(その1)一、東山道軍の交名一覧
(その2)二、交名の国別構成
(その3)三、交名の門葉構成
(その4)四、交名の武士御家人構成
二、交名の国別構成
最初の分析は国別(本貫地)構成です。(その1)で述べているように、「先陣」の畠山重忠を加えた145名が交名総数です。しかし、69の八田知家は東海道大将軍として一族を率いて、常陸国から陸奥国浜通へと向かうことに決められました(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)。同じ東海道大将軍となった千葉常胤は交名には見えません。とすれば、同格の大将軍が別行動を取るというのは不自然なことで、知家は常胤と同一行動を取って、東海道軍を率いて鎌倉進発軍とは別行動を取ったといえます。すなわち、知家は鎌倉進発軍には存在していなかったということです。70の八田朝重は知家の嫡男ですから、父と同行動を取っているのが自然ですので、彼も存在していなかったと考えます。そうすると、彼等の直前に位置する67・68の宇都宮朝綱・業綱父子は朝綱と知家とが兄弟として同族です。(その4)で詳細に触れますが、鎌倉進発軍交名の武士御家人の配列構成は一族単位(家)を基本としていることです。ということは、67から71までの4人は宇都宮氏族として同族で配列されています。では、八田氏が常陸国御家人(東海道大将軍)として別行動を取ったとしても、宇都宮氏は下野国御家人ですから、頼朝が直卒する東山道軍の一員として交名にあってもおかしくないと考えることも出来ます。しかし、当時において武士御家人として序列ベストファイブに入る宇都宮氏(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446号2003年10月参照)が交名の中位という位置にいることは極めて不自然といわざるをえません。武士御家人のトップは21以下の三浦氏で、三浦氏は東海道大将軍の千葉氏に次いでベストツーの位置を占める一族です。次いで、29以下の小山氏はベストスリーを占める一族です。彼等と比較して、宇都宮氏の位置が如何に低いかお分かりでしょう。以上考えると、67から71の宇都宮氏族の4人は交名に存在していないと考えるのが至当です。すなわち、交名145名から以上の4人を除いた141名が分析対象となります。
交名は基本的に源家一族(門葉)、御家人の順に序列され、御家人は武士御家人と文士御家人が混在しています。以上の三区分を基本として、門葉と武士御家人はさらに国別分析を行います。以下に示すがその結果です。
〔門葉〕18名(12.76%)
甲斐 8 信濃 3 上野 2
下野 1 武蔵 1 その他 2
〔武士御家人〕115名(81.57%)
武蔵 36 相模 29 伊豆 18
下野 6 上野 4 信濃 4
下総 3 常陸 3 駿河 2
伊勢 2 近江 2 伊予 2
不明 2 元平家家人 2
〔文士御家人〕6名(4.25%)
〔僧侶〕2名(1.42%)
御覧のように鎌倉進発軍の主力が武士御家人であり、この115名中、国別トップスリーは武蔵国36名(武士中の31.3%、全体の25.53%)・相模国29名(25.22%、20.57%)・伊豆国18名(15.65%、12.77%)の3か国出身です。この3か国で武士御家人の72.17%、全体の58.87%と圧倒的です。すなわち、頼朝直卒の東山道軍の主力、すなわち鎌倉幕府の軍事力の主力が武蔵・相模・伊豆3か国であることを示しています。これは、治承・寿永の内乱当初の鎌倉軍権の最初の勢力圏、すなわち南関東であることを、幕府成立後も如実に示しているといえます。
これに下野・上野・信濃国の東山道3か国、下総・常陸・駿河国の東海道3か国を加えると、後の東国15か国(但し、奥州合戦以前では、陸奥・出羽両国は鎌倉幕府の勢力は及んでいないので、これは除き、13か国)に属する国で、遠江・甲斐・安房・上総国4か国を除く、9か国の武士御家人が参列しており、東海道軍が主力であることを示しています。
では、武士御家人の参列のない4か国について考えてみます。まず、甲斐国は治承・寿永の内乱当初、頼朝とは独立して、甲斐源氏の蜂起した国であり、奥州合戦では門葉で見るように甲斐源氏が総力を挙げて参列しており、国内の武士は彼等のもとに組織されていると考えるべきで、このため独立した参列武士がいなかったといえましょう。また、遠江国は内乱初期に甲斐源氏安田義定が侵攻し、以来義定が実力支配し、後に朝廷から遠江守に補任されて、これを追認されていることから分かるように、義定の支配する国として当国武士はこの統率下にあったとすべきです。
上総国は本来1183(寿永2)年に頼朝により誅殺された上総介広常の支配した国で、広常死後、支配下にあった武士団は解体され、個々の武士は御家人として編成されましたが、有力武士はおらず、中小武士のみです。また、下総国の千葉常胤の勢力が浸透していきます。そして、常胤は東海道大将軍として八田知家とともに常陸・下総両国の武士を率いて出陣しますから(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)、上総国の武士も常胤の指揮下に東海道軍に参軍したと考えます。安房国も同様でしょう。
東国以外の伊勢・近江両国の加藤・佐々木氏は内乱当初に浪人でありましたが、頼朝の伊豆挙兵から参加しており(『吾妻鏡』治承四年八月十七日条)、内乱の勝利で本国に所領を回復し、堂々たる武士御家人にとなっており、その参軍は自然といえましょう。
伊予国の橘公業(成)は本来平家の知盛家人でありましたが、平家家人としてはいち早く、内乱当初の富士川合戦後に頼朝に帰順して御家人になっています(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)。以後、鎌倉内での射手として『吾妻鏡』に所見しており(文治四年一月六日条等)、鎌倉での活動が認められる御家人です。また、河野通信は内乱初期に伊予国で独自に蜂起して(『吾妻鏡』養和元年閏二月十二日条)、以後平家軍の反攻により雌伏したこともありますが、源義経の屋島合戦勝利直後に兵船を引き連れて合流しています(『吾妻鏡』文治元年二月二十一日条)。すなわち、伊予国の2人は内乱において西国の有力な与党であったのです。いわば、西国の御家人代表としての交名入りといえましょう。
門葉に関しては、18名中8名と、甲斐国、すなわち義光流甲斐源氏が群を抜いて最多で、その主力であることを示しています。治承・寿永内乱でその嫡系である武田信義・忠頼父子を失脚させて勢力を削いだとしても、奥州合戦時点でも甲斐源氏が主力たりえたのです。鎌倉幕府の軍事力に甲斐源氏は欠かせない存在であったといえましょう。次が信濃国の3名、すなわち義光流信濃源氏平賀氏族です。これに関しては次節で述べます。
(続く)
(2013-11.15)