中世)
2025年4月24日(木)午前、韮山城跡(静岡県伊豆の国市韮山438−3)に行ってきました。韮山城は後北条氏初代北条早雲の生涯の居城として知られてます。第5代当主北条氏直の弟の城主北条氏規により対豊臣戦を迎えるため天正7年(1588)から大改修が行なわれ、現在の遺構はこれによっています。本城と新たに構築された南の天ヶ岳砦と和田土手砦等から構成されています。本城は南北約400m・東西約100mの細長い尾根の籠城山上に築かれています。南北に曲輪が並ぶ構造となっています。攻城側の豊臣軍は箱根の山中城は強襲により1日で落城させましたが、韮山城では包囲策を取り周囲に陣城を築きました。
写真1は、韮山駅から蛭が小島への道の途上で韮山城のある山全景を撮ったものです。手前の低い丘で、右(南)か左(北)へと本丸、二の丸、権現曲輪、三の丸と並んでいます。なお左下の建物は県立韮山高校です。

写真2は、本丸の先から西に延びる尾根の堀切3です。城池側から撮ったものです。更に西には掘切4があります。

池側から上って撮ったのが、写真3の二の丸です。ご覧のように曲輪は土塁で囲まれています。

写真4は、本丸から北へ富士山を望見したところですが、曇で隠れています。なお、本丸・二の丸間には堀切1があります。

写真5は、本丸から南に続く尾根曲輪を見たものですが、崖崩れの危険があるため立入り禁止となっています。奥の山は天ヶ岳です。ご覧のように韮山城を見下ろす位置にあり、北条氏規により天ヶ丘砦と東側(右)に土手和田砦が構築されました。

写真6は、現在の本丸の登り口です。西側には細長い腰曲輪が設けられています。

写真7は、権現神社のある権現曲輪です。池からの道はこの郭南側に出ます。権現曲輪・二の丸間には堀切2があります。

最後の写真8は、権現曲輪南西の出口ですが、「寛政絵図」には記載がなく近世に出来たものと思われます、ただこれで土塁の高さが分かります。下ると韮山高校内に出ます。

(2025.04.29)
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2025年三ツ池公園の桜

2025年04月08日 20時05分01秒 | 
2025年4月4日(金)午前、三ツ池公園に観桜に行ってきました。そこで、以下にこの桜の写真をお見せします。



























(2025.04.08)
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大仏寺石窟―中国雑感〔58〕―

2025年04月07日 16時35分52秒 | 観光(中国)
2025年3月31日(月)午前、西安市から西北に約180km弱の陝西省咸陽市彬州市城関街道大佛寺村の大仏寺石窟に行ってきました。入場料は35元(夏季)・20元(冬期)です。本石窟は北朝時代(439~581年)に始まり、唐代(618~907年)に隆盛となり、宋・金・元各代を経て改塑・補修されました。本石窟はシルクロード北道に位置した最初の石窟寺です。唐太宗李世民が寺を創建し応福寺と名付け、宋仁宗の養母劉太后慶寿で慶寿寺と改め、明景泰年間に大佛寺と称するようになりました。1988年に国家文物重点保護単位に指定され、2014年に世界文化遺産のシルクロードの一つとして入りました。400mの岩面上に130の洞窟、1988の造像が掘られています。特に高20mの阿弥陀大仏は窟内大仏として世界一で、盛唐の石窟像を代表しています。
写真1は、世界文化遺産であることを示す碑です。奥の中央が大仏窟で「明鏡壹」額名が掲げられていす。

中央の大仏窟の右側(西)の西閣造像窟です。高1.83m、幅3.65mです。写真2は、奥の1仏2弟子2菩薩の5像です.

初唐期の掘られた羅漢洞で、主室と東西室に分かれ、主室は奥行き6.5m、平均幅4.19mです。写真3は、主室奥の立仏像です。

写真4は、おなじく主室東壁の立像群です。

写真5は、黄明碑です。高3.95m・幅1.12mの、清康熙年間の陝西布政司黄明の大仏寺石窟修繕記念碑です。

写真6は、大仏窟の阿弥陀仏像です。本窟は東西幅34.5m、南北奥行き18m、高約31mの広さで、大小1001の造像が彫られています。阿弥陀仏像は蓮台上に坐し、高20m・頭高5.2m・手高4.5m・指高2mです。

写真7は、左の観世音菩薩立像で、高17.6mです。

写真8は、右の大勢至菩薩立像で、高は同じです。

写真9は、同じく阿弥陀仏像で

写真10は、鐘です。明景泰元年(1450)に鎮守甘粛省の宦官劉永誠が鋳造し、重さ1000斤・高1.45m・口径0.9mです。

大仏窟に左側(東)に千仏洞があります。長11.48m・幅9.45m・高3.21mで、3本の通路があります。696体の造像には色々な仏像・菩薩像があります。写真11は、右の通路奥の造像です。

最後の写真12は、中央通路奥の造像で、いずれも中央は仏像です。なお石窟の多くの像には首なしのものが多く、おそらく文革の被害を受けたものと思われます。

(20250.04.07)
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西安交通大学日本語学科成立40周年慶祝大会

2025年04月05日 16時25分52秒 | 教育
2025年3月29日(土)午後、西安交通大学日本語学科成立40周年慶祝大会を科学館で行ないました。本学科は、1985年9月、外語系科技日語専業(科学技術日本語専攻)の本科(4年制)として、既設の日本語専攻が文系であり科学技術に対する知識がどうしても弱くて、第1線の必要に応えられていなかったので、理系に強い日本語人材養成として中国で初めて創設されました。このため大学統一試験では理系受験、理系基礎科目単位取得を必須としています。1989年7月、1期生14名を卒業させました。本専攻の成功を見て90年代には有名理工系大学には同様な専攻が設けられることになりました。西安交通大学のそれはその嚆矢なのです。現在は学部のみならず博士・修士課程を設け既に博士も誕生しています。
本大会には百名半ばの卒業生が結集しました。14時前に開会し18時半に終えました。以下大会の様子を順次お見せします。
科学館前に掲示された「日語専業成立40周年慶祝大会」の前で大会前に多くの卒業生が記念撮影をしていました。写真1は、この中で30周年に続いて同窓会を行なう2001期生が卒業20周年の横断幕を持っているものです。

写真2は、開会後一旦科学館前に出て記念写真を撮ったものです。

写真3は、記念写真撮影後にまず祝辞を述べる日語系主任の曹紅荃教授です

写真4は、日語専業創始者の顧明耀教授の祝辞です。

写真5は、同じく顧明耀教授でs。

写真6は、日本人教師として最初に赴任した私です。

写真7は、同じく河路由佳杏林大学特任教授の祝辞です。

写真8は、卒業生代表の1期生(85級)黃娟娟さんの祝辞です。

写真9は、在校生代表の24級(1年生)の沈仲義さんの祝辞です。15時40分過ぎで、ここで休憩が入り、喉を潤します。

休憩後の16時20分過ぎからは各界で活躍する卒業生の談話です。写真10は、金融関係者です。

写真11は、企業関係者です。

写真12は、最後の創業関係者です。以上で大会は終り、予定を過ぎ18時30分でした。

次いで場所を南洋大酒店に移し、晩宴は19時過ぎに始まり21時前に終えました。最後の写真13は、顧教授と1期生6人です。

なお、30周年は、
https://blog.goo.ne.jp/kanazawa4512/e/4f4dc9f563501b18506184d1d236d2db
です。
(2025.04.05)
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橘樹郡衙遺跡と影向寺―歴史雑感〔94〕―

2025年03月26日 16時46分48秒 | 日本史(古代・中世)
2025年3月22日(土)午後、武蔵野文化協会主催の「国史跡橘樹郡衙遺跡と影向寺を巡る」に参加しました。JR南部線武蔵新城駅に集合し、まずバスで影向寺に向かいます。
写真1は、影向寺薬師堂(川崎市宮前区川本町3-4-4)です。本寺は古刹として知られ、本寺及び周辺の発掘調査で古代寺院遺構(奈良時代)等が確認されました。古代寺院遺構・関連遺構を影向寺遺跡と呼称しています。

写真2は、古代寺院の三重塔心礎とされ本寺の霊石として信仰されてきた影向石です。中央の穴に仏舎利が収められていたとされています。

写真3は、本寺本尊の木造薬師如来坐像及両脇侍立像(重要文化財)です。一木造の彫眼で11世紀後半制作です。以前は薬師堂内にありましたが、保護のため別堂に収められいます。他に木造十二神将立像十二体(南北朝時代)が眷属として侍立しています。

写真4は、木造薬師如来坐像です。

次いで、東に千年伊勢山台遺跡・橘樹郡衙遺跡ヘと移動しました。ここは西から東へと橘樹郡家舘・橘樹郡郡庁・橘樹郡正倉院のおよそ3か所からなり、正倉院遺跡が橘樹歴史公園となっています。写真5は、復元された郡衙正倉です。

写真6は、同じく位置を変えて撮った正倉です。

写真7は、正倉内部から見た天井です。

次いで、中原街道を南に越えます。写真8は、子母口富士見台古墳です。直径約17.5m、高約3.7mで、当初はより大きかった円墳と想像されます。方形と思われる段が上に被さっています。

写真9は、子母口貝塚です。8100年前の地層から貝類・子母口式土器が出土しており、更に下の地層からも撚糸文系土器が出土しています。

最後の写真10は、橘樹神社社殿です。橘樹郡総社であり、日本武尊妃弟橘媛伝承の由来がある古社です。

(2025.03.26)
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2025年小田原城の梅

2025年03月04日 16時09分48秒 | 観光(日本)
2025年2月27日(木)午後、下田からの帰り、今年は梅の開花が遅れていましたが、小田原城の梅情報を知り観梅に行きました。これをご覧に入れます。

写真1は、二の丸歴史見聞館前の梅です。

写真2は、白梅の拡大したものです。

写真3は、紅梅の拡大したものです。

写真4は、二の丸東堀下の梅で、後方が銅門です。

写真5は、白梅です。

写真6は、常盤木門を背景とした白梅です。

写真7は、常盤木門を背景とした紅梅です。

写真8は、常盤木門を背景とした白梅です。

写真9は、ぼかした常盤木門を背景として白梅です。

写真10は、拡大した白梅です。

最後の写真11は、拡大した紅梅です。

(2025.03.04)
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下田城―歴史雑感〔93〕―

2025年03月03日 16時53分14秒 | 日本史(古代・中世)
2025年2月27日(木)午前、後北条氏の下田城遺址を訪れました。後北条氏が対豊臣戦を覚悟して、水軍の拠点である下田港防衛のために、天正16(1588)年に下田城は新規といえるほどの大改修がなされたと推測されます。本城は、最高地点に位置する伝天守台(標高68.7m)を各曲輪の結節点として、北に延びる曲輪と東の二の曲輪の尾根状曲輪の南側下に障子堀である横堀(空堀)を構え、南に対する主防御線として、また海際に物見台を構え港への船の出入りを見張らせ、この防御線北側の下に現在の開国広場に広い曲輪(居住地)を抱えた構造となっています。
写真1は、稻生沢川にかかるみなと橋からの下田城遠景です。

写真2は、左が下田城石碑、右が下田公園碑です。

写真3は、伝天守台から北に延びる曲輪北端の物見台からの俯瞰です。左に稻生沢川、右に下田港で、奥に寝姿山です。

写真4は、奥に物見台跡です。

写真5は、伝天守台近くからの下に空堀跡です。

写真6は、伝天守台跡で、奥(北)は下田湾です。但し、実際に天守があったわけではなく、各曲輪の結節点としての指揮所があったところとされています。

写真7は、伝天守台への登り道です。

写真8は、伝天守台の東に延びる二の曲輪からさらに南に行ったところのお茶ヶ崎展望台(物見台跡)からの下田湾です。港に出入りする船は一望です。

写真9は、展望台から奥に大浦です。

写真10は、左に二の曲輪、右に天守台間の切通しです。ただ、道路を通すためかなり拡張されています。

写真11は、二の曲輪下の空堀です。

写真12は、伝天守台下の空堀です。

写真13は、切通しと空堀です。伝天守台の比高が約10mであることが分かります。

写真14は、伝天守台下の空堀を西から見たもので、堀が障子堀であった跡が堀を横断した高みで確認できます。

写真15は、萩の丘(志太ヶ浦展望台の先)です。

写真16は、萩の丘からの大浦です。

写真17は、馬場ヶ崎展望台(物見台跡)です。

最後の写真18は、馬場ヶ崎展望台からの下田港です。

(2025.03.03)


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芝離宮―歴史雑感〔92〕―

2025年02月22日 16時18分58秒 | 日本史(近世・近代)
2025年2月15日(土)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「旧芝離宮恩賜公園を散策」に参加しました。本地は海であったのが明暦年間(1655~58)に埋め立てられ、延宝6年(1678)に老中大久保忠朝の邸地となり、上屋敷建築に際して、領地小田原から庭師を招き作庭し、「楽寿園」と名付けました。その後拡張され総面積48.600㎡となりました。数代を経て、幕末には紀州徳川家の別邸芝屋敷となりました。明治維新後、1875(明治8)年に芝離宮となり、1923(大正12)年の関東大震災で全ての建物等が焼失しました。翌年に皇太子(昭和天皇)成婚記念として東京都に下賜され、公園として整備され現在に至っています。
写真1は、入口から入ったところで、南へとほぼ全景を撮ったものです。

写真2は、奥左に滝石組、さらに奥右に八ッ橋、中島、西湖の堤です。

写真3は、大泉水(池)の浮島、奥に大山です。

写真4は、手前右に立つ雪見灯籠、奥に右から大山、西湖の堤、中島です。

写真5は、雪見灯籠です。

写真6は、洲浜です。

写真7は、手前左に雪見灯籠、奥中央に中島です。

写真8は、奥中央が西湖の堤です。中国杭州市の世界遺産西湖にある白堤をを模しています

写真9は、大山からの大泉水です。中央が中島です。

写真10は、奥に池へと枯滝です。左右に石を詰み渓谷を作り、石を滝に模しています。

写真11は、小山からの西湖の堤と中島です。

写真12は、中島から浮島です。ご覧のように島や池には鳥が集っています。

写真13は、石柱です。後北条氏家臣旧邸の門柱を運んだものとされますが、用途は不確かです。

写真14は、石橋の左は大島です。奥は左から、大山、西湖の堤、中島です。

写真15は、九尺台です。この奥(西)は往時は海であり、海の展望台であったといえる。

写真16は、八ッ橋で奥は中島です。

写真17は、瀧石組です。奥の石橋のところの水路は海に通じており、往時の大泉水は潮入池でした。

最後の写真18は、奥に左から八ッ橋、中島、西湖の堤です。

(2025.02.22)

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多賀大社

2025年01月10日 18時16分28秒 | 観光(日本)
岐阜城に続いて、2025年元旦午後は滋賀県の多賀神社(犬上郡多賀町多賀604)で初詣でした。写真1は、鳥居です。

写真2は、神門です

写真3は、参拝する初詣客から見た拝殿です。

写真4は、拝殿です。

最後の写真5は、神門前の池にかかる太閤橋です。

(2025.01.10)

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岐阜城(金華山)―歴史雑感〔92〕―

2025年01月08日 16時33分28秒 | 日本史(古代・中世)
ミステリー初詣ツァーで正月を過ごしました。ここでは初めって行ったところを紹介します。まず、2025年正月元旦(水)午前の岐阜城(金華山)です。写真1は、太鼓櫓跡に位置する展望台からの西方面の広がりです。左下の高層ビルは岐阜市庁舎です。左右に流れるのは長良川です。右上の雪を被るのは伊吹山です。

写真2は、大手口から登ってきた伝一ノ門跡です。

写真3は、切通しです。上の橋(松風橋)の道が本来の道です。尾根伝いの道となっています。

写真4は、伝二ノ門跡のところの石垣です。織田信長時代に積んだものとされています。

写真5は、1956年にコンクリート造りで再建された岐阜城天守です。

天守が見えるところで左に下る道があります。下ったところが、写真6の、井戸跡です。但し、水が湧き出るでは無く、雨水を貯めるものです。

写真7は、近くからの天守です。

写真8は、天守から東側を見たものです。長良川が手前に流れています。

写真9は、天守から西側を見たものです。

最後の写真10は、天守への道の石垣です。信長時代のものとされています。

(2025.01.08)
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2024年度記事目次

2024年12月31日 07時26分39秒 | 記事目次
甲辰年を終わるに当たって、2024年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、乙巳年がよいお年で。
01.21 (1)豊川稲荷
01.22 (2)竹生島・近江神宮
01.24 (3)彦根城
01.26 (4)熱田神宮・竹島
02.28 岸根公園の梅
03.22 伊豆(1)沼津御用邸・小室山
03.24 伊豆(2)城ヶ崎・だるま山・修善寺
04.07 綱島の池谷桃園の桜花
04.10 江川せせらぎ緑道の桜
05.22 西東京市下野谷遺跡―歴史雑感〔90〕―
10.09 西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(1)
10.10 西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(2)
10.11 西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(3)
10.31 中山恒三郎家(松林甫)―歴史雑感〔91〕-
11.10 2024年弘前城の紅葉
11.11 2024年平泉の紅葉
11.16 2025年中国の祝日―中国雑感〔57〕―
12.31 2024年度記事目次
(2024.12.31)
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2025年中国の祝日―中国雑感〔57〕―

2024年11月16日 15時40分47秒 | 中国祝日
明年の祝日(休日)に関して、2024年11月12日(火)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2024年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。昨年と異なるのは法定休日が春節及び労働節で1日増加されたことです。

一 元旦(1月1日)
1月1日(水)の1日を休日。
二 春節(旧暦元旦 1月29日) 法定休日(旧暦大晦日~正月3日)
1月28日(火)~2月4日(火)の8日間を休日。
1月26日(日)〔2月2日・月〕・2月8日(土)〔4日・火〕振替出勤日。
三 清明節(4月4日)
4月4日(金)~6日(日)の3日間を休日。
四 労働節(5月1日) 法定休日(5月1・2日)
5月1日(木)~5月5日(月)の5日間を休日。
4月27日(日)〔5日・月〕振替出勤日。
五 端午節(旧暦5月5日 5月31日)
5月31日(土)~6月1日(月)の3日間を休日。
六 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日) 中秋節(旧暦8月15日 10月6日)
10月1日(水)~8日(水)の7日間を休日。
9月29日(日)〔7日・火〕、11日(土)〔8日・水〕振替出勤日。


国務院発表原文は、

国务院办公厅关于2025年
部分节假日安排的通知
国办发明电〔2024〕12号
各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:
经党中央、国务院批准,根据2024年11月修订的《全国年节及纪念日放假办法》,自2025年1月1日起,全体公民放假的假日增加2天,其中春节、劳动节各增加1天。据此对放假调休原则作进一步优化完善,除个别特殊情形外,春节自农历除夕起放假调休8天,国庆节自10月1日起放假调休7天,劳动节放假调休5天,元旦、清明节、端午节、中秋节分别放假调休或连休3天(如逢周三则只在当日放假),国庆节放假如逢中秋节则合并放假8天。
按照上述原则,现将2025年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。
一、元旦:1月1日(周三)放假1天,不调休。
二、春节:1月28日(农历除夕、周二)至2月4日(农历正月初七、周二)放假调休,共8天。1月26日(周日)、2月8日(周六)上班。
三、清明节:4月4日(周五)至6日(周日)放假,共3天。
四、劳动节:5月1日(周四)至5日(周一)放假调休,共5天。4月27日(周日)上班。
五、端午节:5月31日(周六)至6月2日(周一)放假,共3天。
六、国庆节、中秋节:10月1日(周三)至8日(周三)放假调休,共8天。9月28日(周日)、10月11日(周六)上班。
节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。
国务院办公厅 
2024年11月12日 

です。
(2024.11.16)
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2024年平泉の紅葉

2024年11月11日 16時29分02秒 | 観光(日本)
2024年11月7日(木)午前、平泉の紅葉を鑑賞に行きました。やはり盛りに少し早かったようです。観自在院遺址、毛越寺、中尊寺の3か所です。
まず観自在院遺址です。写真1は、東から西へと池を撮ったものです。

写真2は、西南から奥へと池を撮ったものです。

写真3は、更に西へと進み大きく紅葉を撮ったものです。これで観自在王院は終わりです。

次いで隣の毛越寺です、写真4は、南大門跡先から大泉が池越しに左に経楼跡、右に鐘楼跡です。

写真5は、西から東に池越しに右側に出島と遠くに洲浜です

写真6は、同じく中島です。

写真7は、嘉祥寺跡です。

写真8は、講堂跡です。

写真9は、大金堂円隆寺跡です。

写真10は、遣水です。

写真11は、紅葉越しの洲浜です。

写真12は、池中立石と奥に出島です。これで毛越寺は終わりで、中尊寺に移動します。

写真13は、弁慶堂です。

写真14は、参道です。
写真15は、金色堂への道です。
写真16は、金色堂です。残念なことに中央の木はまで紅葉していません。

最後の写真17は、阿弥陀堂です。

(2024.11.11)
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2024年弘前城の紅葉

2024年11月10日 13時30分07秒 | 観光(日本)
2024年11月6日(水)午前、弘前城の紅葉を鑑賞に行きました。少し盛りには早かったようです。この写真をお見せします。
写真1は、追手門から北に二の丸に向かう道で追手門を奥に撮ったものです。

写真2は、二の丸手前の杉の大橋上から二の丸堀を撮ったものです。

写真3は、二の丸の南内門を背景に撮ったものです。

写真4は、南西からの天守です。

写真5は、北東からの天守です。

写真6は、西に岩木山です。

写真7は、下に蓮池です。

写真8は、本丸のです。

写真9は、鷹岡橋です。

写真10は、三の丸です。

写真11は、辰巳櫓を背景に中濠です。

最後の写真12は、東内門の石橋からです。

(2024.11.10)
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中山恒三郎家(松林甫)―歴史雑感〔91〕―

2024年10月31日 18時22分06秒 | 日本史(近世・近代)
2024年10月27日(日)午前、中山恒三郎家・松林甫(横浜市都筑区川和町890)を見学しました。本家は非公開で本日は年1回の公開日です。本地は江戸時代の文政年間の頃からの中山恒三郎家の邸宅です。酒類卸売業・醤油醸造業・生糸業を生業とする「中山恒三郎商店」で横浜北部の大豪商でした。邸内には菊園「松林甫(圃)」を創成しました。なお、現在は川和保育園が移転したことで建物配置が変わりました。
写真1は、店蔵(本店)で手前が諸味蔵です。
写真2は、諸味蔵内に保存されている諸道具等の一部です。

写真3は、正面からの店蔵です。

写真4は、店蔵の左前に移転された書院・松林庵です。奥が店蔵です。庵正面の築山から撮ったものです。

写真5は、庵から庭と撮ったものです。

庵室内には幾つかの中山家ゆかりの書が掲げられています。最後の写真6は、その一つで長く明治天皇の宮内大臣を務めた土佐出身の土方久元(1833~1918)です。

(2024.10.31)
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