歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

石橋山合戦(その2)―歴史雑感〔15〕―

2014年08月10日 14時37分04秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

 

二、大庭景親軍の構成

大庭景親軍に関しては『吾妻鏡』に交名記載がないので、石橋山合戦当日記事の治承四年八月二十三日・二十四日条に見える大庭軍参軍者は次の通りです。

1.大庭三郎景親(大庭景親・相模国大庭氏族大庭流)

2.俣野五郎景久(俣野景久・相模国大庭氏族大庭流)

3.河村三郎義秀(河村義秀・相模国秀郷流波多野氏族河村流)

4.渋谷庄司重国(渋谷重国・相模国秩父氏族渋谷流)

5.糟屋権守盛久(粕屋盛久・相模国藤姓)

6.海老名源三季貞(海老名季貞・相模国横山党)

7.曽我太郎助信(曽我祐信・相模国)

8.瀧口三郎経俊(山内経俊・相模国須藤氏族山内流)

9.毛利太郎景行(毛利景行・相模国)

10.長尾新五爲宗(長尾爲宗・相模国大庭氏族長尾流)

11.同新六定景(長尾定景・相模国大庭氏族長尾流)

12.原宗三郎景房(原宗房・相模国惟宗姓)

13.同四郎義行(原行能・相模国惟宗姓)

14.熊谷次郎直実(熊谷直実・武蔵国私市党)

ここまでは景親軍「三千余騎」として記載されている景親以下の歴名です。以下は記事中に出現する参軍者です。

15.飯田五郎家義(飯田家義・相模国)

16.梶原平三景時(梶原景時・相模国大庭氏族梶原流)

17.荻野五郎俊重(荻野俊重・相模国横山党)〔本項のみ十月十二日条〕

17名中、本貫が相模国16名、武蔵国1名と、相模国武士が圧倒的です。「大庭三郎景親云々、これ禅門(平清盛)私に遣わすところなり」(『玉葉』治承四年九月十一日条)と清盛が相模国有力武士で在京中の景親を東国の反乱対処に帰国させたものですから、同国の武士を動員して頼朝軍に当たったのは当然なことで、かかる構成となったといえます。さらに、熊谷氏のように、一部の武蔵国武士も動員に応じたことになります。

相模国武士では5名が大庭氏族、すなわち鎌倉党と呼ばれた景親の一族で、同党が主力であることを示しています。また、河村義秀と山内経俊のように、故義朝縁者が、頼朝の参軍要請(『吾妻鏡』同年七月十日条)に反して、景親軍を構成していることです。以上、相模有力武士は大きく分けて、土肥氏を中心とした中村一族と三浦一族の頼朝軍に対して、鎌倉党、それに波多野一族の景親軍という色分けになります。

これに、大庭軍とは別に、伊豆国から頼朝軍を追従してきた伊東祐親軍が加わります。これに参軍した武士で『吾妻鏡』に記載のあるのは、

18.伊東二郎祐親法師(伊東祐親・伊豆国工藤氏族伊東流)

19.小平井紀六久重(小平井久重・伊豆国)

の二人です。久重は名乗りに「名主」とあるので、本貫は不明ながら、名主級の小武士で、伊東氏の郎従と考えてもよいのではないでしょうか。すなわち、祐親軍の主力は伊東一族ということになります。

(続く)

(2014.07.10)