一、頼朝期
伊豆国で反乱蹶起した源頼朝は、治承4年(1180)9月5日、武蔵国府に入り、武蔵国の支配圏を掌握しました。もちろんこれは朝廷の公認によるものではなく、反乱による実力支配です。いわば武蔵国支配の簒奪です。
元暦元年(1184)に頼朝は知行国として武蔵・駿河両国を給わり、6月5日、義光流信濃源氏の平賀義信が守に補任されました。もちろん頼朝の推挙によるものです。これにより、武蔵国支配は、知行国主源頼朝、武蔵守平賀義信、在庁官人というラインとなりました。そして、武蔵国は幕府滅亡まで関東御分国(将軍知行国)でした。
ここで、守の業務たる国務はどのような内容を有していたのでしょうか。簡略にいうと下のようになります。
1.所務沙汰 イ所課沙汰(徴税権)ロ訴訟沙汰(裁判権)ハ所司沙汰(人事・公領処分権)ニ雑事沙汰(その他)
2.検断沙汰(警察権)
3.国侍催促(軍事権)
2と3は表裏一体の権能であり、その意味からいうと1は狭義の国務といえ、すなわち守の権能は国務と検断といってもいいでしょう。守護は以上の守の職能の内、検断、すなわち検断沙汰・国侍催促を権能とし、ここで国侍催促は実際には御家人催促となります。守の権能としては狭義の国務である所務沙汰が残されることになります。
さて、関東御分国において狭義の国務は政所の管掌となります。すると、検断は守護の管掌となるのですが、東国15か国(遠江・信濃・越後国以東)では前期において基本的に守護はまだ設置されていませんでした。『吾妻鏡』建久6年(1195)7月16日条に、
武蔵国務の事、義信朝臣の成敗、もっとも民庶の雅意に叶うの由、聞こし召し及ぶにつき、今日御感の御書を下される〈うんぬん〉。向後の国司おいては、この時を守るべきの趣、壁書において府疔に置かれられる〈うんぬん〉。
とあるように、普通は知行国の守は国務を掌握しない名目的な守、すなわち名国司ですが、武蔵国は例外的に守義信も国務に関与しました。では、政所と守義信との管掌はどうなっているのでしょうか。完全には解明できませんが、所課・訴訟沙汰は政所、所司・雑事沙汰は両者が分掌していたといえます。そして、政所の下で執行する国務沙汰人=国奉行人として比企能員がいました(『吾妻鏡』同年10月1日条)。御家人催促については上野国と共に侍所の管掌です(『吾妻鏡』文治5年〔1189〕7月17日条)。検断が守義信となります。在庁官人としてはトップたる総検校職の畠山重忠がいますが、検断の一部を管掌〈『吾妻鏡』建久4年〔1193〕2月9日条〉していましたが、他の権能に関しては不明です。以上、頼朝期の武蔵国支配は、政所が所課・訴訟沙汰を管掌し、この下に国奉行人としての比企能員がおり、所司・雑事沙汰を政所と守義信とが分掌し、検断沙汰は基本的に守義信が管掌していましたが、検断の一部を在庁総検校職の重忠が分掌し、御家人催促は侍所の管掌という事になります。
ところで、義信の正室は頼朝の乳母比企尼の三女です。能員は比企尼甥で養子です。重忠の正室は武蔵国の有力御家人足立遠元の娘であり、遠元の叔父藤九郎盛長の正室は比企尼長女です。このように武蔵国支配に関わる面々は比企尼関係者で、いわば比企ファミリーというべき存在です。すなわち武蔵国支配は比企ファミリーに担われていたのです。ただ、比企尼は文治年間には死去したようなので。建久年間の頼朝期には比企ファミリーは格を失っていた事になります。
二、頼家期
正治元年(1199)正月13日、初代所軍源頼朝が死去し、嫡男頼家が第2代将軍となりました。当然ながら知行国主は頼家が継承します。武蔵守義信はこれを機に出家し、守を辞任したといえます。補任日時は不明ながら、義信子の朝雅が守を継承しました。守は交代しましたが、基本的に頼朝期と同様な支配体制が継続した事になります。ただ、朝雅は20歳には満たない若年と思われるので、実務に関しては父義信の支えをえたと思われます。以上、頼家期の武蔵国支配は頼朝期の継続でした。、しかし、建仁3年(1203)9月2日に比企氏が滅亡し、事態は大きく転換します。
三、実朝期
いわゆる「比企氏の乱」により、将軍頼家は引きずり下ろされ、弟の実朝が第3代将軍となります。武蔵国支配では知行国主が実朝に代わり、国奉行人の比企能員が消えます。では、新たな国奉行人は存在したのでしょうか。残念ながらこの存在を示す明確な史料はなく、不明としかいえません。そして、建仁3年10月3日、武蔵守平賀朝雅が京都守護のため鎌倉を離れます。ここに関東に武蔵守は不在となったのです。
『吾妻鏡』同年10月27日条に、
武蔵国諸家の輩、遠州に対し弐存ずべからずの旨、ことに仰せ含められる。左衛門尉義盛奉行たる、
とあります。ここで「遠州」は北条時政、義盛は侍所別当和田義盛です。このことは時政が検断沙汰と御家人催促を掌握した事を示しています。守の権能の一部と従来侍所の権能を移管された事になります。とすれば、時政は政所別当に就任している以上、政所が管掌している所課・訴訟沙汰と、政所と守とが分掌している所司・雑事沙汰をも移管される事が可能といえます。以上見ると、時政は不在の守朝雅の代理として、守以上の権能を行使しえたといえます。これは総検校職畠山重忠の権能を侵すともいえます。
元久2年(1205)6月22日、二俣川合戦で畠山重忠は討伐軍により戦死し、続いて、閏7月19日、いわゆる牧の方の変で北条時政は出家して失脚します。さらに、26日、与党として京都で守平賀朝雅が誅戮されます。ここに、守朝雅と守代行時政と総検校職重忠とが消えます。8月9日、武蔵守に足利義氏、遠江守に北条時房が補任されます。ここに、知行国主源実朝、守足利義氏の武蔵国支配の新体制が発足します。ただ義氏は17歳と若年であり、朝雅が京都守護として不在の時、時政が守代行を勤めたように、同様な存在が必要であったのではないかと考えます。すると、これに相応しいのは、失脚した父時政に代わり、幕府を主導する地位に就いた相模守北条義時でしょう。すなわち、新体制は知行国主実朝、守義氏、守代行義時となります。ただ、義時の権能は父時政が余りに強い権能を占めて、反発を買い失脚に経ったことを鑑み、平賀氏期の守の権能を代行するのに止めたのではないかと考えます。
義氏が任期の4年を終えて、承元4年(1210)2月14日、駿河守から武蔵守に北条時房が遷任します。ここに初めて北条氏が守となったのです。すでに相模守に兄義時が補任されており、幕府枢要の武相両国の守を北条氏が独占した事(なお、頼朝期には平賀氏が独占)になります。ただし、『吾妻鏡』承元元年2月20日条に、「国務の事、故武蔵守義信入道の例に任せ、沙汰せられるべきの旨、仰せ下される」、とあります。このことは時房の守としての権能が義信の時と同様なものであることを示しています。これにより守時房は所司・雑事沙汰を政所と分掌し、検断沙汰(重忠の戦死により、彼の権能は守に吸収)を管掌した事になります。政所は所課・訴訟沙汰を管掌し、侍所は御家人催促を管掌した事になります。比企能員滅亡後に確認できなかった国奉行に遠江守大江親広(広元嫡男)の存在が建保元年に確認できます(『鎌倉遺文』2027号)。さらに、目代藤原某の存在も確認できます(『鎌倉遺文』2028号)。この国奉行人と目代が何時任命されたか不明です。以上、武蔵国支配体制は、知行国主実朝、守時房、国奉行人親広、目代某となり、国奉行人と目代は政所の管掌下にあるといえます。なお、時房は政所の命で荒野開発を行ったり、図田帳作成を行ったりする等、積極的に守としての業務を行いました。ただ、時房が郷司等の補任をしたのに対して、義時長男の泰時が不満をならしたのに対して、義信の先例に従うべきとの裁定が下ります(『吾妻鏡』建暦2年〔1212〕2月14日条)。このことは所司を分掌していた政所、すなわち別当義時が武蔵国の権能の拡大を図ろうとした現れではないでしょうか。
建保5年(1217)12月12日、武蔵守北条時房は相模守に遷任します。そして、承久元年(1219)11月13日、駿河守北条泰時が武蔵守に遷任します。この間の武蔵守は誰でしょうか。これは民部権少輔大江親広です。国奉行人から守に昇格したのです。。ただ、親広は実朝暗殺後の翌正月28日に出家していますから、ここで辞任した事になります。この親広の武蔵守は、父陸奥守大江広元が病気により建保5年11月に出家して辞任し、この代わりに同年12月12日に北条義時が右京権大夫に陸奥守を兼任しましたから、いわば北条・大江両家の連帯を固持する人事といえましょう。そして、実朝暗殺に伴う親広辞任から泰時補任まで10か月も待たされたのは、いわば後鳥羽上皇の幕府に対する立場を示していましょう。この後、武蔵守は北条氏の独占となり、基本的に執権・連署が座る守となります。
(以上の論述には、
金澤正大、「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配」『政治経済史学』第222号1985年1月
伊藤邦彦『鎌倉幕府守護の基礎的研究【国別論証編】』2010年4月岩田書院
を参照しています)
(2022.09.10)