歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その2)―歴史雑感〔9〕―

2013年11月15日 00時33分56秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、東山道軍の交名一覧

(その2)二、交名の国別構成

(その3)三、交名の門葉構成

(その4)四、交名の武士御家人構成

 

二、交名の国別構成

最初の分析は国別(本貫地)構成です。(その1)で述べているように、「先陣」の畠山重忠を加えた145名が交名総数です。しかし、69の八田知家は東海道大将軍として一族を率いて、常陸国から陸奥国浜通へと向かうことに決められました(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)。同じ東海道大将軍となった千葉常胤は交名には見えません。とすれば、同格の大将軍が別行動を取るというのは不自然なことで、知家は常胤と同一行動を取って、東海道軍を率いて鎌倉進発軍とは別行動を取ったといえます。すなわち、知家は鎌倉進発軍には存在していなかったということです。70の八田朝重は知家の嫡男ですから、父と同行動を取っているのが自然ですので、彼も存在していなかったと考えます。そうすると、彼等の直前に位置する67・68の宇都宮朝綱・業綱父子は朝綱と知家とが兄弟として同族です。(その4)で詳細に触れますが、鎌倉進発軍交名の武士御家人の配列構成は一族単位(家)を基本としていることです。ということは、67から71までの4人は宇都宮氏族として同族で配列されています。では、八田氏が常陸国御家人(東海道大将軍)として別行動を取ったとしても、宇都宮氏は下野国御家人ですから、頼朝が直卒する東山道軍の一員として交名にあってもおかしくないと考えることも出来ます。しかし、当時において武士御家人として序列ベストファイブに入る宇都宮氏(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446号2003年10月参照)が交名の中位という位置にいることは極めて不自然といわざるをえません。武士御家人のトップは21以下の三浦氏で、三浦氏は東海道大将軍の千葉氏に次いでベストツーの位置を占める一族です。次いで、29以下の小山氏はベストスリーを占める一族です。彼等と比較して、宇都宮氏の位置が如何に低いかお分かりでしょう。以上考えると、67から71の宇都宮氏族の4人は交名に存在していないと考えるのが至当です。すなわち、交名145名から以上の4人を除いた141名が分析対象となります。

交名は基本的に源家一族(門葉)、御家人の順に序列され、御家人は武士御家人と文士御家人が混在しています。以上の三区分を基本として、門葉と武士御家人はさらに国別分析を行います。以下に示すがその結果です。

〔門葉〕18名(12.76%)

甲斐 8   信濃 3   上野 2

下野 1   武蔵 1   その他 2

〔武士御家人〕115名(81.57%)

武蔵 36   相模 29   伊豆 18

下野 6   上野 4   信濃 4

下総 3   常陸 3   駿河 2

伊勢 2   近江 2   伊予 2

不明 2   元平家家人 2

〔文士御家人〕6名(4.25%)

〔僧侶〕2名(1.42%)

御覧のように鎌倉進発軍の主力が武士御家人であり、この115名中、国別トップスリーは武蔵国36名(武士中の31.3%、全体の25.53%)・相模国29名(25.22%、20.57%)・伊豆国18名(15.65%、12.77%)の3か国出身です。この3か国で武士御家人の72.17%、全体の58.87%と圧倒的です。すなわち、頼朝直卒の東山道軍の主力、すなわち鎌倉幕府の軍事力の主力が武蔵・相模・伊豆3か国であることを示しています。これは、治承・寿永の内乱当初の鎌倉軍権の最初の勢力圏、すなわち南関東であることを、幕府成立後も如実に示しているといえます。

これに下野・上野・信濃国の東山道3か国、下総・常陸・駿河国の東海道3か国を加えると、後の東国15か国(但し、奥州合戦以前では、陸奥・出羽両国は鎌倉幕府の勢力は及んでいないので、これは除き、13か国)に属する国で、遠江・甲斐・安房・上総国4か国を除く、9か国の武士御家人が参列しており、東海道軍が主力であることを示しています。

では、武士御家人の参列のない4か国について考えてみます。まず、甲斐国は治承・寿永の内乱当初、頼朝とは独立して、甲斐源氏の蜂起した国であり、奥州合戦では門葉で見るように甲斐源氏が総力を挙げて参列しており、国内の武士は彼等のもとに組織されていると考えるべきで、このため独立した参列武士がいなかったといえましょう。また、遠江国は内乱初期に甲斐源氏安田義定が侵攻し、以来義定が実力支配し、後に朝廷から遠江守に補任されて、これを追認されていることから分かるように、義定の支配する国として当国武士はこの統率下にあったとすべきです。

上総国は本来1183(寿永2)年に頼朝により誅殺された上総介広常の支配した国で、広常死後、支配下にあった武士団は解体され、個々の武士は御家人として編成されましたが、有力武士はおらず、中小武士のみです。また、下総国の千葉常胤の勢力が浸透していきます。そして、常胤は東海道大将軍として八田知家とともに常陸・下総両国の武士を率いて出陣しますから(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)、上総国の武士も常胤の指揮下に東海道軍に参軍したと考えます。安房国も同様でしょう。

東国以外の伊勢・近江両国の加藤・佐々木氏は内乱当初に浪人でありましたが、頼朝の伊豆挙兵から参加しており(『吾妻鏡』治承四年八月十七日条)、内乱の勝利で本国に所領を回復し、堂々たる武士御家人にとなっており、その参軍は自然といえましょう。

伊予国の橘公業(成)は本来平家の知盛家人でありましたが、平家家人としてはいち早く、内乱当初の富士川合戦後に頼朝に帰順して御家人になっています(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)。以後、鎌倉内での射手として『吾妻鏡』に所見しており(文治四年一月六日条等)、鎌倉での活動が認められる御家人です。また、河野通信は内乱初期に伊予国で独自に蜂起して(『吾妻鏡』養和元年閏二月十二日条)、以後平家軍の反攻により雌伏したこともありますが、源義経の屋島合戦勝利直後に兵船を引き連れて合流しています(『吾妻鏡』文治元年二月二十一日条)。すなわち、伊予国の2人は内乱において西国の有力な与党であったのです。いわば、西国の御家人代表としての交名入りといえましょう。

門葉に関しては、18名中8名と、甲斐国、すなわち義光流甲斐源氏が群を抜いて最多で、その主力であることを示しています。治承・寿永内乱でその嫡系である武田信義・忠頼父子を失脚させて勢力を削いだとしても、奥州合戦時点でも甲斐源氏が主力たりえたのです。鎌倉幕府の軍事力に甲斐源氏は欠かせない存在であったといえましょう。次が信濃国の3名、すなわち義光流信濃源氏平賀氏族です。これに関しては次節で述べます。

(続く)

(2013-11.15)


「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その1)―歴史雑感〔9〕―

2013年11月14日 10時04分04秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、東山道軍の交名一覧

(その2)二、交名の国別構成

(その3)三、交名の門葉構成

(その4)四、交名の武士御家人構成

 

一、東山道軍の交名一覧

1189年、鎌倉幕府は奥州平泉藤原政権を打破すべく、全国動員をかけて奥羽に侵攻しました。侵攻軍は三手に分かれて、それぞれ東海道軍(大将軍千葉常胤・八田知家)は常陸国から陸奥国浜通へ、北陸道軍(大将軍比企能員・宇佐美実政)は越後国から出羽国念珠ヶ関へ、そして大手軍たる東山道軍は鎌倉殿源頼朝自身が率いて陸奥国白河関へと向かったのです。この主力たる東山道軍に関しては、『吾妻鏡』文治五年七月十九日条に、頼朝の鎌倉進発の「御供輩」144名の交名が載せられています。これに先陣を承った畠山重忠を加えれば、当該期の鎌倉幕府軍主力の構成が理解できることになります。すでに、「武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕― 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―」((2005年12月25日付)において、本ブログでは足立遠元と安達盛長に関連して簡単な分析をおこなっています。そこで、改めて、本交名全体を分析対象として、1189年段階における鎌倉幕府軍の構成を考えてみたいと思います。

まず、『吾妻鏡』同日条に載せる交名を先頭から順に示します。最初に、『吾妻鏡』記載名を、括弧内に当人の名字実名と出身国出自を記してあります。

1.武蔵守義信(平賀義信・義光流信濃源氏)

2.遠江守義定(安田義定・義光流甲斐源氏)

3.参河守範頼(源範頼・頼朝異母弟)

4.信濃守遠光(加々美遠光・義光流甲斐源氏)

5.相摸守惟義(大内惟義・義光流信濃源氏)

6.駿河守広綱(源広綱・頼光流馬場源氏)

7.上総介義兼(足利義兼・義国流下野源氏)

8.伊豆守義範(山名義範・義国流上野源氏)

9.越後守義資(安田義資・義光流甲斐源氏)

10.豊後守季光(毛呂季光・藤原季仲子孫)

11.北条四郎(北条時政・伊豆国北条氏族)

12.同小四郎(北条義時・伊豆国北条氏族)

13.同五郎(北条時房・伊豆国北条氏族)

14.式部大夫親能(藤原親能・文吏僚)

15.新田蔵人義兼(新田義兼・義国流上野源氏)

16.浅利冠者遠義(浅利長義・義光流甲斐源氏)

17.武田兵衛尉有義(武田有義・義光流甲斐源氏)

18.伊沢五郎信光(伊沢信光・義光流甲斐源氏)

19.加々美次郎長清(加々美長清・義光流甲斐源氏)

20.同太郎長綱(加々美長綱・義光流甲斐源氏)

21.三浦介義澄(三浦義澄・相模国三浦氏族)

22.同平六義村(三浦義村・相模国三浦氏族)

23.佐原十郎義連(佐原義連・相模国三浦氏族)

24.和田太郎義盛(和田義盛・相模国三浦氏族)

25.同三郎宗実(和田宗実・相模国三浦氏族)

26.岡崎四郎義実(岡崎義実・相模国三浦氏族岡崎流)

27.同先次郎惟平(岡崎惟平・相模国中村氏族土肥)

28.土屋次郎義清(土屋義清・相模国三浦氏族岡崎流)

29.小山兵衛尉朝政(小山朝政・下野国太田氏族小山流)

30.同五郎宗政(長沼宗政・下野国太田氏族小山流)

31.同七郎朝光(結城朝光・下野国太田氏族小山流)

32.下河辺庄司行平(下河辺行平・下総国太田氏族下河辺流)

33.吉見次郎頼綱(吉見頼綱・武蔵国)

34.南部次郎光行(南部光行・義光流甲斐源氏)

35.平賀三郎朝信(平賀朝信・義光流信濃源氏)

36.小山田三郎重成(稲毛重成・武蔵国秩父氏族畠山流)

37.同四郎重朝(榛谷重朝・武蔵国秩父氏族畠山流)

38.藤九郎盛長(安達盛長・武蔵国足立氏族)

39.足立右馬允遠元(足立遠元・武蔵国足立氏族)

40.土肥次郎実平(土肥実平・相模国中村氏族土肥流)

41.同弥大郎遠平(土肥遠平・相模国中村氏族土肥流)

42.梶原平三景時(梶原景時・相模国鎌倉氏族梶原流)

43.同源太左衛門尉景季(梶原景季・相模国鎌倉氏族梶原流)

44.同平次兵衛尉景高(梶原景高・相模国鎌倉氏族梶原流)

45.同三郎景茂(梶原景茂・相模国鎌倉氏族梶原流)

46.同刑部丞朝景(梶原朝景・相模国鎌倉氏族梶原流)

47.同兵衛尉定景(梶原定景・相模国鎌倉氏族梶原流)

48.波多野五郎義景(波多野義景・相模国波多野氏族)

49.波多野余三実方(波多野実方・相模国波多野氏族)

50.阿曽沼次郎広綱(阿曽沼広綱・下野国淵名氏族足利流)

51.小野寺太郎道綱(小野寺道綱・下野国首藤氏族)

52.中山四郎重政(中山重政・武蔵国秩父氏族?)

53.同五郎為重(中山為重・武蔵国秩父氏族?)

54.渋谷次郎高重(渋谷高重・相模国秩父氏族渋谷流)

55.同四郎時国(渋谷時国・相模国秩父氏族渋谷流)

56.大友左近将監能直(大友能直・相模国)

57.河野四郎通信(河野通信・伊予国)

58.豊島権守清光(豊島清光・武蔵国秩父氏族豊島流)

59.葛西三郎清重(葛西清重・下総国秩父氏族豊島流)

60.同十郎(下総国秩父氏族豊島流)

61.江戸太郎重長(江戸重長・武蔵国秩父氏族江戸流)

62.同次郎親重(江戸親重・武蔵国秩父氏族江戸流)

63.同四郎重通(江戸重通・武蔵国秩父氏族江戸流)

64.同七郎重宗(江戸重宗・武蔵国秩父氏族江戸流)

65.山内三郎経俊(山内経俊・相模国首藤氏族山内流)

66.大井二郎実春(大井実春・武蔵国紀氏)

67.宇都宮左衛門尉朝綱(宇都宮朝綱・下野国宇都宮氏族)

68.同次郎業綱(宇都宮業綱・下野国宇都宮氏族)

69.八田右衛門尉知家(八田知家・常陸国宇都宮氏族)

70.八田太郎朝重(八田朝重・常陸国宇都宮氏族)

71.主計允行政(二階堂行政・文吏僚)

72.民部丞盛時(平盛時・文吏僚)

73.豊田兵衛尉義幹(豊田義幹・常陸国大掾氏族)

74.大河戸太郎広行(大河戸広行・武蔵国太田氏族大河戸流)

75.佐貫四郎広綱(佐貫広綱・上野国淵名氏族佐貫流)

76.同五郎(上野国淵名氏族佐貫流)

77.同六郎広義(佐貫広義・上野国淵名氏族佐貫流)

78.佐野大郎基綱(佐野基綱・下野国淵名氏族足利流)

79.工藤庄司景光(工藤景光・伊豆国工藤氏族工藤流)

80.同次郎行光(工藤行光・伊豆国工藤氏族工藤流)

81.同三郎助光(工藤助光・伊豆国工藤氏族工藤流)

82.狩野五郎親光(狩野親光・伊豆国工藤氏族狩野流)

83.常陸次郎為重(伊達為重・常陸国伊佐氏族)

84.同三郎資綱(伊佐資綱・常陸国伊佐氏族)

85.加藤太光員(加藤光員・伊勢国)

86.同藤次景廉(加藤景廉・伊勢国)

87.佐々木三郎盛綱(佐々木盛綱・近江国佐々木氏族)

88.同五郎義清(佐々木義清・近江国佐々木氏族)

89.曽我太郎助信(曽我助信・相模国)

90.橘次公業(小鹿島公業・伊予国)

91.宇佐美三郎祐茂(宇佐見祐茂・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

92.二宮太郎朝忠(二宮朝忠・相模国中村氏族)

93.天野右馬允保高(天野保高・伊豆国)

94.同六郎則景(天野則景・伊豆国)

95.伊東三郎(伊豆国工藤氏族伊東流)

96.同四郎成親(伊東成親・伊豆国工藤氏族伊東流)

97.工藤左衛門祐経(工藤祐経・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

98.新田四郎忠常(新田忠常・伊豆国)

99.同六郎忠時(新田忠時・伊豆国)

100.熊谷小次郎直家(熊谷直家・武蔵国私市党)

101.堀藤太(伊豆国)

102.同藤次親家(堀親家・伊豆国)

103.伊沢左近将監家景(伊沢家景・文吏僚)

104.江右近次郎(大江久家・文吏僚)

105.岡辺小次郎忠綱(岡部忠綱・駿河国)

106.吉香小次郎(駿河国)

107.中野小太郎助光(中野助光・信濃国)

108.同五郎能成(中野能成・信濃国)

109.渋河五郎兼保(渋河兼保・上野国)

110.春日小次郎貞親(春日貞親・信濃国)

111.藤沢次郎清近(藤沢清近・信濃国)

112.飯富源太宗季(飯富宗季・元平家家人)

113.大見平次家秀(大見家秀・伊豆国)

114.沼田太郎(相模国or上野国)

115.糟屋藤太有季(糟屋有季・相模国)

116.本間右馬允義忠(本間義忠・相模国)

117.海老名四郎義季(海老名義季・相模国)

118.所六郎朝光(佐藤朝光)

119.横山権守時広(横山時広・相模国横山党)

120.三尾谷十郎(武蔵国)

121.平山左衛門尉季重(平山季重・武蔵国西党)

122.師岡兵衛尉重経(諸岡重経・武蔵国秩父氏族)

123.野三刑部丞成綱(小野成綱・武蔵国猪俣党?)

124.中条藤次家長(中条家長・武蔵国横山党)

125.岡辺六野太忠澄(岡辺忠澄・武蔵国猪俣党)

126.小越右馬允有弘(越生有弘・武蔵国児玉党)

127.庄三郎忠家(庄忠家・武蔵国児玉党)

128.四方田三郎弘長(四方田弘長・武蔵国児玉党)

129.浅見太郎実高(浅見実高・武蔵国児玉党)

130.浅羽五郎行長(浅羽行長・武蔵国児玉党)

131.小代八郎行平(小代行平・武蔵国児玉党)

132.勅使河原三郎有直(勅使河原有直・武蔵国丹党)

133.成田七郎助綱(成田助綱・武蔵国)

134.高鼻和太郎(武蔵国)

135.塩屋太郎家光(塩谷家光・武蔵国児玉党)

136.阿保次郎実光(安保実光・武蔵国丹党)

137.宮六仗国平

138.河勾三郎政成(河匂政成・武蔵国猪俣党)

139.同七郎政頼(河匂政頼・武蔵国猪俣党)

140.中四郎是重(中原惟重・文吏僚)

141.一品房昌寛(僧侶)

142.常陸房昌明(僧侶)

143.尾藤太知平(尾藤知平)

144.金子小太郎高範(金子高範・武蔵国村山党)

以上、144名です(『吾妻鏡』は4名列記で記しています)。交名の前に、地の文として、従軍5騎―長野重清(弟)・大串重親(武蔵国横山党)・本田近常(武蔵国丹党)・榛沢成清(武蔵国丹党)・柏原太郎(武蔵国丹党)―らを率いる「先陣」畠山重忠(武蔵国秩父氏族畠山流)が記してあります。この先陣に続いて、頼朝自身が進み、後に供輩が続き、鎌倉出陣の総勢千騎となっています。

畠山重忠を含め145名の分析においては、詳細な考証を避け、結論を主体として述べていきます。

(続く)

〔注記〕本記事は、『歴史と中国』 http://kanazawa45.wordpress.com/の2008年6月10日付の再録です。

(2013.11.14)