歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

大江広元の非参議従三位の望み―歴史雑感〔90〕―

2024年12月02日 20時32分39秒 | 教育
五味文彦氏は、
なおこの時期は実朝の官位が次々と上昇していった時期であり、それに伴って幕府の関係者には官位の上昇を望む動きがあった。建保二年四月に「武州有三品所望之由、内々申之、雖非当時事、終不可空之旨、御契約云々、」とあるのは、武蔵守足利義氏が三位になることを望んだものである。そうしたなかで広元が建保四年四月七日に改姓の諾否を実朝に伺い、十七日に実朝の許可を得た結果、六月一日に改姓を認める宣旨が下されているが、これは広元が大江匡房に倣って公卿に昇進するための布石と考えられ、京に大きな勢力を築いていた広元であれば、関東の推挙さえあれば公卿になることも可能と思ったのであろう。
と、述べている〔1〕。この広元が三位を望んだというのは興味ある見解である。しかし、中原から大江の改姓がその布石とは述べているものの、他に根拠は述べておらず、その見解には裏付けがないようにも見える。そこで五味氏の広元が公卿を望んだとの見解を改めて検討することにする。

五味氏は『吾妻鏡』での「武州有三品所望」記事は足利義氏が三位を望んだとし、これに続いて広元が三位を望んだとの見解を出している。これは義氏の三位の望みが広元の三位の望みを引き出したのではないかと考えているかのような記述である。そこで、改めてこの『吾妻鏡』建保二(一二一四)年四月廿七日条の記事を検討してみることにする。

『吾妻鏡』の示す武州は、承元四年(一二一〇)正月廿日に駿河守から武蔵守に遷任し、建保五年(一二一七)十二月十二日に相模守に遷任した北条時房〔2〕に比定されるのが普通である。しかし、時房は当時従五位下であり、追討恩賞での越階を別として、通常の除目での三位への越階はありえない事である。このためもあり、『大日本史料』第四編之十四頁七九〇の建保六年十一月十一日・臨時除目の条では、『武家年代記』により時房の従五位上への昇叙を記した後、上記の『吾妻鏡』を引用して、「三品」にママの(五カ)と注記している。これは史料編纂所の編者は時房の三位の望みありえず、『吾妻鏡』は「五品」と誤記したと解釈していることを示している。しかし、既に五位となっていた時房が改めで五位を望むのは矛盾しており、編纂所編者の解釈も整合性がないことになる。

ところで、佐藤雄基氏が『吾妻鏡』の「武州有三品所望」記事を考察した「公卿昇進を所望した武蔵守について」と題する論文を発表している〔3〕。まず、建保二年当時の武蔵守は北条時房であり、『吾妻鏡』の記述する「武州」、即ち時房が三位昇進をねだったという解釈が導き出されるとしている。当時時房は従五位下であり、兄義時も正五位上であって、円満な協調関係からも、兄を差し置いて公卿を望むことがありえようかとして、結論として建保二年時点で時房が三位昇進を望むと言うことを想定し難いとする。以上の佐藤氏の考察の結論は筆者が上記述べたことに一致し問題はなかろう。さらに当該記事の「三品所望」の文言に問題がないなら、建保二年に誤って挿入された可能性を指摘される。即ち、『吾妻鏡』編纂時の錯簡の可能性を検討していくとする。

次いで、公卿昇進を望み得た他の武蔵守の人物検討に移る。時房の就任時期は承元四年正月十四日から建保五年十二月十二日で、その後に『吾妻鏡』の人名表記から武蔵守任官が確認されるのは建保六年(一二一八)十二月二十日条の政所始記事の大江親広である。その前の同年七月八日条の行列記事では「民部権少輔親広」とあることから、親広はこの時点では武蔵守でなく、建保五年十二月十二日から同六年七月の間は別の人物が武蔵守になっていたと考えられるとしている。そこで、同年六月二十七日条・七月八日条の行列記事で「民部権少輔親広」と並んで「前武蔵守義氏」の名が見えるが、和田合戦記事では「足利三郎義氏」と無官の三郎であったことから、建暦三年(一二一三)五月から建保六年六月の間のいずれかの時期に義氏は武蔵守に補任されていたと考えられるとされる。そして、同年七月九日に臨時除目の微証があることから、この日に義氏から親広に武蔵守が交替したと推定されるとしている。

以上から、三位昇進を所望する武蔵守の候補は足利義氏と大江親広の二人に絞られるとされる。義氏は建保五年十二月十二日から同六年七月九日の間、親広は同六年七月から北条泰時が補任される承久元年(一二一九)十一月十三日までの間、武蔵守の地位にあったと考えられるとされる。そして、『吾妻鏡』の切貼りミスが年だけだとすれば、当該記事は建保六年四月二十七日であり、当該記事は義氏であると考えるのが自然であるが、これでよいか義氏の政治的立場からまず検討するとしていとする。

建保六年には北条政子が上洛し卿二位と面談したことで、実朝に不慮の事態が生じた後は、政子が後見しつつ親王将軍を戴くという方向で政子・義時の意向が固まっていたと推定されるとされ、こうした中で源氏一門の義氏が鎌倉殿と同じ公卿の地位を欲するのは将軍後継候補への名乗りともいえ、以上から建保六年段階で義氏が実朝に三位を所望することは想定しがたいとする。また義氏には実朝近臣としての微証がなく、当該記事の武蔵守は義氏ではないとする。

しかし、佐藤氏は義氏の武蔵守補任時期に関して『吾妻鏡』の人名表記の官歴がそのまま真実として考察することで、重大な誤謬をしており、上記の論述は意味がないのである。実朝期の武蔵守に関しては、菊地紳一氏が考察しており〔4〕、さらに筆者は「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配」でこれを追証している〔5〕。残念なことに佐藤氏は本論文を読んでいないようである。さて、北条時房の武蔵守在任期間を除くと、元久二(一二〇五)年閏七月より承元四(一二一〇年)正月までの四年弱、建保五(一二一七)年十二月より承久元(一二一九)年正月までの一年強が武蔵守空白となり、前者を義氏と推定した。補任理由を所謂牧氏の変で武蔵守平賀朝雅が誅殺され、後任の武蔵守に北条氏がなるのは露骨すぎるので、幕府成立以来、源家御一族の平賀氏が当国守であった先例から、北条氏への中継ぎには北条時政女所生の足利義氏が最適任であるとした。また、『吾妻鏡』では和田合戦の「三郎義氏」表記は語謬というより意図的隠蔽表記として論証しているが、ここでは直接関係しないので指摘だけに止める。以上の佐藤氏の主張する建保五年十二月十二日から同六年七月九日に義氏が武蔵守であるというのは虚構なのである。さて、義氏は十七歳で元久二年に武蔵守になっているから、ここで敍爵したとするの自然であり、そうすると建保年間では二十代後半であり、まだ五位であったと推定できる。従って、三位への越階は無理といえる。即ち、結論としては佐藤氏と同じく『吾妻鏡』の示す三位を望んだ「武州」は義氏ではないのである。

もう一人の武蔵守候補である大江親広に関して佐藤氏は次のように論述している。建保年間に於ける親広の立場を述べ、次いで、父広元が建保二年(一二一二)に正四位下に昇叙し三位目前と思われたと述べ、さらに大江改姓の狙いが本論冒頭に述べた五味氏の見解、即ち「公卿に昇進するための布石」との見解を引くが、続いて義時が実朝の急速な昇進を諫めた際に広元も同調したことから、広元自身の昇進もしにくくなり、これを義時は狙ったとの五味氏との説を述べる。そして、五味氏の言うように広元が三位目前であったとする。

これを受けて、広元の出家後、子息の親広が実朝に近仕していることから、「内々」に三位所望することは十分に想定出来るとして、親広説の可能性が支持されるとする。以上から、実朝に三位昇進を所望したのは大江親広とであり、当該記事は建保六年七月九日から実朝暗殺のあった翌建保七(一二一九)正月七日までの間の記事の錯簡であると結論づけられている。

しかし、この佐藤氏の結論は正しいであろうか。まず、親広の武蔵守在任は建保六年四月から承久元年十一月十三日の間とされている。拙稿Ⅰに於いて実朝期の武蔵守在院者を考証した結果、親元の在任は佐藤氏の言う義氏在任期間を含んいる建保五(一二一七)年十二月より承久元(一二一九)年正月までと推定した。広元が病気により出家したのは建保五年十一月九日である〔6〕。広元の陸奥守辞任を受けて後任には同年十二月十二日に北条義時〔7〕が、義時の相模守後任に北条時房〔8〕が補任された。即ち親広の武蔵守補任は広元の陸奥守辞任に伴う北条氏と大江氏との守の相博なのである。在任期間の筆者と佐藤氏との差は直接的な問題ではない。

さて、建保五年八月段階での親広の位階は何であろうか。建保五年八月廿二日付将軍家政所下文〔9〕の別当署判は大江広元を筆頭に、源仲章、北条義時、源賴茂、大内惟信、大江親広、北条時房、中原師俊、二階堂行光の九名である。彼等の位階を見ると、頼茂の最終位階は正五位下〔10〕、時房は従五位下〔11〕である。政所下文の別当署判順は基本的に位階上位者からで同位者の場合は先任順となります。上記の政所下文筆頭の広元は正四位下である〔12〕。従って、五位の賴茂と時房に挟まれている親広も五位である。当然ながら、「時房は当時従五位下であり、追討恩賞での越階を別として、通常の除目での三位への越階はありえない事である」と上述したと同様に、親広の越階昇進はありえないのである。即ち、佐藤氏の親広が三位昇進を望んだという考察は誤りとなる。

以上、「武州有三品所望」に想定された北条時房、足利義氏、大江親広の三人共に該当しないことが分かった。そうならば当該記事は誤謬記事であろうか。たとえ誤謬記事であっても何らか事実を下敷きに作り上げるのが『吾妻鏡』の手法である〔13〕。とすれば、三位を所望した「武州」御家人に該当者いないとしても、三位を所望したこと事態は事実としてこれを元に誤謬記事をなしたとするのが自然であろう。これから導かれるのは「武州有三品所望」の武州に問題があったとすべきである。

即ち、武蔵守ではない別国の守であった可能性である。同時に越階はないのが基本であるから、当該御家人は四位であることである。建保年間でこの条件に当てはまる御家人はただ一人である。建保二年正月五日に従四位上から正四位下に昇叙し、同四年正月二十八日に陸奥守に補任された大江広元である〔14〕
そこで、注目されるのは五味氏以下が注目した広元の中原氏から大江氏の改姓である。『吾妻鏡』によれば、将軍実朝がこれを承認したのは同四年四月十七日である〔15〕。同年六月十一日付中原広元申文で改姓申請をし、閏六月一日付で勅許がおり、十四日に鎌倉で披露された〔16〕。申文には、「散位従四位上大江朝臣維光、依有父子之儀」と述べ、「中原朝臣広秀(季の語謬)、雖蒙養育之恩」ながら改姓を欲するとして、最後に「早復本姓、可継絶氏」と締めている。しかし、「絶氏」とは維光には男子として従四位下まで昇進した匡範おり、この子孫は少なくとも六代は続いており〔17〕、「絶氏」の心配はなかったはずである。にもかかわらず、この時点で正四位下と広元が匡範より位階が上で、大江氏を望んだことは大江氏の氏長を望んだことになる。単純な改姓ではなく何らかの意図を持った改姓とすべきである。これが非参議従三位の望み、即ち公卿となることといえないだろうか。中原氏が諸大夫を止まりで公卿を出していないのと比較して、大江氏は参議音人、参議朝綱、中納言維時、そして維光祖父の匡房が権中納言と公卿を輩出している〔17〕。いわば改姓は公卿への望みの前提となるのといえる。

そこで、『吾妻鏡』の当該記事の誤謬は「武州」が「奥州」ということにならないだろうか。これが単に写本上の誤謬か作為的誤謬かは別として。すると、広元が陸奥守となったのは建保四年正月であるから、当該記事は本当のところは建保二年ではなく四年以降であるはずである。更に言うなら広元が出家した同年五年十月十日〔18〕以前ということになる。年だけの誤謬なら建保四年か五年となる。広元の改姓申文は建保四年六月付であり、かつ実朝が正二位右中将から権中納言という見任公卿に昇進するのが建保五年六月二十日〔19〕であることを思うと、、建保五年が相応しい。これが単なる切貼りの誤謬か作為的誤謬かは別として。誤謬の原因がいずれかは史料的限界もありここでは考えないことにする。以上、広元が非参議従三位を望んだのは建保五年四月といえる。しかし、広元は十一月九日に危篤となり北条義時が見舞いに訪れて〔20〕、翌十日にはいわば末期出家をしたことで、三位の望みは絶たれたのである。

註〔1〕五味文彦氏、『中世社会史料論』三和歌史と歴史学 二〇〇六年校倉書房。
〔2〕『吾妻鏡』では承元元(一二〇七)二月廿日条に時房が正月十四日に武蔵守に補任されたとの記事があるが、実は承元四年(一二一〇)正月十四日であることを筆者は立証している(拙稿Ⅰ、「武蔵守北条時房の補任年時について」『政治経済史学』第百二号一九七四年十一月)。時房が武蔵守から相模守に遷任するのは建保五年(一二一七)十二月十二日である(『関東評定衆伝』仁治元年条)。
〔3〕佐藤雄基氏、「公卿昇進を所望した武蔵守について―鎌倉前期幕府政治史における北条時房・足利義氏・大江親広―」阿倍猛編『中世政治史の研究』二〇一〇年日本史史料研究会。
〔4〕菊池紳一氏、「武蔵国における知行国支配と武士団の動向」『埼玉県史研究』十一号一九八三年三月。
〔5〕拙稿Ⅰ、「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配―武蔵守北条時房補任事情―」『政治経済史学』第二百二十二号一九八五年正月。
〔6〕『吾妻鏡』健保五年十一月九日条。
〔7〕『吾妻鏡』十二月廿四日条。
〔8〕『将軍執権次第』(『群書類従』第四輯補任部)では十三日となっているが、『関東評定衆伝』(『群書類従』第四輯補任部)では十二日となっており、この一連の人事は十二日行なわれた京官除目(「叙位除目執筆抄」〔『大日本史料』第四編之十四頁五二七〕)であり、義時・時房共この日の除目である。
〔9〕「禰寢文書」建保五年八月廿二日付将軍家政所下文(『鎌倉遺文』第四巻二三三二号)。
〔10〕『尊卑分脉』第三篇頁一三〇。
〔11〕『将軍執権次第』。
〔12〕『尊卑分脉』第四篇頁九八。
〔13〕拙稿Ⅱ、「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義(Ⅱ)『政治経済史学』第二二七号一九八五年六月(『鎌倉幕府成立期の東国武士団』二〇一九年九月岩田書院収録)では、『吾妻鏡』の治承・文治内乱期に於ける源氏関係の誤謬に関して、単なる切貼りの誤謬ではなく、何らかの事実に基づいて作為を行なっていることを提示した。
〔14〕『尊卑分脉』第四篇頁九八。陸奥守補任日は「二十七日」とあるが、公卿の補任日から、二十八日の臨時除目である(『大日本史料』第四編之十三頁九五六)。
〔15〕『吾妻鏡』建保四年四月十七日条。
〔16〕『吾妻鏡』同年閏六月十四日条。
〔17〕『尊卑分脉』第四篇頁九七。
〔17〕『尊卑分脉』第四篇大江朝臣。
〔18〕『吾妻鏡』健保五年十月十日条。
〔19〕『公卿補任』建保五年条。
〔20〕『吾妻鏡』健保五年十一月九日条。

(2024.12.02)

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2025年中国の祝日―中国雑感〔57〕―

2024年11月16日 15時40分47秒 | 中国祝日
明年の祝日(休日)に関して、2024年11月12日(火)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2024年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。昨年と異なるのは法定休日が春節及び労働節で1日増加されたことです。

一 元旦(1月1日)
1月1日(水)の1日を休日。
二 春節(旧暦元旦 1月29日) 法定休日(旧暦大晦日~正月3日)
1月28日(火)~2月4日(火)の8日間を休日。
1月26日(日)〔2月2日・月〕・2月8日(土)〔4日・火〕振替出勤日。
三 清明節(4月4日)
4月4日(金)~6日(土)の3日間を休日。
4月7日(日)〔5日・金〕振替出勤日。
四 労働節(5月1日) 法定休日(5月1・2日)
5月1日(木)~5月5日(月)の5日間を休日。
4月27日(日)〔5日・月〕振替出勤日。
五 端午節(旧暦5月5日 5月31日)
5月31日(土)~6月1日(月)の3日間を休日。
六 
9月15日(日)~17日(火)の3日間を休日。
9月14日(土)〔16日・月〕振替出勤日。
七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日) 中秋節(旧暦8月15日 10月6日)
10月1日(水)~8日(水)の7日間を休日。
9月29日(日)〔7日・火〕、11日(土)〔8日・水〕振替出勤日。


国務院発表原文は、

国务院办公厅关于2025年
部分节假日安排的通知
国办发明电〔2024〕12号
各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:
经党中央、国务院批准,根据2024年11月修订的《全国年节及纪念日放假办法》,自2025年1月1日起,全体公民放假的假日增加2天,其中春节、劳动节各增加1天。据此对放假调休原则作进一步优化完善,除个别特殊情形外,春节自农历除夕起放假调休8天,国庆节自10月1日起放假调休7天,劳动节放假调休5天,元旦、清明节、端午节、中秋节分别放假调休或连休3天(如逢周三则只在当日放假),国庆节放假如逢中秋节则合并放假8天。
按照上述原则,现将2025年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。
一、元旦:1月1日(周三)放假1天,不调休。
二、春节:1月28日(农历除夕、周二)至2月4日(农历正月初七、周二)放假调休,共8天。1月26日(周日)、2月8日(周六)上班。
三、清明节:4月4日(周五)至6日(周日)放假,共3天。
四、劳动节:5月1日(周四)至5日(周一)放假调休,共5天。4月27日(周日)上班。
五、端午节:5月31日(周六)至6月2日(周一)放假,共3天。
六、国庆节、中秋节:10月1日(周三)至8日(周三)放假调休,共8天。9月28日(周日)、10月11日(周六)上班。
节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。
国务院办公厅 
2024年11月12日 
です。
カレンダー表示もあります。
(2023.11.16)
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2024年平泉の紅葉

2024年11月11日 16時29分02秒 | 観光(日本)
2024年11月7日(木)午前、平泉の紅葉を鑑賞に行きました。やはり盛りに少し早かったようです。観自在院遺址、毛越寺、中尊寺の3か所です。
まず観自在院遺址です。写真1は、東から西へと池を撮ったものです。

写真2は、西南から奥へと池を撮ったものです。

写真3は、更に西へと進み大きく紅葉を撮ったものです。これで観自在王院は終わりです。

次いで隣の毛越寺です、写真4は、南大門跡先から大泉が池越しに左に経楼跡、右に鐘楼跡です。

写真5は、西から東に池越しに右側に出島と遠くに洲浜です

写真6は、同じく中島です。

写真7は、嘉祥寺跡です。

写真8は、講堂跡です。

写真9は、大金堂円隆寺跡です。

写真10は、遣水です。

写真11は、紅葉越しの洲浜です。

写真12は、池中立石と奥に出島です。これで毛越寺は終わりで、中尊寺に移動します。

写真13は、弁慶堂です。

写真14は、参道です。
写真15は、金色堂への道です。
写真16は、金色堂です。残念なことに中央の木はまで紅葉していません。

最後の写真17は、阿弥陀堂です。

(2024.11.11)
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2024年弘前城の紅葉

2024年11月10日 13時30分07秒 | 観光(日本)
2024年11月6日(水)午前、弘前城の紅葉を鑑賞に行きました。少し盛りには早かったようです。この写真をお見せします。
写真1は、追手門から北に二の丸に向かう道で追手門を奥に撮ったものです。

写真2は、二の丸手前の杉の大橋上から二の丸堀を撮ったものです。

写真3は、二の丸の南内門を背景に撮ったものです。

写真4は、南西からの天守です。

写真5は、北東からの天守です。

写真6は、西に岩木山です。

写真7は、下に蓮池です。

写真8は、本丸のです。

写真9は、鷹岡橋です。

写真10は、三の丸です。

写真11は、辰巳櫓を背景に中濠です。

最後の写真12は、東内門の石橋からです。

(2024.11.10)
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中山恒三郎家(松林甫)―歴史雑感〔91〕―

2024年10月31日 18時22分06秒 | 教育
2024年10月27日(日)午前、中山恒三郎家・松林甫(横浜市都筑区川和町890)を見学しました。本家は非公開で本日は年1回の公開日です。本地は江戸時代の文政年間の頃からの中山恒三郎家の邸宅です。酒類卸売業・醤油醸造業・生糸業を生業とする「中山恒三郎商店」で横浜北部の大豪商でした。邸内には菊園「松林甫(圃)」を創成しました。なお、現在は川和保育園が移転したことで建物配置が変わりました。
写真1は、店蔵(本店)で手前が諸味蔵です。
写真2は、諸味蔵内に保存されている諸道具等の一部です。

写真3は、正面からの店蔵です。

写真4は、店蔵の左前に移転された書院・松林庵です。奥が店蔵です。庵正面の築山から撮ったものです。

写真5は、庵から庭と撮ったものです。

庵室内には幾つかの中山家ゆかりの書が掲げられています。最後の写真6は、その一つで長く明治天皇の宮内大臣を務めた土佐出身の土方久元(1833~1918)です。

(2024.10.31)
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西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(3)

2024年10月11日 16時07分55秒 | 教育
7日(月)、ホテルを10時に出て卒業生5名(山梨県の勤務先に帰るのと訪問者、前日に知人宅への、以上3名は不参加))と共に浜離宮恩賜公園に向かいます。
本公園のある地は寛永年間(1624~1644)まで将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。承応3(1654)年、4代将軍家綱の弟甲府宰相綱重は将軍から海を埋め立てて別邸(甲府浜屋敷)を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が6代将軍になったのを契機に将軍家の別邸となり、浜御殿と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園・改修工事が行なわれ、11代将軍家斉の時にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新後に皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。戦災等で建物・木々等が焼失して往時の面影はなくなりました。1945年11月3日、東京都に下賜されて、翌年4月、都立の有料公園となり、1952年11月、国の特別名勝及び特別史跡に指定され、現在に至っています。
写真1は、浜離宮恩賜公園の北入口、大手門前で撮ったものです。10時40分過ぎです。

写真2は、潮入の池越しに中島の御茶屋を背景に撮ったものです。茶屋の手前がお手伝い橋です。

写真3は、お手伝い橋上でのものです。

写真4は、茶屋横の中島橋上です。奥は松の御茶屋です。このように浜離宮には潮入の池の北側に茶屋が点々と建てられています。将軍は中島とここで茶等を楽しんだのです。12時前に公園を出て、新橋でラーメンの昼食としました。午後は自由行動とし、各自散っていきました。

夕食は18時30分からホテル近くのNSビル内の「自然物語ごだりご」で京風おでんや焼き鳥等を食しました。最後の写真5は、ここでの乾杯です。

8日(水)、10時までにチェックアウト済ませ、各自散っていき、同窓会を終えました。
(3034.20.11)
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西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(2)

2024年10月10日 15時51分13秒 | 教育
6日(日)、顧先生は先に出発し、卒業生8名と私は10時発の送迎車で伊豆急下田駅に向かいました。次いで、10時30分発の下田ロープウェイに乗り山頂駅から散策開始です。写真1は、寝姿展望台からの下田湾です。下の船は下田湾遊覧の黒船「サスケハナ」です。

写真2は、黒船展望台での記念撮影です。
写真3は、下りは市街地側を通り、展望台でのものです。その後、山頂駅の喫茶室で過ごし、11時45分発で下りました。

道の駅開港下田みなとの「地魚回転寿司魚どんや」で昼食としました。写真4は、食事後に皿を積み重ねて撮ったものです。

写真5は、13時20分発の黒船「サスケハナ」に乗船前に皆さんを撮ったものです。

写真6は、湾内を飛ぶ鷗です。

写真7は、犬走島です。右に湾内灯台が見えます。奥の白い船は海上保安庁のものです。

写真8は、船内でスマホで記念撮影をする卒業生です。立ち替わり撮りました。

駅に戻り、14時34分発の踊り子60号で出発し、17時12分に品川駅で下車し、山手線経由で新宿に戻り、京王プレッソイン新宿に18時頃にチェックインしました。夕食は、西新宿の焼肉清香苑別館で行いました。写真9は、最初の19時前の乾杯です。

最後の写真10は、20時頃の乾杯です。その後お開きとしてホテルに戻りましたが、卒業生によってはカラオケに繰り出しました。

(2024.10.10)
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西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(1)

2024年10月09日 21時51分16秒 | 教育
2024年10月4日(金)~8日(火)の5日間、日本で西安交通大学日語系1期生の卒業35周年同窓会を行ないました。1期生は1985年に入学し89年に卒業した14名(女子9名・男子5名)から8名(中国から6名、日本から2名)、それに日語系創立の胡明耀先生と娘さん、それに私の11名が参集しました。
4日(金)は夜までに西新宿の京王プレッソイン新宿にチェックインし、卒業生6名が集合しました。
5日(土)は10時にホテルを出、東京駅に向かいました。写真1は、出発の際のホテル前のです。

当駅構内で各自が「駅弁屋祭」で駅弁を購入し、ホームで乗車する11時30分発踊り子61号前で撮ったのが、写真2です。卒業生8人が揃いました。

写真3は、皆さんの買われた駅弁の一部です。

伊豆急下田駅に14時17分に着き、顧先生と合流して、14時30分発のホテル送迎車で本日の宿舎の下田大和館に着きました。写真4は、送迎ホテル前でのものです。同窓会参加者10名です。

写真5は、ホテルから直接出られる南に広がる多々戸浜海岸に下り、流木に腰掛けて撮ったものです。ここはサーフィンの場で写真のようにサーファーが楽しんでいます。

写真6は、波に浸かっている卒業生達です。中国では海に親しむ機会は少ないので、白い砂浜が綺麗な海岸として知られている多々戸浜を見下ろせるホテルを選んで宿泊地としたのです。それに温泉露天風呂付和室を選び、温泉も愉しみました。

写真7は、19時30分からの夕食の磯会席で、写真には鮑と伊勢エビがあります。料理は基本的に海産物で、伊豆半島産の金目鯛に煮付けが最後です。

最後の写真8は、もう一のテーブルのです。席の関係で6人のテーブルと5人のテーブルに分かれました。食事後、部屋に戻り更にアルコールを飲みましたし、朝の露天風呂も楽しみました。

(2024.10.09)
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西東京市下野谷遺跡―歴史雑感〔90〕―

2024年05月22日 10時01分16秒 | 考古
2024年5月19日(日)午後、武蔵野文化協会主催の「国史跡西東京市下野谷遺跡を探る」で同遺跡を見学しました。本遺跡は、東京都西東京市東伏見2丁目・3丁目・6丁目内に広がる、縄文時代中期(約4~5千年前)の南関東最大級の環状集落の遺跡です。北に石神井川が約7m下に流れる標高51~59mの台地上に位置します。石神井川北側は本来湿地であり葦が茂り、縄文時代には涌水も豊富で水量も多く沼地もあった可能性があります。本遺跡は小谷を挟み東集落(東西約300m×南北約180m)と西集落(直径約150m)に分かれ、集落内には土坑(墓)群のある広場を中心に竪穴式住居・掘立柱建物が囲むように並んでいます。発掘調査により住居跡は400軒以上、建物跡は20基以上、土坑は千基以上管区にされ、これらは約千年に渡っていたといえます。
写真1は、西武線東伏見駅南口広場に設置してある「縄文モニュメント」です。舌のハンドルを20回回転させると本遺跡の音声説明がされます。

写真2は、本遺跡の西側環状集落跡に整備設置された下野谷遺跡公園(東京都西東京市東伏見6丁目4)の入口(南側)の立つ「国史跡下野谷遺跡」石碑です。奥に見える建物は復元された竪穴式住居です。

写真3は、土坑群跡に土を盛り示したものです。

写真4は、正面から見た復元した竪穴式住居(1号住居)で、縄文時代中期中葉のもので、直径5.5mの円形深さ1m弱の穴で5本柱からなり、屋根は茅葺ではなく珍しい樹皮の上に土をかけて固めている土葺です。当然ながら見るように草が生えています。

写真5は、同じ住居を西側斜めから見たものです、

写真6は、住居の中に入り、円形の壁に沿ってテラス状になった部分です。ここに敷物を置き寝所ともしたのでしょう。

写真7は、屋根とこれを支える横木の骨組みです。下が入口で、上が三角の開口部でここから煙が出ます。木々はふじツル等で締められています。
写真8は、上から屋根、細木の骨組み、横木、柱です。柱はご覧農に横木を挟むため先端が自然に二股になったものを用いています。

写真9は、埋甕炉(土器で埋めて炉にしたもの)です。

写真10は、1号住宅の奥にある復元した竪穴式住居(2号住居)で、縄文時代中期後葉のもので、6本柱からなります。

写真11は、同じ住居を右斜めから見たものです。

写真12は、天井と下にこれを支える横木と柱です。

写真13は、柱で自然木を用いていますから、ご覧のように曲がっています。

写真14は、地焼炉(地を単に掘ったもの)です。

写真15は、住居廃絶状態の復元土器溜り(縄文時代中期中葉)です。

写真16は、拡大したものです。

公園での遺跡見学後、西東京市郷土資料室(西東京市西原4-5-6)に移動し、遺跡の埋蔵品を見学しました。写真17は、土器展示で、一番右のはご覧のように歪みがあり、「下手くそな」土器と称せられています。この左のは、口縁部は曽利式土器の特徴、胴部の文様は連弧文系土器の特徴と、異なる複数の特徴が混ざる土器、即ち折衷土器です。

最後の写真18は、石器です。

(2024.05.22)

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江川せせらぎ緑道の桜

2024年04月10日 16時21分06秒 | 
2024年4月7日(日)午前、江川せせらぎ緑道(横浜市都筑区東方町)の桜を見に行きました。本年は桜の開花が遅れ、横浜も本日が満開宣言でした。緑道の桜も満開となっており、日曜日と重なり多くの人出で賑わっていました。新横浜石川線の新開橋から西へと首都高速神奈川7号横浜北西線まで歩きました。
写真1は、新解橋から少し入ったところからです。
写真2は、緑道に下りたところからです。
写真3は、手前に桜を入れ、奥をぼかしたものです。
写真4は、拡大した桜花です。
写真5は、更に進んで奥に川向堺橋が見えます。
写真6は、川向堺橋上からです。奥の赤いのはチューリップです
写真7は、橋上からの桜花の拡大です。
写真8は、縦位置の桜です。のびのと咲いています。
写真9は、拡大した桜花です。
写真10は、更に進み緑道が緩く曲がるところ、チューリップと桜が同時に咲いています。桜の開花が遅れたので、ちょうど両方が盛りとなりました。
写真11は、チューリップは赤、白、そして奥に黄色が見えています。
写真12は、前耕地橋手前で赤いチューリップに桜花を重ねました。
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写真13は、同じなのを縦位置にしてみました。
写真14は、縦位置で上に桜、下にチューリップです。
写真15は、首都高手前で振り返って見たものです。
写真16は、戻り前耕地橋のところです。
写真17は、チューリップと桜花を拡大したものです。

最後の写真18は、チューリップを中心に拡大したものです。

(2024.04.10)


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綱島の池谷桃園の桃花

2024年04月07日 15時14分50秒 | 
2024年4月6日(土)午前、新綱島駅から少し東に入ったところにある池谷桃園(横浜市港北区東綱島1-8-29)の桃が開花しているので、撮りにいってきました。戦前には綱島は岡山と並ぶ2大産地でした。現在では旧名主家の池谷家の本桃園のみが生産しており、「日月桃」という綱島原種で当園のみで生産されている貴重な桃が実をつけます。
写真1は、池谷桃園を南から東側へと撮ったものです。本園は池谷家の東からの通を挟んで南側と北側に分かれます。

写真2は、東から撮ったものです。手前の桃は「日月桃」で、6月初めに直売されます。他に早生日川白鳳、白鳳、蟠桃を直売します。奥は新綱島駅に隣接した綱島初のタワマンです。

写真3は、日月桃を捉えたものです。

写真4は、東からの道に南接した桜です。

写真5は、北側の本園を東から北へと撮ったものです。
写真6は、やはり日月桃です。

写真7は、日月桃を近くにと捉えたものです。

写真8は、南側に戻りタワマンを背景に撮ったものです。

写真9は、東から西へと全体を撮ったものです。

最後の写真10は、近くへと捉えたものです。

(2024.04.05)
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伊豆(2)城ヶ崎・だるま山・修善寺

2024年03月24日 13時37分08秒 | 観光(日本)
(2)城ヶ崎・だるま山・修善寺
2024年3月15日(金)・16日(土)、クラブツーリズム主催の「冬の味覚・伊豆グルメと冠雪の富士山!」に行ってきました。旅程は、
15日 昼食三島うなぎ、沼津御用邸、小室山 熱川温泉泊・夕食伊勢エビ鮑付きの海鮮トロ箱盛りと金目鯛煮付け
16日 城ヶ崎、昼食高足ガニしゃぶしゃぶ、だるま山、修善寺
です。
2024年3月16日(土)朝、写真1~4は、ホテル志なよしの部屋からの日の出(5時55分)です。





8時15分にホテルを出発し、城ヶ崎・ほら納屋駐車場に着きました。700m程歩いて門脇駐車場に至りました。写真5は、ここからの半四郎落とし・門脇吊り橋です。

写真6は、遊歩道から吊り橋を撮ったものです。

写真7は、渡って吊り橋を北へと撮ったものです。

写真8は、門脇埼灯台です。

写真9は、灯台へと上り、城ヶ崎を南へと撮ったものです。

写真10は、東へと真下に門脇埼です。

写真11は、北へと撮ったもので、左に吊り橋、右につばくろ島です。

写真12は、つばくろ島です。

写真13は、吊り橋です。

写真14は、吊り橋上から下に岸壁です。

写真15は、吊り橋全景と奥に門脇埼灯台です。以上で、城ヶ崎は観光は終わりです。

9時35分に出発しました。戸田で高所がにのしゃぶしゃぶ昼食後、だるま山高原展望台に12時55分に到着しました。写真16は、展望台からの富士山の遠望です。下に沼津市街が見えます。

写真17は、富士山を引きつけて撮りました。

写真18は、「達磨山キャンプ場からの展望」碑に富士山を添えたものです。

写真19は、富士山に沼津市街外を入れたものです。以上で終わりです。次いで、最後の観光地修善寺に13時15分に向かいます。

修善寺のバス駐車場には13時40分過ぎに到着しました。修善寺は何度も訪れているので、通常の散策ではなく、まずここで非業の最期を遂げた頼朝異母弟の伝三河守源範頼墓を訪れました。写真20が、それです。

写真21は、墓横にあるカフェ芙蓉でまったりしたとこで撮ったものです。

最後の写真22は、範頼の舅である伝藤九郎盛長墓です。以上で観光は終わりです。湯河原に戻り16時34分発で帰りです。

(2024.03.24)
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伊豆(1)沼津御用邸・小室山

2024年03月22日 16時37分45秒 | 観光(日本)
(1)沼津御用邸・小室山
2024年3月15日(金)・16日(土)、クラブツーリズム主催の「冬の味覚・伊豆グルメと冠雪の富士山!」に行ってきました。旅程は、
15日 昼食三島うなぎ、沼津御用邸、小室山 熱川温泉泊・夕食伊勢エビ鮑付きの海鮮トロ箱盛りと金目鯛煮付け
16日 城ヶ崎、昼食高足ガニしゃぶしゃぶ、だるま山、修善寺
です。
踊り子3号で10時13分に湯河原で下車し、バスに乗り、三島でウナ重の昼食後、最初の観光地の沼津御用邸に12時40分過ぎに着きました。沼津御用邸は1905(明治38)年に造営され、その後の増築を重ねて、1922(大正11)年に現在の姿になりました。(めいじ38)まず面積1270㎡の木造平屋建ての西附属邸に入ります。
写真1は、皇族が食事をされる御食堂です。

写真2は、天皇が来客と面会する謁見所です。部屋は畳敷きですが、一面に絨毯が敷き詰められています。右の天皇の椅子には御紋章の蒔絵が描かれています。

写真3は、皇族の居間である御座所です。これに寝室等を合わせ全体を御座所と呼んでいました。

写真4は、西附属邸の外観で、右が御座所です。左が皇后の居所です。

写真5は、当地の住民が潮風や砂を守った垣で竹製です。

写真6は、海岸から南を見たものです。防潮堤を工事中でした。

写真7は、南に邸内を歩いている時に撮ったものです。

写真8は、邸内の藤棚です。

写真9は、馬屋です。ただ、現在は飼われいません。以上で御用邸は終わりです。

13時は頃に出発し、次の観光地の小室山に14時40分過ぎに着きました。写真10は、リフトで上っているところです。

写真11は、上り北へと撮ったもので、奥が熱海市街、右が初島です。

写真12は、手前は川奈ホテルゴルフコース富士コースです。

写真13は、手前が川奈ホテルゴルフコース大島コース、奥は伊東市富戸です。

写真14は、カフェのCafé●321から南を見たものです。

最後の写真15は、リフトで下っているところです。以上で本日の観光は終わりで

16時藩頃に熱川温泉の志なよしに着きました。夕食には伊勢エビ・鮑も盛り込んだトロ箱会席でした。金目鯛一匹の煮付けも付いています。
(2024.03.22
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岸根公園の梅

2024年02月28日 15時57分21秒 | 
2024年2月24日(土)午前、横浜市営地下鉄ブルーライン岸根公園駅に隣接した岸根公園(横浜市港北区岸根町725)に行ってきました。少数ながら梅が植えられいます。これを撮影してきました。これをお見せします。但し、入口近くの梅は散りかけていたので撮りませんでした。前の4枚は奥の梅で、後の4枚は中頃の梅です。










(2024.02.28)
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竹生島初日の出(4)熱田神宮・竹島

2024年01月26日 15時42分19秒 | 観光(日本)
(1)豊川稲荷
(3)彦根城
(4)熱田神宮・竹島
2023年12月31日(日)~2024年正月3日(火)、クラブツーリズム主催の横浜発のバスツァー「琵琶湖「初日の出クルーズ」と神の棲む島「竹生島」」で初日の出を拝みました。旅程は、
31日 豊川稲荷、関ヶ原ですき焼き御膳夕食 八日市泊
1日 竹生島(初日の出)、近江神宮初詣、大津で比叡湯葉の昼食、彦根城、彦根で鮎塩焼き膳の夕食、 同泊
2日 熱田神宮参拝、蒲郡で昼食、竹島
です。
2024年1月2日(火)、ツァー最終日の最初は熱田神宮参拝です。熱田神宮(名古屋市熱田区神宮1-1-1)は日本武尊の草薙神剣が鎮座する所です。祭神は熱田大神、草薙神剣を霊代とする天照大神です。
写真1は、神木の大楠です。樹齢千年以上といわれています。

写真2は、日本三大土塀の信長塀です。桶狭間合戦の戦捷の礼として織田信長が寄進したものです。

写真3は、本宮拝殿です。

写真4は、本宮奥にある天照大神の荒魂を祀る一之御前神社です。

写真5は、本宮の裏門からです。

写真6は、お清水です。

写真7は、水を司る罔象女神を祀る清水社です。

写真8は、以前は草薙神剣を奉安していた土用殿です。

写真9は、本宮内拝殿です。

蒲郡で昼食後、最後の竹島(愛知県蒲郡市竹島町3-15)を訪れました。
写真10は、手前に竹島園地で、奥に387mの竹島橋と竹島です。

写真11は、左側から見た竹島橋と竹島です。

写真12は、101段の石段を上ったところにある宇賀神社(祭神宇迦之御魂神)です。

写真13は、島の中心である日本七弁天の八百富神社拝殿です。祭神は市杵島姫命です。

写真14は、竹島南端の龍神岬から東に陸側です。

写真15は、同じく南に渥美湾です。

写真16は、八百富神社本殿です。。

写真17は、竹島橋上から西に奥に海岸線です。

最後の写真18は、同じく東に海岸で、鷗が群れています。以上で観光は終わりで、一路東名高速道路で帰りま。

(2024.01.26)
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