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歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

北条政子は源頼朝の正室に何時なったのか―歴史雑感〔76〕―

2022年07月26日 18時28分08秒 | 日本史(古代・中世)

貴族社会では男子が複数の妻を娶るのは普通のことでした。複数の妻の内正妻が正室と呼ばれました。では、正室はどのように選ばれるのでしょうか。一般的にいえば、単に愛情の大小ではなく妻の門地が大事でした。複数の妻の内で最高の門地の妻が正室となるのが普通でした。例えば、藤原道長の妻は左大臣源雅信の娘倫子、左大臣源高明の娘、中納言源重光の娘が知られていますが、高明は政変で失脚しており、倫子が正室、すなわち御台所となっています。道長と倫子は大臣家と門地は同格といってもいいのです。このように、妻の中で最高の門地、いわば同格の門地の妻が正室となるのです。もちろん、格下の門地の妻が正室の場合もあります。摂関家九条家の祖兼実の御台所は従3位藤原季行の娘でした。

12世後期には家業の継続を目的とする日本的家制度が成立していました。その頂点が天皇家で、順に大臣(後の摂家・清華家)、公卿(後の羽林家・名家・半家)、諸大夫(4・5位)、侍(6位)が基本的ランク(家格)で、以上がいわゆる支配階層になります。

以上のことを頭に入れて、改めて源頼朝の正室、すなわち御台所を考えてみましょう。関幸彦氏『北条政子』2004年ミネルヴァ日本評伝選で、頼朝の治承4年(1180)12月12日の大倉新御御所移徙の儀をもって、北条政子が御台所、すなわち正室となったと述べています。この儀は後に鎌倉幕府に発展する鎌倉政権最初の儀式ですから、政子は幕府発足から頼朝正室(御台所)であったということになります。要するに最初から政子は頼朝正室であったということです。この見方は普通です。そこで、この見方は妥当なのか改めて検討してみましょう。

寿永元年(1182)8月12日、北条政子は頼朝長男万寿を出産しました。後の頼家です。11月10日、亀の前が居る伏見広綱宅を政子の命令により牧宗親が破却しました。これを知った頼朝は翌日宗親を呼び出して髷を切り落としました。ところが、時政はこれに怒り伊豆へ帰ってしまいました。頼朝は、義時の所在を確かめたところ、鎌倉に留まったと知り、激賞しました。亀の前は良橋入道の娘で伊豆流人の時から親しく、鎌倉に招き寵愛していた女性です。これはいわゆる後妻打ちとして、政子の悋気の強さを表すものとして知られています。

当時の貴族にとって複数の妻を持つことは一般的でした。政子の出産の近づいた7月、新田義重が頼朝の勘気を蒙りました。義重の娘で異母兄義平の未亡人に頼朝が結婚を申し出たのを義重が断ったからである。頼朝は従5位下左兵衛権佐、義重は従5位下大炊助と、両人とも家格的に諸大夫であり釣り合っています。北条時政は無位無官の家格的には侍と、諸大夫・侍(6位)・侍(無位)の家格順からは義重と比較にならない下位でありました。とするなら、頼朝と義重の娘との結婚は正室を意図したものといえます。このことは政子に子供がいたとしても、頼朝はまだ政子を正室扱いしていなかったこと、すなわち側室であると思っていたことになります。それなら亀の前を側室とするのも当然なのです。亀の前への寵愛はその後も続き、頼朝の妻は政子と亀前の2人であったのです。

以上から、政子は亀の前を頼朝の妻の座を巡る競争相手として危機感を持っていたことになります。これがいわゆる後妻打ちの挙に出たことになります。時政も同様な思いでしたでしょう。しかし、頼朝の反応は時政舅宗親の髷を切るという最大限の恥辱を与えました。時政は面目を潰され、政子の妻の座をも否定しかねないと、抗議のストライキ的行為として伊豆に帰国したことになります。時政が何時頼朝との関係を修復し鎌倉に戻ったかは不明ですが、長ければ平家滅亡後となるでしょうか。この亀の前事件を巡っては、永井晋氏(『北条政子、義時の謀略』2022年ベストブック)も、政子と亀の前は共に妻であり、、まだ正室ではなかったとします。

10月24日、父源義朝廟地となる勝長寿院落慶供養が頼朝の主催で行われました。堂前の左仮屋に頼朝、右仮屋に一条能保正室(頼朝同母妹)と北条政子が座しました。このことは政子が正室として処遇されたことを示していましょう。すでに従2位に昇叙され散位とはいえ、公卿の家格に上昇した頼朝に取って家格見合った正室なら、京都の公家から娶るしかありません。しかし、そうはせず政子を正室に据えたことは、北条時政が内乱での功績により新恩給与されたとしても、本来の小武士から大幅な勢力拡大をなしたとはいえず、無位無官の侍であり、家格の高い公家や諸大夫の河内源氏(平賀・足利氏等)と異なり、頼朝から見れば外戚権を頼りに容喙されることはない、と判断したからといえます。

以上、政子は当初から正室ではなく、単なる妻の一人でしかありませんでした。平家が滅び内乱が治まり、頼朝の家格も上昇して公卿となり、公的にも正室を定めることが必要とされたでしょう。そこで、無位の侍の北条氏出身の政子なら、外戚の干渉を受けることがなく、すでに政子所生の長男万寿が成長しつつあり、万寿を嫡子とするにも正室と政子を定めることは意味があるでしょう。従って、勝長寿院落慶供養の場を政子を正室とするお披露目の場ともしたといえます。

(2022.07.26)

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