歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

伊豆北条氏関係遺跡―歴史雑感〔40〕―

2018年11月08日 18時57分00秒 | 日本史(古代・中世)

2018年10月25日(木)午前、静岡県伊豆の国市の伊豆北条氏関係の遺跡を巡りました。これを紹介します。

長岡温泉を9時半過ぎに徒歩で出発して、伊豆長岡駅前から国道136号を北上して、国道から西に入った最初の訪問地の真言宗天守君山願成就院に10時半前に着きました。守山東麓に位置しています。本院は、文治5年(1189)6月6日、北条時政を檀那として、立柱上棟式を行ない、建立されたものです。本堂内には木造毘沙門天立像(運慶作)が本尊右脇に起立しています。運慶作の木造阿弥陀如来坐像・木造不動明王及二童子立像と共に、以上5体が国宝に指定されています。毘沙門天・不動明王像内にあった木札から、文治2年(1186)に時政を檀那として運慶に造作が依頼されたことが分かります。本堂裏の宝物館にはこの木札や北条時政像・北条政子像等が展示されています。拝観料は500円で、拝観は10~16時(火・水曜休)です。写真1は、山門からの本院です。

本院内には北条時政墓があります。山門を入って左に入ったところに、西の守山と対面しています。写真2は、時政墓全景です。正面の四層石塔がそれです。時政は建保3年(1215)正月6日に78才で死去しました。

写真3は、左横からの時政墓です。以上で願成就院参拝は終わりで、10時50分を過ぎていました。

 

なお、願成就院の公式サイトはhttps://ganjoujuin.jp/index.htmlです。

国道を北上して「伝堀越御所跡」の掲示のあるところで、道(北条の里散歩道)を左(西)にとり歩くと、写真4の、「伝堀越御所跡」案内板のあるところに出ます。11時です。この北に広がる平地が御所遺址です。室町時代後期(1世紀後半)の堀越公方足利政知居館です。発掘調査から、鎌倉時代の居館跡に建てられたもので、鎌倉時代の居館は北条氏のものと推定されています。

写真5は、西から東に遺址を撮ったものです。

案内板のところから小道を南に行くと民家の行き止まり下が、写真6の、伝北条政子産湯の井戸です。11時10分前に出発しました。

さらに道を西に歩くと、写真7の、「北条一族のふるさと寺院」案内板のあるところに出ます。ここは北条氏滅亡後に北条一族の丹成尼が北条氏邸宅跡に円成寺(尼寺)を建立したと伝えたところです。発掘調査で平安時代末から鎌倉時代にかけての大量の出土品があり、往時の北条氏の財力が忍ばれます。また、建物跡も発見されて、北条氏邸宅跡と確認されました。

写真8は、守山北西麓に位置する邸宅跡です。北西面して狩野川に接しています。広さは1町四方程度です。11時20分前に出発して、狩野川に沿って守山麓の道を南へと向かいます。

伊豆中央高校の手前の橋を渡らず、小道に入り東へと行くと、11時30分、最後の写真9の、八重姫御堂(真珠院内)に着きました。『曽我物語』に見える源頼朝との悲劇の八重姫が入水したとの伝承により付近に建てられたものです。以上で今回の探訪は終わりです。

(2018.11.08)

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外灘と黄浦江ナイトクルーズ―中国雑感〔43〕―

2018年10月16日 20時27分55秒 | 観光(中国)

一、西湖

二、銭塘江大逆流と西湖月見

三、黄山(1)

四、黄山(2)と屯渓老街

五、朱家角古鎮

六、外灘と黄浦江ナイトクルーズ

 

27日(木)、16時30分過ぎに上海市内に着き、まず外灘(黄浦江公園)散策です。写真1は、浦東新区風景です。右の高いビルが世界第2位の高さを誇る上海中心大厦(623m)です。

写真2は、租界時代の建物で、左が上海浦東発展銀行(旧匯豊銀行上海支店)、右が上海海関です。

写真3は、左が曼谷銀行(旧大北電報公司)、右が招商局(旧ラッセル商会ビル)です。

外灘散策は17時過ぎには終わり、徒歩で豫園に移動して、散策です。すでに、豫園は開放時間が終わっており、豫園商城での買物となりました。そして夕食後、オプションの黄浦江ナイトクルーズです。乗船して、19時30分には出発しました。写真4は、浦東新区の夜景で、高く聳えるのが上海中心大厦です。左の頂上が赤いのが金茂大厦(420.5m)です。右の青のラインは上海世界金融中心(492m)です。

写真5は、東方明珠塔(468m)です。塔は色々な色で照明されており、写真は紫色の時です。

写真6は、浦東新区夜景で、左が東方明珠塔で、右が上海中心大厦です。この中、青いのが上海世界金融中心です。塔は赤色の照明で、さらに白字で「欢迎上海」(歓迎上海)と出ています。

写真7は、東方明珠塔・上海世界金融中心・上海中心大厦と並んだものです。塔は白字で「爱我中华(愛我中華)」と出ています。

 

写真8は、黄浦江下流を遠望したものです。遠く見える赤い橋は内環高架路の楊浦大橋です。月も昇ってきました。ここで戻り今度は外灘側と撮っていきます。

写真9は、外灘と浦東新区のビル語群を一望できる、5星ホテルの上海外灘W酒店です。ご覧のように全面を照明で飾っており、色々な絵を描いていきます。

写真10は、蘇州河に架かる外白渡橋です。

写真11は、中国商工銀行(旧横浜正金銀行上海支店)です。

写真12は、和平飯店(旧サッスーンハウス)です。租界時代から営業している老舗ホテルです。

写真13は、上海海関です。租界時代からのものです。

写真14は、上海浦東発展銀行です。

写真15は、桟橋に係留されたクルーズ船です。2層の客室と屋上から展望します。

最後の写真16は、亜細亜大楼(旧マクベスビル)から和平賓館までの外灘です。20時20分過ぎにクルーズは終わりました。

なお、フォト・アルバム「外灘&黄浦江クルーズ」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngul0XSPlhWWwnRtnaAです。

(2018.10.16)

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朱家角古鎮―中国雑感〔42〕―

2018年10月14日 09時01分03秒 | 観光(中国)

一、西湖

二、銭塘江大逆流と西湖月見

三、黄山(1)

四、黄山(2)と屯渓老街

五、朱家角古鎮

六、外灘と黄浦江ナイトクルーズ

 

27日(木)は、朝に屯渓を出発して上海に向かいます。まず、上海市青浦区朱家角鎮に到着して昼食です。午後は上海四大古鎮(嘉定・松江・朱家角・南翔)の一つ朱家角古鎮散策です。12時過ぎに北から古鎮に入りました。本鎮は多くの水路があります。写真1は、水路を夾む西井街です。碼頭(桟橋)に観光船が係留されています。清代乾隆帝の時、官を辞して帰郷した王昶が乗ってきた船を後に羅鍋船と称するようになり、これが観光船となっているのです。

写真2は、西井街にかかる永安橋です。本鎮には石橋が36ありこの一つです。

写真3は、石橋を代表する放生橋です。東井街から漕港河を渡り北大街に行きます。

写真4は、放生橋上から漕港河上流を撮ったものです。両岸に古街が広がり、河に面した茶館等があります。

写真5は、漕港街からの城隍廟橋です。ご覧のように木橋です。

写真6は、漕港街からです。

写真7は、漕港河下流右岸から撮った放生橋全景です。本橋が創建されたのは明・隆慶5年(1571)で、現在の橋は全長72m・全幅5m・高7.4mです。ご覧のように5つのアーチ口(五孔石栱橋)を持つ橋です。

写真8は、放生橋欄干の獅子です。

写真9は、放生橋欄干の獅子に下流右岸の桟橋を入れて橋を撮ったものです。橋の向こうは新風路です。

写真10は、宝石橋下流側の東井街です。こちらは観光地化しておらず、観光客も来ず、ご覧のように生活臭がします。

写真11は、漕港河下流左岸から撮った放生橋の中央部アップです。左岸には大型観光船の桟橋があります。

最後の写真12は、西井街に戻り、中龍橋を撮ったものです。以上で古鎮散策は終わり14時過ぎでした。そして、上海市内へと向かいます。

なお、フォト・アルバム「上海・朱家角古鎮」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngulbXBrNbH-25fBvKwです。

(2018.10.14)

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黄山(2)と屯渓老街―中国雑感〔41〕―

2018年10月12日 15時35分19秒 | 観光(中国)

一、西湖

二、銭塘江大逆流と西湖月見

三、黄山(1)

四、黄山(2)と屯渓老街

五、朱家角古鎮

六、外灘と黄浦江ナイトクルーズ

 

26日(水)は、引き続き黄山観光です。本来は曙光亭での御来光を迎えるつもりでしたが(ホテル掲示の天気予報では60%の確立)、前日からの曇天で見込みなしとして出かけませんでした。そして、9時に西海賓館を出発して、始信峰に向かいます。写真1は、右手前の夢筆生花です。

写真2は、夢筆生花の左に見える筆架峰です。

道を行くと名松が幾つかあります。写真3は、その代表的な黒虎松です。

写真4は、2本の松が並ぶ連理松です。

写真5は、始信峰への途上から見た峰です。

写真6は、始信峰の登り口にある報引松です。

写真7は、ここから見た始信峰です。

写真8は、望遠で捉えたものです。ご覧のように、安全対策でしょうが、頂には全方位の監視カメラが設置されています。中国は世界で最も監視カメラが普及していることがここでもかいみられます。

写真9は、始信峰に生えている松を撮ったものです。

写真10は、始信峰上から北海賓館を撮ったものです。

写真11は、さらに歩いて石笋峰を撮ったものです。

写真12は、右に聳えるのが石笋矼で、左に連なるのが十六羅漢朝南海です。

写真13は、霞む十六羅漢朝南海です。

写真14は、遠望した雲谷索道です。

写真15は、ロープウェーの途上での峰です。

写真16は、石棚です。10時45分にロープウェーに乗り、黄山観光を終えました。

屯渓区に戻り昼食です。14時半から屯渓老街散策です。写真17は、老街東側です。道中央に置かれている「小姐」の持っている札には「清掃員很辛苦 敬請拉圾入桶」と書いてあります。すなわち、「清掃員さんご苦労さん ゴミは桶(ゴミ箱)に入れましょう」と、あります。後方見える木箱がゴミ箱です。

写真18は、文房四宝、すなわち筆・墨・硯・紙の内、紙を除く三宝を扱う「藝蘭軒」です。黄山市歙県等は中国四大名硯の一つ、歙硯の産地です。本店はこの老舗です。店内中央にそれらが並べられています。

最後の写真19は、老街西側です。左に「四大名茶」との看板があるように、黄山は茶の産地で、特に黄山毛峰は十大名茶の一つとして知られています。老街には多くの茶専門店があるのです。写真にはありませんが、この代表が「王光熙茶行」です。以上で、老街散策は終わり、15時過ぎでした。

なお、フォト・アルバム「黄山&屯渓老街」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngukSIP2k7JM5-0WZHgです。

(2018.10.12)

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黄山(1)―中国雑感〔40〕―

2018年10月09日 15時38分11秒 | 観光(中国)

一、西湖

二、銭塘江大逆流と西湖月見

三、黄山(1)

四、黄山(2)と屯渓老街

五、朱家角古鎮

六、外灘と黄浦江ナイトクルーズ

 

25日(火)は、朝杭州市を出発して、昼前に黄山市屯景区に着き、昼食を取りました。午後、黄山景区内バスで雲谷索道(ロープウェー)の雲谷寺站(駅)に着き、14時、ロープウェーに乗り黄山観光の開始です。

写真1は、雲谷寺站を出て駅を振り返って撮ったものです。ご覧のようにロープウェーは8人乗りの小型のものです。

写真2は、峰を越えて再度上りとなり振り返ったものです。

白鵝岭站でロープウェーを降りて、まず今夜の宿泊先である北海賓館に向かい、この途上の筆架峰を撮ったのが写真3です。賓館には14時47分に到着しました。

賓館を15時28分に出て、当初の予定では始信峰行でしたが、順番を変えて、登りの厳し光明頂行です。写真4は、その途上、飛来石を遠望できるところで望遠で撮ったものです。

写真5は、皮篷溝断層です。

写真6は、光明頂石碑(1860m)です。16時26分でした。

写真7は、光明頂に立つ気象台で、丸いのはレドームです。

写真8は、気象台奥の展望台から見た黄山です。残念ながら曇天ですが峰から雲が流れています。

写真9は、光明頂を出て少し行ったところで撮ったものです。

写真10は、飛来石が遠望できたところで、雲に霞む飛来石を捉えたものです。

写真11は、望遠で飛来石を撮ったものです。

写真12は、鋏石です。

写真13は、飛来石です。

写真14は、飛来石の展望台から丹霞峰方向を撮ったものです。

写真15は、西海飯店側の飛来石そのものを撮ったものです。

写真16は、西海大峡谷です。

写真17は、排雲亭展望台から西へと撮ったものです。本来はここで夕日観賞でしたが、ご覧のように曇天で日没の太陽は見られませんでした。本日の日の入りは17時58分でした。

最後の写真18は、排雲亭です。本亭は宋三姉妹が1935年に建てたものです。

なお、フォト・アルバム「黄山&屯渓老街」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngukSIP2k7JM5-0WZHgです。また、「黄山風景名勝区」はhttp://www.chinahuangshan.gov.cn/です。

(2018.10.09)


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銭塘江大逆流と西湖月見―中国雑感〔39〕―

2018年10月06日 20時30分59秒 | 観光(中国)

一、西湖

二、銭塘江大逆流と西湖月見

三、黄山(1)

四、黄山(2)と屯渓老街

五、朱家角古鎮

六、外灘と黄浦江ナイトクルーズ

 

24日(月)は仲秋節、すなわち旧暦の8月15日です。月の潮力は満月に大となり、特に8月が最大となります。そこで、この日が銭塘江大逆流観賞の日となったのです。朝に杭州市内を出発して約1時間で塩官・観潮勝地公園(浙江省嘉興市海寧市塩官鎮古邑路1号)に9時過ぎには到着して、観覧席に向かいました。逆流は11時50分頃と予報されていたので待ちます。

11時30分過ぎ逆流が下流に遠望できました。写真1は、観覧席からのものです(11時32分)。上流に円弧を描いて遡ってきます。

まだ遠いですが、近づいてきたのが写真2です(11時38分)。望遠気味で撮りました。

写真3は、逆流と報道用ヘリコプターとを撮ったものです(11時40分)。夜のニュースで流されていました。

逆流が眼前へと迫ってきたのが写真4です(11時43分)。

逆流の円弧部先端が眼前を越えたのが写真5です(11時43分)。ご覧のように、今年は低めの波で、迫力ある壮観なものではなかったです。

写真6は、通り過ぎた逆流です(11時45分)。以上で逆流は終わりです。

塩官で昼食後、市内へと戻り、途上で龍井村の中国茶葉博物館見学・買物をし、西湖に戻り、楼外楼で夕食となりました。

19時過ぎ西湖上での月見のため、杭州香格里拉飯店碼頭から遊覧船に乗りました。仲秋節とあって小月餅が出されました。写真7は、左上に満月、右中央に雷峰塔を撮ったものです。

最後の写真8は、中央に阮公墩(人口島)、左右に市街と雷峰塔、右上に満月を写し込んだものです。小瀛州を回り20時過ぎに戻り湖上の月見は終わりました。

なお、フォトアルバム「杭州・西湖&銭塘江大逆流」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxnguh5-wzxplhO_8ZMcAです。

(2018.10.06

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西湖―中国雑感〔38〕―

2018年10月05日 18時31分17秒 | 観光(中国)

一、西湖

二、銭塘江大逆流と西湖月見

三、黄山(1)

四、黄山(2)と屯渓老街

五、朱家角古鎮

六、外灘と黄浦江ナイトクルーズ


クラブツーリズム主催「【羽田発着】奇観の銭塘江大逆流・中秋の黄山と西湖の月見6日間」(2018年9月23日〔日〕~28日〔金〕)で、中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、

23日(日)午前羽田発上海浦東着(東方航空) 午後西湖散策(花港観魚) 杭州泊

24日(月)午前塩官・銭塘江大逆流観賞 夜西湖船遊覧(月見) 杭州泊

25日(火)午後黄山山頂巡り(光明頂・飛来石・拝雲亭) 黄山山頂泊

26日(水)午前黄山山頂巡り(黒虎松・始信峰) 午後屯渓老街散策 屯渓泊

27日(木)午後朱家角古鎮観光 午後外灘・豫園散策 OP黄浦江ナイトクルーズ 上海泊

28日(金)午前上海浦東発午後羽田着(東方航空)

です。

MU576で昼前に上海浦東空港に到着後、バス移動で杭州市に午後着きました。最初の観光地は西湖・花港観魚です。

写真1は、清朝康熙帝が康煕38年(1699)に杭州に行幸した際の宸筆による「花港觀魚」石碑(同年3月26日筆)です。

写真2は、花港観魚の紅魚池です。ご覧のように紅錦鯉が泳いでいます。

写真3は、蘇提から西湖を眺めたものです。湖上にはご覧のように多数の遊覧船が浮かんでいます。

最後の写真4は、大型遊覧船越しの蘇提からの雷峰塔です。

なお、フォトアルバム「杭州・西湖&銭塘江大逆流」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxnguh5-wzxplhO_8ZMcAです。

(2018.09.23)

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拙著『鎌倉幕府成立期の東国武士団』出版のお知らせ

2018年09月08日 18時37分24秒 | 日本史(古代・中世)

2018年9月に次の拙著を出版しましたので、お知らせします。

『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年9月岩田書院(定価9400円+消費税)415頁

第一章 甲斐源氏

第一節 甲斐源氏の蜂起

序言

一、波志太山合戦から見る甲斐源氏の蜂起

二、甲斐源氏と源頼朝との関係

終言

第二節 治承五年閏二月後白河院庁下文と「武田殿」源信義  11

序言

一、『吾妻鏡』養和元年三月八日条

二、『玉葉』に見たる後白河院殿上公卿僉議

三、『平家物語』に見る後白河院庁下文

四、『吾妻鏡』に於ける諸源氏記事の誤謬・作為

終言

第三節 甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義

序言

一、第一次源軍入洛と甲斐源氏

二、第二次源軍入洛と一条忠頼

三、一条忠頼の鎌倉営中謀殺

終言

付論 武田信義没年に関する五味文彦氏説に反駁

第二章 信濃源氏

第一節 治承・寿永の内乱に於ける信濃国武士団と源家棟梁

一、はじめに

一、信濃国に於ける源家棟梁とその地域性

二、信濃国に於ける反乱蜂起と木曾義仲

三、越後国城氏と横田河原合戦への道

四、横田河原合戦

イ、城氏の信濃国侵入とその軍事編成

ロ、横田河原合戦に於ける「木曾党」・「佐久党」・「武田之党」

ハ、井上氏と横田河原合戦の勝利

六、終言

第二節 寿永二年春の源頼朝と木曽義仲との衝突

序言

一、『延慶本平家物語』の語る経緯

二、信濃源氏・甲斐源氏・源頼朝の関係

三、頼朝と義仲の衝突の経緯とその要因

終言

第三節 木曽殿源義仲の伊予守遷任の史的意義

一、義仲の伊予守遷任

二、伊予守の意義

三、義仲・朝廷にとっての伊予守

第三章 源範頼

第一節 平家追討使源範頼の九州侵攻

序言

一、源頼朝の対平家戦略

二、源範頼軍の豊後国渡海

三、「芦屋浦」合戦

四、平家の九州支配の覆滅

終言

第二節 三河守源範頼の九州進駐の史的意義

一、源範頼軍政の成立と源義経

二、鎮西沙汰七ヶ条と対馬前司親光帰国

三、範頼帰還令と頼朝・義経対決

四、範頼軍政の終結

第三節 蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国

一、源範頼の三河守補任と関東御分国

二、治承寿永内乱前期の三河国と新宮殿源行家

三、蒲殿源範頼三河守補任の前提と甲斐源氏

第四章 諸源氏と門葉

第一節 寿永二年八月勧賞源氏諸将任国守の史的意義

第二節 近江源氏山本義経

一、治承・寿永の内乱以前

二、治承・寿永の内乱前期

三、木曽殿源義仲と山本義経

第三節 治承・文治大乱に於ける佐竹源氏

序言

一、治承・寿永内乱

二、奥州兵乱

終言

第四節 「奥州合戦」に於ける鎌倉幕府軍の構成

序言

一、東山道軍の交名一覧

二、交名の国別構成

三、交名の門葉構成

四、交名の武士御家人構成

終言

付章 武蔵武士足立氏

第一節 鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義

序言

一、足立遠元をめぐる系譜

二、足立氏と比企氏

三、武蔵国に於ける足立氏

四、武蔵国々衙支配をめぐる比企ファミリー

五、公文所寄人の史的意義

結語

第二節 武蔵武士足立氏の系譜再論

序言

一、『尊卑分脉』にみる足立氏

二、「足立系図」にみる足立氏

三、治承・寿永の内乱当初に於ける遠元

四、『吾妻鏡』にみる遠元・盛長関係

終言

第三節 武蔵武士足立遠元

一、遠元の系譜

二、平治の乱に於ける遠元

三、治承・寿永の内乱に於ける遠元

四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養行列に於ける遠元の序列

五、頼朝期に於ける遠元(上)―「宿老」―

六、頼朝期に於ける遠元(中)―奥州合戦と第一次建久上洛―

七、頼朝期に於ける遠元(下)―第二次建久上洛―

八、頼家・実朝期に於ける遠元

第四節 遠元以降の足立氏系譜

一、『吾妻鏡』に見る足立氏

二、「六条八幡宮造営注文」に見る足立氏

三、霜月騒動後の足立氏

四、南北朝期の足立氏

第五節 鎌倉期に於ける武蔵国足立郡の武士

第六節 二俣川合戦に見たる安達氏主従

序言

一、武蔵国の家人

二、上野国の家人

三、家人野田氏

終言

 

(2018,09,08)

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熊野古道と熊野三山(下)―熊野大門坂・熊野那智大社・ 那智滝・熊野速玉大社―

2018年06月05日 18時32分55秒 | 観光(日本)

クラブツーリズム主催「3日間現地語り部がご案内!悠久の世界遺産へ高野山・熊野三山・中辺路ハイキング」の3日目の2018年4月26日(土)は熊野古道大門坂・熊野那智大社・那智滝・熊野速玉大社(新宮)を巡りました。

まず熊野那智大社に行く熊野古道大門坂の上りから始まります。9時10分過ぎです。写真1は、大門坂の鳥居を過ぎて少し上ったところにある、夫婦杉です。樹高約55m・幹回り約8.5m・推定樹齢800年です。

写真2は、熊野古道最後の王子社、多富気王子です。

写真3の、右の幹は楠大樹で、分かりにくいですが空洞となっています。推定樹齢約800年です

写真4は、さらに上った大門坂です。

磨斗石・十一文関跡を過ぎて、少し行くと木々の間から那智滝が遠望できます。写真5が、それで望遠で捉えたものです。

10時25分過ぎ、熊野那智大社鳥居前に到着しました。写真6は、この鳥居からです。

写真7は、八咫烏を祀る御縣彦社です。現在、重要文化財の本殿(第一殿 主神大己貴命=飛瀧権現)は修復の覆いが掛けられて全貌が見えません。

写真8は、重要文化財の第二殿以下です。

写真9は、天然記念物の那智の樟です。樹高約27m・幹回り約8.5m・推定樹齢約800年です。

熊野那智大社隣の青岸渡寺も補修中で、これを過ぎ、寺地内から那智滝を観望でき、ここで撮ったのが、写真10です。左の赤い塔が本寺の三重塔です。11時過ぎでした。

写真11は、那智滝全景です。

写真12は、望遠で撮った滝の落ち口です。ここから、滝壺へと下っていきます。

那智滝は滝自体がご神体で、写真13は、「飛龍神社」の額を掲げた鳥居越しに見た那智滝です。

写真14は、御幣を掲げ祭壇を祀った那智滝です。

写真15は、望遠で見上げて撮った那智滝の落し口です。

写真16は、滝の流れを流して撮った那智滝です。以上で、大門坂から那智滝までの観光は終わりで、昼食と熊野速玉神社までのバス移動となります。12時過ぎでした。

13時30分前に熊野速玉神社に着きました。写真17は、主神熊野夫須美大神(熊野結大神)を祀る第一殿(結宮)の拝殿です。

写真18は、左から上三殿、八社殿です。

写真19は、天然記念物のオガタマキ(熊野速玉神社のナギ)です、樹高約21m・幹回り約6m・推定樹齢千年です。

最後の写真20は、世界遺産石碑(熊野速玉大社)です。以上で参詣は終わり、13時50分過ぎでした。

なお、フォトアルバム「熊野三山」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngttoUq44nhIkXZRdEQです。

(2018.06.5)

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熊野古道と熊野三山(上)―熊野中辺路と熊野本宮大社―

2018年06月02日 14時53分13秒 | 観光(日本)

クラブツーリズム主催「3日間現地語り部がご案内!悠久の世界遺産へ高野山・熊野三山・中辺路ハイキング」に参加してきました。そこで、このツァーの主体である熊野古道中辺路と熊野三山を紹介します。ツァー2日目の2018年5月25日(金)は熊野古道中辺路と熊野本宮大社等を巡りました。

熊野古道中辺路ハイキングは牛馬童子口バス停から始まります。9時40分頃の出発です。写真1は、ここにある瀧尻王子宮です。この右側から熊野古道中辺路の上りとなります。

写真2は、牛馬童子への途上、振り返って撮ったものです。ここら一帯はほとんどが杉人口林です。

写真3は、牛馬童子の石像群です。手前左が牛馬童子石像です。

写真4は、近露王子への下り路を右に見て、山を遠望したものです。

写真5は、近露王子です。中央のが「近露王子之跡」石碑(大本教教祖出口王仁三郎筆)です。11時45分頃着きました。約1.5km弱の行程です。

近露王子から発心門バス停までバス移動しました。写真6は、発心門王子宮です。13時前に出発です。

写真7は、水呑王子への路です。ここは居住者もおり、生活道路として舗装されています。

写真8は、水呑王子です。

写真9は、伏拝王子への路です。ご覧のようにここは石畳となっています。

伏拝王子に着き、この展望台から熊野本宮大社を遠望したのが、写真10です。本宮が見えることからこの名が付きました。

写真11は、伏拝王子の石像です。


写真12は、三軒茶屋跡に残る石道標です。「右かうや」とあるように高野山に通じる熊野古道小辺路との分岐点です。

写真13は、祓殿王子への路です。ご覧のように根が石の上に這っています。ここの石畳の古さを感じます。

熊野古道中辺路の終わりが、写真14の祓殿王子です。本宮参拝の前にここで最後の祓いを行なうことから、この名が付きました。16時10分過ぎに着きました。約7km弱の行程です。

本宮に入り、写真15は、本殿です。左の建物が第一殿(夫須美大神=伊邪那美尊)と第二殿(速玉大神=伊邪那岐尊)、中央が第三殿(家津美御子大神=素戔嗚尊)、右が第四殿(天照大神)です。本宮は素戔嗚尊が主神ですから、第三殿からお参りします。これらの19世紀初頭建立の社殿は重要文化財に指定されています。

写真16は、主神の素戔嗚尊を祀る第二殿です。

写真17は、2000年に建てられた日本一の大鳥居です。鋼鉄製(耐候性鋼板)で高33.9m・幅42.0m・柱径2.7m・柱間隔24.5m・172tです。本鳥居は現社地の南に約500mの旧社地前に聳えています。

最後の写真18は、旧社地、すなわち大斎原の前にある世界遺産石碑(熊野本宮大社旧社地大斎原)です。本宮は熊野川・岩田川・音無川の合流点の中州であった旧地に鎮座していましたが、1889年(明治22)8月の熊野川の洪水で破壊されて、現在の社地に移転しました。旧地も神聖な社地の森として「大斎原」となっています。以上でハイキングと参拝は終わりです。16時50分過ぎでした。

なお、フォトアルバム「熊野三山」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngttoUq44nhIkXZRdEQです。

(2018.06.02)

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再訪宝墩古城遺址―成都雑感〔162〕―

2018年05月08日 00時37分36秒 | 観光(成都)

2018年4月15日〔日〕、成都市新津県龍馬郷宝墩村の宝墩古城遺址に行ってきました。2008年4月13日以来です。この訪問記は「龍馬古城宝墩遺跡―成都雑感〔59〕―」(2008年4月14日付)です。成都市の西南38kmに位置する新津県城の北西約7kmの龍馬郷宝墩村に、宝墩古城遺跡はあります。交通は、成都旅遊集散中心站(新南門)発から高速経由の新都行バス(13元)が約1時間弱で新都客運中心站に着きます(新南門以外にも、城北客運中心站・金沙客運站・石羊場中心站からも新都行バスがあります)。ここからは近くに行くバスはなく、タクシーで約25元です。

宝墩古城遺址は宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)の命名遺跡です。宝墩古城はBC2550年に建設され、BC2300年頃に廃棄されたと考えられています。1996年、成都市文物考古工作隊・四川聯合大学(現四川大学)考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊の日中合同の発掘調査が行われました。これにより、北東から南西方向に1100m・南東から北西方向に600mの長方形の城壁に囲まれた遺跡であり、最大高8mの城壁を持ち、面積が66万㎡に達する大きな遺跡であることが分かりました。その後の調査で、さらに外城壁があり、約268万㎡の規模を有し、古蜀国の王城と考えられています。2001年6月25日に全国重点文物保護単位に指定されました。

 

写真1は、「龍馬古城遺址」石碑の建っているところで、石碑には保護カバー被せられています。そして、ご覧のようにベンチもあり整備されています。以前は石碑の奥、東城壁上には民家がありました。整備・保護の関係で移転したのでしょう。

写真2は、城壁内側に設置された遊歩道から東城壁を撮ったものです。手前の道を入ると、以前に城壁を発掘調査したところとなります。奥右は南城壁です。

写真3は、東城壁上から発掘現場を見たものです。ここは城壁が現存していません。奥は城壁東南角です。

写真4は、南城壁です。写真で分かりませんが、外側の民家もなくなっています。

写真5は、右の南城壁、奥に東城壁を見たものです。

写真6は、用水路越しに祭壇遺址を見たものです。残念ながら、ここから直接行ける徒歩道もなく、行けませんでした。

写真7は、城内の発掘トレンチです、奥の用水路付近で発掘を行なっていました。

最後の写真8は、先の石碑のあるところの東側にある宝墩遺址案内板です。以上、遺址は以前と異なり整備・保護されています。また、案内板の北には発掘遺物展示館が建てられていますが、現時点では展示はまだです。

なお、フォトアルバム「成都・宝墩遺址」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtQdov6Yo7v38CG3RQです。

(2018.05.08)

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再訪永陵博物館―成都雑感〔161〕―

2018年05月06日 09時11分59秒 | 観光(成都)

2018年4月14日(土)、永陵博物館(成都市青羊区永陵路10号)を見学しました。2009年12月4日以来です。この時の記事は「成都永陵博物館(永陵公園)―成都雑感〔88〕―」(2009年12月5日付)としてアップしています。本博物館は唐滅亡後の五代十国時代の前蜀国(大蜀)開祖、王建(847~918年)の陵墓永陵を博物館としたもので、開館時間は8時半~18時、入場料20元です。地下鉄2号線通恵門站・4号線寛窄巷子站下車後、西安路北上(以上約1km)か市内バス槐樹街西站(30・48・54・341路)・永陵路口站(42・126・127路)下車です。

永陵は円形で高15m、直径80m余です。地宮は前・中・後室の3室からなり全長23.4mです。1942年の発掘で王建墓と確定しました。1961年3月4日、第1回全国重点文物保護単位に指定されました。また50年代から2006年までに何度かの修復・復原がなされました。2009年には陵を含む園林区を大改修して、面目を一新しました。2015年には園林区の北に総合館を開設して現在に至っています。同時に地宮の道を保護用のガラスで覆いました。

写真1は、神道から見た永陵正面です。神道の左右は廂房で、文臣・武将・獬獅・鞍馬石像(復原)が立っています。

写真2は、墓道から前室、奥に中室を見たものです。

写真3は、中室で、青白大理石の王建石棺床です。奥が後室です。

写真4は、王建石棺床西壁に彫られている二十四楽伎(南璧4・東壁10・西壁10)の吹葉伎と弾堅箜篌伎です。

写真5は、中室奥から王建石棺床を撮ったものです。

写真6は、後室中央に置かれている王建坐像(高96cm)です。

写真7は、王建石棺床東壁の二十四楽伎の撃羯鼓伎です。頭が見えているのが12座の武士力士石像です。

写真8は、神武殿から見た永陵です。

写真9は永陵背面です。

写真10は、永陵前右側面(東)です。

神武殿内は「千裁帝陵・芙城記憶」と題する展示で、永陵を解説しています。写真11は、永陵のレプリカです。

永陵の北口の北に対面して2階建ての総合館があります。現在のところ地下1階が展示スペースとなっています。写真12は、王建皇后周氏坐像です。1990年に永陵西南数百mで発掘された墓葬から発見されました。

写真13は、前蜀の永平五年(915)の銘のある陀羅尼経幢です。

写真14は、五代八卦銅鏡です。

写真15は、石材等です。上は永陵地宮図です。

最後の写真16は、各種の陶俑です。

なお、フォトアルバム「成都・永陵博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtQcIbXDv80p-zhNzgです、また、『成都永陵博物館-王建墓』公式サイトはhttp://www.cdylbwg.org/index.aspxです。

(2018.05.6)

 

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魚鳬古城遺址―成都雑感〔160〕―

2018年05月02日 09時46分48秒 | 観光(成都)

2018年4月12日(木)、成都市温江区春鎮報恩村・魚鳧村の魚鳧古城遺址に行ってきました。本遺跡は四川省の古代文化(古蜀文化)の最古文化である宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)に属する遺跡です。古蜀文化は続いて三星堆文化(BC1700~1200年、夏晩期~商後期)、金沙・十二橋文化(BC1200~500年、商後期~春秋後期)、晩期蜀文化(BC500~316年、春秋晩期~戦国期)と、四つに区分されます。そして、宝墩文化は「蚕叢」「柏灌」、三星堆文化は「魚鳧」、金沙・十二橋文化は「杜于=望帝」、晩期蜀文化は「鼈霊=叢帝」という伝説の蜀帝王の時代に相当すると考えられています。BC316年、この古蜀王国は北方の秦恵文王の派遣した司馬緒によって滅亡させられます。

さて、宝墩文化は都江堰扇状地に発展しました、龍馬古城宝墩遺跡以下、6か所かの古城遺跡が残されて、この一つが魚鳧古城遺址です。他にも郫県古城・紫竹古城・芒城・下芒城があります。魚鳧古城は約40万㎡と龍馬古城に次ぐ規模を有します。1996・99年に発掘調査がなされて、城壁・住居址・墓葬が確認され、石器・陶器が出土しました。2001年に全国文物保護単位に指定されました。成都市内からの交通は、地下鉄4号線の南黒大道站下車後、D出口から直進(西)して水面黒大道との交差点で右折して大道には入り、W25路の光華路口站で乗車して13停留所目の報恩村站で下車し、道(郫温路)を戻り(南)約100mで道路東側に「羅家院子休閑庄」の看板のある道を入り道なりに約150mです。郫温路には温江区の設置した「魚鳧村遺址」の説明板があります。

写真1は、城壁遺址上の全国文物保護単位碑のところで撮ったものです。ご覧のように、宝墩文化関係の古城は「成都平原史前城址」で統一されて、魚鳧古城遺址の正式名称は「魚鳧村遺址」です。

写真2は、碑の裏側に回り、古城内から城壁遺址を撮ったものです。ここは西城壁遺址に当たり、さらに長く残されていますが、あいにくの雨模様のため、さらに確かめることはしませんでした。

魚鳧古城を離れて、発掘遺物を展示している温江区博物館(四川省成都市温江区文廟街6号)に移動しました。本博物館は文廟の大成殿(1984年の火災で2003年に再建)にあります。地下鉄4号線南黒大道站下車後、A出口からW29路の地鉄南黒大道站で乗車し3停留所目の文廟広場站で下車し、文廟路を行ったところです。写真3は、魚鳧古城遺址出土の陶器片です。

最後の写真4は、石斧等の石器です。壁には「魚鳧村遺址地理位置図」等があります。

(2018.05.02)

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中国高速電車の商務座―中国雑感〔37〕―

2018年04月30日 09時51分10秒 | 交通

2018年4月11日(水)、西安から成都への移動に、昨年開通した高速電車を利用しました。そこで、高速電車の最上位座席である商務座(ビジネス席)に乗りましたので、これを紹介します。商務座はJR東日本のグランクラス相当です。私の乗った高速電車はG89次で、北京西站発成都東站行で、途中の降車駅は石家庄站・鄭州東站・西安北站と、省都のみ停まる最速電車です。ちなみに、北京西6時53分発、石家庄8時2分発、鄭州東9時32分発、西安北11時28分発、成都東14時41分着です。西安成都間は2時間27分です。G(高鉄)は最高時速350kmですが、西安成都間は秦嶺山脈を越える山岳路線なので、最高時速250kmです。西安成都間の運賃は商務座748元、一等座(グリン席相当)397元、二等座(普通席相当)263元です。座席は16号車1Aです。

写真1は、商務座の革張りシェルフラット座席です。写真では見にくいですが、左側肘掛け下に電源コンセントが付いています。パーソナルモニターは左側肘掛けに入っています。また、青いところが座席の操作パネルです。服務員の呼出しボタンも付いています。

写真2は、かすかに傾いていますが、フルフラットにした座席です。この点でグランクラスの座席より余裕があり、中国人乗客の中にはこのモードで昼寝の方もいました。

写真3は、室内全景で、本車両では全5席です。3列・8行の24座席の車両もあります。

乗車すると、服務員(アテンダント)が飲物の注文を聞いてきます。飲物は茶・コーヒー・コーラ等で、グランクラスのような酒類はありません。写真4は、熱い茶を頼み、それと共に「商務座贈物」持ってきたのを撮ったものです。「商務座贈物」は菓子類です。

食事時の電車には弁当が付きます。最後の写真5は、昼食のスープ付弁当です。電子レンジで温めた物ですが、意外なほど味がいいです。量的にもグランクラスより上ではないでしょうか。缶ビールを持ち込んでおかずを肴に楽しみました。

(2018.04.30)

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漢長安城未央宮遺址―中国雑感〔36〕―

2018年04月28日 16時46分21秒 | 観光(中国)

2018年4月10日(火)、漢長安城未央宮遺址(西安市未央区二環路外)に行ってきました。本遺址は「漢長安城国家大遺址」として現在整備中です。現在のところ入場は無料です。公共交通機関は地鉄1号線漢城路站下車、A出口から直進して、交差点で右(北)に漢城北路に入り、186路に城西客運站(駅から約200m)で乗車し、漢城遺址站(3停留所)で下車後、北に約1.7km歩くと、未央宮前殿遺址です。なお、前殿遺址までは現在は車・自転車で入れます。

前漢(紀元前206~8年)の都城である長安城(東西7.6km・南北6km)には5つの宮城があり、その一つ西南角にあるのが未央宮です。未央宮は、紀元前202年に建設が開始されて、東西2150m、南北2250m、総面積4.8㎢で、4つの宮門があり、中央に前殿がありました。本宮内では現在までに1号遺址(前殿遺址)、2号遺址(胡椒房殿遺址)、3号遺址(中央官署遺址)、4号遺址(少府遺址)、5号遺址(西南角楼遺址)、6号遺址(天禄閣遺址)、7号遺址(石渠閣遺址)、15号遺址(滄池遺址)、154号遺址(明渠遺址)が発掘されて保護されています。本遺址は1961年3月4日に第1回全国重点文物保護単位に指定され、2014年6月22日に世界文化遺産シルクロードの発起点として指定されました。

写真1は、バス停から北に約600m、漢長安城南城壁に設けられた3つの城門、西側の西安門遺址です。ご覧のように3つの門道があります。西門道は既に破壊されており、中門道・東門道は幅約8mですが、両側の礎石位置から実際の幅は6mです。門道の長さは19~20mです。

写真2は、西安門を通り、城内からの門と西に続く南城壁遺址です。南城壁は幅40~50m・深さ3mの水壕で囲まれており、水壕の水は渭河に排水されるようになっていました。左端の塀に覆われたところは未央宮南宮門とその後背地で、現在整備中です。

西安門から約600mで道を西に取り約300m行くと北正面に前殿遺址が見えます。写真3は、約200m先の前殿遺址全景です。前殿の基壇は南北400m、東西200m、最高15mです。

写真4は、3号庭園からの前殿です。前殿には南から順に1~5号庭園があり、段となり高さを上げています。右に見える黄色の電動カートは中国の観光地によくある移動用ですが、現在のところ運行されていません。

写真5は、前殿上から南を見たものです。

写真6は、前殿を東から西へと見たものです。

写真7は、前殿上から北を見たものです。正面奥に見えるのが2号遺址(胡椒房殿遺址)です。

写真8は、前殿からの戻りで、2号庭園から見たものです。庭園には建物もあり、その位置の表示もあります。

最後の漢長安城・未央宮図は、

京都・奈良文化財保護サイト』奈良文化財史/花開く都城文化/東アジア都城http://kousin242.sakura.ne.jp/blogs/eee/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E5%8F%B2/%E8%8A%B1%E9%96%8B%E3%81%8F%E9%83%BD%E5%9F%8E%E6%96%87%E5%8C%96/%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E9%83%BD%E5%9F%8E/からです。

 

なお、フォトアルバム「陝西・漢長安城未央宮遺址」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngtN--jAdVi1BynzGsAです。

(2018.04.27)

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