歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

大内宿の高倉神社―歴史雑感〔18〕―

2015年02月27日 14時23分54秒 | 日本史(古代・中世)

大内宿(福島県南会津郡下郷町大内)に行ってきました。大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場としての歴史を持ち、1981年4月、重要伝統的建造物群保存地区として選定されました(旧宿場としては長野県妻籠宿・奈良井宿に続いて全国で3番目)。そして、保存・修復が進み、観光地としても注目されて、現在では年間百万人を超す人気観光地になりました。

ここには旧村社高倉神社があります。祭神は後白河天皇第2皇子高倉宮以仁王です。以仁王は平清盛の主導する六波羅平家政権打倒に蹶起して、1180(治承4)年5月26日、宇治合戦において敗死しますが、治承・寿永の内乱の嚆矢として、歴史に名を残します。悲運の以仁王を祀った神社としては、流れ矢で戦死した地とされる光明山鳥居前(京都市木津川市山城町綺田鳥居)を由緒とする高倉神社(同市山城町綺田神ノ木)と、生き延びて後に死去した地と伝える地にある高倉神社(京都府綾部市里町向屋敷)とがあります。いずれも以仁王が亡くなった地を由来とするところの鎮魂の社です。これに対して、大内宿の高倉神社は、東国へと遁れた以仁王が越後国の小国順之を頼る途上に、当地に一時滞在したとの伝承に由来するものです。しかも、当時は山本村といっていたのを、当地が大内裏に似ていると王がしたので、大内と改名したとの伝承もあります。この伝承がどの様にして形成されたか、この経緯は不明としかいえません。治承・寿永の内乱においては、越後国の最有力豪族で平家方として信濃源氏との信濃国横田河原合戦(1181年6月)で敗北した城氏の勢力圏に会津地方はありました。従って、何故そのような伝承が生まれたかが不可思議なところです。

さて、大内宿を訪れましたから、これを含み、高倉神社の写真をお見せします。撮影は2015年2月26日(木)です。写真1は、宿北側の見晴らし台上から見下ろした全景です。

写真2は、玉屋の氷柱越しに見た街並みです。

写真3は、土産物店となった山田屋です。

写真4は、街並みを北へと撮ったものです。

写真5は、高倉神社三の鳥居です。一の鳥居は街並みのほぼ中央の火の見櫓に対面して西にあります。ここから、約200mほどです。

写真6は、高倉神社社殿で、小丘の森の上にあり、さらにこの奥には「王三段」と称される以仁王の滞在伝承地があります。写真で御覧のように、社殿前の燈籠も雪で埋もれ、そこには行きませんでした。

なお、フォトアルバム「大内宿」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkbXDxRpMMe-6tGPQです。

(2015.02.27)


「中国人の日本語作文コンクール」支援へ

2015年02月03日 10時02分35秒 | 教育

2015年2月2日(月)午後、「中国人の日本語作文コンクール」(主催日本僑報社・日中交流研究所)を支援しようとする会の発足を目指して、初めての集まりが、日本僑報社(東京都豊島区西池袋3-17-15)にて開かれ、中国での日本教師経験者を主体に約20名近くが集いました。ちょうど、第10回の最優秀賞者の姚儷瑾さん(上海・東華大学3年生)の来日歓迎も兼ねていたため、NHKテレビの取材陣も来ていました。

今後、積極的に「中国人の日本語作文コンクール」を支援していくため、何が出来るか、各自の体験も交えて、活発に話し合いが行われて、本年中に「中国人の日本語作文コンクールを支える日本語教師の会」(仮称)を発足させることにしました。なお、正式発足までは、日本僑報社代表段躍中氏(03-5956-2808 info@duan.jp)にご連絡ください。

写真は集いにおける姚儷瑾さんです。この後、場所を移して姚儷瑾さんの歓迎宴を行い、大いに盛り上がりました。

(2015.02.03)